既に日付が変わってから三、四時間になるが、今日は色々あって水曜のベトナム戦争関連の発表に力を注いだ故それを貼って終わりとする。
・傀儡とか侵略とかそういう用語は歴史を見る面で無意味なんだぜ?
・「ベトナム共和国だとかベトナム民主共和国とかどっちが北でどっちが南だ!」
(´・ω・`)つ|「ベトナム民主共和国=北」「ベトナム国、ベトナム共和国=南」|
民主がついてりゃ北、それ以外は南だとでも思いねぇ
ベトナム戦争関連概略年表
近代以前
ベトナムには色んな王国が作られては他民族の侵入によって滅びてきた。実は中華王朝の支配下にあった期間が長く、結構最近まで(フランス支配まで)漢字文化を使っており、清王朝末期でも清皇帝のお墨付きは結構な権威を得ていたぐらい。
19世紀終盤
フランスがインドシナ半島(今で言うラオス、カンボジア、ベトナム)を植民地化する。これがいわゆる仏領印度支那。印度~支那の半島の仏領植民地だから『仏領』『印度』『支那』。
フランス文化が浸透し、公用語がフランス語になる時代にもなってくるとベトナム人有産階級がフランスに留学したりする事も出てくる。北ベトナムの親玉ホーチミンもフランスに留学し、(ロシア式)共産主義にかぶれる。と言うか、染まる。
第一次世界大戦(1914~1918)
インド等他の植民地と同じく、欧州での戦争に多くの人民が狩り出される。終戦後、世界での民族自決や国民国家の気運(まー要は「俺達を植民地支配から解放させろ」「独立させろ」つー事)が高まったが、ベトナムも同じく。
が、白人様がイエローモンキーにんな事許す訳がないのであって、華麗にスルーされる。
仏印進駐/ベトナム独立同盟成立(1940/1941)
ドイツの攻撃でフランス崩壊、親独のヴィシー政権が立てられる。当時支那事変でいわゆる援蒋ルート(英米の中国共産党、中国国民党への支援ルート)に著しく悩まされてた日本はこれの遮断の為ヴィシー政権の承認を得て仏領印度支那へ進駐。翌年、ヴィシー政権との交渉の末南部仏印進駐、ベトナム全体に広がっていく事になる。ちなみにこの仏印進駐が日米決裂の決定打の一つ(要はこれだけが理由じゃないって事)になる。
1941年、つまり南部仏印進駐の年にホー・チ・ミンが音頭を取ってベトミン(ベトナム独立同盟)が成立。抗仏闘争を開始。また、当時の日本は資本主義と全体主義と民主主義を足して三で割った様な状況だから、共産主義者のホー・チ・ミンは当然これを認めず、抗日闘争も開始する。この戦争での日本占領地では珍しく大規模な反日闘争が繰り広げられる。
※世間はヴィシー政権をヒトラーの傀儡だ傀儡だて五月蝿いけど、結構ヒトラーと渡り合ってたり、微妙に地下抵抗運動を助けたりもしてる。まぁ頑張った割に国民に認めてもらえず首相だったペタンさんは戦後獄死するんだが。悲惨
※当時の日本を単純に軍国主義と断じるのは間違い。北進だ南進だ三国同盟だ三国同盟破棄だ日ソ中立だ中立破棄だ英米不可分だ可分だ日米非戦だ日米必戦だとゴタゴタゴタゴタゴタゴタゴタゴタし続けていった結果気付いたら戦争になってた、というのが正しい
一瞬で終わった独立(1945)
3月、ヴィシー政権消滅に伴い、『日本がフランスの許可を得て仏印を借りる』という形が消滅する。ベトナムは日本の後ろ盾を得てベトナム帝国として独立を宣言する。が、当然の成り行きとして日本の敗北とともにベトナム帝国は崩壊する。ちなみに他の地域もこの時期に結構独立してたりする。
ベトナム帝国は日本の旗色が悪かった時期に独立した為、連合軍の空襲を受ける上にこの年は飢饉。後ろ盾の日本がどうしようもないんじゃベトナム帝国は更にどうしようもなく、食料移動も滞って餓死者続出、ベトナム帝国は求心力を失う。ベトナム帝国は特に何か悪い事をした訳ではないが、何か嫌な事があれば政府に反発するのが民衆の常。
八月革命(1945)
八月十三日、ベトナム独立同盟のホー・チ・ミンは全国一斉蜂起を指令。各地で民衆が蜂起し、十五日には頼みの日本軍も降伏で戦闘停止。求心力を既に失っていたベトナム帝国は日本の後ろ盾すらも失い、半月で瓦解する。八月二十六日ホー・チ・ミンがハノイに入り、九月二日、ベトナム民主共和国の独立を宣言した。
日本が降伏し、フランスがまだ復帰していない空白の時間をついてベトナム革命は成功した形になる。(共産主義者が頭張ってるのになんで民主共和国なのかとか思ったそこの君。北朝鮮だって名前は朝鮮民主主義人民共和国なんだぜ?)
