3年ほど前に、ちょっと変わったサロンに参加したことがあります。そこで出会った人たちがやはりちょっと変わっていました。
ディヴァイン(いわゆる守護霊、ガイド)が見えちゃう人とか、インドで修業して悟ってしまった人の友人とか、インドの誰とかを崇拝している人とか、いわゆるスピ系の人たちですね。
すでにスピ系の話にはなじみがあったので驚きはしなかったのですが、その中の一人、Kさんの話はとても面白かった。
彼はインドで修業して悟りを開いた人の友人、という人です。Kさんによると、
世界というのは人それぞれ違う、というのです。どう違うかというと、
「たとえば、僕がA社という会社を立ち上げ、初めのうちは順調だったけれど、ある時不運に見舞われ会社が倒産して、僕は事業に失敗したとする・・
でも、あなたの世界では、A社は存続しており、僕は成功しているかもしれない。
あるいは、ここにきているSさんにとっては、会社は存続はしているが危うい状態であるかもしれないし、YさんにとってはそもそもA社は存在せず、僕は起業すらしていないかもしれない・・」
「ちょっと待って」と私は言いました。「それっておかしいでしょ?」
「あなたが立ち上げたA社は、あなたにとっても私にとってもSさんにとってもYさんにとってもA社であることに変わりはないし、成功したか失敗したかも同じ。違うの?」
すると、彼はいいました。
「違うんです」
ここからはちょっと説明が難しくなるのですが、
つまり、人にはそれぞれ独自の世界があって、その世界はその人自身が作り上げている(その人自身の投影である)というのです。
もちろん、周囲の人たちもその世界には存在し、互いに交流しあい、影響しあってはいるのだけど、基本的にその人の世界はその人自身が作ったその人だけの世界である・・。
わかったようなわからないような。
え、全然わからない?
私も全部理解したわけではないのですが、
これって、バシャールがいっている「パラレルワールド」じゃないかと思います。
つまり、彼がA社を立ち上げた時点で、世界は無数のパラレルワールドに分かれたのです。
A社で成功したKさん、A社で失敗したKさん、A社が傾きかけて危ういKさん、起業すらしなかったKさん・・・
無数のA社、無数のKさん、が枝分かれしてそれぞれ違う世界を形成する。
それぞれの世界にSさんやYさんや私がいて、それぞれの世界の中でそれぞれのKさんを見ている・・
(シュレジンガーの猫状態)
でも、世界が分岐してあまりに違う方向に向かうと、やがて互いに交流しなくなり、会うことさえなくなる・・
世界とはそういうものである・・
というのですね。
で、現在の地球は大きな分岐点に差し掛かっており、この先、針の穴のような狭いところを通過してポジティブな世界に移行する人たちと、現状のままネガティブな世界にとどまる人との世界に分かれていく・・とバシャールはいっています。
高次元の存在たちが地球の次元上昇を手伝いに来ている、ともいわれています。
それが事実かどうかというのは検証しようがないし、そもそも事実とは何かという観点から議論する必要があるでしょう。
私はそれが事実かどうか、というのはどうでもいいと思っています。
人がそれを信じるかどうかはその人次第。信じる人は信じればいいし、そんなもん信じられるかい、という人は信じなければいい。
それぞれ、その人の世界なので。
以前、ここにも書きましたが、9.11の同時多発テロの際、崩れ落ちるツインタワーの映像を見ながら、私はふと、
ああ、私はこっちの世界を選んでしまった・・
と思ったのですね。
とても強烈な印象だったのでよく覚えています。
そしたら、村上春樹が同じことをどこかで書いているのを見ました(どこで見たか忘れたけど)。
それを見て、ああ、同じことを感じている人ってけっこう多いのかもしれない、と思いました。
同時多発テロのような世界的な出来事には大きな分岐点があり、あの瞬間に、9.11が起きた世界と起きなかった世界に分かれたのかもしれません。
人間は潜在意識の中でけっこういろんなことを知っているものです。
意識の表面には昇らないけれど、自分で思うよりもはるかに深い知識というか知恵があるのですね。
その潜在意識の奥深くから、時折立ち上ってくる泡のように、そうしたことをふと思う瞬間があります。
ああ、私は9.11のテロが起きた方の世界を選んでしまった・・というように。
私たちは、私たち自身が思うよりもはるかに大きな存在であり、はるかに深い知識を蓄えた存在でもあるのだ、と思います。
未来のことも過去のことも現在のことも、今考えているよりはるかに多くのことを知っているし、わかっている、と思います。
だからどう、ということではないのですが、自分の世界は自分で作っている、という見方をすると、世界がまるで違って見えてくるのはたしかです。
すべての運不運、幸不幸は私自身が選んでいる。
私たちは車の助手席に座っているのではなく、運転席にいて車を運転しているのです。ハンドルを握っているのは私。
どこに行くか、どう行くかは私が決めるのです。
そう考えると人生が全く違って見えてくるのではないでしょうか。
そして、人生を自分の思う方向に向けることができるかもしれませんよ。
(おいらは生きてる猫にゃ)
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