雑文の旅

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猫爺の短編小説「お松の子守唄」   (原稿用紙30枚)

2015-09-13 | 短編小説
   「姉ちゃん、行くな」
 小さなお寺の墓地の隅に、丸太の一面だけを平らに削って墓標にし、「俗名、お菊」と書かれた墓があった。その前で合掌している少年と、少女の二人が居る。
   「そうはいかないの、弦太は男の子でしょ、お父っつぁんを護ってあげて」
 弦太と呼ばれた少年は、「うん」と、返事をしようとするが声にはならず、黙って頷いた。だが、それまで堪えていた悲しみが込み上げてきてしゃくり上げはじめ、やがて慟哭した。
 少女は、お松十三歳、弦太は九歳、貧しい農家の生まれで、仲の良い姉弟であった。
   「行けば、もう帰れないのか?」
 弦太がしゃくり上げながら訊いた。
   「そんなことはないの、十二年経てばきっと帰ることが出来るわ」
 お松は十両で売られて、十二年の年季奉公に出るのだ。
   「おいらを連れて、逃げてくれよ、おいら、どんな辛抱もする」
   「それは出来ないの、おっかさんが病気になって、お医者に診てもらうために借金をしたのだけど、それを返すあてがなく、姉ちゃんが奉公に出ることになったのよ」
 弦太は納得しなかった。
   「だっておっかさん、死んじゃったじゃないか」
   「それでもねぇ、何もしてやれずに死なせてしまうよりも、出来る限りのことをして送ってあげたのだから、私もお父つぁんも悔いが残らないわ」

 お松は、もう一度お墓に掌を合わせた。
「おっかさん、行って参ります、暫くのお別れですね」
 泣き止んでいた弦太が、再び大声で泣いた。

 翌朝早く、父の弥平と娘のお松は旅立った。「おいらも行く」と、泣き叫ぶ弦太を隣人の男に預けて、弥平とお松は一度も振り返ることなく、峠の道に消えて行った。それが、弦太が見た最後のお松の姿だった。

   「お松、済まない、お父つぁんが不甲斐ないばかりに、お前に苦労をかける」
   「私は大丈夫だよ、どんなに辛くても耐えてみせます」
 そう言ったものの、お松の胸は不安で圧し潰されそうであった。故郷美濃の国、御嶽村を出て、二人は近江の国に向かって黙って歩いていたが、突然、弥平が独り言のようにぽつりと呟いた。
   「十二年か、長いなぁ」
 その頃には、お松は二十五歳になっているのだ。まだ若いとは言え、当時では婚期を逸しているのだ。
   「お父つぁん、それまで元気で居てね」
   「弦太が二十一歳だ、頼もしい男になっているだろう」
   「もう、お嫁さんを貰っているかな」
 お松は、父に心配をかけまいと、無理に明るく振舞っている。


 着いたところは近江商人の町で、中でも可成りの大店である上総屋(かずさ)という米問屋であった。
   「私は女将のお豊です、この娘かいな、なかなか素直そうな娘じゃないか」
   「父親の弥平でございます、田舎者の娘ですが、どうぞ宜しくお願いいたします」
   「お松さんには、赤子の世話をしてもらいます、何、心配しなくても母親が付いていますので、その言い付け通りに働いて貰えば宜しいのです」
 女将は、お松の見ているところで、十両の金を弥平に渡した。
   「十両でおましたな、それではこの証文に印鑑を押してもらいます、判子は持ってきていますか」
   「へい、村長に届けた判子を持ってきました」
   「ああ、そうか、それならここへ」
 女将が差し出した証文と、黒肉(こくにく)を受け取り、印鑑を押して差し出した。この瞬間から、お松の体はお松の物ではなくなった。
   「もし、お松が働けなくなったら、代わりの者に来てもらいます、兄弟はいますのか」
   「はい、九歳の弟が一人」
   「さよか、ほんならそのへんのところ、宜しく頼みます」
 女将は、お松が年季の最中に身投げでもしたら、残りの年数を兄弟に働いて貰うと言っているのだ。弥平は、何かしら不吉なものを感じた。このまま、お松を連れて帰りたい衝動に駆られたが、仕方がなく承諾した。