冷戦とその代理戦争の幕開け 第一次インドシナ戦争(1946~1954)
第二次世界大戦終結は戦争の終わりであると同時に冷戦の幕開けでもある。ベトナム民主共和国成立当初こそこれの存在を黙認する形を取ったフランスだが、自由主義陣営に属するフランスが共産主義国家を承認し誕生させる訳が無い。ベトナムを独立させるにしても、最低限自由主義陣営に属してもらう必要がある。
1946年12月、本格的な戦闘が始まる。翌年一杯、平野部での戦闘はフランスの圧勝に終わるが、ベトナム民主共和国軍は山岳地へ撤退、非正規戦(ゲリラ戦)を展開、フランスは苦しむ。同時にフランスはコーチシナ共和国やベトナム国の樹立、ラオス及びカンボジアの独立などでベトナム人民の支持を得ようとするが、当然の如く悉くそっぽを向かれる。
1949年10月、支那では国共内戦が終わり中華人民共和国が誕生。同じ共産主義国家という事でベトナム民主共和国への援助が始まる。これに対抗しアメリカがベトナム国、及びラオス、カンボジア(一応親自由主義陣営)に援助を開始。ベトナム人自体は単純に独立戦争を戦ってるつもりでも、世界的には冷戦の代理戦争と化していく。が、1950年に朝鮮戦争が始まり、自由主義陣営も共産主義陣営もそっちに戦力を集中した為フランスは一人でベトナム、ひいてはインドシナ全体をどうにかせざるを得なくなる。
1954年、フランスは何を血迷ったかこの御時勢に軍事要塞でベトナム民主共和国に対抗。5月にディエンビエンフー要塞は陥落する。つまりボロ負け。フランス人よ、ドイツに要塞戦挑んで一ヶ月ぐらいで国家崩壊までいったのにちょっとは懲りないのか。
注目すべきは、フランスが非正規戦ではなく正面からの戦いで負けた事。ベトコンはゲリラ戦がお家芸とは言え、実際には真正面からの戦争にもそれなりに強い。米軍や仏軍は第二次大戦みたいな平野での戦争に最適な軍隊を構築した為、ベトナムみたいな熱帯雨林みたいな地域での戦争は不得意なのだ。これが後のベトナム戦争で響いてくる。
ディビエンフーで惨敗した後、フランスは和平交渉を開始し、1954年、ベトナム民主共和国の成立が正式に承認される。が、ベトナム民主共和国がベトナム全土を治める事で共産主義がラオスやカンボジアに伝播する事を恐れ、北緯十七度線から南をベトナム国を自由主義側として残し、北緯十七度線から北がベトナム民主共和国の領土になる。
尚、この後フランスはアフリカの植民地で色々と面倒な事になり、アメリカにベトナム国の管理を委託する。1955年、ベトナム共和国が成立する。
整理:
・ベトナム民主共和国=ベトナム人が作ったベトナム人の為の国家。但し共産主義
・ベトナム共和国=米仏の支援を受けた自由主義陣営の為の国家
要は、ベトナム民主共和国が共産主義ってのがネック。そうじゃなければここまで面倒な事にならなかったんだろうけどねぇ…
ベトナム共和国紆余曲折(1954~1965)
1954年、ゴ・ディン・ジエムはベトナム国の首相に就任する。更に翌年、国家元首バオ・ダイを国民投票で辞任に追い込み、ベトナム共和国を誕生させ、選挙で選ばれ初代大統領に就任する。が、この選挙、ジエムの得票数が有権者の数を越えている。つまりどうみても不正選挙。ちなみにこの選挙ではCIAの協力を得ていた様だが、本人自身は同じ『反共』仲間のアメリカの後ろ盾を得ているといった感じだったらしく、アメリカの言いなりではなかったらしい。ただ、ジエムは政治の才能が無かったらしい。数々の失政、恐怖政治に加えて、仏教徒僧侶が抗議の焼身自殺を遂げた際、夫人の「僧侶のバーベキュー」という大変ブラックユーモアに溢れた言葉が世間に流れるのを止めもしない有様。「流石にこれはねーよなぁ」とばかりにアメリカにも見捨てられ、presented
