夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

小学生の野外活動に付き添って考えた

2011年10月24日 | 文化
 小学一年生が近くの公園に学習で「秋を見付けに行こう」とのテーマで出掛けるのに付き添った。元貯木場だった所を大きな芝生の広場にして、所々に樹木が植えられている自然公園である。テニスコートや花壇などもあり、大人から子供まで楽しめる。学校からのコースはほとんどが川沿いの遊歩道を通るので、自転車にさえ気を付ければ安全に通行が出来る。
 子供達は川が見たいのだから、川沿いに歩かせれば良いのに、時々コースを変更して川とは反対側を歩かせたりする。後ろの先生は、何でコースを変えるのか、と不審顔である。私も不審である。そして車道沿いの歩道では、自転車通行可であれば、自転車は車道側を通行する規則だから、子供達は車道とは反対側を歩かせるのが当然なのに、それすら先生は守らない。そうした認識が無いらしい。

 さて公園で何をするかと言うと、まずは赤や黄色のきれいな落ち葉を拾う。どんぐりなども拾う。そしてノートに書く。質問は、前に来た時とどのように様子が違っているか、である。
 ところが、子供達は前に来たのがいつなのか、忘れている。出発前に答えさせたら、7月、6月、5月と分かれた。そして肝心の先生が、先生も覚えていません、あとで調べて置きます、と言うのである。
 それなのに、前に来た時と現在の様子の違いを書け、と言う。子供達が迷っているので、先生がヒントを出す。歩いている人はどうかな? 長袖を着ているね。
 でも、前にいつ来たのか覚えていないのだから、前は歩いている人がどんな服装をしていたかなんて覚えている訳が無い。運動している人はどうかな? あまりいないね。前の時だっていなかったかも知れないではないか。
 あまりにもひどい質問なので私は呆れてしまった。それに周囲の様子だって、青々とした木々ばかりで、どこがどのように違うのかなんてさっぱり分からない。せいぜい、緑の色がそれぞれに違う事くらいしか分からない。先生は、文章ではなく、絵を描いてもいいよ、と言うが、書くとしても拾った落ち葉かどんぐりの絵である。

 そうやって、1時間半ほど、なにやかやとやって、帰る事になる。子供達はどのように秋を見付けたのだろうか。これで学習になったのだろうか、と私は思う。一人の子は水筒をどこかに置き忘れてしまった。一人の子はせっかく集めた落ち葉やどんぐりの入ったビニール袋をどこかに落としてしまった。で、全員でそれを探すのかと言うと、そうではない。私達付き添いの人間が後に残って探すのである。先生と子供達は先に行って、途中の公会堂の裏庭で待っているのである。他人の落とし物を探すのも学習ではないか。
 往復も含めて2時間ちょっとの野外活動だったが、果たしてどれほどの成果があったのだろうかと、疑問になる。行き帰りの列を作って歩くのも学習である。それなのに、何度注意しても間が空いて、しょっちゅう走ってばかりいる子供達がいる。先生はほとんど注意をしない。
 私は子供達に言った。犬だってもっと上手に歩いているよ、と。すると、だって犬はリードを付けてるもん、と言う。じゃあ、君達もリードを付けて歩こうか。

 小学一年生だから、まだまだ幼稚である。でもそれに応じた教育があるだろう。秋が見付けられなかったとしても、友達の落とし物や忘れ物を一緒になって探すのは良い経験だろう。道を歩く時にはどのように注意をするのかも大切な学習である。
 先生達を見ていて、私はこれで本当に良いのだろうか、とつくづく考えてしまった。