夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

考える事の大切さをつくづく知った

2012年06月03日 | 文化
 毎日、考え続けている事がある。もちろん、考えるのはそれだけではないが、一番中心になっているのが、万葉集の幾つかの歌の解釈についてである。今まで、曖昧にしか解釈されて来なかった幾つかの歌を、私は根本から考え直し、従来の解釈とは全く違う解釈を導き出した。よくある噴飯物の解釈などではない。
 ところが、これが切りが無いのだ。考えても考えても、次から次へと新しい発見がある。あんたの考え方が足りなかったのに過ぎないのだよ、とは言われたくない。私の「足りない考え方」自体が、すでに一流研究者の考え方を遥かに上回っているとの自信がある。

 なぜ切りのない発見があるのかと言うと、万葉集歌の時代に関しては数多くの謎があるからなのだ。一つの謎を解決して、私自身、すこし成長した。その成長した考え方で再び考えるから、新たな発見がある。そしてこれは多分、終わりが無いだろう。
 そうして考えてみると、世間には、まるで考えていないと思われるような事がたくさんある。何の進歩もないじゃないか、と思えるような事が一杯存在している。
 その典型が原発の再稼働である。
 この所、私は毎朝、東京新聞のコラム「筆洗」を同感の思いで読んでいる。きのうのコラムは、あれほどまでに大飯原発の再稼働に反対していた関西の首長達の「豹変ぶり」を嘆いている。結局、このままだと15%の節電を強いられるという現実を突き付けられて、「再稼働認めず」の理想を引っ込めた、と書いている。

 確かに15%の節電は「現実」である。しかしその現実にどのように立ち向かうかを考えるべきではないのか。投書欄などを読むと、庶民のその立ち向かい方は既に出来ている。コラムも「解せないのは首相の無抵抗ぶり。現実と切り結びつつ、原発に依存しない社会という理想に向かう工程表を描くのが先決のはずではないか」と書いている。
 野田首相は何も考えてはいないのである。
 閣僚達が省エネルックで登場した写真と記事が載っていたが、彼等が考えている事って、そんな程度の事でしかないのである。