byケネディ大統領&CIAのクーデターで抹殺される。これが1963年。
さて、クーデターで政権を握ったズオン・バン・ミーさんは失政を犯し、1946年1月には亡命。その後1965年にグエン・カオ・キが首相に、グエン・バン・チューが国家元首に就任し実権を握るまでの約2年間の間に13回もクーデターが繰り返される何とも言えないアレな経過を辿る。これのせいで、ベトナム共和国軍はヘタレで弱くてどうしようもなくなる。
と、言うのも。政府高官が、たとえ戦争をやっていても軍事クーデターによる地位獲得競争とその阻止に力を注ぎ、またクーデター阻止もしくは実行の為、首都サイゴンに自軍の精鋭部隊の多くを駐留させた。この為、アメリカがいくら軍事援助をしてもベトナム共和国軍の戦闘力が強化されず、また士気も上がらない。この駄目で駄目で駄目で駄目な状況はベトナム戦争中どころか、アメリカ撤退後、そしてベトナム共和国崩壊の日まで続く。
ところで。ベトナム共和国は普通に、今の日本の様に存在していた訳ではない。1960年、つまりジエム生前、南ベトナム解放民族戦線(NFL、ベトコンともいう)が結成され、南北統一に向けての闘争を開始する。これはベトナム民主共和国の指揮下にある組織。つまり共産主義者主導。しかし、ベトナムを政治の道具にしてる西側東側諸国が許せず、ベトナムの真の独立を願った自由主義者といった連中も結構多く参加していた。よって一概に共産主義者とも言えないが、立ち回りは共産主義者そのもの。NFLは南ベトナム各所で非正規戦を展開。又、ベトナム民主共和国との小競り合いも続き、事実上の内戦状態にあった。
さて。1955年、ベトナム共和国誕生時のアメリカ大統領はアイゼンハワー。軍事物資の支給やアメリカ軍の「軍事顧問」のベトナム共和国軍への派遣がメイン。武力介入はしていない(あくまで両ベトナム軍の戦闘は『ベトナムの内戦』的な扱いを受けているから口実が無いとできない)。
1961年ケネディが大統領になるが、同じ方針をとる。しかしあまりにベトナム共和国軍がヘタレで弱くてどうしようもない為、軍事顧問団を大幅に増強する。しかしケネディは途中で諦めた気配で、軍事顧問団の引き上げ計画を秘密裏に発動。これと平行して例のジエムを抹殺するが、直後に自分も暗殺された上、引き上げ計画自体も秘密計画だった為軍事顧問団引き上げは頓挫する。
整理:
1955年 ジエムによりベトナム共和国成立。成立以後も北との小競り合いは続く
1960年 南ベトナム解放民族戦線結成。ベトナム共和国内での戦闘も本格化する
1961年 ベトナム共和国軍が余りにヘタレで見るに見かねたケネディが本格介入決定
1963年 ジエム、天に召される。直後にケネディも天に召される
以後、国内では政権争いが激化、クーデターが繰り返される
1965年 ベトナム共和国内でのクーデターの頻発がさしあたり収まる
ベトナム戦争(1964~
アメリカではケネディ暗殺後リンドン・ジョンソンが大統領に就任する。ジョンソンは武力介入も辞さずにベトナムに介入する政策を進める。1964年例のトンキン湾事件を仕組み、口実を設けて武力介入を開始する。ベトナム戦争の本格的な開始。
ベトナム戦争TIPS
・非正規戦
いわゆるゲリラ戦。本来、と言うか、近現代の戦争では民間人は撃っちゃいけない事になっている。民間人と戦闘員(つまり軍人)の見分けは服。普通の服なら民間人、軍服や迷彩服を着ていたら戦闘員。逆に言うと、民間人の格好で戦闘を行うと民間人と戦闘員の見分けがつかなくなる。この為、民間人の格好で戦闘する行為はその場で死刑と国際法でも定められている。見分けがつかないと普通の民間人がとばっちりを受けるしな。
