ないない島通信

「ポケットに愛と映画を!」改め。

こんまりメソッドでお片付け。(14)NLPで脳を変える。

2020-12-16 10:44:10 | 片付け

以前、このブログにこう書きました。

>結局、お片付けというのは、脳みその使い方を変更せよ、ということなのかしら(10 月28日の記事)。

これが事実だったということが判明しました!

なぜなら、NLPを使うとそれができちゃうからです!

11月半ばからNLP講座に通い始めて全5回の講習が終わったのですが、その4回目で学んだ「サブモダリティ」という手法がまさにそれで、これはもう、魔法といってもいいんじゃないかしら。

こんまりさんも書いていますね。

「人生がときめく片づけの魔法

片づけは魔法であり、その片づけには魔法が必要です。

つまり、魔法を使って片づけをすると、片づけをしたことで人生が魔法のように変わる、

ということね。

たとえば、ADHDの傾向のある人は片付けが苦手だといわれています。
私もそうでした。
方づけられないのは脳みそのある部分が脆弱だから・・長年そう思っていました。

ところが、NLPの手法を使うとあら不思議。それが簡単に解決しちゃうのです。

もちろんADHDの傾向があるすべての人に適用できるかどうかはわかりませんが、少なくともその傾向があると思い込んでいる(私みたいな)人には有効です。

サブモダリティを実習した翌日、何とあれほど苦手で手をつけるのが嫌だったトイレ掃除がスムーズに進み、ついでに玄関掃除と居間の掃除もささっと片付けてしまったのだから、これはもう魔法といってもいいんじゃないかなあ。

これまではとにかく「掃除しなきゃ。でも今日じゃなくていいよね」「ああ、掃除しなきゃ。でも誰も来ないから来週でもいいよね・・」

と延々と言い訳をして先延ばしにしてきたトイレ掃除が不思議や不思議、ササっとできちゃった。

それどころか、キッチンの汚れが気になって、気がついたら布巾を手にごしごしこすっていたのです。

これまでの私には考えられない行動で、思わず笑ってしまいました。

そうか、掃除が得意な人というのは、こういう感じなのね、ということがようやくわかった。

たとえば、アスリートにとって日々の練習はルーティン化していて難なくこなせるけれど、普通の人にとってはジョギングでさえ苦痛だ、というのに似ているかもしれません。

レストランのシェフにとって料理は当たり前にできるものだけど、料理が苦手な主婦にとっては献立を考えることすら苦痛でしかない、というような。

得手不得手というのは誰にもあるもので、それは生まれつきだと思われていますが、もしかするとそうじゃないかもしれない。

不得手だと思っていたことも、脳のチャンネルをちょっと変えるだけで得手になるかもしれない。

その可能性を示してくれたのが、

「NLP 神経言語プログラミング」です。

これ、とても大事なキーワードなのでぜひ記憶しておいてください。

次回から、このNLPについて書いていきたいと思います。

ちなみにこの講習会を主催してくださったのが、「菜の花」というセラピールームを運営している永井さんです。

興味ある方はこちらを是非訪ねてみてください。

https://nanohanaroom.jp/index.html

 

(NLP=ニャンコ・ラブ・プログラム!)

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鬼滅の刃/無限列車編

2020-12-13 11:05:44 | 映画

ついに観てきました。

「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」

いやあ、面白かった。

煉獄杏寿郎、人気なのがよくわかりました。見事なヒーローっぷりです。

ところで、作者の吾峠呼世晴は女性だそうですね。

基本的に少女漫画なのではないか、とアニメを見ていて思ったのだけどやっぱりね。

鬼というのはいろんなものの象徴ですが、日本では古来共同体の外から来るものを鬼と呼びならわした歴史があるようです。

「鬼とは安定したこちらの世界を侵犯する異界の存在であるという。(略)まつろわぬ反逆者であったり法を犯す反逆者、山に棲む異界の住人(あるいは)鍛冶屋のような職能者も鬼と呼ばれ、異界を幻想とたとえれば人の怨霊、地獄の羅刹、夜叉、山の妖怪など際限なく鬼のイメージは広がる・・(Wikipedia)」

鬼滅の刃の鬼たちも、実は共同体から外れたものたち、あるいは他者との折り合いが悪く鬼になった者たちであることが、死の直前に語られます。

鬼たちの最期は日本的な情念がたっぷり盛り込まれていてけっこうズシリときます。

ド派手なアクションシーン、血がドバドバ流れ、鬼たちの姿形も実に異様で子どもにはトラウマ級のアニメですが、不思議と観たあとに残る感じが悪くない。一種のカタルシスのようなものを感じるのは、やはり作品の力でしょう。

