nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

京都御所(1331~1869)

2013年01月20日 | 王宮・宮殿・行宮・御所

 延暦13年(794年)、桓武天皇による平安遷都から京都は皇城の地であった。鎌倉時代中期の元弘元年(1331年)光厳天皇がここに即位されて以後、明治2年(1869年)に明治天皇が東京に遷られるまで皇居とされた歴代の天皇がお住まいされた宮殿。築地塀で囲まれた京都御所の面積は、約11万m2である。

[所在地:京都市上京区]

<アクセス>地下鉄今出川駅⑥出口から徒歩約10分

 

宣秋門・・・春秋の一般公開の際に開かれる。

御車寄(みくるまよせ)             御車寄の玄関・・・昇殿を許された者が参内する時の玄関                                                                                 

                   

新御車寄(しんみくるまよせ) 

 大正14年(1915年)の大正天皇の即位礼に際し、建てられたもので、大正以後の天皇皇后両陛下の玄関である。

承明門                 

 

 

南 庭         建礼門(御所の正門)

 

紫宸殿(ししんでん  即位礼などの重要な儀式を執り行う最も格式高い正殿です。

                                        桧皮葺屋根の模型

 

 

御池庭・・・池を中心とした回遊式庭園です。

 

 

2012/11/01 訪問

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薬子の変 大同5年(810年)

 退位後に平城京へ移った平城上皇が、嵯峨天皇の政策に反発し、平城京遷都を建議する。嵯峨天皇は、坂上田村麻呂が派遣され平城上皇方の兵を阻止。藤原薬子は、毒薬で自殺、平城上皇は出家する

承和の変 承和9年(842年)藤原氏これから、朝廷内の有力貴族の排斥開始する。

 橘逸勢、伴健岑らが謀反のかどで流罪になり、皇太子恒貞親王も罪に問われ、縁者ともども配流となる。

応天門の変 貞観8年(866 年)

 応天門放火炎上の犯人として左大臣源信(みなもとのまこと)を訴えた大納言伴善男(とものよしお)が、逆に真犯人であると告発され、関係者一同流罪となる。伴氏は没落する藤原氏はさらに政権を固める。

安和の変 安和2年(969年)

 左大臣源高明が、右大臣藤原師伊の従者源満仲の密告により失脚、宮中は、大混乱になる。他氏を排斥した藤原氏は、以後内部で権力を争うようになる。

保元の乱 保元元年(1156年)

 後白河天皇方(源義朝、平清盛)と崇徳上皇方(源為義、源為朝、平忠正)の対立。院政をめぐる争いで、両派に与した源氏平氏の武士同士が戦する。源義朝が夜襲を献策して上皇方の集まる白河殿を攻撃し、勝利する。

平治の乱 平治元年(1159年)

 保元の乱後、源平の恩賞の片寄りと源氏方の不満より、源義朝と平清盛が争う。平清盛が勝利し、平氏の栄達(武士の台頭)、源氏の没落。

鹿ケ谷事件 治承元年(1177年)

 京都東山鹿の谷の俊寛の山荘で、後白河法皇の近臣、藤原成親・成経親子、平康頼、西光、中原基兼が中心となり平家打倒の陰謀を企てた。密告により、西光は斬首、成親は配流先で謀殺、成経、康頼、俊寛は九州の鬼界ケ島へ流罪となった。

宇治川の戦 寿永3年(1184年)

 木曽義仲の追討で、源範頼、義経が上洛してきて、宇治川の渡河で、激突する。梶原源太景季と佐々木四郎高綱が激しい先陣争いをする。義経、京都へ進撃する。義仲は敗れて大津打出浜へ退去する。

承久の乱 承久3年(1221年)

 源実朝の死を契機にした後鳥羽上皇による討幕の挙兵。執権北条義時追討の院宣に対して北条正子が激。宮方軍(後鳥羽上皇勢)が敗れ、後鳥羽、土御門、順徳3上皇を配流にする。宮方を監視するために、京都に六波羅探題が置かれることになった

元弘の乱 元弘元年(1331年)

 正中の変('1324年)に続き、御醍醐天皇による鎌倉幕府の討幕計画が露見する。後醍醐天皇が、大和の笠置山に脱出して挙兵する。敗れて隠岐に配流される。(元弘3年、隠岐を脱出する。)

土岐康行の乱 明徳元年(1390年)有力守護の力を削いで、幕府権力の確立。

 足利将軍義満(三代)は、東海の主要拠点をおさえる土岐氏の勢力削減のため、兄弟の仲違いを誘う。さらに、幕府に反抗して挙兵した土岐康行を討った。

明徳の乱 明徳2年(1391年)有力守護の力を削いで、幕府権力の確立

 足利将軍義満(三代)は、惣領相続でもめる山名氏を親族同士で争わせ、さらに義満の挑発にのり京都に侵攻してきた山名氏清・甥の満(みつゆき)を倒す。山名氏の分国は、11ケ国から3ケ国に減る。

