金属中毒

心体お金の健康を中心に。
あなたはあなたの専門家、私は私の専門家。

74 危険な男

2007-01-03 16:19:19 | 鋼の錬金術師
74 危険な男

(人柱は他の者に変えることもできるがニエは替えが無い。この子の価値をわからないとは、エンヴィー無能者が!)
烏が去った後の空を数秒の間、青紫の瞳は睨み上げていた。振り返ったときその瞳は髪と同じ色、最古の洞窟を思わす闇の黒に変わっていた。
「どうした」
ラッセルが部屋中を見回して何かを探している。
「ボストンバック、持ってなかったか、あれが無いと薬が」
「薬?まだ(もぐり)開業中か?」
「いや、…俺の薬」
ビタミン剤程度はどうでもいいが精神安定剤が無いのは困る。あれが無いと急に不安感に襲われたとき身動きが取れなくなる。まして旅先である。動けなくなるのは最悪の事態を招きかねない。いや、すでにそういう事態になっている気がした。やくざ者に売られるのも十分まずいが、売られたら売られたで、逃げる手はある。
(むしろ、今のほうがまずい)
部屋を見て回ってラッセルははっと気が付いた。部屋の大きさに比べあまりに大きすぎるベッド、小さなはめ殺しの窓、ここは世に言う連れ込み宿ではないか!
ファーストがなにやら性質の悪い笑い方をした。
「一応、少しは常識も付いたな。そういうことだ」
「どうして?!」
「気にするな。と言っても無理か。ちょうど近かったからな」
「本当にそれだけか!」
「他の理由も欲しいか?」
「い、要らない」
昔から、この男はこうやっていいことも悪いことも、悪いことのほうが多かった気がするが教えてくれた。いくら実年齢より上に見られるとはいえ、14歳だったラッセルが裏の連中と付き合えたのはこの男が下地を作ってくれたからだ。その意味では感謝すべき恩人だが…。
年は40前ぐらいだろうと裏の連中は言っていたが、どうもよくわからない。肌の質だけを見れば30台前半で通りそうだし蓄えたデータや知識は50歳といっても通りそうだ。黒い瞳はこれ以上深い黒を見たことが無いほど濃い。
あいつの目は黒ではない、あれは闇だと言ったやつがいた。改めて見ても本当にそのとおりだと思った。
ラッセルが知る限りでは仕事は流しの情報屋である。他にもいろいろありそうだが無理に知ろうとは思わない。
(正多角形だけが形じゃない。無理に全ての面を知らなくてもいい)
ラッセルは他人に対してそんな風に割り切っていた。
「見つけたときは何も無かったが、やつらが(闇市で)処分したのだろう」
薬が無い。その事実が動揺を誘った。
ベッドに座り込んで頭を抱えた。セントラルまでどうやって帰ればいいかわからなくなる。落ち着いて考えれば誰かに持ってこさせるか闇ルートを使って手に入れるかすれば済むことだとわかるはずだった。だが、生じた不安感が思考をさえぎる。
目の前が薄暗くなった。見上げると闇がある。ファーストが近々と覗き込んでいた。この男は嫌いにはなれないがこんな風に覗き込まれるのは不快だった。まるで闇に飲み込まれるか、頭の中を触手で探られているような気がする。だが振り払えない。14のとき最初に出会ったときからこの男とは初めて会った気がしなかった。ほんの小さいときからよく知られているような、見られていたような気がする。
「シルバー」
低い声で呼ばれる。この男の声は肌で感じることができる。低い、背中にまで響きそうな声。肌が粟立ったのがわかった。
(名にふさわしい姿になった。この子は全身が『銀』になっている)
ラッセルは知らないが眠っている間に体毛からまつげまで調べられていた。
呼吸が乱れる。胸が痛む。息苦しい。こんな危険な男に弱みを見せたくはないがもうどうしようもない。薬があればまだ押さえが効くはずだ。だが、バックも無く,服も隠しポケットの中の薬ごと消えている。
「シルバー」
また呼ばれた。考えていることをすべてかすりとっていかれそうな声で。
視界がかすむ。脳の一角は心拍数の異常と過呼吸の危険を告げる。だが、わかっていても息苦しさへの対応として起こる過呼吸を止められない。
力が入らなくなる。

どのくらい意識が無かったのかははっきりしない。数秒か数分かとも思った。
冷たい何かを感じている。唇に。同時に息が吸えなくなる。手足をしっかり押さえ込まれている。(こんなに押さえなくても抵抗する力は無いのに)
体のあちこちが痛む。
「暴れるな」低い声が耳たぶを掠めた。
では、暴れたのかと思った。ベッドに押さえ込まれている現状と全身に感じる痛みからしてかなり抵抗したらしい。
それにしてもこのような場所でこんな姿とは、もし誰かに見られでもしたら…
どう考えても一つの結論しか出ないだろう。
(フレッチャーが居なくて良かった)
情けないがそれが一番にうかんだ。
何か冷たいものを飲まされた。どうやら薬らしい。ファーストは飲ませた後ついでのように乾ききったラッセルの唇をなめていく。
即効性の種類だったらしく急速に動悸が治まる。
唇が離された隙に息をはいた。
「おりこうになったな。正直に答えろ。誰に習った」
笑いを含んだ声だが、うかつな答えを返すと相手をバラシかねない。
「聞いただけだ」
うそではない。もっとも全てでもない。軍に出入りするならぜひご婦人とのお付き合いを覚えなさいといって服装から会話術、化粧品会社へのコネと礼儀作法とあらゆることを叩き込んでくれたマスタングが『仕上げに実践トレーニングを』と言い出した。なんだかわからないまま部屋に呼び出され寝室へ連れ込まれ…あの時マスタングが腹部の負傷をほったらかしていなければおそらくそのまま…。対ご婦人用寝室での対策を教え込まれた気がする。
ただ、今ここに居る男に比べたらマスタングなど危険のうちに入るまい。マスタングは完全に女好きだったし、娼館に連れて行く前にどのくらいわかっているか見たかっただけのようだし。
「健全な青少年の好奇心を満たす程度にか、目を開けろ」
どうしてだろう。最初からこの男には逆らえない。声を聞くだけで背中が震える。怖いのに離れたくない。だが、近づかれたくない。
「セントラルまでこれで何とかしろ」
口調が変わった。情報をやり取りしていたときと同じ声に。
やれやれと思う。とりあえず最悪の危険は去った。
力の入らない左手に薬瓶を押し込まれた。
「俺はもう出る。お前は落ち着いてからにしろ。ここの払いは明日の朝までしておく」
言い終えるとファーストはもうドアを開いている。
「あ、」
ありがとうと彼の背に言いかけて、自分たちはそんな関係じゃないと気がつく。
「当分借りておく」
今回の件を借りとしておくと言う。
「そのうちまとめて返してもらうぞ」
「早めに返さないと利息がつきそうで怖いな」
「そのときにはお前を丸ごと食うことにする」
軽い冗談のようだが4年後にこれが文字通りの意味だったことにラッセルは気づくことになる。
「肉付きが悪いからまずいよ」
「まったく、もう少し食え。抱いたとき骨があたったぞ」
ドアから半分出て行きかけながらラッセルに向けて何かを軽く投げた。
反射的に受け止める。大きさの割には手ごたえがずっしりと重い。中身が金貨であるのはすぐわかった。
ラッセルは投げ返そうとした。助けられた上にこんな借りまで作るわけにはいかない。だが、象牙色の肌の男はあっさり言った。
「そいつは貸しじゃない。お前の代金だ」
つまり、ファーストはラッセルを奪ったときについでに売買代金も奪ったらしい。この男のことだから、買い手が付くのを待っていたのではないかと邪推できる。
(結構高値で売れたんだな)
重さからしてまじめな上等兵の年収の10倍はある。
(世の中には変人が多いからなぁ)と自分は常識人と完全に自信を持っているラッセルは金貨の袋をつついた。
『じゃあな』ともいわずにファーストは入ってしまった。いつものことだ。急に来て急にいなくなる。不思議に会うのはいつもラッセルが一人でいる時だけだ。とうぜんフレッチャーは兄があんな危険な匂いのする男と付き合っているのは知らない。
また乾いてしまった唇を今度は自分で舐めた。あの男のタバコの苦い味がした。



脳の暴走警報発令中。ちなみにうちのプライドはファーストの姿のときは黒髪黒目象牙色の肌。遠目にはロイを渋めにふけさせたようなおじ様です。正体は…まだ考えてなかったりします。能力は光系を目指していますが、はたして思いつけるかなぁ。
ほんの小さいころにラッセルを見つけて以来、時折人生に介入し見守っています。(別名を○トーカーともいいますが)(大笑)
ラッセルが彼を意識しているのは14歳以降です。
それにしてもあんまり借りを増やすと近々おいしくいただかれてしまいそうで大いに心配です。
ちなみにあのフェロモン全開男ロイ・マスタングの寝室の誘いに引っかからなかったのはすでに免疫があったからなのか?

