夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

「姑息」について、東京新聞のコラムを考える

2011年09月17日 | 言葉
 きのう、「姑息」を「卑怯」だと思っている人の方が圧倒的に多いとの話を書いた。「姑息」の漢字を常々目にしていれば、それが「卑怯」とはずいぶんと懸け離れているなあ、と感じる事も出来るだろう、と書いた。しかし全く違う事を考える人の方が多いらしい。
 今朝の東京新聞ののコラム「筆洗」は執筆者が「卑怯」だとずっと思っていたと告白している。正直で感心するのだが、日本語に関しての彼の知識は半端じゃない。何しろ、「我慢」は本来は「うぬぼれの心を指す言葉」だと知っているのである。
 「我慢」は仏教用語で、「我が慢心する」の意味だから、「自分を偉く思い、他を軽んずる」の意味になる。

 元は仏教用語で、その意味が変わってしまっている言葉は少なくない。仏教がそれだけ民衆の中に入り込んだ証拠と言えるだろう。言葉は低い方、より分かり易い方へと変化する。それは自然の成り行きであって、止める事は出来ないだろう。
 コラムは最後に次のように言う。

 ここは一つ「姑息」に「ひきょうな」の意も認めるというのはどうか。それこそ〝姑息〟な提案?

 まあね、結局はそうした流れに自然となって行くのだろう。でも積極的に「卑怯」の意を認める事には私は反対だ。そうした事を安易に認めていれば、ずるずると言葉は間違った方向に行ってしまうだろう。

 執筆者はやはり博学だ。『坊ちゃん』から次のような用例を引いている。

 反動が恐ろしいの、騒動が大きくなるのと姑息な事を云った日にはこの弊風はいつ矯正出来るか知れません。

 これはいたずらをした寄宿生に対して穏便な処分を主張する教師らに対する反論である。で、これは「一時しのぎ」の正しい意味とも、「卑怯な」の間違った意味ともどちらとも取れるが、「卑怯な」の方がしっくりくる気もする、と言っている。
 「反動が恐ろしい」などと言っているから、私も「一時しのぎ」よりは「卑怯な」の方を取りたい。
 なぜこれを引用したかと言うと、日本語学者の中には著名な作家の作品を挙げて、一流の作家も使っている言葉だから、間違いではない、などと言い張る人が居て、私は常々困った事だなあ、と思っているからである。私が勝手に「問題な本だなあ」と思っている『問題な日本語』にはそうした用例が幾つかある。

 フランスと言う国は自国語を守る事に真剣に立ち向かっているそうで、この「姑息」などのような場合には、絶対に「卑怯な」などの意味を野放しにはして置かないだろう。どのような手段を取るかは知らないが、「姑息=一時しのぎ」である事を強力にアッピールするに違いない。
 ずるずると流されていたのでは、簡単に文化などは低きに流れる。昔から、「悪貨は良貨を駆逐する」と言われているではないか。

言葉を間違って覚えているのは仮名書きのせいもある

2011年09月16日 | 言葉
 文化庁が発表した国語に関する世論調査で、最も誤解率の高かったのが、「姑息」だった。7割の人が間違って「ひきょうな」だと思っている。正解は「一時しのぎ」である。
 でも考えてみれば、「姑息」も「卑怯」も漢語だ。こんなに違った漢字と発音で同じ意味になるのはおかしいと思うのが普通ではないか。けれどもどちらも漢字で書かれる事はほとんど無い。「こそく」と「ひきょう」ではどうにも分からない。
 「姑息」の「姑」は難しいが、「息」は「いき。いきる」だと多くの人が知っている。「生きる」と「ひきょう」は違うだろう。普段から漢字で読み書きしていれば、自然とそうした考え方は出来るようになる。もちろん、そうした気力の無い人は無理だが。
 「姑」は「しゅうとめ」(夫の母)だが、「しばらく」の意味もある。だから「姑息=しばらく生きる」で、「一時しのぎ」の意味になる。
 「姑」にしても決して難しい漢字ではない。使う頻度が低いから常用漢字にはなっていないだけの話だ。
 「姑息」が漢語である以上、漢字で書かないと意味は分からない。純粋な日本語に「こそく」なる言葉は無い。