若い人たち向けのストーリーですが、ここから若者たちは様々なことを拾い上げ、自分の中の鬼と対峙することでしょう。

今回のヒーロー煉獄杏寿郎の母親が亡くなる前に彼にいいます。

「弱き人を助けることは強く生まれた者の責務です。責任を持って果たさなければならない使命なのです。」

ヒロイズムだなあ。

もちろんそれも否めませんが、本来人というのはすべて平等で同じ力を持っている、というのがヨガの考え方です。

誰かを助けようとすると、助けられたい人が寄ってくる。そこには力の不平等が生まれエネルギーの下降が生じる。これはスピ系でもよく言われていることです。

本来人は誰もが自分を救う力をもっている。人と対するときはあくまでも対等の立場で接しないといけない。

それでもヒーローの物語は私たちを揺さぶります。

なぜなら、ヒーローは私たち自身の中にいるからです。自分の中にないものに人は感動しません。ヒーローは私たちの中にいる私たち自身なのですね。

それはともかく、今回の映画で非常に興味深かったのは、魘夢(えんむ)という鬼が乗客たちに見せる夢の世界です。

炭治郎や煉獄杏寿郎でさえ、この罠にかかり深く眠ってしまいます。

夢の世界というのは、私たちの無意識の領域で、映画の中ではこの無意識の領域にある核を破壊すれば本人も破壊される、という設定です。

魘夢に操られた乗客が鬼滅隊の無意識領域に入り込み、この核を破壊しようとするシーンがあります。

無意識領域は人によってさまざまで、炭治郎の場合は澄んだ水平線と青空、そこに浮かぶ雲という、まるでウユニ湖みたいな景色で描かれます。他の人たちは真っ暗闇だったりいろいろ。

その無意識領域の中にキラキラ光る玉が浮かんでいてそれが核である、という設定。

また炭治郎が、自分がいるのは夢なのか現実なのかわからなくなり、自分に刃を当てるシーンなど、実に興味深いと思いました。

この無意識領域、夢の世界という設定が面白かったなあ。

なぜなら、この設定こそが私たちの無意識に働きかける仕組みになっているからです。だからこそ、これほどヒットしているんじゃないか、と思います。

そして、この無意識領域こそ、次に語るNLPで扱う領域なのです。

ああ、最近、無駄のない動きをしているなあ、と感じます。

こういう流れが来たら、流れに逆らわずに乗っかっていくのがいいようです。

 

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こんまりメソッドでお片付け。(13)過去からの伝言

2020-12-09 19:07:20 | 片付け

気がつけば12月も半ば。年末までに終わるのか、我家の片付け。

ところで、最後まで残っていた紙類についに着手しました。

古い段ボール箱の中から昔のノートや日記がたくさん出てきたのですが、その中の一冊、1967年のノート(私が高3の時)には、祖父が亡くなった頃のことや父から聞いた我家の歴史が書かれていました。

そのノートによると、父の実の母親(私の祖母)は父の祖父母および同居していた叔母と折り合いが悪く、幼い父を残して家を飛び出していったというのです。

つまり父は幼くして母親に捨てられたと思い込んでいた。

でも、私が実際に祖母から聞いた話は全く逆でした。

父が3歳になるまで(昔は数え年だったので恐らく2歳)祖母は父を一人で育てていたのですが(なぜなら婚姻外の子どもだったので)、ある日、父の父親の家から使いの人が来て、むりやり幼い父を祖母から奪っていった、というのです。

父の両親は、祖父母の反対を受けて結婚できなかったので、父は婚外子だった、というのは戸籍からも明らかです。

祖母はその話を泣きながら私にしてくれました。

(祖母は長年行方知れずだったのですが、祖父が亡くなる直前に探し出して東京に呼び寄せたのです。祖母から話を聞いたとき私は20代半ばでした)

何ということでしょう。

二つの真逆のストーリーが立ち上がってきたではありませんか。

母親に捨てられた子どもと子どもを奪われた母親という二つのストーリーが。

どっちが事実なのか定かではありませんが、もしかすると父は、実の父親あるいは祖父母や親戚から事実とは異なる母親の姿を刷り込まれていたのかもしれない。幼い父はそれを信じこみ、実の母親はとんでもない悪女で男たらしだったと思い込まされていたのかもしれない。