73 アルを探しに

2007-01-03 16:17:45 | 鋼の錬金術師
73 アルを探しに

『一緒に行って貰ったら』
右手に鋭い痛みを感じたと同時に弟の声を思い出した。
「予測していたのか」
目の前にあるのは少し汚れた鏡の割れ残り。
痛むのは右手。たった今鏡にたたきつけたばかり。
ラッセルは克服したと思っていた。あの時の練成陣の暴走の結果、髪の色が変わったことは納得できたはずだった。軍の受付や秘書課のご婦人達に『老けたかな』と軽口をたたけるぐらいに。彼女らは最初の驚きを1秒で乗り越えると『まぁ、前よりかわいいわ』と脱力したくなるような歓声を上げた。
(情けないが、克服してなかったのだろうな)
他人事のように思う。

アルを探したかった。もうずっとだ。何かに追われているような、高温の炎にあぶられているような強烈な思いで。
ようやくチャンスを見つけて、集められるだけの情報を集めて西に向かう汽車に乗ったのは昨日の夜。
終着駅まで乗っているつもりが、夜明けごろに強烈な嘔吐感に襲われた。一番近い駅で飛び降りて吐いた。汽車は行ってしまった。次は後2時間来ない。
さっき吐いただけでは収まらなかったのか再び襲ってきた嘔吐感に洗面所に駆け込んだ。もう吐ける物など無いからただ薄汚れた手洗いの前にいるだけだったが、ふと顔を上げたとき恐怖心に襲われた。そこに写っているのは自分の姿とわかっていた。それでも怖かった。見ていたくない、だが目をそらせない。
拳をたたきつけて鏡を割ったと気づいたのは床に落ちた血を確認してからだった。
「痛、」
血が落ちる。
もったいない話だ。貧血は治っていないのに。

固いベンチに座った。あと1時間で次の汽車は来る。
足元に小さな血だまりができた。
右手の中指の傷だけがまだ血を流している。
エド達もこんな風にして汽車を待ったのだろうか。きっとエドのことだから退屈だと叫びまくり弟にたしなめられていただろう。
想像が付く。鎧の間接をわずかにきしませて長いホームを走るアルの姿。アルの視線の先にはエドがいるはずだが不思議にエドのイメージは見えない。(あぁ、そうか)と思う。これはエドの視点から見たイメージなのだ。まるでエドの記憶をたどっているようにはっきり見える。少し視点が低いように思えるのはエドと自分の身長差のせいだろう。あいつらもこの駅を通ったことがあったのだろうか。
夜行で眠れなかったせいか今更眠くなる。1時間もあるのだから眠ってもよさそうだ。うとうとしているとエドの声が聞こえた気がした。

その朝、フレッチャー・トリンガムはいささか以上に不機嫌だった。エドは近頃病室を出ない。正確にはフレッチャーが出さない。油断するとどこで何をしているかわからない人だと思う。きっとアルも苦労したに違いない。
そう、全ての問題はアルだった。フレッチャーがセントラルに来たときにはもう、アルはいなかった。兄からはアルの名だけは出さないように厳命されていた。それなのに兄はいきなりアルを探してくると言い出した。
聞き出せば兄がセントラルに来たときからアルはもういなかった。
「たぶん、准将は知っているはずだ。そもそも、アルを隠したのは准将だと思う」
「それなら、訊いたらいいのに」
「何回かカマをかけてみたのだがだめだな。さすがに軍人は違う。引っかからない」
「探しにいくっていったい、どうして」
「エドにはアルが必要だ。あいつがどっかおかしいのは弟がいないせいだろ」
そればかりでないかもしれないという言葉を弟は飲み込んだ。兄には言えない。エドがとっくに正気ではないのではと疑っているとは。血液脳関門がどの程度重金属が脳に入るのを止めていられるのかはどこの医学書にもデータは無い。
というのも、もしまともな治療でやっていたならエドはもう死んでいてもおかしくは無い。だからデータが無いのだろう。

兄は行ってしまった。「連絡はするから心配するな」と言ってはいたが弟はうたがっていた。兄の「大丈夫」や「心配ない」ほど当てにならない物は無いからだ。
そして、今朝になってエドが妙なことを言い出した。手が痛いという。何かささっているという。右手にだ。
ありえないことだ。エドの右手はオートメールなのだから。
ウィンリィに連絡して聞いてみると幻視痛だろうという。
「でも指先だけ痛む幻視痛は聞いた事無いけど。まぁ、あいつらは何でもありだから」
何度か顔を合わしているウィンリィはとてもきれいなお姉さんだ。少しうらやましくなる。あんなきれいな人をいつも身近に見ていたエルリック兄弟が。
彼女はきっと黙っていればセントラルでも有数のきれいなお姉さんだろう。
なぜかは知らないが、兄はウィンリィを苦手らしく彼女がいるときは部屋にこもってしまう。一度それを言うとエドがこれ以上は無いような性質の悪い笑いを浮かべた。
「そのうち教えてやるよ」
まだ聞いていないが、聞きたくない気がする。まさかと思うが兄は彼女を口説いて振られでもしたのだろうか。兄はもてるわりに色恋沙汰とは縁の無い生活をしていた。それでも少佐の妹と一度デート(だろうと思う)しているしそういうことが合ってもいい年頃のはずだ。

兄からはその日も翌日も連絡は無かった。
「口止めもされてないんだし訊かれたら本当のことを言っちゃうからね」
兄につながっているような気がする自分の手に向けて話す。
おそらく兄は手がかりを求めて西を砂漠の町ノストを探っているのだろう。
もぐり営業していたころに知った裏の情報網からアルが最後に目撃されたのが、ノストであることまでは確認してある。


ラッセルが目を開けたとき世の中は暗かった。どうやら寝過ごしたと思った。
汽車はとっくに行ってしまっただろう。おや、と思う。やけにやわらかいものの上に寝ている。固いベンチの上に座っていたはずなのに。
「よく寝ていたな」
どこかで聞き覚えのある声がした。誰だったか。軍人ではない。
「ファースト」
「オ、感心、覚えていたか」
「忘れるわけ無いだろ。あんたが一番いろんなことを教えてくれた」
「お前はいい生徒だったよ。シルバー」
久しぶりにこの名で呼ばれたとラッセルは思った。
そうだ、この声だ。あの時もセントラルに出る直前、駅でぶっかった時もそういって、それから、「授業料だ」と言って。
「思い出しているな。続きを教えてやろうか」
マッチをする音。タバコのにおい。思わず眉をひそめた。
「嫌いか」
ジュッと火の消える音。
「俺はあの時より強い。もういくらファーストでも勝手にき、キスなんてさせない」
言ったとたん身体が熱くなる。男にファーストキスを奪われたとは弟には絶対に言えない。
「駅で貧血起こして倒れたやつがえらそうに言うな。俺が奪っていなければ今頃売られていたぞ」
どうやら、駅で眠った後そのまま目を覚ませなかったらしい。土地のやくざ者にでも見つけられて売られかけたのだろう。ファーストもそういう連中と付き合いがあるのだからまともな男ではない。
「ランプつけてくれないかな。暗くて、動けない」
「!シルバー、お前」
ぐいっとあごを持ち上げられる。
呼吸音が近い。顔を覗き込んでいるらしい。それにしてもこんなに真っ暗なのによく見えるな。そこまで考えたところである可能性に気づいた。
「今、昼間なのか?」
「どのくらいわかる?」
低い声、あの人に似ていると思った。
「真っ暗」
「人事みたいに答えるな」
「ごめん」
自分の目はどうやら完全に見えなくなっているらしい。
ため息が聞こえた。
「いきなりか」
「…少し前から見えにくいときはあったな」
「目か?」
「多分違う。いろいろあったから」
「そうか、ではとにかくしばらくは動けないな。それなら、できることを先にするか」
ぐっと体重をかけられた。ベッドに倒される。
「何?」
「お前危機意識無いな。普通、こういう場面ではわかるだろ」
「こういう場面…ファースト、悪いけどそっちの趣味無いから」
「俺も無い。もったいないな。いいチャンスだが」
「女なら良かったかい」
ラッセルは鳩が鳴くような笑い声を立てた。こんな風に笑えるのは久しぶりだ。
セントラルにいる間自分は追い詰められていたと思った。いや、今も状況は変わりないのだが奇妙に力が抜けた。焼け付くような思いが消えている。
なぜ、あんなに強くアルを探さなければと、アルを探そうと思っていたのかわからない。もちろん今も捜したいとは思っている。エドのために。
しかし、セントラルを出たときの叩きつけるような想いは無い。もっと落ち着いて穏やかな、理性的な判断ができる。
「変わらないな」
黒い瞳に少し癖のある髪のファーストの姿が見えた。
「見えているのか?」
「気が抜けたせいかな。はっきり見える」
「惜しかったなー。おい、今からでもやらないか」
「やだ。セントラルに帰る」
「ほー、そりゃ偶然だな。俺もセントラルだ」
「中継屋はどこを?」
中継屋とは裏の情報を扱う非合法の組織である。ゼランドールにいたころラッセルは珍しい定住型の治癒師として伝言板代わりになっていた。それをさせたのがこの男、通称ファーストだった。
「5番街」
「気が向いたら伝言を。俺もそこを使うから」
「何だ、相変わらず裏に出入りしているのか」
「教えてくれたのはファーストだろ」
「まったく、こんなにすれるとは思わなかったな。14歳だったな」
「子供に悪い世界を教えたんだ。今さら、怒っても無駄だよ」
窓の外でカラスの羽音がした。枝が大きく揺れた。妙に目つきの悪いカラスだ。ラッセルはカラスをにらんだ。
「どうした」
「あのカラス、覗いているみたいで気持ち悪い」
「どれだ?」
ファーストが横に来るとカラスは慌てたように飛び去った。
(エンヴィー、私の弱みでも摑みにきたつもりか。役立たずが!)
プライドの青紫の瞳をラッセルは見なかった
74 大総統の命令