 その点、「ひきょう」はぴたりと合う日本語が無いから、普通の日本語として通用している。それでも「卑怯」と書けば、更に良く分かる。「卑」は「いやしい」で、「怯」は「おそれる。おびえる。よわい」だが、「卑」だけでも「ひきょう=勇気が無く、おくびょう」の気持は分かると思う。

 いずれにしても、日本語として現在通用している言葉の半数以上は漢語のはずだ。それはひいては中国語であり、発音だけの仮名書きにしたのでは、理解出来るはずが無いのである。
 人々の負担を軽くする目的で漢字を制限しているはずなのだが、言葉の理解を妨げている結果にもなっている。悩ましい所なのだが、易しくしても分からない物は分からないのだから、下手に漢字を制限する事は決して日本語のためにはならないと思う。

万葉集の解釈のし直しがやっと完成した

2011年09月15日 | 歴史
 5月の末に万葉集の解釈のし直しをしています、と書いた。それなのに、ほとんど毎日、土日も取りかかっていて、9月の半ばになった今、やっとそれが完成した。あれから何と4ヶ月も掛かっている。なぜかと言えば、読み直すたびに新しい事に気が付くからである。それは今まで考えていなかった事にもなるのだが、そうでもない。一日一日と考え方が深くなって来ているので、今まで気付かなかった事に気が付くようになったのである、と本人は思っている。

 定評ある解説書や関連する本を読むたびに、何でこんないい加減で浅い考えで満足しているのだろうと不思議になる。参考にしている日本書紀の文章一つまともに読めないのである。だから、古語辞典の説明だってきちんと理解が出来ない。そのような人々が本を書いている。でも一旦信用されると、その信用は最後まで付いて回るらしい。羨ましい限りである。
 私など、二冊ほどの本を出してもらったが、信用される身にはなっていない。著書の一冊は「こんな国語辞典は使えない」と言う辞書の批判書で、私の住んでいる所の区立図書館には4館に置かれていると言うのに、そして国立国語研究所のデータとしては別の一冊の一部が現代の書き言葉のデータとして入っていると言うのに、情けない。

 まあ、本は大量に出版されるし、今は出版不況と言われているから、私などの出番は無いのかも知れない。それでも渾身の力を込めて書き上げた。題して「万葉集で分かった古代史の真実」。本当に信じられないような事を皇后が歌に詠んでいるのである。信じられないような事だから、従来の研究者達は、無難な解釈をして通り過ぎて来たのである。けれども彼等が神の書のように信じている日本書紀にさえ、皇后の詠んだ信じられないような事実を証拠立てるような記述があるのだ。もちろん、それは日本書紀の文章を読み込む力が無ければ出来ない事ではあるのだが。
 そしてその史実から、周辺の歴史が今までよりもずっと明解に分かるようになる。様々な断片的な出来事が見事に一つに繋がって来るのである。だから、歴史書には書かれていない史実が重要になるのだ。

 出来上がった原稿を、以前、ちょっとした事を書いた事のある出版社に持ち込もうと考えているが、さて、どうなる事やら。駄目でも、その報告は正直にするつもりです。

国会中継で、総理の所信表明演説の一部を見て思った)

2011年09月14日 | 政治問題
 総理が震災からの復興について熱心に語っているのに、終始何かを叫んでいる男の声が聞こえる。なぜやめさせないのか、と不思議に思った。口をパクパクさせている若い男の姿が一瞬映ったが、画面はすぐに変わってしまった。叫んでいる男を映せばいいのに、と思う。国会の、しかも総理の所信表明演説中なのである。不心得者は即退場、でも構わないだろう。私は国会中継をほとんど見た事が無いので、今頃になって気が付いたのだと思うが、何で放っておくのだろうか。
 そして思った。演説は聴いて分かるのだから、その間じゅう、ずっと一人一人の議員の姿を名前入りで映したら良いのではないか。重要な事に関して、一人一人がどのように対処しているかが良く分かる。居眠りをしているのもはっきりと分かるし、プライバシーの侵害にはならないはずだ。国民の代表として国会に臨んでいる以上は、一人の私人ではなく、公人なのである。

 それにしても、真面目に聴いている振りさえ出来ない議員が居る事に呆れ果てる。人の話を聴くのは難しい。長い演説ならなおさらに難しいだろう。多分、事前に演説内容は配られているのだろうから、今更聴くまでも無いと思っていたとしても、聴く振りをするくらいは国民への義務ではないか。国会に出席して報酬をもらっているんでしょうが。
 

