おっさん先生と愉快な仲間のぶろぐ

先生って楽しい仕事だと思い続けることができたしあわせな爺っさまのつぶやきです。

学校神話の崩壊??

2007-12-25 21:48:43 | Weblog
学校神話が崩壊とか
教員の権威の低下とか
マスコミで叫ばれているけど
どうなんだろう。

日本人にとって教育は
ある種の信仰だったのではないだろうか。

こんなことを書けば誤解されそうだけど、
学校に行かせておけば何とかなるという共同幻想かな。

武士道や町民、農民の心得なるものは
藩学や寺子屋と呼ばれる「学校もどきのもの」と
「寺」が担ってきた。

こうした建物でその時代を生きていくための精神性と知識や
技能が師匠や師範と呼ばれる人たちによって教え込むというスタイルが定着してきた。

明治の学制になっても「武士道」が
「神道とか天皇制とか」呼ばれるものに替わっただけで
その時代を生きていくための精神性と知識や技能が
師匠や師範と呼ばれる人たちによって教え込むというスタイルは
変わらなかったのではないだろうか。

戦争が終わり「神道とか天皇制とか」いうものの替わりに
「学歴」が信仰の対象となった時代が始まったではないだろうか。

ただそれまでの時代とは違い、
そこに「精神性」は必要ないものとされたのではないだろうか。

教師自身においても、こどもたちにおいても。あいかわらず「忍耐と努力」は必要だったけど・・。

 ただ教師は教師としての誇りに生き、
親たちはそうした教師の姿勢に尊敬を払っていた。
そんな時代が昭和の頃まで続いていたような気がする。

今、平成の時代になって何かが変わった。

意識の変容は教師だけではないのも確かだと思う。
子育てに悩む親たちが増えているのではと言う危惧もあるし
新聞紙上に見られる「しつけのできない親たち」という指摘も
あながちはずれているわけではないようにも思える。

教育評論家や教育学者の中には企業並みのサービスを要求する人たちもいるが
企業並みの設備投資や先行投資を教育現場に行えという人は少ない。

公教育であるから金をかけずに教師の努力だけで補えと言う主張には、うなずきがたいものがある。
更に、こうした論議が教育現場を離れて政治の世界で語られていることにも、
何かむなしさを感じてしまう。

規範となるべき「精神性」を欠如したままの
戦後の教育は60年の年月を経て、今見直すべきだとの声が上がっている。

果たして何を見直すべきなのだろうか?
指導方法なのだろうか、
教師の資質なのだろうか、
教育システム全体なのだろうか・・。

意外とそんな大げさなものではなく、
目の前のこの子を大切に育てたいという
みんなのモチベーションをどう高めるかが課題のような気がする。
コメント
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