72 真珠の使い

2007-01-03 16:16:43 | 鋼の錬金術師
72 真珠の使い

「誰よりも大きくて優しい人だったわ。大きな優しさで周りをみんな抱きしめてくれた。抱きしまられすぎて困るときもあったけど。
身長が2メートル10センチで歩幅が2メートルあるの。少佐の後ろについて歩くのは大変なのよ。いつもうっかり先に進んでは走って追いかける私を振り返らずに待っていてくれるの」
「振り返らないの?」
「そうよ。振り返ったりしたら私が謝るのを知っておられるから振り返らないの」
「手もとても大きくて私の2倍はあって少佐の手に握られたときは小さい子供に戻った気がしたわ」
「マリアさんその少佐という人を好きだったのね」
マリア・ロスはいまヤオ族で高級女官になっている。努力と根性そして必要性が彼女の語学力を一気に向上させた。シン国に来てまだ数ヶ月だがもう女官達と世間話をできるレベルになっている。
その彼女が好きと言う単語だけわからなかった。いや、言葉としては十分わかったのだが、感性が理解しなかった。
「今、何ていったの?」
「好きだと言ったのよ」
おしゃべり相手の女官はゆっくり発音した。
「いやだ、違うわ。それは尊敬していたし、とても良いかただし、貴族のお坊ちゃまとは思えないくらい部下にも気をつけてくださったし、私だけでなくてみんな少佐は好きよ。それに私をずっと庇って下さった。とても大事にしていただいたわ。でも好きだなんて、そんな」
「マリアさん、かわいいわ。あなた真っ赤よ」
「えぇ?」
あわてて鏡を見る。そこに写るのは方耳だけに淡く白く光るピアスをつけた自分の姿。赤くなっているのを認めないわけにはいかない姿。
「だってあなた。ここに来てから少佐さんの話ばかりよ。私なんか少佐さんの靴のサイズが35センチ。出張先で靴が壊れたときどこにも売っていなくて、あなたと何ていったかしら、デニー君よね、一緒に町中の靴屋を探しまくったとか、確かそのときあなたが靴擦れを起こして抱いて帰られたとか、体重が150kgジャストだとか、そうそうヒンドゥースクワットで、床に垂れた汗で深さ1センチの水溜りができたという話も300回くらい聞いたわよ」
立て板に水でまくし立てられてしまった。
(えー!私本当に300回も言ったの!)
マリアはシンに来て数ヶ月。この国の白髪三千条の表現の感覚にはまだなじめない。事実はせいぜい30回である。
マリアは思わず右耳の真珠のピアスに触れた。この館では真珠など珍しくも無いがアメストリスでは高級品だった。これは彼女が軍に入ったとき祖母からもらった母が娘のマリアへと受け継がしたものだ。いや、正しくは少し違うが。
(少佐はきっとお元気ですね。私はシンで元気です。言葉も覚えました。いつかアメストリスが平和になって私が帰れたら少佐の所に帰っていいですか)
「これ、おしゃべりばかりしていないで手を動かしなさい(笑)」
女官長が注意するがその言葉自身笑みが含まれている。この異国の女はシンの女の目から見るとなんとも奥手で見ているだけでもかわいらしい。
「はい、女官長」
マリアは他の女官とは別扱いで鋼鉄の巨人のお世話以外何もしなくていいことになっているが、いろいろなことを学びたい彼女は自分からできるだけ他の女官のする仕事や使用人達の仕事もさせてもらえるよう頼んでいた。
今しているのはテーブルクロスの刺繍だが自分では器用なほうだと思っていた自信を見事につぶされてしまった。他の女官のした部分の鳥は今にも飛び立っていこうとするほど生き生きとして見えるのに自分の部分は…。
(この刺繍に比べたら銃の分解なんて子供のおもちゃね)
軍に入りたてのころはそれにも手間取っていたと懐かしく思う。
(こんなに遠くに来てしまった)
アメストリスがどっちにあるかさえわからないこんな遠くまで。
それはホームシックと呼ばれる感情であったのかもしれない。
マリアはじっと鏡の中の真珠のピアスを見つめた。
それはアームストロングが練成で作ってくれたもの。この国に入ったとき身元を隠すためアメストリスのものは全て手元から消えた。それなのにこのピアスだけが残った。それ以来はずしたことが無い。

「本当にくやしいったら無いわ。大事にしていたのに」
「まぁまぁ、あの事故でかすり傷ひとつなしで終ったのでしょ。それだけですんで良しとおもわなきゃね」
「でも、気に入っていたのよ。祖母の形見でもあるの」
「あの演習場から真珠のピアス1個探すのは無理よ。きっとマリアの身代わりになったのよ」
「そう思うしかないわね」
マリア・ロスは仲のいい友人にお気に入りのパールのピアスを無くしたことを訴えていた。訓練の合間の休憩時間である。
マリアは知らなかった。角を曲がった向こうに彼女の頼りになる心暖かい(別名を暑苦しい)上司がいたことを。
訓練が終った後、マリアはアームストロングに呼ばれ抱きしめられた。
「ロス少尉がそんなに気に入っているとは知らなかった。我輩に任せておくが良い」
(はー?)
あやうく酸素不足で失神しかけた(抱きしめられて息ができなかった)マリアはいいタイミングで呼んでくれたブロッシュに救われた。
「何をおっしゃっていたのですか、少佐は」
「それが、よくわからなかったの」失神直前だったからとは言わなくてもわかることだった。
そして7日後、丼サイズのカップに紅茶を入れてきたマリアはこのごろこの愛すべき大きな上司が目の下にクマを作っているのを見た。元が上品で貴族的な顔立ちの上司は他の軍人と同じことをしてもめったにまいった様子など見せない。どこまでも鷹揚で上品さがあふれている。
マリアは恐る恐る尋ねた。
「少佐、ご気分でも優れられませんか?」
訊くと同時に3メートル後ろに下がる。うかつに抱きしめられては命にかかわりかねない。しかし、いつもなら『おぉ、なんと優しい心遣い我輩感激』とでも言って抱きしめる上司は静かに紅茶のカップを揺らしている。
「大は小をかねるというが、小さいものは扱いがむずかしいものだな」
いつに無く額にしわを寄せて考え込んでいる。
何のことかわからないマリアは微笑むしかない。
そして3日後。
マリアの手にアームストロングの大きな手が重なった。
(えっ!)
マリアの手にはかわいらしい真珠のピアスがちょこんと乗っている。
「えっ?」
耳を触るとピアスはちゃんと付いていた。
「すぐにできると思ったが案外難しいものだな。元のと似ておるか?」
(これ、練成で、私のために、いつも5メートルより小さいものをつくったことの無い少佐が!)
「少佐、ありがとうございます!」
感激のあまり彼女は思わず少佐に抱きついていた。数秒後、マリアの言葉に感激したアームストロングが彼女を抱きしめ…。

その後、マリアは二つの右耳のピアスに笑うしかなかった。豪腕の上司は元のピアスと完全にそっくりに作ってくれていた。
それ以来マリアはアームストロング製のピアスだけを使っている。

(まさか、このピアスをこんなことにつかうなんて、お願いよ。アルフォンス君、生きていて)
マリアはアメストリスに向かう使者に小さなピアスを託した。この使者が無事にアメストリスに入れるか、入れたとしてもアームストロングかマスタングのところにたどり着けるかはわからない。身分を示すものは危険なのでもって行かすわけにはいかない。小さなピアスは唯一の身分証明であった。アームストロングは自分が10日も徹夜を繰り返して部屋中をボールサイズの真珠だらけにしてつくったピアスをきっと覚えているだろう。(後で少佐の姉上達に聞いたのだ)
「アームストロング少佐は身長が2メートル10センチで歩幅が2メートルで靴は35センチ。大きな体に愛をあふれさせた、とても優しい方よ」
マリアは命がけで旅立つ使者に精一杯のねぎらいの夕食を並べてやり、話をしてやった。
「危なくなったら、何もかも捨てて逃げてください。あなたの命より大切な物は無いのですから」
使者はマリアの言葉に返答しなかった。言葉はわかった。しかし、「あなたの命が大事」という意味がどう受け止めていいかわからない。マリアの言葉への返答は砂漠に向かう使者の最大の荷物となった。
使者は良い知らせを持っていくわけではなかった。鋼鉄の巨人、不死の神、ヤオ族の新たな守り神たるアルフォンス・エルリックが砂漠で流砂に飲まれ行方不明になった知らせを持っていくのだ。
同時にエドワード・エルリックを何とかしてシンに伴うように言われている。アルが失われた今、不死への手がかりはエドだけが握っている。リンはヤオ族の長として、次の手を打たないわけにはいかなかった。
73 アルを探しに

