夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

暦の二十四節気とは何か

2011年01月29日 | 文化
 東京新聞の言葉についての校閲部記者のコラムに面白い事が書いてある。
 まず、陰暦の一月と太陽暦の一月は俳句ではきちんと区別している事を述べている。
 そして、陰暦の正月は立春の前後に当たり、これを旧正月として祝い、そのころに年賀状が届いたら 「迎春・初春」 が実感しやすいだろう、の述べている。
 そしてすぐ続いて、次のように述べる。

 現在は地球温暖化やヒートアイランド現象などの影響もあり、二十四節気の季節区分を感じることが難しくなっています。そんな中で立春、小寒、大寒はぴったりという気がします。

 ここで話が分かりにくくなる。
 と言うのは、季節区分を感じる事が難しくなっているのは、二十四節気は陰暦で、現在の暦は太陽暦だからのはずなのである。ほんの一例を挙げれば、立夏は5月6日頃、立秋は8月8日頃、立冬は11月7日頃で、それぞれ、夏や秋、冬の実感は無い。特にまだもの凄い暑さの中で、 「立秋」 だと言われても、ピント外れである。
 しかしながら、暦が太陽暦ではなく、陰暦だとすると話は違って来る。二つの暦のずれは一ヶ月ではないが、仮に陰暦が太陽暦から約一ヶ月遅れているとしよう。すると、現在の2月は陰暦の1月になる。順に遅れるから、立夏は6月10日前後に、立秋は9月10日前後に、立冬は12月10日前後になる。これなら、今よりはずっと季節感に合う。大寒は2月20日前後になり、1月や2月は寒さのさなかであまり季節感に違いは無いから、十分に通用する。
 つまり、これは単に月の名前の呼び方がずれているだけの話である。執筆者の言う 「地球温暖化やヒートアイランド現象などの影響もあり」 ではない。それにそうであるなら、大寒などはなぜ季節感がぴったりと来るのか。今頃が初春でぴったりなのは、冬至を一ヶ月以上も過ぎて、日増しに日差しが伸びて、明るさも増して来るからだ。

 何でこんなとんちんかんな事を校閲部の記者たる者が言っているのか。多分、「 何月」 と言う呼び名に騙されるのだろう。立秋は8月10日前後なのではなく、陰暦では9月10日前後なのだ。
 二十四節気の中で、季節感ではなく、太陽と地球との関係で決まって来るのが、春分と秋分、夏至と冬至だ。これはずれる事が無い。だから昔は一年の始まりは冬至だった。立春は冬至から数えて何日目、と決まっているから、後に立春が季節感からも一年の始まりとされたのである。なお、陰暦は月の満ち欠けで計算するから、年によって日にちはずれる。
 季節を表していた二十四節気を季節とはずれている太陽暦に合わせているから、季節感が一致しないのは当然の事である。季節感では分かりにくくても、七夕を考えればすぐに分かる。七夕が梅雨のさなかの7月7日ではまことに具合が悪い。旧暦なら8月初旬になるから、空は晴れて、絶好の七夕になる。

 先に 「何月」 の呼び名に騙されると言った。本当にこれは難しい。私自身、これを書いていて、何度も混乱している。一番分かり易い例を挙げる。今日は1月29日だが、あと5日も過ぎれば立春である。その1日前が今年は旧1月1日になる。この日から 「睦月」 が始まるのである。
 これから順に季節を数えて行けば、春分は如月に、立夏は卯月に、大暑は水無月になる。この水無月を現在の6月と考えてしまうが、本当は現在の7月で、梅雨が明けて、かんかん照りになる。まさに 「水無月」 である。だからその下旬は当然に 「大暑」 であっておかしくはない。

 1月=睦月、12月=師走だから、いくら立春が正月だと言っても、睦月や師走の呼び方が現在の1月と12月の呼び方になっているのだから、その間の月の呼び方を変える訳には行かない。だから6月は梅雨で水がたっぷりとあるのにも拘らず、「水無月」 などと変な名前になってしまう。
 5月は 「旧暦の皐月 (さつき) 」、6月は 「旧暦の水無月」 などと言うからおかしくなる。 「旧暦」 と言うからには、それは現在よりも一ヶ月前後遅れている事をきちんとわきまえて言う必要があるはずだ。確かに 「皐月 」は正月から数えて5番目の月なのだが、立春が本来の正月との考えで行けば、季節からは、 「如月=正月」 になる。そうやって行くと、本当の季節で言うならば、5月は 「旧暦の5番目の月で呼び名は皐月」 となるのが正しい。だから 「さつき晴れ 」とは、本来は梅雨のさなかの晴れ間の事なのである。そして 「五月の晴天」 は本来は「ごがつ晴れ」と言う。
 繰り返しになるが、 旧暦の5月」 は、正月を1番目とするから5番目なのであって、その 「正月=一番目の月」 とは、自然の季節感から言えば 「=如月」 なのである。
 どうもよく分からないのだが、自然を表している陰暦の呼び方が、一部、単に順番とか 「全国の神様が出雲に集まって全国的には留守になるから、神無月と呼ぶ」 とか 「法師が読経に忙しく走り回るから師走と呼ぶ」 などと言う、自然とは離れた呼び方が入っているから、どうしても自然の季節とは合わなくなるらしい。
 「正月=1月」 とは暦の順番の事なのであって、季節の暦とは違う、と言う考え方をしない限り、陰暦と太陽暦のずれは分かりにくい。しつこいようだが、 「睦月・如月・弥生」 などと呼ぶ旧暦の月の名称は、自然の暦で考えれば、と言うか、天体の運行上からは、現在我々が 「2月・3月・4月」 と呼んでいる月になる。
 月の名前を数字で呼ぶから分かりにくいと言う事情もあると思う。欧米では月の名前と数とは関係が無い。特に9月を Septembre などと呼ぶ方式は、「sept=7」 であるからには数字の観念があるとはとても思えない。日本では7番目の月は 「陰暦の文月」 であって、それは本来順番とは関係が無かったはずである。単に睦月から数えれば7番目になると言うだけの事であって、それを我々は現在、 「文月=7月」 としてしまうから、話が複雑でややこしくなるのである。

 先に挙げたコラムの文章は、季節感を語っている限りにおいては正しい。けれども暦と季節感のずれを 「地球温暖化」 や 「ヒートアイランド現象」 などのせいにしてしまっている。少なくとも、陰暦と太陽暦とのずれである、との明確な発言は無い。その事に私は大きな不信感を持っている。