夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

学者の論理はなぜ筋が通らないのか

2011年01月27日 | 歴史
 表題の事は、当然ながら、私にもその内容が分かる事柄についてである。だから日本語とか古代史に関する事柄になる。古代史についても、私にも理解出来る説明での事になる。
 『古代日本七つの謎』 と言うタイトルの本を読んでいた。ずいぶん昔の話だが、千葉県市原市の稲荷台古墳から、短い銘文のある鉄剣が発見された。全12文字で、「王賜□□敬□」 「此廷□□□□」 とわずかしか読めない。でも、 「王賜」 とあるから、 「王が誰かに下賜した刀」 だろうと推察出来る。ここまではいい。
 さて、その王とは誰なのか。それをある学者は次のように言う。

 この銘文によって、この剣は大和朝廷の大王が、官の刀として、大王に従う市原市附近を治めた地方豪族に授けたものだと考えられる。

 何故に 「王」 が大和朝廷の大王だと決定出来るのか。だから当然にこうした考えに反対の考えもあって、この学者は次のようにも言う。

 銘文には 「王」 とあり、そこに 「大王」 と記されていないことから、王と自称した関東の大豪族が稲荷台一号墳の被葬者に鉄剣を与えたとする意見もある。     

 普通に考えれば、この考えの方がずっと筋が通ると思う。しかし、そうはならないのである。学者は続けて次のように言う。

 しかし、そこまで考える必要はない。奈良時代に、 「大王」 の語も 「王」 の語も 「オオキミ」 と読まれていることや、当時の関東の鉄器の多くが大和からもたらされたこと、埼玉県行田市の稲荷山古墳からも、乎獲居という豪族が。大和朝廷の大王に従ったことを示す銘文をもつ鉄剣が発見されていることから、 「王賜」 の鉄剣は大和朝廷が下賜したものであるとみるのが良い。

 上記の文章には多くの問題がある。
 一つは 「そこまで考える必要はない」 と断言している事である。もちろん、その理由は以下に述べているのだが、普通は 「何何だから、こうなる」 と言う論理の展開をする。 「何何だから、そこまで考える必要はない」 と言うような展開になる。それを、そうした原則を外して、まず先に断言してしまう。だから、その理由の追究はいい加減に終わる。
 第二に、確かに 「王」 は 「オオキミ」 と読まれている。そして我々はそうした人の名前を知っている。例えば最も有名なのは 「額田王」 だろう。けれども 「長屋王」 とか 「鏡王」 など 「おう」 と読まれる人々も含めて、 「王」 は「 大王」 つまりは後の天皇ではない。 「大王」 と 「王」 は違う。重要な身分上の違いを一緒くたにしては学問は成り立たない。
 第三に、関東の鉄剣の多くが大和からもたらされたとしても、この剣がそうである確証は無い。 「多くが」 なのだから、 「少なくは」 そうではない可能性は非常に高い。
 第四に、稲荷山古墳の 「乎獲居」 が大和朝廷の大王に従った、との証拠はどこにも無い。それは単に学者がそうだろうと推定しているだけに過ぎない。問題の鉄剣は 「ワカタキロ」 としか読めない銘文を、無理に 「ワカタケル」 と読んで、 「オオハツセワカタケ」 の名前である雄略天皇に当てはめているのである。雄略天皇は 「ワカタケル」 などと呼ばれた事は一度たりとも無いのにである。しかも百歩譲っても、 「ワカタケル」 と「 オオハツセワカタケ」 は同一人物にはならない。これは人にとって最も重要な個人の識別名称なのである。同じだと言うなら、古代史はめちゃくちゃになる。
 この第四の理屈が最も危険である。

 普通に常識で考えれば成り立たない理屈を持ち出して稲荷山古墳の鉄剣の持ち主が雄略天皇に従った豪族だ、と決め付けてしまう。そしてこの理屈は更に乱暴に暴れ始める。熊本県の古墳から出土した鉄剣はその銘文から、反正天皇が下賜したと結論付けている。 「蝮□□□歯大王 」と読める銘文で、 「蝮=タヂヒ」 「歯=ハ」 だから、これは 「タヂヒミヤミズハ」 大王だと言うのである。しかし 「歯」 は実は 「鹵」 であって、これは 「ロ」 としか読めないらしい。それを 「ミズハ」 としたいがために無理を承知で「 歯」 と読んでいたのである。
 しかも3文字は完全に読めないのである。5文字の内、わずか1文字だけで 「タヂヒミヤミズハ」 が成立して反正天皇になってしまう。どこかの検察よりもずっと恐ろしいでっち上げである。
 更には、稲荷山古墳の鉄剣の銘文の 「獲加多支鹵」 は 「ワカタキロ」 としか読めないと言いながら、 「ワカタケル」 と無理に読んで、 「蝮□□□歯」 の 「蝮」 を 「獲」 に直し、 「歯」 を元の 「鹵」 に戻して、今度は 「雄略天皇」 だと言うのである。読めない3文字を、以前は 「宮彌都 (みやみず) 」と推定していたのを、今度は 「加多支」 を嵌め込んでいる。
 本当にこんな無理が通れば、黒は白になる。
 都を遠く離れた東西から雄略天皇の名前のある鉄剣が出土したから、雄略天皇は日本列島を広く治めていたのだ、との理屈が生まれてしまうのである。