71 家出する癖

2007-01-03 16:15:30 | 鋼の錬金術師
71 家出する癖

大総統から「何かご褒美を上げよう」とのありがたいお言葉を秘書長が運んできた。ラッセルはある人に会いたかった。しかし、それを口にしたらその人が困ることぐらいはわかっていた。そこで、もうひとつの焼け付くような思いを行動することで解決するために1ヶ月間の休暇を申請した。休暇の名目は未完成の技の完成である。
秘書長は一ヶ月と聞いてしばらく考えていたがラッセルがまだ病み上がりであることに気づいた。希望通りとはわからないが私からも口ぞえしようとありがたい返答があり、その後20日間が認められた。

「兄さん、本当に行く気なの」
「行くさ」
兄の返答は短い。
フレッチャーの口からは兄を止める言葉は出なかった。言っても無駄と弟は知っていた。
(他の事ならともかくエドワードさんのことで動き出した兄さんを止められる人なんていないから。それに、本当に兄さんの意思なの?)
小さなバックにわずかな着替えを詰め込んでいた兄は、ふと手を止めた。
「あいつらは俺たちと同じだ。会いたい。姿を見たい。触れたい。それだけだ」
「わかるよ。(兄さんようやく認めたんだ)僕もそうだったし。
でも本当に一人で行くの?せめてブロッシュさんに頼まない?きっと付いて来てくれるよ」
「軍に知られたくない。それに巻き込みたくない。これは錬金術師の管轄だろ」
「(と言うか、個人的都合だよ。でも兄さんは今までだって個人的都合にブロッシュさんを振り回しているじゃない)本当に大丈夫?練成陣のこともあるのに」
大丈夫と反射的に答えかけた兄は弟が始めてその話題に触れたことに気づいた。
「これをお前が取り押さえたと聞いた」
兄はまるで自分以外のことでも話題にしているような言い方をした。
「そうだよ。僕の手に兄さんの背から陣が、成長するように伸びてきた」
「お前は」
大丈夫だったのか?と兄は無言で続けた。
「僕はなんとも無いよ。でも兄さんには影響があるのでしょ」
兄はまた荷物を詰め始めた。
兄は言いたいことがあるようだ。弟はそれに気づいていた。だからエドをエリスに任せて兄の部屋に来ている。だが、兄は何も言わなくなった。
「兄さん、服を脱いで」
兄の手から荷物が落ちた。
「見たいんだ。兄さんの背中を」
「なんとも無いと言っているだろ」
「僕が見たいんだ」
弟は兄の手からバックを取り上げた。
兄がわずかに下がる。そしてすぐ後ろの壁に当たった。
「見せて」

兄は今まで弟の『お願い』を断れたためしが無い。
背中を冷たい壁に押し付けて兄はなお返答しない。
「僕が安心できないと兄さんを行かせない。縛り上げてでも僕の傍にいてもらうから」
数秒が無言で過ぎた。
兄は声を立てて笑った。
「相変わらず、甘えん坊だな」
そういうと弟のおでこをチョンとつついた。
上着を脱ぎ去ると弟に背を向けた。
「無いだろ」
確かに兄の背には何も…あった。うっすらとうすい朱鷺色で構成された練成陣。
「あるよ。すごくきれいだ」
「ある?」
兄は記憶を追いかける顔になる。底までたどり着かないうちに答えが見つかった。
(練成に反応するのか)
あの日、大総統の護衛中に今までしたことも無いような広範囲の練成を行った。
そういえば少し背が痛んだ気もするがせっかくの休みにやることが多くて忘れていた。
「何か無理したの?」
弟は下から見上げてくる。
「無理はしてない。むしろ余裕があったな。あの倍の広さでもできた気がする」
「?兄さん、何をしたの?」
「軍務だ。それ以上は言えない」
大総統は面白い技だと言って全員に緘口令を敷いた。公式文書には視察から帰ったマスタングがテロリストを処理したことのみ書かれている。
「僕にも言えないの」
「聞くな。お前に聞かれると言いたくなる」
弟は困った顔をする兄にそれ以上追求しなかった。
実のところ兄が隠したかったのは練成後貧血で倒れたことのほうだった。そんなことがばれたら出かけられなくなる。

「とにかく抑えるから
動かないで」
弟は兄の正面に回る。そのまま両腕を兄の背に回した。
兄の体の緊張が手を通して伝わる。
「大丈夫。僕に任せていればいいんだよ」
兄がいつも言う言葉をそっくり渡してやって弟は少し力を入れて兄を抱きしめた。
兄の背の陣が父の作ったものなら僕の手も父さんの作ったものだろう。理屈もやり方もわからないのに弟の手は陣を押さえる方法を知っていた。
見上げると兄は硬く眼を閉じている。うっすらと朱鷺色が兄のほほを彩る。
弟はほんの少し兄を苛めてみたくなる。
「ねぇ、兄さん。こうしているとまるで兄さんをだいているみたいだね」


予定では翌朝の汽車に乗るつもりだった。しかし、兄は用意ができたからと夜行に乗ることに決めてしまった。西へ向かう汽車に。
『アル』を探しに。

72 真珠の使い

70 罪を盗む

2007-01-03 16:14:00 | 鋼の錬金術師
70 罪を盗む

立ち上がれなくなったラッセルを兵達に預けて、ブロッシュは中将の命令で体育館に入った。
「確認したまえ。これが中佐の練成の結果だ」
そこには骨に皮膚が張り付いたようなミイラがあった。
(これは、何だ?)
ミイラの手が動いた。
(ひっ!)
声にこそ出なかったがブロッシュはあとづさった。
「練成により人体の水分を絞り上げたのだな」
中将の声もかさついている。
「い、生きている」
情けないことに声が裏返った。
「そうだ。外見がここまでになっても生きている。おそらく内臓ではなく皮膚や筋肉から集中的に奪い去ったのだろう。見るのは初めてか?」
うなずくしかない。
「大総統はいたくお喜びだ。この技をもっと広範囲に使えれば戦況を変えることもたやすい。戦闘力としては焔の錬金術師に相当するとおほめになっていらっしゃった」
人間兵器。
彼らの前では絶対に使いたくない言葉が浮かぶ。
「それと、祖父としての礼を伝えてもらいたい。孫を助けてくれて感謝している。                 ただ、       」
中将の言葉は途中で止まった。

すぐに救護車を呼んで輸液の用意をと指示を始めた部下に大総統はただ一言言った。
「不要」
犯人グループは数箇所で同時にテロを起こしていた。そのうちのひとつがすでに解決し、背後関係を含めた必要な情報は得ていた。もはやここのテロリスト達を生かしておく理由は無い。

保健室に運ばれたラッセルをブロッシュは引き取りに来た。いかにもついでのように聞いてみる。
「何をしたか教えてくれてもいいでしょう」
「うまくいったかな。人質は?」
「   みんな無事です」
「絞め殺し草の根を使って、抵抗できない程度に水分を絞っただけだ」
まるで花を植えたから水をやったとでもいう様な軽い調子でラッセルは答えた。
「犯人はみんな倒れていただろ」
「   抵抗しませんでした」
「うまくいって良かった。何しろ始めての術だから完全にうまくいくかわからなかったから」
なにやら、いたずらが成功した子供のような顔をしている。
(つまり、この人はやりすぎたのか)
おそらく人質の安全の為に確実を期したのだろう。
かさかさ。
軽い物が触れ合う音がした。ラッセルの手に10粒ほどの錠剤がある。普段は絶対自分からは飲まないのに珍しい事もある。手の中の安定剤の量が普段より多い。
「疲れましたね」
「…少しね。息苦しいな」
『発作が起きるとすればストレスが引き金になる』
医師と精神科医の共通の見解を思い出した。
人質だった子供達が精神的ショックで入院が決まったことも犯人がミイラと間違えそうな外見になったことも言いたくなかった。しかし、誰かから聞いたらよけいにショックが大きいのではないだろうかとも思う。悩むブロッシュの耳にごーという音が聞こえた。

「あれ、准将の焔だな」
30メートルにも達する焔が運動場の東の端、古い体育倉庫を飲み込んだ。
「きれいだな。前に見たときは遊びみたいなもので足元を焦がしただけだったけどあれが本来の姿なのか」
ラッセルは湧き上る焔に見とれている。彼はイシュヴァールを公式文書でしか知らない。
ブロッシュは焔から目をそむけた。彼はラッセルが知らないことを知っていた。
あの古い倉庫の中には動けなくなったテロリスト達が集められていた。
(ロス少尉、              )

出張の帰りに事件を知り現場に来たマスタング准将は大総統の許可のもと、久しぶりに技を見せるという理由でテロリストごと体育倉庫を焼ききった。

ブロッシュはいくつかのことをつないでいた。テロリストを生かす必要は無いという決定。もしあのまま放置すればテロリスト達は脱水症で死ぬ。それは意識してのことでは無いとはいえ、ラッセルが50人の命を奪ったことになる。
(准将は罪を取ったのか。すでに汚れた手に)
あの高温の焔に包まれて犯人達は苦しむ暇も無かっただろう。そしてそれはおそらく。
(マリアさんも、     苦しまなかっただろう)
ブロッシュはマスタングを許す気にはなれない。おそらく一生許せないだろう。
それでも今焼かれているモノ達が苦しむことは無かったことだけは確信できる。おそらく骨すら残らないだろう。そこまで考えてブロッシュは何か引っかかった。なぜ、マリア・ロスの骨は鑑定できたのか。消し炭のような状態だった。彼女の母と老いた父が娘の遺体を棺に入れることさえ苦労するほどに。
(なぜ、骨が残っていた?鑑定させるために?)
ブロッシュは頭を振っていきなり湧き上った考えを振り払った。もし、万が一そんなことがあったとしても自分がそれを口にしてはならないとわかっていた。
憲兵の中には残虐性を仕事という薄紙に包んだものがいる。もし、マリアが彼らに捕らえられていたら女として人間として最悪の死を迎えただろう。
いずれにしても救われたのだろうか。
焔は急速に収まってきた。
その焔に敬礼する。(マスタンク『大佐』あなたに感謝します)