   「お父つぁん、さよなら」
 お松は店の外で手を振って弥平を見送っていたが、女将に手を引っ張られて店の中に消えた。その様子を振り返って見ていた弥平は唖然とした。拳で涙を拭いながら、思い切ったように故郷へ帰って行った。

 お松の仕事は、子守りだけではなかった。飯炊き、掃除、洗濯、風呂焚き、などの手伝いと使い走りなど、中でもオムツの洗濯はお松に任されて、目の回るような忙しさであった。
   「坊ちゃん、お願いだから泣かないで」
 火のついたように泣き叫ぶ赤ん坊の口を塞ぐ訳にもいかず、おろおろするばかりのお松のところへ、赤ん坊の母親が飛んできた。
   「これはお腹がすいているのよ、お乳を飲ませるからこっちにお寄越し」
 母親は、赤ん坊にお乳を飲ませながら、赤ん坊の背中を覗いて驚いた。お松に任せるまでは無かった汗疹(あせも)が出来ているのだ。
 乳を飲ませた後、赤ん坊を裸にしてみると、股間はおむつ気触(かぶ)れで真っ赤である。母親は女将に見せに行った。
 女将は、血相を変えて飛んできて、行き成りお松の頬を平手打ちした。お松はぶっ飛んで土間に倒れたが、慌てて起き上がり、手をついて謝った。
   「すみません、他の仕事が忙しかったもので、気が付きませんでした」
 この言葉が、女将を更に怒らせてしまった。
   「奉公人の分際で、口答えをするな」
 こんどは往復ビンタを喰った。
   「他の仕事が忙しかっただと、それじゃまるで扱き使ってようじゃないか」
 再びひっくり返ったお松の横腹を、力任せに蹴っ飛ばされ、一瞬息ができなくなって、目を白黒させてもがいた。
 物音を聞いて飛んできた番頭に、女将が言い付けた。
   「今夜、お松は食事抜きや、物置蔵に放り込んできておくれ」

 真っ暗闇の蔵の中で、お松は「死んでしまいたい」と、独り言を呟いた。仕事はきついし、赤ん坊はしょっちゅう泣く。その度にお松が叱られているのだ。顔を拳で殴って傷をつけると世間体が悪いと言って、使用人のまえで裸にさせられて竹の物差しで背中を叩かれる。痛みよりも、恥ずかしいうえに男連中の目が怖いのだ。お松にはまだよくは分からないものの、ギタギタした視線がお松の裸姿を嘗め回している。何時かあの目が自分を襲ってくるような気がして、ブルッと身震いをするのだった。

 その日は、すぐにやってきた。真夜中にお松が入れられた蔵の扉がソーッと開かれて、男が入ってきたのだ。
   「しーっ、静かに」
   「誰?」
   「女将さんが寝てしまったので出してやる」
 男は番頭だった。明日、一緒に詫びてやると言うのだ。お松が気を許した時だった。番頭はお松に近付き抱き寄せた。
   「音を立てたら、人がとんでくる」
 大きな左掌で、お松の口を塞がれてしまった。
   「わしは子供好きなのじゃ、大人しくしていたらお前の味方になってやる」
 お松は、大蛇に巻き付かれたように身動きが取れなくなった。番頭の右手は、ゆっくりとお松の帯を解きはじめた。
 次の瞬間、股間に痛みが走り、そのうちお松は気を失ってしまった。翌朝、目が覚めたが、やはり蔵の中であった。番頭は、自分の欲望を満たしたあと、お松を蔵に残したまま、出て行ったようだ。

