おっさん先生と愉快な仲間のぶろぐ

先生って楽しい仕事だと思い続けることができたしあわせな爺っさまのつぶやきです。

プチ同窓会

2010-12-16 17:47:30 | Weblog
母校で久方ぶりのプチ同窓会をやっていたのですが、
そこでかしましいおば様たち
(大先輩という言葉を使うと顔をゆがめる方たちです。)から
「あなたが若い子たちに語れるのは
大学生活をいかに要領よくさぼり楽しむかだけのはずだ」という
ご指摘をいただきました。

「迷惑ばかり母校にかけてきたのだからせめて、セミナーなんか
それぐらいの罪滅ぼしは当然だろう」等々
昔の仲間は「恩返し」という言葉さえ、僕に使わせてはくれませんが、
母校で僕が後輩たちに話をすることをみんな、喜んでくれていました。

さて、後輩たちとの出会いは、みんなしっかりしていて、自分を振り返ると
恥ずかしさがこみ上げてきました。僕の若い頃は休日の朝から学ぶことを
目的に大学に通った覚えが、ありません。
仲間と遊ぶことに精いっぱいの毎日を過ごしていたように思います。

彼らとの出会いで考えたことは二つに集約されると思います。

ボランティアとしての教師との関わり方(教師となったときの
同僚や先輩との関わり方)と自分が理解できない子供と関わるための自己変革の方途。

二つともそれぞれ、重い課題だと思います。

彼らが求める答えは
たぶんソーシャルスキルトレーニングの解説に書いてあるような文章や
人間関係作りのハウツー本に書いてあるようなことなのだとは思うのですが、
僕がいえたのは「あなたが友達や大切にしている人とのと関わり中に
その答えがあるのではないですか?もう一度見直してください」
「そうすれば、あなたたちの人間性を磨く大きなヒントがそこにあるのではないですか?」
ってことだけのように思います。

今の若者たちは「孤立している」ということにすら
気づいていないのでしょうか?

それとも気づいていても「どうしようもない」とあきらめることしかできないのかな?
と、ふっと思ったのですが、「今の若者・・」で続くフレーズを
語ろうとする自分の老いに気づきました。

人との関わりのスキルや配慮のスキルは
「いろいろな人と関わろうとする中でしか、鍛えられない」と思うのです・・。

そうしようと思う意欲がでるかどうかはそれぞれの問題だと思ってしまいます。

人との関わりに「気を遣い」「気にしている」ということに、なにか違和感を感じました。

数年前に企業からの離職が問題になったとき離職理由の上位に「上司や同僚との人間関係」
というのがあったことを奇異な目で見ていたのですが教育の現場でも大きな問題として
とらえなければならない時代になってきたように思います。

もう一つポジティブに生きるにはどうしたらいいかという哲学的な問いかけに
どう答えてればいいのか・・。

今までの自分自身の生き方を否定するつもりはないのですが、
それだけではない生き方をしている子供たちもいるよ
っていうことを知っているよって伝えたかったのですが、
今までの自分を否定しなければならないという風にとらえてしまうと困るし・・。

アウフハーベンという言葉が頭に浮かぶのですがうまく説明できません。
「あなた達の生き方はone of themなのですよっていうことに気づくことが
必要だと思っています」ですか。

まじめに一生懸命に先生になろうとしていると
杓子定規に「人間性」という言葉を受け止めてしまう場合があるようです。

人生を楽しめばおのずから人間性は深まる、
なんて気軽に考えることは難しいのかもしれませんね。

悲しみも苦しみも楽しめるほどの境地にはまだまだなれませんが、
まず現実を受け入れて前向きに生きていこうとするなら、
けっこう人生って楽しめるものじゃないかなって、
最近思うようになったのですが、どうでしょう。

結局 どんな生き方をしてきてても子供が好きで、
子供といることが楽しい人はきっと
いい先生になれるって思っています。
コメント
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