戦国時代の永禄年間(1558~1570)に、長野氏の一族の細野氏が小規模な安濃津城を築いたのが始まりです。永禄11年(1568年)織田信長の伊勢侵攻の翌年、織田信長の弟信包が入城し、信包は、城郭を拡充して本丸、二の丸、三の丸が配された輪郭式の平城にした。天正8年(1580年)には5層の天守閣も完成し、城下町が作られた。信長の死後、豊臣秀吉の家臣富田信広が5万石で入城。関ヶ原の合戦では、その子知信が東軍に属したため、西軍の毛利秀元・長宗我部盛視の30,000騎余の大軍に包囲される。籠城の兵は劣勢(1,300騎)であったが奮戦の末、木食上人の調停により開城した。関ヶ原合戦後、22万石で入封した藤堂高虎によって城は、復興されたが、天守は再建されなかった。その後、大阪の役の功により、元和元年(1615年)と元和3年(1617年)に5万石ずつの加増を受け、32万石の大大名となり、12代にわたり城下町として発達を遂げた。明治6年(1873年)の廃藩置県により、廃城となり取り壊された。現在は石垣の一部と堀、昭和33年(1958年)に復元された三重の隅櫓が津城の往時の面影を伝えている。
[所在地:三重県津市丸の内]
<アクセス>近鉄名古屋線・津新町駅から徒歩10分
▼復興三重隅櫓
▼城と城下町図
▼城の縄張図
▼藤堂高虎像 ▼本丸跡
▼埋門跡
2013/01/29 訪城
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平氏、伊勢・伊賀に勢力を拡大 承徳元年(1098年)
平氏(平正盛)、安濃津を本拠に勢力を拡大する。正盛、伊賀山田、鞆田の私領を六条院白川法皇第一皇女に寄進して白川院政に近づく。正盛の孫が清盛(平清盛)です。
安濃津城の戦 慶長5年(1600年)
関ヶ原の戦の前哨戦。石田三成が挙兵し、伏見城落城後、大阪方が伊勢に侵攻する。毛利秀元ら30,000騎の大阪方(西軍)に対して、近隣の徳川方(東軍)の援軍を含めわずか1,300騎で籠城戦を激闘する。奮戦の末、木食上人のすすめで富田知信が開城する。大軍相手によく戦った知信は戦後、家康から2万石の加増を受ける。