これを逆用するのが非正規戦のキモの一つ。民間人の格好で戦闘を仕掛けたり、無害な民間人を装って接近して奇襲したり。これをやられると、非正規兵(ゲリラ兵、便衣兵)が例え1人であろうとも、100人の普通の民間人の群れに潜んでしまえば、普通の軍隊にとって大きな負担になる。見分けがつかないからどいつが非正規兵でどいつが普通の民間人なのかいちいちチェックしなきゃならないから。
・自分の国の村を襲う
前述の非正規戦を更に大規模にする為に行う、共産主義国家の基本戦法。やり方は簡単。どちら側にもついていない村(ベトナムの場合は北軍にも南軍にも協力していない村)に武装して押しかけ、協力を要請(強要)する。拒否されたら皆殺し。で、皆殺しは嫌だから村人は協力する訳だが、戦争で軍服着てなきゃいけない事なんてそこらの村人は知らないから非正規兵として戦闘する。こうして非正規戦は無限に拡大していく。当然、米軍も村焼き討ち等をやらない事には戦争が進まないという状況になってしまう。
ちなみに北ベトナムは南併合後大粛清とかもやっている。ニクいほどに共産主義国家の立ち回りの基本に忠実。是非とも真似する国家がこれ以上増えない事を願うばかりである。
・ベトコンの虐殺行為と米軍の虐殺行為
ベトコンの虐殺行為はニュースにならないが米軍の虐殺行為はニュースになる。よって米軍の虐殺行為ばかりがクローズアップされ、そのせいで罪のないベトナム帰還兵は白い目で見られ、就職もできず、社会の底辺層として生きていく事を余儀なくされる。悲惨。
・情報戦
戦争じゃ勝てないなら情報戦で勝つ。政治で勝つ。
ベトナム国内からアメリカ、更には西側諸国では『ベトナム人の事はベトナム人自身で解決するべきである』という事でアメリカの介入を批判する反戦運動が大々的に行われた。これも当然と言えば当然ながら共産主義国家の基本戦法な訳で、ソ連やベトナム民主共和国が後ろで糸を引いていた。アメリカは国内の反発を相手にしながら戦争してた訳で、これでは勝てるものも勝てない。
結局、アメリカは苦戦しながらも軍事的には悉く勝ち続ける。が、軍事的には南ベトナム解放戦線の大敗北に終わったテト攻勢も、南ベトナム解放戦線がサイゴンのアメリカ大使館を一時占拠し、その一部始終をアメリカ全土へ生中継してアメリカ国民に大ショックを与えたり、常に政治的には負け続けた。
最終的に国内の反戦運動を捌ききれなくなったアメリカはベトナム民主共和国と講和、撤退する。この時の話を『傭兵部隊』でインタビューを受けた元空軍のデーナ・ドレンコスキーは「私の幻滅が決定的になったのは、あのクリスマス爆撃がキッカケだった」「敵の衰弱は手に取るように明らかだった。最早F-4がB-52Dを護衛する必要すらなくなっていた。あと一撃加えればとどめとなるのは確実だった」と語った上で、「それまでパリでの和平会談継続を拒否していた北ベトナムが再開を希望してきたため、ワシントンから急遽爆撃中止の命令が出された」「北が会談再開を希望した事自体、それまでの北爆がいかに効果的だったかを物語っているではないか。敵は瀕死の重傷だったのだ。あと一撃、あと一撃くらわせば、敵は完全にアウトだった。そのチャンスをワシントンは政治的配慮とやらのためにみすみす逃してしまった」「政府は勝つつもりのない戦争を我々に押し付けていたわけだ。それをアメリカ軍は忠実に実行していた」と語っている。
・傀儡とか侵略とかそういう用語は歴史を見る面で無意味なんだぜ?