私の印象では祖母はごく普通の愛情深い女性でした。

人間の歴史というのは、かくのごとく捏造されるものなのか、と愕然としています。

だからこそ、父は私が離婚したとき理由も聞かずに「人の道を外れ子どもたちを犠牲にしてしまった」と言ったのでした。

なぜあの時、父は過去形で断罪したのだろう、とずっと疑問に思っていました。

あの「犠牲」という言葉は、私の子どもたちのことではなく、父自身のことだったに違いない、と今回思うに至り、ようやくすべてが腑に落ちたのでした。

父が私に厳しかったのは、自分の母親を重ねていたから。離婚した娘は、幼い父を残して去っていった母親と重なって見えたのでしょう。

祖母が生きている間、父はついに一度も祖母に会いに行きませんでした。
本当は会いたかったに違いないのに・・

父が亡くなってすでに10年以上の時間がたちますが、人の歴史というのはこんな風に過去から掘り起こされ、白日の下に晒されたりするものなのか・・

過去は時に大事なものを見せてくれます。過去のモノを捨てずにとっておいて本当によかった。

記憶は時に捏造されるけれど、それを補正するのは過去の資料、紙に書かれた歴史です。

明治大正の時代を生きてきたご先祖様たちは、彼らの価値観で生きていたわけで、それはたかだか100年かそこら前のことです。なんと大きな変化だろうか。

曽祖父母の時代には、人権だの子どもの権利だのといった思想は皆無だったことでしょう。

大事なのは「家」であり「個人」ではなかった時代。その思想が、大事なのは「国」であり「個人」ではない、という軍国主義に容易につながっていったのは、想像に難くありません。

私たちの人生というのは、生きている時代の価値観にこんなにも左右されるものなのか。

それは過去だけではなく、現代に生きている私たちをも束縛しているかもしれません。いえ、束縛しているはずです。

そうしたことを肝に銘じながら生きていきたいとつくづく思いました。

もしかすると誰かが導いてくれたのかもしれないなあ。私がしつこく疑問を抱き続けていたので。今回はマジでそう思いました。

皆さん、断捨離をするときはくれぐれも注意が必要です!

過去を捨てるときは今一度振り返ってみることをお勧めします。

 

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ディック・ジョンソンの死

2020-12-07 16:44:30 | 映画

Netflixオリジナル映画「ディック・ジョンソンの死」を紹介したいと思いますが、どう紹介すればいいか悩むところです。

すごくいい映画なので見るべし、とは言い難いけれど、でも、いろんな気づきがあるので、見てもいいんじゃないか、とまあそんな感じです。

キルステン・ジョンソン監督は、自分の高齢の父親ディック・ジョンソンの死を様々な形で演出し、それをドキュメンタリーフィルムにする、という手法で映画を作ることを思い立ちます。

これはその映画製作のドキュメンタリーであり、なおかつフィクションでもあります。

80代の父親ディック・ジョンソン氏が自らディック・ジョンソンを演じて、様々な死に方を演じるというちょっとありえない手法。

たとえば、ビルの上からPCが落下して直撃を受けて死ぬ、道を歩いていたらビルの角から長い鋼鉄を担いだ男が現れディック・ジョンソンの首を一撃し、彼は血を流して倒れ込む、あるいは心臓発作で路上で倒れ救急車で病院に運ばれる・・

下手すれば、悪趣味のおふざけ映画に見えなくもないところを、かろうじて救っているのが、ディック・ジョンソンその人のたぐい稀な柔和な表情です。本当に素敵な表情を見せてくれます。

この表情があるからこそ、この映画は人々に訴えかけるものになっているのですが、でも、現実問題として、果たして高齢の父親にここまで演じさせる必要があるのか? というあたりはかなり疑問です。

彼は長年精神科医として働いてきましたが、認知症の兆候が出てきたため、やむを得ず退職し、NYのキルステン監督の家に同居することになります。

その家にはキルステン夫妻と二人の幼い子どもたちがいて、とても賑やか。

映画はこの家族の様子を逐一撮影しつつ、なおかつ時折ディック・ジョンソン氏の死のシーンをさしはさみながら進行します。

何が現実で何がフィクションなのかは、見ていれば大体わかるのですが、終盤にさしかかるとジョンソン氏の認知症も進み、フィクションだとわかっていても、もしかすると本当に彼は道に迷ってしまったのかもしれない、あるいは本当に心臓発作で死んでしまったのかもしれない・・と思えてきます。

しかも、あろうことか葬式のシーンまであって、何が現実で何が創作なのかわからなくなってくる・・

 

(以下ネタバレ)

実は葬式もフィクションで、ジョンソン氏は自分自身の葬式をドアから覗き見て、最後に満面の笑みをたたえながら皆が集う教会に現れる、という趣向です。

全体にコミカルな作りになっていて、ディック・ジョンソンが死んで天国にいくと様々な人たちが天使となって迎えてくれるのですが、まるで小学校の学芸会の劇みたいな演出で、こういうのがアメリカ人は好きなんかい⁉ と思った。

好きか嫌いかは別として(私はイマイチ好きじゃないけど)、いろんなことを考えさせられる映画です。

自分の死というのはまだそれほど切実ではないけれど、遠からずやってきます。その時のために予行演習をしておくのもいいかもしれない。

避難訓練みたいに予行演習をしておけば、死ぬときも案外楽に死ねるかも・・

とはいえ、現実はイメージや想像とは全く違う、ということも私たちはよく知っています。そうではあるけれど、脳は案外容易に騙される、という事も知っています。

なぜこうした映画を撮ろうとしたかといえば、キルステン監督の家族全員がすでに父親の死を受け入れている(なぜならすでに母親の死を経験しているから)というところが重要かと思います。

一番の肝は、死を(自分にしろ親にしろ)どう受け入れるか、ということなのでしょう。それに対して、私たちはあまりに準備不足である、ということに気づかされます。

老齢の家族をお持ちの皆さん、あるいはご自身がすでに高齢である皆さん、

死への準備はできていますか?