南北朝合体(1392年)

 足利将軍義満(三代)は南朝の後亀山天皇との間に和議を成立させ、三種の神器を取り戻し、南北朝を統一した。

今川貞世罷免 (1395年③有力守護の力を削いで、幕府権力を確立。

 九州探題として派遣され独自勢力を築いた今川貞世を足利義満は危ぶみ、その任を解いて左遷させる

応永の乱 (1399年)有力守護の力を削いで、幕府権力を確立。

 足利将軍義満(三代)は、大内氏の経済力を恐れ、圧力をかける。大内義弘は鎌倉公方・満兼(みつかね)らとともに挙兵し堺に龍城したが、討伐された。

嘉吉の変 嘉吉元年(1441年)

 播磨国守護の赤松満祐が、六代将軍足利義教を暗殺する。

応仁の乱 応仁元年(1467年)

 将軍家の後継争いに絡み管領の細川勝元派(東軍)と実力者の山名宗全派(西軍)が11年間対立して戦闘を繰り返した。(東軍20ケ国16万人、西軍20ケ国9万人を動員した。) 5月、上御霊社合戦。10月、相国寺合戦。その結果、京都市中は焼け野原になり室町幕府の権威は、失墜し、地方で下剋上の動きが拡大した。

 応仁の乱の終わりごろの文明8年(1476年)、後土御門天皇は、応仁の乱の戦乱による国土の荒廃と朝廷の衰微を興すため有名社寺に勅使卜部兼倶をつかわし、十六善神曼陀羅をかかげ,荘民を集めて、般若経の読誦をさせられた。すなわち、十六善神とは、夜叉が大将で、たくさんの家来を従えて、般若経読誦する人たちを戦乱などの危難から救うということになっている。

比叡山焼討ち 元亀2年(1571年)

 浅井・朝倉に協力したことで、織田信長、比叡山延暦寺を30,000騎で焼き討ちする。そして、比叡山の近江国の寺領を乗っ取る。

本能寺の変 天正10年(1582年)

 明智光秀は軍勢13,000騎で、織田信長の宿所の本能寺などを取り囲み、襲撃する。信長は本能寺に火を放ちで自刃。嫡子信忠も二条城で自刃。

山崎の戦 天正10年(1582年)

 本能寺の変、豊臣秀吉・織田信孝(40,000騎)と明智光秀(16,000騎)とが、山城・摂津の国境の山崎で行った合戦。明智方が敗れ、秀吉が勝利した

伏見城炎上 慶長5年(1600年)

 西軍が伏見城を包囲し、城を守る鳥居元とともに炎上した。慶長7年より復旧工事開始。

紫衣事件 寛永4年(1627年)

 幕府の許可なしに朝廷が授与した紫衣を幕府が剥奪した。沢庵をはじめとする高僧が幕府に抗議書を提出し流罪となった。後水尾天皇は幕府に反発し1629年に譲位する。

宝歴事件 宝歴8年(1758年)

 尊王論を奉じる竹内式部が逮捕され、式部派の公家17人も罷免される。

寺田屋騒動 文久2年(1862年)

 4月、尊王攘夷派の薩摩藩士有馬新七らが寺田屋に集まり、幕府側の要人殺害を計画。藩主忠義の後見役島津久光の命を受けた奈良原喜八郎ら8人が襲撃して斬殺する。

池田屋騒動 慶応3年(1864年)

 6月、近藤勇率いる新撰組が池田屋で会合していた勤皇浪士肥後の宮部県蔵、長州の吉田稔麿ら20人捕縛。襲撃を逃れたのは、桂小五郎ら数人。

禁門の変 元治元年(1864年)

 前年の8月18日の政変により京都を追放された長州藩勢力が長州藩主父子の赦免請願と会津藩主・京都守護松平容保らの排除を目指して上京し、京都市中において会津藩・薩摩藩・大垣藩・桑名藩・新撰組(公武合体派)と市街戦を繰り広げた事件である。戦火により、京都市中藻戦火により、御所の南から東本願寺までの約3万戸が消失する大事件であった。大砲も投入された激しい戦闘の結果、長州藩勢力は敗北し、尊王攘夷派は、急進的な指導者の大半を失い、その勢力を大きく後退させることになった。禁門の変後、長州藩は朝敵となり、8月に将軍家茂は中国・四国21藩に長州藩の討伐を命令じる。(第一次長州征討)

一次長州征討 元治元年(1864年)