 お松は、明るくなった蔵を見回していた。年季が明けても、もう嫁にはいけないと、蔵の梁に自分の帯を掛けて、首を括ろうと思ったのだ。そのとき、故郷の弦太のあどけない顔が浮かんだ。
   「お姉ちゃん、行くな」
 昼になっても、蔵の扉は開かなかった。
   「何これしき、自分はこんなことで挫けるものか」
 弦太を、こんなところに連れてこられてたまるものか。弦太を護るためなら、何だってできる。そう考えると、もりもりと勇気が湧いてくる。その代り、お腹が空いてきた。

 午後になって、ようやく番頭が入って来た。昨夜のことなど忘れてしまったかのように平然としている。
   「女将さんが許してくれた、早う出てきて謝ってきなさい」
 お松は、黙って従った。
 
 苦しく悲しい年月が流れ、お松は十六歳になっていた。坊ちゃんは目が離せない三歳である。素早く歩けるようになってきたが、すぐにこける。怪我でもしたら、お松はどんな仕置きをされるか分からない。薄氷を踏むような毎日であった。

 深夜には、お松が寝ている布団部屋に、毎夜のように使用人の男が忍んでくる。それは、まるで順番を決めているように順序正しく、二人の男が鉢合せをすることがなかった。
 お松は、ただ黙って、男たちのなすがままになっていた。そんな時、弟弦太が自分に甘えてくるのを思い浮かべていたが、弦太を汚しているような気になるのでやめた。ただ無感情に嵐が去るのを待つばかりであった。

 そんなある日、お松は飯を炊いていて、急に吐き気を覚えて厠に走り込んだ。年増の女中がそれを見て、悪阻(つわり)に違いないと女将に言い付けた。
   「男は誰や、言うてみい、まさか倅の安吉やなかろうな」
   「わかりません」
   「お前を胎ました男がわからないのか」
 無理もないことである。大旦那と、最近来た丁稚二人の他の男は、みんなその可能性があるのだ。女将も、その意味が分かったようである。
 年増の女中を呼び、こっそりと取り上げ婆のところへお松を連れて行くように言い付けた。
   「世間体が悪いので、くれぐれも内密にな」

   「前回、月の物が有ったのはいつ頃じゃ」
   「はい、先々月のおわり頃です」
 お松が蚊の鳴くような声で答えた。恥ずかしくて消え入りそうなのである。頑固そうな老婆は、お松の体を撫でまわした。挙句は、股を開かせて指を差し込んだりもした。お松は恥ずかしさを通り越して、気が遠退くようであった。
   「はっきりしたことはまだ分からぬが、ややこが出来たようじゃな」
 お松は、何が起きたのか事態が呑み込めず、呆然としていた。
   「奥さんと相談して、また二十日後に来なさい」
 老婆は、お松の様子を女中から聞いて、知っているようであった。

 女将は、先に女中から聞いたようで、いきなり平手打ちをされた。
   「小娘のくせに、何とふしだらな女だ」
 お松はただ謝るしかなかった。「男たちが悪い」とでも言おうものなら、「口答えをするな」「言い訳をするな」と、また叩かれるだけだと言うことは分かっていたからだ。
   「奥様、どうかお腹の赤ん坊の命を助けてください」
   「年季奉公の小娘が、父親のわからない子を生むなど、許されることではない」
 二十日後に取り上げ婆のところへ行き、子を孕んでいるとわかれば、何が何でも下ろして貰えと、取り付く島もない。
   「こっそりと育てます、どうか赤ん坊の命を取らないでください」
   「馬鹿なことを言うのではない、世間に知れたらうちのお店は物笑いの種だす」
 その日から、お松は念仏のように「赤子の命をとらないで」と、ぶつぶつ呟くようになった。

 二十日後、年増の女中に連れられて取り上げ婆に診てもらうと、やはり妊娠だと言われた。帰りぎわ、女中は老婆から何やら薬のような物を受け取って金を払っていたが、お松にはそれが何か分からなかった。