71 家出

69 人間兵器

2007-01-03 16:12:00 | 鋼の錬金術師
69 人間兵器

ラッセルが何をする気なのか本当のところブロッシュにはわからない。
あれほど近くにいるエドとロイでさえ、相手の練成を100㌫理解していないと聞く。以前ラッセルは笑って言った。
「理解しろと言うほうが無理だな。何しろ本人でさえわからないところがあるから」
本気か冗談か、本人はどちらのつもりだったのだろう。
だが説明位しても良いではないかと思う。15分ほど体育館の壁に手を付いていたかと思うと、次の言葉は人質を回収しに行こうである。
あの上司の大型で豪快極まる術に慣れているせいだろうが、ラッセルのやり方は理解しにくかった。
だが、その不満も角を曲がるまでだった。意地で平気な顔を見せていたのだろう。彼は息を乱し座り込んだきり立てなくなっていた。
「まったく」
「だって、フレッチャーに報告するなんて言ったから」
弟に言われたくない一心で意地を張ったらしい。
(ひょっとしなくてもこの人エド君より子供だ!)
「練成光は?」
ようやく違和感に気づいた。練成には付き物のはずの光が無かったのだ。
「低出力なら目立たない」
「??」
返答はあったが理解できない。
「練成光は余分なエネルギーの放射だろう。低出力なら出なくて当然だ」
ブロッシユはそれほど錬金術に詳しくは無い。しかし、練成光無しの練成など聞いたことがない。

青い顔をした子供たちが体育館から飛び出してきた。中には自分で歩けず上級生に抱えられている子もいる。
「いったい何が」
飛び出してくる子供たちの中に孫の姿を見つけ老中将は軍人から祖父に戻ってしまった。
12歳になる孫はこの祖父の自慢だった。文武両道に優れいずれは祖父のように優れた軍人になると期待されていた。
その孫が祖父を見たとたんに半泣き顔になっている。
「おじい様、化け物が、犯人が化け物になった」
人質にされた恐怖で孫がおかしくなったのではと祖父は孫の目を覗き込む。
しかし、孫は真剣だった。彼は見たものを見たままに言っているだけだった。
どうやらすべての原因は少し前に姿を消した、銀色の青年にありそうだった。
彼が今年唯一の推薦枠合格者であることはわかっている。
国家錬金術師、一名を人間兵器。

少し前の話になる。
相手が子供ということで油断したのか、犯人たちは一箇所に人質を集めて3人が銃を持って見張るだけで特に縛り上げたりはしなかった。彼らは威嚇のつもりか時折子供たちに銃を向けてくる。
(小さい子がいなければ)
トーマスは抱きついて震える下級生を宥めるように背中をたたいてやる。
祖父からはいつも『軍人たるものは…』と言われている。祖父の理想はあのアームストロング元将軍である。弱い民を助けることこそが軍人のあるべき姿と祖父は言う。もっとも祖父がそれを完全に実行しているかは疑問があるが。
トーマスは護身用に銃を持っている。違法だが祖父が中将ともなると襲われた回数は片手では足りない。
一人ならば何とかできる。最悪でも自分が死ねば終わる。
「僕はシラキ中将の孫だ。人質は僕一人で十分だろ。ほかの子は返してやれ」
見張りの一人が濁った目をこっちに向ける。何か薬を使っているのかもしれない。
「確かにほかのはいらねぇなぁ」
ぐいっと一番小さい子をつかみ出す。
ひぃーと子供の悲鳴が上がる。
「何をする!」
「こいつを連れて行って見せしめにぶち抜くのさ」
見張りの銃が子供の胸に当てられた。
「ばーんてな」
「やめろ!」
無意味と気づいたのは相手に銃を向けてからだった。
(最悪という言葉で作文が書けそうだ)
ここにいるだけでも3人。しかも撃ち慣れているらしいテロリスト達。
残り二人の銃が自分の方を向く。
(おじい様。約束を守れませんでした)
覚悟を決めてテロリストを睨み返す。せめて俯いて死にたくはない。
異常に気づいたのはその直後だった。
何か細い線のような物がテロリスト達の足元から上へと這い登る。
「                 」
声にならない叫びをあげて、テロリストが倒れた。
(何だ?)
そこから先はもし見たくない物を一つあげろといわれたらためらうことなくこの数分間(正確にはわからないが)を挙げたくなるシーンだった。
 以前、学校の実習で様々な環境下での死体の観察実習があった。水中、湿地帯、高温高湿、乾燥地帯などあらゆる環境下で死体が腐敗し変質していくのを観察する。死体に不自由しない軍幼年学校ならではのそれは一応希望者のみとなっていた。興味深いのは超高温の炎で焼いた後の腐敗の進行であった。
 トーマスがこれだけはいやだと思ったのは大きく膨れ上がる水死体であった。逆にまだしもましだと思ったのは砂漠の乾燥死体であった。
黒バエのうじに皮膚を残して脂肪層を食い荒らされた死体。うじの動きに応じて空っぽの手が動いたのは偶然とわかっていたが食欲を無くすのには十分だった。
古代人はミイラを作って埋葬した。乾燥死体は埋葬といえないこともない。
しかし、その乾燥プロセスを時間圧縮で、生きている状態から目の前で見せられるのはとうてい愉快とは言えない。
子供達が泣き叫ぶ。女の子が吐く。
トーマスは責任感と逆に強すぎるショックのせいで嘔吐を免れた。
テロリスト達は干からびていった。
皮膚にしわがよる。指の皮膚が骨に張り付く。目が大きく開かれたまま一気にくぼむ。口が開く。叫び声は無い。
見えているのは手と顔・首までだが、服の下でも同じことが起きているのだろう。

下級生の泣き声でトーマスは自分が硬直しているのに気づいた。テロリストに銃を向けたまま近づき足でけった。
かさりと乾いた音がした気がした。
生きているかはわからなかった。そんなことはどうでもよかった。逃げようと思った。そのときにはほかのテロリストがどうなっているかなど考える余裕は無かった。小さい子を抱え、泣く女の子をひきずって体育館を出る。他の子供に低い声で付いて来るように言った。祖父の顔を見たら気が緩んだ。
泣いた。

70 罪を盗む

68 リザお姉さま

2007-01-03 16:10:43 | 鋼の錬金術師

68 リザお姉さま

そしてマスタング准将は古巣とも言える東方司令部へ行ってしまった。
女子更衣室で噂を聞いたリザ・ホークアイは眉をひそめた。この時期にわざわざ東方に行く理由があるだろうか。
しかも期間は7日間も、まるでロイをセントラルから追い出すために視察の命令を出したようだ。
(大佐(准将)がいない間子供達はどうなるの)
リザの思いの中で子供は4人。それは2組の兄弟たち。一人は自分では大人のつもりでいて危なっかしい立ち方で突っ張っている。一人は遠くに行ってしまった。いまだに連絡ひとつ無い。一人は信じられないほど幼くなってしまった。
一人は一番小さいのに手のかかる兄を二人も抱えている。
ブイエ将軍はリザをいつも手元から離さない。一見お気に入りのようだが、実のところマスタングへの嫌がらせに過ぎない。
何とか時期を見て様子を見に行こうとリザは決めた。しかし、ブイエ将軍はこの有能きわまりない副官を休ませてはくれなかった。
暗くなってからリザが家に帰るとブラックハヤテ号を預けている花屋の女の子から伝言メモが入っていた。
『リザお姉さま、お仕事忙しいですか。ハヤテも少し寂しそうです。今日お姉さまの昔のお友達という人が来ました。ハヤテが大喜びしていました。金髪でタバコをくわえた車椅子の大きい人です。カメラを覚えたばかりと言ってハヤテの写真を撮っていました。写真ができたら持って来てくれると言っていたのでまたポストに入れますね。    お姉さまを大好きなエリサより』
なんともかわいらしい手紙にリザは微笑む。ハヤテはすっかり花屋の看板犬になっている。それにしてもこの大きい人と言うのはハボックのことだろう。彼が田舎から出てきたのだ。それなら子供達の様子を見てもらえないだろうか。彼もエルリック兄弟のことは気にしているはずである。
(連絡ぐらいくれればいいのに)
男という生き物はそういう点が大雑把で気がつかないのだ。
いや、むしろハボックぐらいが一般的な男のレベルであろう。
ここしばらく顔を見ていないが度が過ぎるほど繊細でこまめな青年と会っていたのでリザの中で男のレベルが厳しくなっているようだった。

