雑文の旅

猫爺の長編小説、短編小説、掌編小説、随筆、日記の投稿用ブログ

猫爺のエッセイ「辞世の時」 第十四回 平敦盛

2014-01-22 | エッセイ
 源平の戦いは、神戸は生田で開戦した。 現在の生田は、神戸市街の真ん中「三宮」に位置する。 ここから南西に平清盛が開いたとされる福原の港がある。
 源義経の科白で「馬も四足、鹿も四足」知られる鵯越の地名は、ここから5~6km北に位置する。 義経が鵯越の崖を馬で駆けおりたとされる一の谷は、ここから10数Km西に位置する海岸である。

 源義経の軍が、鵯越の急な崖を馬で駆けおりたところに平家の陣営があった。  急襲を受けた平家軍は、抗戦するも敗退し、福原の港から一の谷の海岸に配備して置いた舟で逃げ延びるが、平敦盛(たいらのあつもり)は逃げ遅れる。 騎乗のまま沖の舟に向かって逃げようとしたところを、源氏の武将「熊谷次郎直実(くまがい じろう なおざね)に、呼び止めわれる。
   「敵に背を向けて逃げるとは卑怯でございましょう、お戻りなされ」
 熊谷直実は、若武者に声を掛けた。 卑怯と言われては平家の名折れと、若武者は引き返す。 一騎打ちで争うが、剣では決着しないとみた直実は、敦盛の馬に飛び移って組み落ち、若武者を捻じ伏せた。
 直実は、若武者の首を刎(は)ねんと兜を剥ぐと、それはまだ十代の紅顔の美少年で、直実の長男「熊谷小次郎直家」と、同年代と思われたので、大いに躊躇する。
 何とか、この若武者を逃がして遣りたいと思うが、背後には優勢の我が源氏の軍が迫ってくる。 直実は若武者に「名を名乗れ」と叫ぶが、心の中では名乗ってくれるなと祈る。
   「我は平敦盛なり、速やかに我の首を刎ね、そなたの手柄と致せ」
 敦盛は平清盛の弟、平径盛の息子で、笛の名手で知られていた。 どうせは味方に討たれて苦しみぬいて死ぬのなら、自分の手で苦しまずに一刀のもとに死なせてやろうと、刀を打ち下ろす。

 熊谷直実はこの後、仏門に入る。 神戸の一の谷には、敦盛の胴塚があり、2km東の通称須磨寺(福祥寺)には、首塚と、敦盛が愛用した若葉の笛(小枝の笛)が奉納されている。

 武将たちの生誕の年さえも定かでない者が多いなか、敦盛と直実の一騎打ちで放ったセリフなど、記録に残っている訳がない。 これは、平家物語などの作者の想像であろうし、歌舞伎の「一の谷嫩(ふたば)軍記」のセリフであろう。 このエッセイでは、猫爺の想像が入っている。
時、平敦盛は、齢(よわい)十七歳。 

  ◇人間(じんかん)五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり

                    (原稿用紙3枚)

第一回 宮沢賢治
第二回 斉藤茂吉
第三回 松尾芭蕉
第四回 大津皇子
第五回 井原西鶴
第六回 親鸞上人
第七回 滝沢馬琴
第八回 楠木正行
第九回 種田山頭火
第十回 夏目漱石
第十一回 十返舎一九
第十二回 正岡子規
第十三回 浅野内匠頭
第十四回 平敦盛
第十五回 良寛禅師


最新の画像もっと見る