 夕食のあと、女将は薬包みを一包お松の掌に乗せた。
   「これは、お松のお腹の赤ちゃんを元気にする薬だよ」
 女将から一包の薬を見せられて、お松は喜んだ。
   「それでは、赤ん坊を生んでもいいのですか」
   「いいとも、お生みよ、そのかわり仕事もきっちりやるのだよ」
 この時は、恐い女将の顔が、優しい母親のように見えた。
   「今、お水を持ってきてあげますから、残さず飲みなさいね」
   「はい、有難う御座います」

 お松は、少し変な臭いがするこの薬を、水で一気に飲み込んだ。これは、赤ん坊を元気にする薬ではなく、「中條流の早流し」という堕胎薬であった。これには、劇薬が入っており、うまく堕胎しても心身に後遺症が残ったり、酷い場合は死に至ることもある。

 薬を飲んだ後、お松は床に就き、次第に弱っていった。
   「赤ちゃん、元気に生まれるでしょうか」
 部屋に入ってくる人に、必ず尋ねるようになり、やがてそれが譫言となり、床に就てから七日目に、お松は息を引き取った。たった十五年余の、短い人生であった。

 お松の父と弟が待つ故郷へ、使いの者が出され、「お松が病死した」と伝えられた。父の弥平と、弟の弦太が訪れたのはお松の死後五日経ってからで、その時、お松の遺体は既に埋葬された後であった。父子が案内されたのは思いも寄らない「投げ込み寺」であった。投げ込み寺は、無縁仏を葬る照石寺である。
   「なんと酷いことを…」
 父子は嘆いた。弟の弦太は、拳を固めて涙を拭いながら呟いた。
   「姉ちゃん、きっといつか美濃の御嶽村につれて帰り、おいらが墓を立ててやるからな」

 父弥平は御嶽へ戻っていったが、弦太は戻ることが出来なかった。お松の年季が後九年も残っているからだ。
   「お松がもし働けなくなったら、弟に奉公してもらう」
と、女将に念を押されていたのだ。
   「お父つぁん、俺が居なくなっても、元気に居てくれよ」
 父子の別れ際、弦太は明るく手を振った。だが、九年は長い。弦太は自分のことよりも、父親が心配でならなかった。

 弦太は年下の丁稚の下で、十二歳の丁稚として働き始めた。弦太は山里生まれの貧乏農家に育った割には、気が利くし、思い遣りがある。人の嫌がる汚い仕事も自ら引き受けてテキパキと働く、そのうえ記憶力が優れていて、言い付けられたことを正確に果たす。店では重宝がられて、だんだんと店に馴染んでいった。
 弦太の他に、ふたりの丁稚が居たが、すぐに兄貴的な立場になっていた。弦太は、そのうちの一人、千太という好奇心の強い丁稚と仲良くなっていった。
 千太は、弦太と二人きりになると、実家の父母や兄弟の話をよくする。弦太は聞き上手なので、本当は興味のないことでも親身になって聞き、まじめに相槌を打ち感想を伝える。千太にとっては仕事の辛さも、叱られた悲しみも、弦太が半分引き受けてくれる兄貴であった。
 ある日、弦太は何気なく千太に訊いた。
   「おいらの姉ちゃん、なんで病気になったのだろう」
 千太は驚いた。
   「病気? 弦太は病気だと聞いているの」
   「うん、突然倒れて、何日か後に息を引き取ったのだろう」
   「違うよ、取り上げ婆から買った、お腹の子を下す薬をのまされたのだよ」
 弦太は「姉の死には、何かある」と、疑っていたのだが、こんなに早く「謎」に近づけたのは、姉お松の導きがあったのだと感じた。
   「姉が好きになった男は、どんな人だったのかなぁ、きっと優しい男だったのだろう」
   「一人じゃないよ、この店の大人の男みんなに弄ばれたのだ」
   「千太は子供なのに、よくそんな弄ばれたなんて言葉知っているのだね」
   「女中たちがそう言っていたのだ」
   「へぇー、大旦那様や、旦那様もかい?」
   「大旦那様は知らないけれど、旦那様が一番いやらしいのだって」
 女たちの陰口を、千太は聞いていたらしい。それっきり、弦太は姉のことを口にしなくなった。いつも通りの朗らかな弦太の笑顔が、店中を和やかにしていた。

