おっさん先生と愉快な仲間のぶろぐ

先生って楽しい仕事だと思い続けることができたしあわせな爺っさまのつぶやきです。

情報を切り取る力

2012-09-02 14:28:24 | Weblog
夏休みに考えてみました。

 たくさんの情報から
「自分の意図する論を展開するために」必要とする情報を集めて再構成をすることを「情報を切り取る力」と僕は規定しています。

小学校という段階においては 「自分の意図する論を展開するために、
必要か否かという判断」ができないといけないということになるわけです。

 ただ注意しなくてはいけないのは、
「普遍的な真実か否か」といった「真偽の判断」と
混同される場合があるように思います。

最近は小学校の段階における情報リテラシーの能力として
「情報の真偽を判断できる力」を掲げることには、
無理があるようにも思えるのです。

 大人たちでさえ、
それが身についているとは思えないという現実があるからです。

 だから、子どもたちには
「自分の目で見た事実」
「自分が何かを作り上げる中で感じた感覚」など
「はじめて」出会ったものから情報を再構築することを教えてきました。

 目の前にあるあふれるような情報から
「正しいもの」を取捨選択することだけに
あくせくすることは、なぜか悲しい気がします。

 そのために最低限、どのくらいの操作スキルが必要なのかは、
確かに明らかにはなっていないと思いますが、
現実として機器を与えればそれだけで
一定の操作スキルは子どもたちが自然に獲得してきました。

 僕が問題にしたかったのは
環境整備と操作スキルの獲得という問題ではなく、
「今見える情報の中からしか答えを見いだそうとしない子どもたち」がいませんかっていうことなのです。

 小学校においては「常に正しい答えの出る教科」と
「子どもたちの創造的な考えを求める教科」があるように思います。

 たとえば国語の授業で教師が「常に正しい答え」を持って、
一問一答式の授業を展開したら、味気ない授業になってしまうだろうし、
かといって教師が「考える方向性を示さずに」、
自分たちで考えなさいという授業を構成すれば、
間延びした時間だけを費やす授業になるでしょう。

「答えを見つけさすこと」
「考えさせること」は意外と難しいのです。

「答えを教えること」
「考え方を教えること」は意外とたやすいことのように思えます。

 教師の授業の構成力と
子どもたちの「情報活用能力」や「情報リテラシー」が
「よい授業をつくる」という仮説は
理解できるのですが、
その検証においてはこれからなのだろうなというのが実感です。

 僕なりのまとめとして
 「情報というのは自分の手で作り上げていくものだ」という考え方がある
ということに気づいてほしい。

そのあたりが小学校の情報教育で目指す点ではないでしょうか。
 

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