 8月、将軍家茂、中国・四国の21藩に長州藩の討伐を命じる。

下関戦争 元治元年(1864年)

 木戸孝允(桂小五郎)ら長州藩士は、京都薩摩藩邸で、薩摩藩の小松帯刀、西郷隆盛と会い、同盟を結ぶ

第二次長州征討 慶応2年(1866年)

 薩摩藩の出兵拒否を後押しに、西洋式武器の導入が奏し、幕府軍を破る。

大政奉還 慶応3年(1867年)

 徳川幕府15代将軍慶喜が、二条城で朝廷に大政奉還し、形成逆転を狙ったが、倒幕による王政復古の大号令で頓挫する。

坂本竜馬暗殺 慶応3年(1867年)

 坂本竜馬、中岡慎太郎、京都近江屋で、暗殺される。

鳥羽・伏見の戦 慶応4年(1868年)  

 朝廷が、王政復古を宣言する。薩長に討幕の密勅を下す。徳川15代将軍慶喜は、大阪城から海路江戸へ脱出朝廷は慶喜に追討令をだす。 


冬の金剛山 2013

2013年01月19日 | 樹氷・冬山登山

2013/1/19  金剛山に樹氷を見るために冬山登山行ってきました。  

                 金剛山▲ 標高1125m

<登山コース>近鉄長野線・富田林駅・東口下車⇒⇒⇒(金剛バス45分)⇒⇒⇒千早ロープウェイ前下車・・・金剛山ロープウェイ千早駅⇒⇒(村営・金剛山ロープウェイ6分)⇒⇒金剛山駅・・・・・展望台・・・転法綸寺・・・金剛山頂・・・・・千早神社(千早城跡)・・・金剛登山口バス停⇒⇒⇒(金剛バス40分)⇒⇒⇒近鉄長野線・富田林駅         [バス運賃は、富田林~金剛山ロープウェイ千早駅まで580円、金剛登山口~富田林まで530円]

金剛バス千早ロープウェイ前     ▼金剛山ロープウェイ千早駅

  

金剛ロープウェイ金剛山駅

              

       

   

樹 氷

  

  

転法輪寺            ▼金剛山山頂

  

  

         千早神社(千早城跡)

   

 金剛山頂には、50cm以上の積雪がありました。


冬の三峰山 2013

2013年01月12日 | 樹氷・冬山登山

2013/1/12 奈良県宇陀郡御杖村の三峰山に冬山登山に行ってきました。      

              三峰山▲ 標高1235.4m

[登山コース] 近鉄大阪線・榛原駅南口バスロータリー⇒⇒⇒(奈良交通臨時バス約70分)⇒⇒⇒みつえ青少年旅行村バス停下車・・・・・山小屋(WC付)・・・・・(尾ルート)・・・・・山小屋・・・・・三峰山山頂・・・八丁平・・・・・山小屋・・・・・(不動ルート)・・・・・不動の滝・・・・・みつえ青少年旅行村バス停⇒⇒⇒(奈良交通臨時バス約70分)⇒⇒⇒榛原駅 (バス運賃往復2,700円)  

                                     

      ▼山小屋(WC有り)

   

                       山小屋

            

   

三峰山山頂 ▼八丁平    ▼不動の滝

   

 山頂付近には、積雪はありましたが、樹氷は、まったく見られませんでした。                                                                        


冬の高見山 2013

2013年01月05日 | 樹氷・冬山登山

2013/1/5   奈良県吉野郡東吉野村の高見山に冬山登山に行ってきました。   

                 高見山▲ 標高 1,248.9m

[登山コース] 近鉄大阪線・榛原駅南口バスロータリー⇒⇒(奈良交通臨時バス約40分)⇒⇒高見登山口バス停下車・・・・・・小峠・・・・・高見山頂・・・・・・・・高見杉・・・・・高見平野バス停⇒⇒(奈良交通臨時バス約45分)⇒⇒近鉄大阪線・榛原駅 (バス運賃往復2,160円)

榛原駅  ▼高見登山口バス停         

   

             小峠

           

   

  

避難小屋   高見神社 (高見山頂)

  

 避難小屋の屋上からの眺めは、素晴らしいでした。

 

高見杉樹齢700年             ▼高見平野のたかすみの

  

 村営のたかすみ温泉(たかすみの湯)に入浴して疲れを落として帰りました。                                                                                         


伊勢の朝熊山からのご来光

2013年01月01日 | ご来光

2013/1/1 三重県 伊勢市の朝熊山展望台に行ってきました初日の出は、AM7:00頃でした。   

    朝熊山▲ 標高500m

            

   

 

                             帰りに、すぐ近くの金剛證寺に参拝して帰りました

 

総門      仁王門                  おちんこ地蔵尊