 女将のお豊が、千太を呼び寄せた。
   「千太、ちょっと使いに行っておくれ」
   「へい、どちらまで?」
   「町はずれのお稲荷さんにお参りをして、新米をお供えしてくるだけだよ」
   「えー、こんな夕方になってからですか?」
   「嫌なのか?」
   「だって、帰りは薄暗くなってしまう」
   「主人の言い付けが聞けないのか」
   「だって、あそこは狐の神社でしょ」
   「神社の狐は神様のお使いだよ、そこらの性悪狐と違う」
   「怖いなぁ」
 弦太が二人の話を聞いていたので、自分が行くと名乗り出た。
   「お米は重いので、千太には無理ですよ」
   「弦太が行ってくれるのかい、それなら行ってきておくれ」
 米は、四升(6kg)、それを担いで町はずれまで行くのは、やはり子供には重過ぎると思った。だが、弦太は小さい頃から重い物を運んでいたので、苦にはならなかった。
   「弦太ありがとう」
   「何、いいのだ、嫌なことを押し付けられた時は、おいらに言いな」
 弦太は、姉のことを知らせてくれたお礼の積りなのだ。

 帰り道は日が暮れていたが、「いい機会だ」と、少し遠回りして「取り上げ婆」のところに挨拶にいった。床下に物入れがあるらしく、丁度それを閉めるところだった。
   「そう、あのお松ちゃんの弟かい、お姉ちゃんは気の毒なことをしたねぇ」
 自分が毒の入った薬を売りつけて姉を死に至らしめたくせに、他人ごとのように言うこの婆に弦太は腹を立てたが、そんな腹の内を覗かせずに、弦太は頭を下げた。
   「姉が生前にお世話になりました」
   「お腹のややこの父親は、名乗り出もしないで薄情な男だねぇ」
   「もう、済んだことですから、今更何も言うつもりはありません」
 弦太は、老婆に反省の色がないことを確かめるだけで良かった。帰る時間が少し遅くなったので、女将に文句を言われるかなと思いながら、帰途を急いだ。

 途中で、路端に蹲っている女を見つけた。
   「ははぁん、以前、番頭さんが遭ったという騙りだな、ばーか、その手に乗るものか」
 通り過ぎたが、女は顔を上げない。
   「どうせ、おいらは一文なしだ、話を訊いてやるか」
 弦太は後戻りした。
   「おばさん、どうかしましたか?」
 弦太は女の首筋を見て、「これは騙りではないぞ」と思った。冷や汗が出ていたのだ。駕籠を呼んできてやろうと思ったが、この辺りは滅多に駕籠が通ることはない。何だか危急感を覚えて、医者のところまで背負って行ってやろうと思った。
 案の定、女はぐったりとして、まるで死人を担いでいるように重かった。漸く「医者」の看板を見つけて、弦太は飛び込んだが、女の息は弱弱しかった。
   「お母さんは、助かるかどうか分からないが、できるだけの手当てをしてやろう」
   「いえ、おっかさんじゃないのです、道に蹲っているのを見つけてお連れしたのです」
   「そうだったか、身なりは商人の奥方のようじゃが、お伴も連れずに、どこのお方だろう」
 弦太は、自分が上総屋の丁稚であることを告げ、使いの帰り道で「遅くなると叱られる」と、帰らせてもらうことにした。