受けた電話が大総統第一秘書と知ってさすがにメイドのエリスも緊張した声を隠せない。幸い当然のように緑陰荘に住み込んでいるブロッシュが電話を代わった。視察への護衛の命令である。
ラッセルはジャストサイズで作られたはずの軍服に袖を通す。情けないことに借り着のようにサイズが合わなくなっている。
背中の練成陣は嘘のように収まっているが、一度落ちきった体力は簡単には戻らない。力がまるで入らなくなっている。食欲も落ちたままで、以前から細すぎると言われていた体型が今はさらに細くなってしまった。
(本当はとても無理なのだろうけど)
ブロッシュは栄養剤と血液製剤をラッセルの左足の静脈から打ち込んだ。
注射の打ち方もすっかり慣れてしまった。
「大丈夫。ほかにも護衛は付いているだろうし、俺は単なる飾りだから」
「きっと何事も無いさ」と軽い口調でラッセルは言う。
(本当に何もおきて欲しくない)
ブロッシュは亡きロス少尉に祈っていた。

ブロッシュの祈りは聞き遂げられなかった。大総統は数人の将校クラスを引き連れて軍直下の学校を視察していた。ラッセルは数メートル離れて護衛として付いている。銀色の美形の青年は予測通りに学校内の女の視線を釘付けにした。
事件はそこで起こった。
テロリスト達が幼年学校の生徒を人質に立てこもった。人質の中には護衛として付いている中将の孫もいた。犯人の要求は逃走用の車と軍の高官の人質、そしてお決まりのように彼らの仲間の解放だった。
「シラキ中将に指揮を任せよう」
大総統は孫を人質に取られた中将を指名した。
「は、光栄であります」
敬礼する老中将は軍の威信を守り、後々に問題を残さない方法を選んだ。
テロリストは大量の爆発物を持っている。体育館に立てこもりあちこちに爆薬を設置しているようだ。人質の位置もわからない。長引くと面倒なことになりかねない。他のテロリストグループが誘発され更なるテロを起こす可能性が高い。
老中将は言い切った。
体育館ごと犯人を吹き飛ばす。軍はテロに屈することは無い。それをすべてのテロリストに見せ付ける。
それが一番効率の良い方法ではあった。しかし、それでは人質は?
ラッセルは人質をいつ救出するのかについて思わず聞いてしまった。本来なら中佐ごときが口を挟んでは懲罰ものである。
「彼らは将来軍人になるために幼年学校に入ったのだ。軍人としての心構えは当然備わっているはずだ」
すなわち人質もろとも爆破すると言うのだ。

ブロッシュはラッセルより更に後方で護衛として付き従っていた。
「そんなバカな方法があるものか!」
ラッセルは老中将の胸を掴んでしまった。その場で銃殺されても仕方の無い行動である。
しかし、ラッセルが大総統のお気に入りと知っている他の将官達は見なかったことにした。
「もし、わずかでも譲歩すれば他のテロリストたちに同様の行動を誘発させる。そうなったら今回の人質の被害より甚大な被害が予測される」
老中将は諭すように言いながらラッセルの手をゆっくりと下ろさせた。
そして、他のものには聞こえないほどの小さい声で言った。
「私の孫が中にいる」

あ、声にならずにラッセルがつぶやく。
何とかならないのか!
はっと気づいた。
可能性はある。
幸い人質はすべて子供だ。犯人は間違いなく大人だ。それなら。
「大総統、お願いがあります」
誰にも膝を屈したことの無いラッセルが今自ら大総統の前に跪いた。

「ほう、自信はあるようだね」
「はい、大総統の護衛としての任にふさわしいことを証明させていただきたくお願い申し上げます」
「良かろう」
「ありがとうございます」
ラッセルが何をするつもりなのか大総統以外は聞こえなかった。

後ろに控えていたブロッシュがラッセルの脇に来た。
「何をする気です」
小声で訊いてくる。
「犯人を抵抗できなくして、人質を取り戻す。それだけだよ」
柔らかに微笑むときのラッセルが一番面倒であることをブロッシュは知っている。
死角を測りながら体育館に近づく。銃声が聞こえる。
急いだほうが良いようだ。
ラッセルが無言で手袋をはずした。もはやここまで来ては手を貸すしかないとあきらめたブロッシュは銃を構えた。練成中の錬金術師は完全に無防備になる。ことに軍人としての訓練を受けていないラッセルは自分を守ると言う意識が働かなくなる。お守り役の責任は重かった。
69 人間兵器

67 先手必勝

2007-01-03 16:09:12 | 鋼の錬金術師
67 先手必勝

翌日ロイ・マスタングはなぜかブロッシュにたたき起こされた。
ラッセルを止めてくれというのだ。
いささか寝起きの悪いロイは半分ぼんやりしていたが、ラッセルが今日から軍に行くつもりだと聞いて一気に目が覚めた。

「馬鹿なことを言うな」
朝からシャワーでも浴びたのかラッセルは湿り気のある髪をしている。
ロイは特に詩心のある男ではないと自分では思っているが、今のラッセルにはひどくそそられるものがある。
(月光の化身とでも呼ばれそうだな。金の時は華やかに見えたが、これはこれで女の目を引き付けそうだ)
昨夜より顔色は幾分ましになっているようだ。
それはブロッシュが夜中に抱えてきた人工血液の効果とまではロイは知らない。
「1ヶ月近く休んでいたんです。休みすぎたぐらいです」
ラッセルは引く気配が無い。
すでに軍服に手を掛けている。
「軍に呼び出されてからでは何かと面倒でしょう。先に行けば話が早いですし」
先手必勝はロイの教えである。正論でもあった。
それに実のところ一日でも早く復帰させたいのはロイの本音でもある。
閣下と呼ばれる地位では逆に動きにくいことも多い。
そんな時に中佐という地位の子飼いは便利この上ない。
しかも対外的にも『大総統のお気に入り』というそれ以上無い強みもある。
しかし、ロイの本音がどこにあったとしてもまだ昨日の今日である。

ブロッシュはさっきから薬を用意しながら話が終わるのを待っていた。
果たして、マスタングが止めてくれるかどうか心もとなく感じていた。
これがアームストロング大佐なら間違いなく止めてくれる。それもラッセルに負担をかけないように。あの大きな手で包み込まれただけでラッセルは大佐の言うとおりになる。
無理強いではない。ルイが言うといつでもそれが自分にとって一番いいとわかるのだ。
それに大佐がいれば最初からこんな無茶はしないだろう。
大佐がいればまだラッセルは紅陽荘で毎日のように本宅から来るキャスリンとお茶を楽しんでいただろう。
西の戦場はあまりにも遠かった。

「大総統が見舞いにだと?」
「はい、噂だけとは思いますが、もしも気まぐれにこられては面倒です」
「噂ではないかもしれないな」
ラッセルには言っていないが大総統は一度来ているのだ。といってもホムンクルスの化けた偽者であったが。
ラッセルはあのカプセルの報告と昨夜ブロッシュの運んできた情報を重ねた結果、可能性は高いとの判断を下した。万が一、緑陰荘に来られてはエドのことを隠し通せなくなる。一応エドは対スカー戦で負傷し戦闘に耐えられない身体になったということにしていた。
しかし大総統が来て、もしも真実が知られればエドの人体練成までが暴かれかねない。ロイにとってもエドの安全のためにも避けたい事態である。
「エドは俺の患者だから、あいつの安全は俺が守る」
ラッセルは最終的に自分の意思を通した。

話し合いの結果はブロッシュを落胆させた。
一応、挨拶に行ってしばらく軍を休めるようにお願いするということになったが、要するに大総統のところで出たとこ勝負である。
とにかく朝食だけはとあまり食欲のなさそうなラッセルを無理に食卓につけた。パンを見たときブロッシュだけが気がついた。紅陽荘の朝食と同じものだった。おそらくローザがエリスに託したのだろう。
朝食を終えたときようやくロイは気がついた。
ブロッシュはいつ緑陰荘に来たのだろうと。
エドの安全のために緑陰荘はめったな人間は入れないことにしていた。今のところ訪問しているのはリザ・ホークアイだけである。その彼女もブイエ将軍に仕える立場上めったに来られなくなっている。
今朝ブロッシュは当然のようにラッセルの脇に座りあまり食の進まない彼にあれこれ勧めている。
その姿は胃のオペ直後のエドとラッセルを思わせた。もっともラッセルの立場はあの時と逆になっているが。

「おや、今日あたり見舞いに行こうと予定していたのだが出遅れたようだね」
大総統の言葉はラッセルをひやりとさせ、外見には出なくてもロイを驚かせるのに十分だった。
ラッセルはロイの教えたとおりの言葉で大総統に長期の休みをお詫びした。そして、しばらく休みたいと続けようとしたところで大総統に先に口を開かれた。
「良いタイミングで出てきてくれた。これからマスタング君は私の名代で東方を視察に出るのだよ。7日はかかるのでね、その間の護衛をどうしようかと思っていたのだ」
それはすなわちラッセルに護衛を勤めさせるということである。視察の話はロイも初耳だった。
これでは休みの話など言い出せない。
「閣下、ラッセルはまだとてもお役には立てません」
軍人としての常識に反するが思わずロイは答えていた。
秘書長官の視線がマスタングをなぜる。今の言葉はどう見ても上官への口答えである。しかし、大総統はあっけらかんとでも言いたくなるような笑いを見せた。
「なに、付いてくるだけで良い。これほど外見の良い護衛はめったに見られるものではない。テロリストどもも見ほれることだろう」
マスタングの無礼は大総統の笑いによって、とがめられることなく消えたことになった。
こうなっては仕方が無かった。ラッセルは一時の代理とはいえお茶の相手から護衛に昇格した。
大総統に正規の軍人並みの挨拶を済ませると引き下がる。
後で秘書長官に護衛は呼び出された時だけで良いので自宅で休んでいるようにブロッシュを通して命令があった。
車の中で最悪の結果でこそ無かったが最低の結果にラッセルは膝を抱えた。
それでも帰りにゼネラル社の工場に寄るように言い出してブロッシュに怒られた。
「今度無茶したらフレッチャー君に報告するよ」
ラッセルに言わせれば脅しそのものの言葉で、ブロッシュはラッセルの動きを止めた。それにしても、弟に告げ口すると言われて引き下がる兄も情けないし、言う副官の方はもっと情けなかった