私はまだです。

でも、いつか必ずやってきますね。その時はできれば抵抗せずに受け入れることができるよう、今から準備をしておくのもいいかもしれないですよ。

 

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こんまりメソッドでお片付け。(12)自分自身に気づく。

2020-12-02 18:49:56 | 片付け

考えてみると、私は「専業主婦」というものを一度もやったことがありません。

自分の食い扶持は自分で稼ぐ、というのが人間としての基本だと思っていて、結婚していた間もずっとフルタイムで働いていたからです。

(単に良い夫に恵まれなかっただけとも言えるが)

とはいえ、一時期は「専業主婦」に憧れました。

いいなあ、一日中家にいて家事だけしていればいいなんて、天国じゃないの、

と思っていた。

ところが、「専業主婦はそんなに楽な仕事じゃない!」と専業主婦をやっている友人たちから反撃を食らったのでした。

たしかに専業主婦は「主婦」という仕事を「専業」しているけれど、その割に収入は高くない。誰かの計算によると、専業主婦は月30万円もらってもおかしくないという。

でも、奥さんに毎月30万円払う夫なんていませんよね。それどころか、

「誰に食わしてもらってると思ってるんだ!」などと威張り散らされ、まるで奴隷のように扱われている専業主婦たちも多くいるようです。
(中には夫を上手にコントロールしている妻たちもいるようですが・・)

まあ、それはともかく、

専業主婦の友人たちは、長年の苦労の末、私なんかに比べると圧倒的に家事が得意で上手です。隙間時間を上手に活用する術も心得ている。

料理もうまいし家の中も片付いていて、その上で趣味に時間を費やしたり、ボランティア活動をしたりしていて、人生を丁寧に生きているなあと思います。

それに比べて私は「丁寧さ」からは程遠いところで生きてきたのだなあ、と片付けを始めてからつくづく思うようになりました。

何しろ、とりあえず子どもらに飯を喰わせ、とりあえずゴミだらけなのでそこいらを片付け、とりあえず服はお古で間に合わせ、とりあえず使える食器があればよく(欠けていても気にしない)、とりあえず夏休みには子どもらを映画館に連れていく(映画が一番安いので)・・

というふうに、とりあえず生きてきたきた気がします。

私の人生というのは、「とりあえずビール!」みたいな「とりあえず」の人生だったのだなあ・・

とりあえず生きてりゃいいか・・みたいな。

私の優先順位の中に「快適さ」や「丁寧な暮らし」あるいは「将来の展望」だの「生活設計」だのといったコンセプトはほぼ皆無だった。

で、気がついたら、家の中は不用品であふれかえり、トイレも風呂場も埃だらけのカビだらけ。台所のシンクは水垢で汚れ、そこいらじゅうに汚れがこびりついて最早除去できない分厚い層を形成している・・ということに、ようやく気づいたわけです。

私の優先順位はといえば、とりあえず金を稼ぐ、そのためにとりあえず必要なスキルを身につける、日本語教師や英語、レイキやカウンセリングなど将来役にたちそうなことをやる。とりあえず本を読む、とりあえず映画は見ておく。とりあえず、とりあえず・・

という風にどこか追い立てられるようにして生きてきた気がします。

結局のところ、それは、家族を優先させるのではなく、私自身を優先する生き方だったんじゃないの?

で、それって男の生き方だよね。

俺は一家の主だ!と威張ってる男の生き方そのもの。

ああ、なんてことだろう。

家族のために一生懸命働いてきたつもりが、実は自分のエゴのために生きてきたんじゃないの・・

ああ、本当になんてことだろう。

でも、幸いなことに、我家の子どもたちは、そんな私に文句も言わず(多少は言うけど)、しっかりと自立して自分の人生を歩みだしているので、これはもう子どもたちに感謝しかない、と心からそう思っています。

散々批判してきた男たちの生き方をまさか自分がしていようとは、ああ、夢にも思わなかった。

でも、いくつになっても気づいたときに改めればいい、と言い訳したい気もします。

結局のところ、これしか生きられなかったのだから、一番自分らしい道を歩んでいるのかもしれない・・

まあ、そう思うことにしよう。

まだまだ新たな気づきがあるかもしれません。
かくのごとく、お片付けってけっこう怖いことでもあります。

心してかからねば。

 

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