 こうした馬鹿馬鹿しい理屈が大手を振って通っているのには、もちろんはっきりとした理由がある。大和朝廷が日本全国を統治していたのだ、と思い込んでいるのである。だから何とかして天皇 (当時は大王) の名前に結び付けたいと必死の、それこそなりふり構わずのみっともない理屈を振りかざすのである。
 そんな、小学生にも分かるような屁理屈をこねないで、素直にそのまま銘文を読んだらどうなのか、と思う。自分達の知らない名前の大王が、あるいは銘文が欠けていて読めない大王が埼玉県や熊本県に居て、配下の豪族に剣を下賜したと考えれば良いのである。素直ですっきりとした解釈になる。そこから、新たな古代史の視点が開けるはずである。

 一つの妄想が更に妄想を生み、でも、最初の妄想が妄想ではないと勝手に決め付けているから、次々と妄想は 「真実」 になってしまう。こうした学者の体質は枚挙にいとまが無い。
 『古代日本七つの謎』 に、天皇陵の話がある。

 中尾山古墳も 『大和志』 が文武陵に擬していたものであり、火葬墓と考えられるその内部構造も、文武を火葬したとする 『続日本紀』 の記載と一致し、文武陵の可能性が大きい。

 火葬墓と考えられるその内部構造が 『続日本紀』 の記事と一致していると言う。歴史書に内部構造が書かれている例を私はあまり見ていないが、それは私が無知なだけだから、 『続日本紀』 の文武天皇の巻を読んでみた。

 慶雲4年 (707) 6月15日、天皇が崩御した。遺詔して哀悼の声を発する拳哀の儀礼は三日間、喪服を着けるのは一ヶ月とした。親王や官吏に殯宮での行事に仕えさせ、拳哀と喪服の着用は、もっぱら遺詔のとおり行わせた。初七日から七七日まで、大官・薬師・元興・弘福の四大寺で斎会を行わせるようにした。
 10月3日、親王や官吏達を御竃を造る司に任じ、別の官吏達を山陵を造る司に任じ、王と官吏を喪儀の装束を調える司に任じた。
 11月12日、飛鳥の岡で火葬した。
 11月20日、檜隈の安古の山陵に葬り申し上げた。

 以上、儀式の事はかなり細かく書かれているのに、山陵の事は上の事だけである。つまり、 「火葬墓と考えられるその内部構造」 は 「文武を火葬したとする 『続日本紀』 の記載」 には無い。崩御以前の記事は読んでいないが、崩御の前に山陵の事を書くだろうか。
 古墳の内部構造が一致していると言われれば、従わざるを得ない。ところが、とんでもない。 「文武天皇を火葬して山陵に葬った」 と 「山陵は火葬した遺骨を納めてあった」 が一致しているだけなのである。これを普通はペテン師と呼ぶ。

 古墳に関してはまだある。上記の本に次のようにある。文章は長いのを分かり易く短くまとめてある。

 7世紀中葉から8世紀初めにかけて、大王墓として、近畿地方に八角形の平面を持つ八角墳が出現する。そして墓が特定出来ない天皇が何人か居る。それらの古墳のほかにはその地域には7世紀の大王陵と考えられるような古墳は見られないところから、天皇陵である蓋然性はきわめて大きい。このことは、7世紀中葉以降、即位した大王にのみ固有の墓、すなわち 「陵」 として、八角墳が創出されたことを示すものであり、また逆に、これらの八角墳が7世紀中葉以降の各天皇陵にほかならないことを傍証するものといえよう。

 八角墳を天皇陵だと推定するのは良い。○○天皇の墓として名前は分かっているのだが、場所が特定出来ない。でもそうした八角墳をそれに当てなければ、ほかには天皇陵に該当する物が無い。だからこの理屈は通る。しかし、八角墳以外を天皇陵にした可能性は皆無なのか、との疑問はある。更には、天皇陵以外に八角墳にした人物は居ないのか、との疑問もある。歴史的にはこれしか無いからと考えるのだろうが、我々の知らない歴史上の事実が無いと断言は出来ない。 「また逆に」 の論理が納得行かない。

 ある学者は 『日本書紀』 の理解不能な記事と、ある別の事柄を、ほんのわずかな類似点を使って強引に結び付けて、その理解不能な箇所はこのように解釈するのだ、と勝手に決め付ける。そしてその記事を今度は別の事柄の証拠として使う。そして、こうした事から、 『日本書紀』 の今まで読めなかった部分が読めるようになる、と断言している。
 『日本書紀』 には色々と不可解な事がある。それなのに、それを元にして古代史を読み解き、その読み解きを事実だとする事で、今度は 『日本書紀』 の別の不可解な部分を解明出来るのだ、と言うのである。
 本当にどうしたらこんないい加減な考え方が出来るのか、非常に不思議だ。分かり易く言うなら、これでは冤罪は絶対に無くならない。