・「ベトナム共和国だとかベトナム民主共和国とかどっちが北でどっちが南だ!」
(´・ω・`)つ|「ベトナム民主共和国=北」「ベトナム国、ベトナム共和国=南」|
民主がついてりゃ北、それ以外は南だとでも思いねぇ
ベトナム戦争関連概略年表
近代以前
ベトナムには色んな王国が作られては他民族の侵入によって滅びてきた。実は中華王朝の支配下にあった期間が長く、結構最近まで(フランス支配まで)漢字文化を使っており、清王朝末期でも清皇帝のお墨付きは結構な権威を得ていたぐらい。
19世紀終盤
フランスがインドシナ半島(今で言うラオス、カンボジア、ベトナム)を植民地化する。これがいわゆる仏領印度支那。印度~支那の半島の仏領植民地だから『仏領』『印度』『支那』。
フランス文化が浸透し、公用語がフランス語になる時代にもなってくるとベトナム人有産階級がフランスに留学したりする事も出てくる。北ベトナムの親玉ホーチミンもフランスに留学し、(ロシア式)共産主義にかぶれる。と言うか、染まる。
第一次世界大戦(1914~1918)
インド等他の植民地と同じく、欧州での戦争に多くの人民が狩り出される。終戦後、世界での民族自決や国民国家の気運(まー要は「俺達を植民地支配から解放させろ」「独立させろ」つー事)が高まったが、ベトナムも同じく。
が、白人様がイエローモンキーにんな事許す訳がないのであって、華麗にスルーされる。
仏印進駐/ベトナム独立同盟成立(1940/1941)
ドイツの攻撃でフランス崩壊、親独のヴィシー政権が立てられる。当時支那事変でいわゆる援蒋ルート(英米の中国共産党、中国国民党への支援ルート)に著しく悩まされてた日本はこれの遮断の為ヴィシー政権の承認を得て仏領印度支那へ進駐。翌年、ヴィシー政権との交渉の末南部仏印進駐、ベトナム全体に広がっていく事になる。ちなみにこの仏印進駐が日米決裂の決定打の一つ(要はこれだけが理由じゃないって事)になる。
1941年、つまり南部仏印進駐の年にホー・チ・ミンが音頭を取ってベトミン(ベトナム独立同盟)が成立。抗仏闘争を開始。また、当時の日本は資本主義と全体主義と民主主義を足して三で割った様な状況だから、共産主義者のホー・チ・ミンは当然これを認めず、抗日闘争も開始する。この戦争での日本占領地では珍しく大規模な反日闘争が繰り広げられる。
※世間はヴィシー政権をヒトラーの傀儡だ傀儡だて五月蝿いけど、結構ヒトラーと渡り合ってたり、微妙に地下抵抗運動を助けたりもしてる。まぁ頑張った割に国民に認めてもらえず首相だったペタンさんは戦後獄死するんだが。悲惨
※当時の日本を単純に軍国主義と断じるのは間違い。北進だ南進だ三国同盟だ三国同盟破棄だ日ソ中立だ中立破棄だ英米不可分だ可分だ日米非戦だ日米必戦だとゴタゴタゴタゴタゴタゴタゴタゴタし続けていった結果気付いたら戦争になってた、というのが正しい
一瞬で終わった独立(1945)
3月、ヴィシー政権消滅に伴い、『日本がフランスの許可を得て仏印を借りる』という形が消滅する。ベトナムは日本の後ろ盾を得てベトナム帝国として独立を宣言する。が、当然の成り行きとして日本の敗北とともにベトナム帝国は崩壊する。ちなみに他の地域もこの時期に結構独立してたりする。
ベトナム帝国は日本の旗色が悪かった時期に独立した為、連合軍の空襲を受ける上にこの年は飢饉。後ろ盾の日本がどうしようもないんじゃベトナム帝国は更にどうしようもなく、食料移動も滞って餓死者続出、ベトナム帝国は求心力を失う。ベトナム帝国は特に何か悪い事をした訳ではないが、何か嫌な事があれば政府に反発するのが民衆の常。
八月革命(1945)
八月十三日、ベトナム独立同盟のホー・チ・ミンは全国一斉蜂起を指令。各地で民衆が蜂起し、十五日には頼みの日本軍も降伏で戦闘停止。求心力を既に失っていたベトナム帝国は日本の後ろ盾すらも失い、半月で瓦解する。八月二十六日ホー・チ・ミンがハノイに入り、九月二日、ベトナム民主共和国の独立を宣言した。
日本が降伏し、フランスがまだ復帰していない空白の時間をついてベトナム革命は成功した形になる。(共産主義者が頭張ってるのになんで民主共和国なのかとか思ったそこの君。北朝鮮だって名前は朝鮮民主主義人民共和国なんだぜ?)