「死の町」発言を再度考える

2011年09月13日 | 言葉
 今朝のフジテレビでキャスターの小倉氏も言っていたが、「死の町」との表現は真っ当な日本語である。ついこの間まで、生き生きと人々が暮らしていた町が、今や人影は全く無い。置き去りにされた犬や猫の姿が哀れな町が「死の町」でなくて何だと言うのか。
 住人がこの言葉に対して反感を持つのは、この言葉その物に対してではなく、町を「死の町」にした連中に対しての反感のはずである。それを住人は間違って表現してしまった。マスメディアともあろう者がそんな事が分からない訳が無い。

 つまり、「死の町」の言葉に反感を持つのは原発推進派の連中だけである。自分達の犯した犯罪をまさに正しく批判されているのだから、この言葉を忌避するのは当然だろう。と言う事は、マスメディアも原発推進派が権力を握っている事になる。
 私は鉢呂氏の程度を問題にしたが、もしかしたら間違っていたかも知れない。程度が低かったのは、同氏ではなく、「死の町」の言葉を異常に取り上げ騒いだ連中だったのかも知れない。そうなると、同氏の辞任を「素直に」受け入れた野田総理も程度の低い人間なのかも知れない。

 今、我々は明白な、誰にでも分かるような証拠を握っている。福島の原発事故がそうであり、津波で壊滅した町が今もなお、その姿のままである現実がそうである。言葉尻を取られたら困るが、「こんな絶好の機会」は無いではないか。災い転じて福となす、とのことわざがある。これは世界的にも共通の考え方である。その中でも「災いを転じて」には、逆境を逆手に取って運命を切り開け、と言う積極的な意味がある。
 「脱原発」は既に日本人の総意になってしまっている。今更後戻りは出来ない。してはならないのだ。
 「災害からの復興」も、「災害に対する油断を断つ」のも「災害に対して強い町作りをする」のもすべて日本人の総意になっている。

 原発廃止で電力が危機を迎え、日本の経済力を破滅させる、などと言う脅し文句に引っ掛かってはならないのだ。第二次世界大戦での敗戦で日本は壊滅的な打撃を蒙ったにも拘らず、このように再生出来ているではないか。戦後に必死の努力をした人々がどんどん減って行き、現在の繁栄を享受している人間が大多数になっているから、簡単にそうした脅しに乗ってしまう。
 本当に千年に一度の大災害なのだろうから、これをバネにしないで何とするか。言葉を真剣に考えようではないか。政治肩達がいい加減な言葉を日常茶飯事のように使っているから、みんな麻痺してしまうのだろうが、我々一人一人の意志を明確に表し、それを伝えるのは正確な言葉しか無いのだ。

3月11日、津波警報は役に立たなかった

2011年09月12日 | 社会問題
 もちろん、すべて役に立たなかった、などと言うのではない。しかし一部の人々ははっきりと役に立たなかったと言っている。震災から6ヶ月経って、きのうはどのテレビも震災を振り返っての番組を放送していた。その内の一つが、上記のような人々の感想を伝えていた。役に立たなかった、のではなく、津波を馬鹿にしていた、のだと言う。
 その事に対しては私は同感する。なぜなら地震があり、テレビでは速報でそのテロップが流れる。そして津波警報が出される。しかし、NHKは大きな地震では即座に画面が切り替わり、震源地に近い港の光景などを延々と流しているが、津波はほとんど写された事が無い。何とものんびりとした光景なのである。だから見ている我々は、なあんだ、津波って言ったって、怖くはないんだ、と知らず知らずの内に思い込まされてしまう。
 津波はわずか50センチの高さでも人間を倒してしまうほどの力があると聞いてはいるのだが、実際にそれを体験もせず、見る事も無ければ、その怖さは全く分からないままに終わる。

 別に難癖を付けるつもりは毛頭無いが、常に何でもない港の光景を見せ続けられていれば、津波ってあんなもんなんだ、と思ってしまう。こうした普段からの警報の在り方が、咄嗟の時に間に合わない原因になっている恐れはある。私は常々、何であんな平和な光景を見せ続ける必要があるのか、と疑問に思っていたから、そう思うのだが。
 イソップの狼少年の話とは情況が違うが、何かとても似ているような気がする。