66 家出息子の帰宅

2007-01-03 15:04:12 | 鋼の錬金術師
66 家出息子の帰宅

「よぉ家出人やっと帰ってきたな」
一ヶ月近く会ってないとは思えない軽い言葉、聞けばエドは2ヶ月や3ヶ月の行方不明はしょっちゅうしていたそうだから1ヶ月ぐらいはなんとも思わないのかもしれない。
ラッセルは「調子はどうだ」とは聞かない。離れていても意識さえあればエドの体調は100㌫分かる。
「お前、えらくやせてないか。軍で何していたんだよ」
「少しな」
返事にならない返答をラッセルは返す。どうやらエドは自分が軍の仕事で出ていたと思っているらしい。それならそれでいいとラッセルは思った。
「エド、お前フレッチャーにわがまま言わなかっただろうな」
「冗談じゃないぜ。あれこれ言われていたのは俺のほうだ。薬は苦くなるし、注射は痛くなるし、外には出してくれないし」
さらに言おうとしたエドだがラッセルの顔色があまりにも青白いのに気づいて言葉を止めた。
「あいつは俺と違って厳しいからな。『患者は管理するもの』があいつの持論だ。ま、気長に飼いならしてもらえよ」
ぽんぽんと軽くエドの背中をたたいてラッセルは行ってしまった。
ドアを閉める前に軽く振り向いた
「エド、毛布の下に隠している本、フレッチャーなら簡単に見つけるぞ」

ラッセルにすればロイと会うのはほぼ1ヶ月ぶりである。まさか帰っているとは思わなかったロイは居間のソファにすわり本を読むでもなく広げている彼に驚かされた。顔色が悪い。どう贔屓目に見てもまだ病人である。だが、ラッセルはもう以前の生活に戻るつもりらしい。広げられている本が士官学校のテキストであるのにロイは目を留めた。そういえば彼が倒れる前はよく夜中に講義をしていたのだ。あれも今にして思えば無理をさせていたのだろう。
「お疲れ様です。准将。お食事は」
「食べてきた」
まるで一ヶ月近くいなかったことなどなかったかのようにラッセルは以前と同じに振舞う。
肩を軽くつかんで引き寄せるとあまりにも抵抗感なく引き寄せられた。
「実技ですか」
ラッセルは軽く微笑む。必死で、前と同じ様に。
「休みなさい」
ロイはラッセルの手からテキストを取り上げた。
もう22時である。病み上がりのいやどう見てもまだ病人である。腕などはエドよりも細いのではないだろうか。
「でも、」
「せめて後10日はゆっくりしてからにしよう」
「はい。准将」
意外に素直に引き下がったなとロイは思った。
そういえば食堂の料理人からのカプセルを持ったままである。開けようとしたのだが何かの工夫があるらしく簡単に開かなかった。本気になればロイなら開けるのは簡単だが忙しさにまぎれて忘れていた。
「ラッセル、土産だ」
軽く投げた。受け取ろうとしたラッセルの手は空をつかんだ。
ころころとカプセルは床を転がった。
拾おうとして床に手をついた、その手がまた空をつかむ。
「ラッセル、まさか、目が」
びくりと肩が大きく揺れた。
顔を上げたときには以前と変わりない穏やかな笑みを浮かべている。
「すこし、見えにくくなっていますけど特に不自由はないので」
ロイは無言でカプセルを拾い上げると手に乗せてやった。
「開くのは明日にしなさい」
「はい」
ラッセルはロイの言いつけを『きちんと』守った。すなわち深夜0時を超えてからカプセルを開いたのである。内容は食堂で拾い聞いた噂話。真偽は明らかでない。ゴシップに近い内容もある。准将に報告すべき内容はなさそうだ。それにしてもまさかロイを通じて受け取るとは思わなかった。以前に何かあったらマスタング准将にと秘書課の一人に言ったのを覚えていたのだろう。
こっこっ。小さくノックの音がした。
誰であるかはすぐ分かった。
「ブロッシュさん」
ゆっくりとドアが開かれた。
「驚いたよ。急に帰ったと聞いて」
「ごめん」
ブラッシュは床に響かないようにそっと荷物を降ろした。人工血液のアンプル、ラッセルが紅陽荘に置いてきてしまった大量の薬、増血剤に精神安定剤、ビタミン剤等、そして毛皮の敷物。
「それ?」
「あ、昼寝用に持っていくようにローザさんに持たされたよ」
確かにアームストロングが自ら射止めたと聞くその熊の毛皮はラッセルのお気に入りのお昼寝場だった。これをソファの上に引いて本を抱えているのが昼食後の習慣になっていた。
「もう、昼寝する予定はないけどな」
「だめだよ。急に習慣を変えたら調子が狂うだろ。それに先生に聞いたよ。まだ許可されてなかったそうじゃないか」
「つらかったから」
口の中だけでつぶやかれた言葉をブロッシュは聞こえなかったことにした。
それにしても何もない部屋だった。壁には軍服がかかり本棚には何十冊もの本が並んでいる。特に特徴のない洋服入れと作り付けらしい鏡。これが若い男の部屋だろうか。紅陽荘の病室でさえももっと華やかで生活感にあふれていた。
「何もない、だろ」
「ほんとに」
「セントラルに来てからいろいろありすぎて、余計なことを考える気分になれないから」
それにしてもこれほど殺風景とは、紅陽荘で過ごした環境とのあまりの差に精神に悪影響を与えないかが心配になってくる。

「明日から軍に行く」
何気なく渡された一言である。
言い出したら聞かないのは分かっているが、それでもブロッシュは止めないことはできなかった。言いあううちにラッセルはふっと倒れた。どうやら眠っただけらしく脈は安定している。
その夜、ブロッシュはラッセルのベッドの脇に例の毛皮を敷いて寝た。隣の寝室を借りればいいのは分かっているが一人でいさせるのが不安だった。思った以上に寝心地は良い。この毛皮に包まるようにして眠るときだけは心地よさそうにしていたラッセルの寝顔を思い浮かべる。
「大佐、無事に帰ってきてくださいよ。ロス少尉、大佐を守ってください」
ブロッシュは知らない。マリア・ロスが生きていることを。そしてはるか西の砂漠、シン国に属する砂漠で一体の優しい鎧が砂に飲まれたことも。