冷戦とその代理戦争の幕開け 第一次インドシナ戦争(1946~1954)
第二次世界大戦終結は戦争の終わりであると同時に冷戦の幕開けでもある。ベトナム民主共和国成立当初こそこれの存在を黙認する形を取ったフランスだが、自由主義陣営に属するフランスが共産主義国家を承認し誕生させる訳が無い。ベトナムを独立させるにしても、最低限自由主義陣営に属してもらう必要がある。
1946年12月、本格的な戦闘が始まる。翌年一杯、平野部での戦闘はフランスの圧勝に終わるが、ベトナム民主共和国軍は山岳地へ撤退、非正規戦(ゲリラ戦)を展開、フランスは苦しむ。同時にフランスはコーチシナ共和国やベトナム国の樹立、ラオス及びカンボジアの独立などでベトナム人民の支持を得ようとするが、当然の如く悉くそっぽを向かれる。
1949年10月、支那では国共内戦が終わり中華人民共和国が誕生。同じ共産主義国家という事でベトナム民主共和国への援助が始まる。これに対抗しアメリカがベトナム国、及びラオス、カンボジア(一応親自由主義陣営)に援助を開始。ベトナム人自体は単純に独立戦争を戦ってるつもりでも、世界的には冷戦の代理戦争と化していく。が、1950年に朝鮮戦争が始まり、自由主義陣営も共産主義陣営もそっちに戦力を集中した為フランスは一人でベトナム、ひいてはインドシナ全体をどうにかせざるを得なくなる。
1954年、フランスは何を血迷ったかこの御時勢に軍事要塞でベトナム民主共和国に対抗。5月にディエンビエンフー要塞は陥落する。つまりボロ負け。フランス人よ、ドイツに要塞戦挑んで一ヶ月ぐらいで国家崩壊までいったのにちょっとは懲りないのか。
注目すべきは、フランスが非正規戦ではなく正面からの戦いで負けた事。ベトコンはゲリラ戦がお家芸とは言え、実際には真正面からの戦争にもそれなりに強い。米軍や仏軍は第二次大戦みたいな平野での戦争に最適な軍隊を構築した為、ベトナムみたいな熱帯雨林みたいな地域での戦争は不得意なのだ。これが後のベトナム戦争で響いてくる。
ディビエンフーで惨敗した後、フランスは和平交渉を開始し、1954年、ベトナム民主共和国の成立が正式に承認される。が、ベトナム民主共和国がベトナム全土を治める事で共産主義がラオスやカンボジアに伝播する事を恐れ、北緯十七度線から南をベトナム国を自由主義側として残し、北緯十七度線から北がベトナム民主共和国の領土になる。
尚、この後フランスはアフリカの植民地で色々と面倒な事になり、アメリカにベトナム国の管理を委託する。1955年、ベトナム共和国が成立する。
整理:
・ベトナム民主共和国=ベトナム人が作ったベトナム人の為の国家。但し共産主義
・ベトナム共和国=米仏の支援を受けた自由主義陣営の為の国家
要は、ベトナム民主共和国が共産主義ってのがネック。そうじゃなければここまで面倒な事にならなかったんだろうけどねぇ…
ベトナム共和国紆余曲折(1954~1965)
1954年、ゴ・ディン・ジエムはベトナム国の首相に就任する。更に翌年、国家元首バオ・ダイを国民投票で辞任に追い込み、ベトナム共和国を誕生させ、選挙で選ばれ初代大統領に就任する。が、この選挙、ジエムの得票数が有権者の数を越えている。つまりどうみても不正選挙。ちなみにこの選挙ではCIAの協力を得ていた様だが、本人自身は同じ『反共』仲間のアメリカの後ろ盾を得ているといった感じだったらしく、アメリカの言いなりではなかったらしい。ただ、ジエムは政治の才能が無かったらしい。数々の失政、恐怖政治に加えて、仏教徒僧侶が抗議の焼身自殺を遂げた際、夫人の「僧侶のバーベキュー」という大変ブラックユーモアに溢れた言葉が世間に流れるのを止めもしない有様。「流石にこれはねーよなぁ」とばかりにアメリカにも見捨てられ、presented
