大和国五条と河内国大ケ塚・富田林を結ぶ最短ルートとして、昔から交通、軍事の要衛であった千早街道から登りつめた金剛山より西に、元弘3年(1333年)、楠木正成が築いた連郭式山城で、楠木城の詰め城です。建武の新政以後、南朝方の楠木氏の居城となり城主は楠木正義、楠木正儀そして楠木正勝と続いていた。しかし南北朝時代末年となる明徳3年(1392年)楠木正勝の時に北朝方の畠山基国に攻められ千早城は落城した。現在、千早城跡は、千早神社になっています。
[所在地:大阪府南河内郡千早赤坂村大字千早]
<アクセス>近鉄長野線・富田林駅から金剛バスで金剛登山口下車徒歩約20分
▼千早城の概要
▼金剛山山道入口
▼わら人形の兵士
▼階段を登っていく
▼千早神社(千早城本丸跡)
2013/01/19 訪城
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赤坂城の戦 元弘元年(1331年)
後醍醐天皇が京都から大和の笠置山に逃げ込み、笠置山挙兵に呼応して、楠木正成は赤坂城で500騎で挙兵するが、大軍の鎌倉幕府軍のために落城。最後は自害を装い行方をくらます。のち再起して赤坂城を奪還する。
護良親王挙兵 元弘2年(1332年)
後醍醐天皇の皇子、護良親王が挙兵し、各地の武士に令旨を出す。
千早城の戦 元弘3年(1333年)
楠木方龍城軍約1,000騎は、吉野・十津川の郷士と連携を保ち、金剛山中の城寒群を駆使してゲリラ戦を展開して鎌倉幕府軍約20,000騎を翻弄させ、後醍醐天皇方の勝利の原動力になる。龍城100余日にして鎌倉幕府は滅亡する。
湊川の戦 延元1年(1336年)
九州で30,000騎の軍勢と水軍を整え、再挙した足利尊氏・直義の軍討伐のために新田義貞10,000騎、楠木正成・正季500騎で戦うが、新田義貞が敗走したため、包囲され、兵力差を埋めることができず敗れてしまう。楠木正成は弟・正季と刺し違え、自害する。足利尊氏は、再入京する。
藤井寺の戦 貞和3年(1347年)
南朝方の楠木正行が700騎で挙兵、楠木正行の奇襲で北朝方の幕府軍(細川顕氏)3,000騎は敗走する。
四条畷の戦 貞和4年(1348年)
北朝方の幕府軍(高師直)60,000騎で、本格的に楠木正行討伐を開始する。楠木正行は3,000騎で四条畷で戦い戦死する。
◆楠木正成(生年不詳~1336年)
金剛山のふもと、河内の赤坂を本拠とし、運送労働者を束ねていたため和泉、北紀伊にもかかわりをもつ土豪。1331年、後醍醐天皇に応じて赤坂城に挙兵。建武政権樹立に大きな勲功をあげ、天皇の信任も厚かった。足利尊氏が叛いたのちも、一貫して南朝方で戦い、九州から東上する足利尊氏軍と湊川で戦って戦死した。
◆高 師直 (生年不詳~1351年)
南北朝時代の武将。元弘の乱以降、足利尊氏に従い、室町幕府創立に軍功があり、室町幕府でも足利尊氏の執事として権威を振舞いました。その後、足利尊氏の弟、足利直義と対立し、正平3年(1351年),尊氏とともに直義軍に敗れ、剃髪帰順して京に向かう途中、武庫川辺りで直義党の上杉能憲に弟、高師泰とともに殺害されました。