   「どこかへ寄り道していたのやろ」
 弦太は、女将こっ酷く叱られた。どうせ途中の出来事を話しても「言い訳」と、とられて更に叱られるだろうと、口を噤んだ。

 それから十日ほど経ったある日、上総屋に男女が訪ねてきた。女は、商人の奥方、男はその店の番頭であろうか、女を「女将さん」と呼んで労わっていた。女将を乗せて来た駕籠屋を待たせて、上総屋の店に入ってきた。
   「お忙しい刻に、お邪魔を致します」
   「はい、何方様で御座いましょうか」
 偶々、店先に居た上総屋の女将、お豊が応対した。
   「先日、こちらの丁稚さんに、危うく命を落しかねないところを救って頂きました」
   「おや、そうだすか、丁稚は三人おりますが、さて誰ですやろか」
   「十四、五の、体ががっしりとしたお人でした」
   「わかりました、それは弦太ですわ」
 お豊は、近くに居た店の衆を呼び「弦太を呼んできなさい」と、言い付けた。
   「日高屋の女将、雪乃と申します、こちらは番頭の仁助で御座います」
   「そんなことが有りましたか、弦太が何も言わないもので、存じませんでした」
   「実家の母が倒れたとの知らせに、一人で出かけて行った帰り道に、胸の辺りが急に痛みだして路端に蹲っているところを助けて戴いたのです」
   「まあ、ご実家のお母様はどうされましたか?」
   「母ったら、わたくしに会いたいばかりに、仮病を使っていたのですよ」
   「仮病でしたか、それは宜しかったではありませんか」
 女将同士が、そんな話をしているところに、弦太が現れた。
   「あ、おばさん、もう大丈夫なのですか?」
 お豊が「これ、おばさんとは失礼でしょう」と、窘めた。
   「はい、あなたのご親切のお蔭で、これこの通り」
   「それは、宜しゅうございました、案じていたのですよ」
   「有難う御座います、さすがは上総屋さまの丁稚さんです、よく躾が行き届いて、なんとお優しいこと」
 お豊は、鼻高々であった。
   「これは、ほんのお礼のしるし、皆さんで召し上がってくださいませ」
 日高屋の女将は、帰って行った。お礼の包みを開けてみると、丸い形の金鍔だった。
   「まあ、命を助けて貰ったお礼が金鍔かい、日高屋さんのドケチなこと」
 お豊は鼻で嘲笑したが、弦太は腹の中で「お前よりマシだ」と思っていた。


 それから十年の年月が流れた。弦太は、真面目によく働き、店にはなくてはならない存在になっていたが、二十一歳になっても手代の身分であった。
 これからは給金も払うので、店で働いてくれと言う旦那様に、親父が心配なので故郷の美濃国御嶽村へ帰ると断った。やっと自由の身になれた弦太は、投げ込み寺へ行き住職に頼み込み、姉お松の遺骨を掘り起こし、背負い行李に納めて国へ向かった。

 父は、亡くなっていたが、父の遺骨は村人たちが墓地に手厚く葬ってくれていた。その傍に、お松の遺骨を埋葬し、弦太は、はじめて肩の荷を下ろした気がしていた。


 それからの弦太の消息はぷっつりと途絶えた。五年経っても村へ帰って来たことは一度も無く、村人の噂もすっかり消えたころ、近江の国では大店を狙った強盗団が出没していた。
 弦太が奉公していた上総屋も、押し込み強盗に入られ、女将と使用人の男が何人か殺害された。
 不思議なことに、大店でもない「取り上げ婆」の家にも押し込み強盗が入っていた。婆は命こそ取られなかったが、婆がコツコツ貯めていた銭を、床下に隠していた壺ごと盗まれた。
 婆は、落胆のために床に就き、やがて息を引き取った。

 その後、江戸に於いて盗賊団が出没した。やがて盗賊団の全てがお縄になり、市中引き回しのうえ、磔獄門となったが、その後、信濃の善光寺にお参りしている弦太を見かけたという噂が御嶽村に流れた。

 ある日、村の墓地のお菊、弥平、お松の墓に、誰の仕業か、菊の花が供えてあるのを村人が見つけた。
   「弦太が帰って来たのだ」
そんな噂が流れたが、姿を見たものは居なかった。  (終)


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