byケネディ大統領&CIAのクーデターで抹殺される。これが1963年。
さて、クーデターで政権を握ったズオン・バン・ミーさんは失政を犯し、1946年1月には亡命。その後1965年にグエン・カオ・キが首相に、グエン・バン・チューが国家元首に就任し実権を握るまでの約2年間の間に13回もクーデターが繰り返される何とも言えないアレな経過を辿る。これのせいで、ベトナム共和国軍はヘタレで弱くてどうしようもなくなる。
と、言うのも。政府高官が、たとえ戦争をやっていても軍事クーデターによる地位獲得競争とその阻止に力を注ぎ、またクーデター阻止もしくは実行の為、首都サイゴンに自軍の精鋭部隊の多くを駐留させた。この為、アメリカがいくら軍事援助をしてもベトナム共和国軍の戦闘力が強化されず、また士気も上がらない。この駄目で駄目で駄目で駄目な状況はベトナム戦争中どころか、アメリカ撤退後、そしてベトナム共和国崩壊の日まで続く。
ところで。ベトナム共和国は普通に、今の日本の様に存在していた訳ではない。1960年、つまりジエム生前、南ベトナム解放民族戦線(NFL、ベトコンともいう)が結成され、南北統一に向けての闘争を開始する。これはベトナム民主共和国の指揮下にある組織。つまり共産主義者主導。しかし、ベトナムを政治の道具にしてる西側東側諸国が許せず、ベトナムの真の独立を願った自由主義者といった連中も結構多く参加していた。よって一概に共産主義者とも言えないが、立ち回りは共産主義者そのもの。NFLは南ベトナム各所で非正規戦を展開。又、ベトナム民主共和国との小競り合いも続き、事実上の内戦状態にあった。
さて。1955年、ベトナム共和国誕生時のアメリカ大統領はアイゼンハワー。軍事物資の支給やアメリカ軍の「軍事顧問」のベトナム共和国軍への派遣がメイン。武力介入はしていない(あくまで両ベトナム軍の戦闘は『ベトナムの内戦』的な扱いを受けているから口実が無いとできない)。
1961年ケネディが大統領になるが、同じ方針をとる。しかしあまりにベトナム共和国軍がヘタレで弱くてどうしようもない為、軍事顧問団を大幅に増強する。しかしケネディは途中で諦めた気配で、軍事顧問団の引き上げ計画を秘密裏に発動。これと平行して例のジエムを抹殺するが、直後に自分も暗殺された上、引き上げ計画自体も秘密計画だった為軍事顧問団引き上げは頓挫する。
整理:
1955年 ジエムによりベトナム共和国成立。成立以後も北との小競り合いは続く
1960年 南ベトナム解放民族戦線結成。ベトナム共和国内での戦闘も本格化する
1961年 ベトナム共和国軍が余りにヘタレで見るに見かねたケネディが本格介入決定
1963年 ジエム、天に召される。直後にケネディも天に召される
以後、国内では政権争いが激化、クーデターが繰り返される
1965年 ベトナム共和国内でのクーデターの頻発がさしあたり収まる
ベトナム戦争(1964~
アメリカではケネディ暗殺後リンドン・ジョンソンが大統領に就任する。ジョンソンは武力介入も辞さずにベトナムに介入する政策を進める。1964年例のトンキン湾事件を仕組み、口実を設けて武力介入を開始する。ベトナム戦争の本格的な開始。
ベトナム戦争TIPS
・非正規戦
いわゆるゲリラ戦。本来、と言うか、近現代の戦争では民間人は撃っちゃいけない事になっている。民間人と戦闘員(つまり軍人)の見分けは服。普通の服なら民間人、軍服や迷彩服を着ていたら戦闘員。逆に言うと、民間人の格好で戦闘を行うと民間人と戦闘員の見分けがつかなくなる。この為、民間人の格好で戦闘する行為はその場で死刑と国際法でも定められている。見分けがつかないと普通の民間人がとばっちりを受けるしな。