またまた大臣の失言問題だ

2011年09月10日 | 言葉
 「死者の町」との発言に私は明確に批判をする事が出来ない。確かに人が住めない町は死者の町である。その言い方を、原発を推進して来た人々に対する非難の言葉として受け取るなら、正しい言い方だとも言える。しかし必死になって元通りに人々の安心して住める町にしようと努力している事を安易に否定してしまう言葉にもなる。だから私には簡単に評価が出来ない。
 しかし「放射能を移す」と言うような言い方にははっきりと呆れ果ててしまう。冗談に違いないが、そんな冗談が飛び出す事がそもそも信じられない。子供だってそんな事は言わないだろう。それに真剣に取り組むべき事柄に冗談が飛び出す事自体が信じられない。まるで真剣味が無い。
 そうか、そんな人だから、「死者の町」の言い方も真剣に考えた上での発言ではないのだろう。となると、単に現在は人が住めないから、「死者の町」と安易に言ったとしか思えなくなる。

 前にも失言で辞任した大臣が居た。何でこんなに軽い人間が大臣になれるのか。人材が居ないからに違いない。国民の幸せを心底から考えているような人間は政界には居ないようだから、人材が居ないのは当然なのだが、それにしても程度が低過ぎる。
 言うまでも無いが、人の思考は言葉で構成されている。言葉が無ければ何も考えられない。言葉が無くて出来るのは感じる事だけである。その感覚さえ人並み以下らしい。
 言葉を知らない人はいっぱい居る。一つ一つの単語の意味さえ知らずに使っていたりする。でも庶民の間での世間話ならそれでもいいだろう。しかし、形の上だけだとしても庶民の幸せのために働く政界人が、言葉を知らない、は通用しない。
 何でもっと言葉を勉強しないのだろう。もっとも、例えば地下鉄にこんな注意書きがあっても、誰も気にしない。
 曰く、「エスカレーターでの歩行は危険ですから、ご注意いただきますよう、お願いいたします」
 何がおかしいかと言うと、「いただきます」は発言している人間が相手から恩恵をこうむっているとの表現である。歩行者が自分に注意するのは当然の事であって、何もエスカレーターの設置者が歩行者から恩恵をこうむって「注意してもらう」必要は無い。それに本当はお願いする必要も無い。
 英語なら、Do not……、としか言わないはずだ。現に東京の都営地下鉄の駅のホームドアでの表示はすべてDo not……で始まっている。はっきり言えば、「……するな」である。

 多分、日本人ははっきりと言うと責任問題が生ずるのを恐れて、曖昧な婉曲的な言い方を選び、しかも決して謙遜などしていなのに、いかにもそのように聞こえる言葉を選ぶのだろう。上記のエスカレーターの表示など、その典型的な例だが、誰も気が付かないようだ。つまり、そうした言い方に慣れ切っている。言葉を真剣に考えようとはしていないからそうなる。
 他者との意志の疎通には必須の言葉に対しての態度がそうなのだから、それは他者に対して敬意を払っている事にはならない。
 下から上までがそうであるなら、出来の悪い大臣の失言に目くじらを立てる事もないだろうに、と私は思う。

無駄な仕事を無くせば、復興資金は税金を上げずに済む

2011年09月07日 | 社会問題
 原発が立地する周辺地域では電気料金の割引が行われているのを初めて知った。仕組みは国が地方自治体に給付金を交付する形である。つまりは税金である。自治体はその支払い業務(給付金の計算や住民達への現金振り込みなど)の実務を天下り法人に独占受注させていた。その団体は、財団法人電源地域振興センター。経済産業省OBが四代続けて理事長を務めていると言う。そしてこの団体は実務は実際にせずにすべて電力会社に丸投げしている。2010年度はそれで3800万円を得ている。しかしそれは決算額だから、あるいはもっとずっと多いのかも知れない。結局、実務は電力会社がすべてやるのだから、この団体は丸儲けである。そしてこれは氷山のほんの一角である。
  
 こうしたまさに無駄遣いの典型のような「装置」が一体全国にどれほどあるのだろうか。そうした物をすべて積算すれば、税金の値上げなどせずに復興資金は賄えるだろう。文句を言えない庶民にみんな押し付けて、知らん顔を決め込んでいるのは、常に一握りの連中なのである。
 そう言えば、国会議員の定数是正はどうなってしまったのか。事業仕分けもどこかに消えてしまった観がある。

