夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

政党や政治家の能力が不足している、とのコラムがよく分からない

2011年01月30日 | 政治問題
 東京新聞のコラム 「筆洗」 が面白い事を書いている。政治制度には想定されたレベルがある、との話である。

 (二院制では) 衆院で過半数をとった勢力が参院で過半数を得られない 「ねじれ」 になることも当然ある。だから、たとえ、そうなっても対立を議論で乗り越えることができるレベルの政党や政治家が国会にいる、というのが前提である。

 まさに正論である。ただ、その次が私にはよく分からない。

  一つの勢力が両院を制す「まっすぐ」の時しか機能しないなら、二院制は、わが国の政治には高級すぎることになる。

  「一つの勢力が両院を制する時しか機能しない」 と言うのは、一つの勢力が両院で過半数を得て、「ねじれ」 は無いのだから、当然に対立を議論で乗り越える必要は無い。従って、それを乗り越える事が出来るレベルの政党や政治家も必要にはならない。
 だから、「こうした時だけしか二院制が機能しないなら、その政治は高級すぎる」 とはならないはずである。「過半数をとる」 と言う事は、現状の国会では、「問答無用」 で議案が通る、との事である。従って、過半数で問答無用である場合にも、「対立を議論で乗り越える事の出来るレベル」 が必要となれば、それは 「高級すぎる」 事になる、と言うらしい。
 しかし、そうでもないらしい。と言うのは、「一つの勢力が両院を制す時しか機能しないなら」 と言っている。普通はそのようには言わない。「一つの勢力が両院を制す時にも機能するなら」 と言う。本当は問答無用なのに、議論を戦わすのだから、「高級すぎる」 事になる。当然、それは日本ではあり得ない、との見解である。
 「議論」 は「 対立を乗り越える」 ためにされる訳だから、「対立」 はあるにしても、「乗り越えるとか乗り越えられない」 などと言う情況には無いはずなのだが、それは大目に見よう。

 結局、コラムは、「ねじれ」 で対立が起きても、議論で乗り越える事の出来るレベルの政党や政治家を前提としているから、二院制は成り立っているのだ、と言っているのである。だからもしもこれが一院制だったら、どうなるのか。一院制に 「ねじれ」 は無い。それは当然に一つの勢力が制するか、同じような勢力のどちらかになる。同じような勢力の場合、「高級なレベル」 の政党や政治家が存在するなら、「議論で乗り越えられる」。 ところが、コラムはそうは言わない。「高級すぎる」 と言ったそのすぐ後に、次の文章が続く。

 それでも、一院ではやはり心配、第二院は必要だとなると、今度は、国民の投票の 〝自由〟 が損なわれる。 「ねじれ」 ると、即、行き詰まるのだから、注意して、衆院で勝たせた勢力を、嫌でも参院で勝たせなければならなくなる。もう与党にノーも言えぬ…。そうならないための策は一つ。政党や政治家が制度の想定に沿う能力を見せることだ。

 これもよく分からない。過半数で制する場合には、一院制と 「ねじれ」 の無い二院制は同じになる。二院制で 「ねじれ」 がある場合のみ、過半数の勢力同士の議論が対立する。そして、コラムは明確に対立があるのが理想的だと言っている。それを議論で乗り越えるからこそ、そこに知恵が生まれる訳で、それは正しい。
 「一院制では心配で、二院制が必要だ」 と言うのは、過半数で制するのは駄目だ、と言う事になる。二院制、それも 「ねじれ」 のある必要がある。
 しかしながら、コラムはそうも言わない。「ねじれ」 が即、行き詰まりなのだから、「ねじれ」 は駄目だ、と国民が言っていると言う。「ねじれ」 ないためには、一つの勢力が過半数をとるしか無い。それがコラムの言う「 国民の投票の自由が損なわれる」 になるはずである。
 だから、そうしないためにも、「ねじれ」 は必要で、それには二院制が必要で、国民の自由な投票が必要で、つまりは現状のままで良い、と言っている。しかしそこに政党や政治家の能力が伴って来ないのである。それこそが、このコラムの言いたい事なのである。それが 「政党や政治家が制度の想定に沿う能力を見せることだ」 の結論になる。

 こうして色々と考えて分かったのは、コラムは結論として現在の政党や政治家の、相手と議論を戦わせて国民の求めている理想的な政治をしよう、と言う能力が欠けている、と言いたい。それを理想的に出来るのが、二院制で 「ねじれ」 がある場合だ、と言いたい。政党や政治家が制度の想定に沿う能力を見せる事を前提と考えているのだから、そうである。
 そこに、何かよく分からない例を持ち出して来た。だから、その例をじっくりと考えると、何が何やら分からなくなるのである。コラムは野球で、投手からホームベースまでの距離は案外と遠く、幼稚園児が投げるのが前提なら、そんな規則にはしない、との話から始まっている。ボールが届かなくてはゲームにならない。それと同じなのが政治制度だ、と。
 そして結論は、ちゃんとホームに届く球を投げて、決して幼稚園児ではない事を証明して欲しい、と結んでいる。これらの話はとてもよく分かる。途中をざっと読み飛ばせば、とてもよく分かる有意義な話である。だから、途中で戸惑ってしまった私が悪いのかも知れないが、私は先の文章を筋が通るように読む能力が欠けているのである。でも案外と、私の能力不足ではなく、コラム執筆者の能力不足かも知れない、などと考えているのである。

 それにしても、国会の様子を見る限り、政党と政治家の馬鹿な事、自分勝手な事、下品な事、どれを取っても政治制度に沿う能力など見られない。彼等を選んだのは我々国民なんだから、国民も同じレベルなのか。でも国民はもう少し馬鹿でも自分勝手でも下品でもないと思うのだけど。