これを逆用するのが非正規戦のキモの一つ。民間人の格好で戦闘を仕掛けたり、無害な民間人を装って接近して奇襲したり。これをやられると、非正規兵(ゲリラ兵、便衣兵)が例え1人であろうとも、100人の普通の民間人の群れに潜んでしまえば、普通の軍隊にとって大きな負担になる。見分けがつかないからどいつが非正規兵でどいつが普通の民間人なのかいちいちチェックしなきゃならないから。
・自分の国の村を襲う
前述の非正規戦を更に大規模にする為に行う、共産主義国家の基本戦法。やり方は簡単。どちら側にもついていない村(ベトナムの場合は北軍にも南軍にも協力していない村)に武装して押しかけ、協力を要請(強要)する。拒否されたら皆殺し。で、皆殺しは嫌だから村人は協力する訳だが、戦争で軍服着てなきゃいけない事なんてそこらの村人は知らないから非正規兵として戦闘する。こうして非正規戦は無限に拡大していく。当然、米軍も村焼き討ち等をやらない事には戦争が進まないという状況になってしまう。
ちなみに北ベトナムは南併合後大粛清とかもやっている。ニクいほどに共産主義国家の立ち回りの基本に忠実。是非とも真似する国家がこれ以上増えない事を願うばかりである。
・ベトコンの虐殺行為と米軍の虐殺行為
ベトコンの虐殺行為はニュースにならないが米軍の虐殺行為はニュースになる。よって米軍の虐殺行為ばかりがクローズアップされ、そのせいで罪のないベトナム帰還兵は白い目で見られ、就職もできず、社会の底辺層として生きていく事を余儀なくされる。悲惨。
・情報戦
戦争じゃ勝てないなら情報戦で勝つ。政治で勝つ。
ベトナム国内からアメリカ、更には西側諸国では『ベトナム人の事はベトナム人自身で解決するべきである』という事でアメリカの介入を批判する反戦運動が大々的に行われた。これも当然と言えば当然ながら共産主義国家の基本戦法な訳で、ソ連やベトナム民主共和国が後ろで糸を引いていた。アメリカは国内の反発を相手にしながら戦争してた訳で、これでは勝てるものも勝てない。
結局、アメリカは苦戦しながらも軍事的には悉く勝ち続ける。が、軍事的には南ベトナム解放戦線の大敗北に終わったテト攻勢も、南ベトナム解放戦線がサイゴンのアメリカ大使館を一時占拠し、その一部始終をアメリカ全土へ生中継してアメリカ国民に大ショックを与えたり、常に政治的には負け続けた。
最終的に国内の反戦運動を捌ききれなくなったアメリカはベトナム民主共和国と講和、撤退する。この時の話を『傭兵部隊』でインタビューを受けた元空軍のデーナ・ドレンコスキーは「私の幻滅が決定的になったのは、あのクリスマス爆撃がキッカケだった」「敵の衰弱は手に取るように明らかだった。最早F-4がB-52Dを護衛する必要すらなくなっていた。あと一撃加えればとどめとなるのは確実だった」と語った上で、「それまでパリでの和平会談継続を拒否していた北ベトナムが再開を希望してきたため、ワシントンから急遽爆撃中止の命令が出された」「北が会談再開を希望した事自体、それまでの北爆がいかに効果的だったかを物語っているではないか。敵は瀕死の重傷だったのだ。あと一撃、あと一撃くらわせば、敵は完全にアウトだった。そのチャンスをワシントンは政治的配慮とやらのためにみすみす逃してしまった」「政府は勝つつもりのない戦争を我々に押し付けていたわけだ。それをアメリカ軍は忠実に実行していた」と語っている。
非常に勉強になりました。