 事業仕分けでは蓮舫氏の「世界一じゃなきゃ駄目なんですか」が有名になったが、あの言葉は一部だけを取り出されて誤解された、と同氏は語っていたが、一部だけ取り出したって十分に意義のある言葉である。ほんのわずかの違いで世界一は世界二になってしまうのである。一位と二位が桁違いに違うのであれば、世界一を目指すのは当然だが、ほんのわずかの差に追い付こうと必死になって、莫大なカネを掛けるのは愚の骨頂だろう。
 確かにスーパーコンピューターは素晴らしいが、それがあったからと言って、あの津波の被害が防げた訳でもないだろうし、今回の台風の大きな被害が防げた訳でもない。もっと地道にやるべき事がたくさんある。震災の復興だって、原発の被害の回復だって、一向に出来てはいない。

 上を見る事は大切だが、足元を見る事はもっと大切だ。向上心がいくらあっても、足元の穴に落ちたのでは元も子も無い。今の日本は自分の足元を見なさ過ぎる。

挙党一致内閣がそもそもはおかしい

2011年09月03日 | 政治問題

 野田新内閣が期待されているが、興石氏の起用で小沢派にも目配りをして、挙党一致体制で臨んでいるとの考え方があるが、そもそもは政権を担うとの覚悟であれば、挙党一致の体制は当然のはずである。心を合わせないで政権が担えるものか。
 つまりは、政権を担うと言うのは利権が目当てなのではないか、と疑られて当然である。自分の都合の良いように動くのだから、挙党一致になる訳が無い。違い過ぎる政策を掲げる人々が一つの同じ政党を作るのが間違っている。だから単なる数合わせに終わり、党内を統一する事に追われる。
 そんな事にかまけているから、肝心の政策が疎かになるのは目に見えている。何て愚かな連中なんだろうと呆れるが、そうした連中しか今の政界には居ないらしい。それもこれも我々選挙民がして来た結果である。今朝のテレビで自民党の偉い人が、民主党は我々自民党がやって来た事と同じ事をしている、と言うような意味の事を述べていたが、その通りだと思う。我々にとっては、単に自民党政権がその名前を変えただけに過ぎないようにも思えてしまう。

 今は絶好の目標がはっきりと見えている時ではないか。絶好と言うと語弊があるが、震災の復旧・復興、被災者の救済が第一である。もちろん、原発事故の処理と被災者の救済もある。そんな目標があるにも拘らず、その対策が一向に進まない。宿題が出されているのに、何もしない、出来ない生徒とまるで同じではないか。学校の生徒のような程度の連中に政治を任せる訳には行かないが、悲しい事には今の我々にはそうした事で我慢するしか無い。

野田新総理に特に文句は無いのだが

2011年09月01日 | 政治問題
 日本の総理は5年間に計6人になるとか。干支じゃないんだから、毎年変わる必要は無い。それに諸外国に対しても恥ずかしいじゃないか。もちろん、我々日本国民に対しても恥ずかしいはずなのだが、我々はもうとっくに呆れ果てあきらめている。
 我々は身近な事でも一年で成果を出そうとするのは無理な事が多い。それにそんなに簡単に成果の出せるような事なら、大した事はないのだ。でも、今回の震災の被害に関しては一年で成果の出せる事柄は一杯あるはずだ。一日も早く、と期待されている事は多いはずだ。それに対して菅内閣はその成果を出したとはとても言えないし、また、後継の内閣にしても成果を出せるとは思いにくい。何しろ、同じ体質の議員達が内閣を作り、国会を運営している。根本が何ら変わらないのだから、表面だけ、トップだけが変われる訳が無い。

 過去にも短命の内閣はあった。近い所では、羽田内閣の64日、宇野内閣の69日、細川内閣の263日、森内閣の387日などがあるが、その前後はそんなに短命ではない。
 急に人間の器が小さくなった訳ではなさそうだし、人材が枯渇している訳でもなさそうだから、結局は選ぶ人間の質と言うか、彼等の所属している社会、それは国会なのだが、それが変わったとしか思えない。何か、みんな、目先の自分の私利私欲ばかりに走っているような気がする。