67 先手必勝

65 僕に抱かれたの覚えてる

2007-01-03 15:02:08 | 鋼の錬金術師
65 僕に抱かれたの覚えてる

どのくらい眠ったかわからなかった。紅陽荘では全員がラッセルのリズムに合わせて行動してくれた。不眠症の傾向のあった彼に合わせて食事も身の回りの世話も24時間体制で待機していた。
「帰ろう」
とはっきり決意してからは、なるべく正しいリズムで生活しようと心がけたが急になおるものではない。そういえば紅陽荘では時計すら見る必要が無かった。
何とか目を開く。
部屋は薄暗い。明かりのスイッチがどこにあるかわからなかった。思えば1ヶ月近くこの部屋に帰ってきていなかった。戻ってきてようやく自分がどれだけ紅陽荘で大事にされていたか痛感した。どこで何をしていても必ず誰かが見ていた。本を抱えてソファでいねむりをしていたときは気が付いたら部屋のベッドの中にいた。本はしおりを挟んでベッドサイドに置いてある。少しでも神経が休まるようにと花は一日に2回は取り替えられた。そういう気遣いがわずらわしいこともあったが、今になって思えば自分はずいぶんわがままに振舞っていたのではないだろうか。
ラッセルは当初ほとんど食物を受けつけなかった。その対策として、ラッセルは知らないが、一日3回車を走らせて新ゼノタイム(ゼランドール市)で土地固有の農産物を運ばせていた。同じように見えるたまねぎ一つでも土地によって風味は異なる。どうやらラッセルはその微妙な違いを拒否していたのだろう。
「    (ルイ)   」
緑陰荘に戻った以上もうあの人のことをセカンドネームで呼ぶことは無いと思った。当たり前に正常に戻るだけなのだ。そのことを考え込む必要など無いはずなのだ。
とにかく明かりをつけようとベッドから降りかけて足がしびれているのに気づいた。収まるまで動かないほうがいいと窓の外を見るとまだほのかに明るい。
(30分位か)
眠っていた時間を推察する。
ようやく明かりをつけた。
今になってローザをはじめとする紅陽荘のスタッフの有能さがよくわかった。紅陽荘ではラッセルは要望を伝えたことは一度しかない。言う必要が無かった。いくらか回復してきたころだが、時間の掛かる点滴にうんざりしているとハープを抱えたメイドが古典音楽を弾いてくれた。さすがに名門でメイド達すらさまざまな文芸に造詣があった。一度だけだがルイがバイオリンを弾いた事もあった。暗くなる前には明かりがつけられ、眠りかけたときは眩しくないよう光を落としてくれた。暑さ寒さを感じたことも無かった。
そして、今更だがどうして紅陽荘に有機化合物合成の最新本が幾冊もあったのだろうか。あれはラッセル一人のために用意されたのだろう。
あらゆることにまったく不満を感ずることすらない、そしてさまざまなお世話を意識することすらない。
(なるほど、貴族文化とはそういうことなのか)
マスタングの言いつけで貴族階級の出入りも多い社交界にも顔を出してはいたがラッセルには貴族がどういう者なのかどうもよくわからなかった。それがようやくわかった気がした。
(それでも軍人ができるのだからルイはすごいな。まわりもフォローしているのだろうけど。ブロッシュさんも、・・・ロス少尉って誰だ?)
ラッセルの知る限りロスという名に覚えは無い。
(准将にでも聞いてみようか。今夜は帰ってくるかな)
なるべくゆっくり階段を下りた。手すりをしっかり握り数段ごとに休む。
喉が渇く。これも懐かしい感覚だ。紅陽荘ではさりげなくお茶が用意され、まともな食事に対し、食の細すぎるラッセルのために甘みの少ないクラッカーや1.5センチサイズのベリーパイ等が常に用意されていた。
ことんことん。小さく足音を立てて降りる。階段の下で弟が見上げている。
「おはよう、兄さん」
「?何時だ?」
「もうすぐ6時だよ」
「6時?寝たのは6時半だったはず」
「兄さんあれからずっと寝ていたもの。夕飯呼びに行っても起きなかったし」
「俺、12時間寝ていたのか」
「うん。疲れたんだよ。急に動いたから。そうそう、カートン先生から伝言だよ。毎日来るようにと。兄さん、まだ許可が下りてないのに勝手に出てきたんだね」
「お前あの先生のこと知っているのか」
「一度会ったよ。その後は毎日電話で話しているし、それより兄さんどこまでわかっているの」
「どこまでと言われても」
「ねぇ、僕に抱かれたの覚えている?」
ラッセルは階段を降りきっていてよかったと思った。さもなければ今の一言で絶対踏み外していた。
兄がずりずりと後ろに下がり声にならない声を発しているのを見て弟はこの様子では何も覚えていないと判断した。
兄は何をどこまで聞いているのか?いきなり帰って来るとは思わなかったからカートン医師とも精神科医のヒーラーとも何の相談もできていない。うかつなことを言わないほうがよさそうである。

64 再会と和解

2007-01-03 14:59:49 | 鋼の錬金術師
64 再会と和解

コッコッコッ
小さい足音が聞こえた。
(ようやく帰ってきた)
弟は安堵のため息をついた。紅陽荘から電話をもらってから約1時間。途中で倒れてはいないかと焼け付くような思いで待っていた。ドアの前で苛立ちを隠せないフレッチャーにエリスは「そんなに心配なら迎えに行けばいいのに」と言った。しかし、弟は兄を知っていた。一人で帰ると決めた兄は何があろうと一人で帰ってくる。うかつに迎えになどいったら兄がどれほどプライドを傷つけられるか、そんなことになったら立ち直るのにどのくらいかかるか見当もつかない。
それでもただ待っているのは長かった。
(アルと話したい)
待っている間、同じく手のかかる兄を抱える立場の友を思った。アルは今どこで何をしているのだろう。
足音が止まった。弟はドアが開くのを待った。鍵はずっと開けてある。
5秒10秒15秒20秒ドアは動かない。

(もう少し、ここまで来て倒れてたまるものか)
ラッセルはドアに背を預けて動悸が治まるのを待っていた。最後の20メートルで無意識に無理をしたのだろう。胸が痛む。カートン医師の言葉によると自分の心臓は普通の倍も酷使されているという。元のサイズが小さい上に普通では考えられないような運動量をこなしてきている。元々心臓外科の専門医だったカートンは「どうせ君にはわかることだからと」診断結果も診断理由も話してくれた。
『心臓を取り替えることができない以上、治療は不可能だ。幸い急激な発作の兆候は無い。君の体質では薬もうかつに使えない。とにかく痛みを感じたら余計なことを考えず休むことだ』
穏やかに生きろということだろう。
「冗談じゃないぜ」
「必要なときに何もできないなら死んでいるのと同じだろ」
(俺にはそんな生き方はできない)
後5年もあれば弟を守る必要はなくなるだろう。エドにはあと1年あればいずれにしても目処はつく。
5年で十分だ。
息を整えてドアノブを握る。紅陽にいたときからわかっていたが背の陣の暴走は全身の筋肉を干からびさせてしまったらしい。最初は起き上がることさえも人の手を借りた。今も前と比較すると20㌫ほどしか力が出ない。重いドアを開くのにも苦労しそうである。
キィ
小さな軋み音を立ててドアは開かれた。
最初に見えたのは金の髪。
「ただいま、フレッチャー」
「お帰り、兄さん」
兄の体が力尽きたかのように崩れかける。
弟の両手が兄を支えた。
「情けないな。お前に支えられるようになるなんて」
最初に謝ろうと思っていたのに兄の口から出たのは自嘲の言葉だった。
「もう一人で無理をしてはいやだよ。僕が半分持ってあげるから」
泣かないつもりの弟は予定が狂ったのを感じた。
兄の手が弟のほほに触れる。そのあまりの冷たさに弟は我に返った。
玄関先で泣いている場合ではない。早く兄を休ませないとここに帰るまでで体力を搾り取っているようだ。
「行こう。部屋は温めてある。もう窓を開けないでよ」
肩を貸そうとするが兄はそっとそれを抑えた。
「部屋ぐらい一人で行くさ」
止めても無駄と弟は知っていた。だから横に付いて歩いた。
廊下にも階段にも緑陰荘はいたるところに手すりがつけられている。エドのために付けたのだが自分が先に使うとは思っていなかった。
階段の前で兄は立ち止まった。
足が上がらない。思えば紅陽荘ではずっと点滴の管につながれていたため一人で階段を上がったことは無かった。
「兄さん」
弟がそっと手を差し伸べる。
兄は30秒きっかり固まった後、弟の手を取った。
ゆっくりゆっくり一段ずつ登っていく。兄にとって階段の上り下りが当分は最大の課題になりそうであった。
部屋に入ってようやく兄はコートを脱いだ。そしてふと手を止めた。部屋のコート掛けには同じデザインのコートがかかっている。
「これ、お前のだな」
「うん、一度紅陽荘に行った時に連れて帰るつもりで兄さんに着せたんだよ」
「大きくないか?」
「ちょうどいいよ。コートの大きさなんてそんなものでしょ」
「そんなものかな」
兄も弟も気づかなかった。すでにこの時点で弟は兄より大きいと言う事実に。
「休んでなきゃだめだよ」
そういって弟は兄を部屋に残してドアを閉めようとした。
「フレッチャー」
小さく呼ぶ声。振り返ると兄は下を向いていた。
「ごめんな」
弟はゆっくりドアを閉じた。兄の顔を見ていたかったが、そうしたらきっと兄は怒ると知っていた。
「兄さん、なんだか、かわいくなったね」
ドアを閉めてから兄が聞いたら怒るのを通り越して泣きそうなことをつぶやくとしばらくほったらかしのエドの部屋に向かった。

63 優しさの深み

2007-01-03 14:58:26 | 鋼の錬金術師
63 優しさの深み

あの人は誰よりも優しいから、あの人のそばにいると全身で頼りたくなる。自分で立てなくなる。怖いから、早く離れたかった。

「お世話になりました。いずれご挨拶に参ります」
ラッセルはローザにだけ声をかけるとコート一枚を手にして初めて紅陽荘の玄関を出た。風は無いが空気が冷たい。
「お待ちなさい。まだ、先生の退院許可も出ていないのに何をするつもりなの」
「緑陰荘に帰ります」
「いけません」
ローザが庭箒を横にして行き先を妨害した。
「約束だから」
「?」
「一人で歩けるようになるまで預けると約束されているから、それなら歩いて帰れれば帰っていい、そうでしょう」
そういえば、前にルイ坊ちゃまがそんなことを言っていたような記憶があった。
それにしてもまだようやく流動食を卒業した状態の彼を返せるものではない。
「せめて、坊ちゃまがお帰りになってから」
「ル、大佐は当分帰れません。ブロッシュさんが教えてくれた。戦場にいると」
だから、今のうちに帰る。声にならず小さくつぶやいた。
ルイ坊ちゃまのご不在時に何かあっては困ると思い、ローザは力づくでも止めようとした。坊ちゃまならともかく同じ男とは思えないほど細い彼一人ぐらい止めるのはわけもないと思えた。
しかし、3秒後彼女は自分が甘かったのを痛感した。足が動かない。見ると細いつる草が絡み付いている。簡単に引きちぎれそうな細い蔓なのにまったく動かない。
「15分したら外れますから」
ラッセルはにっこりと特上の笑みを浮かべるとコートを肩に引っ掛けて行ってしまった。
不運なことにラッセルのわがままに対応してメイドの人数を減らしたばかりの紅陽荘には庭からの声が届く範囲に人はいなかった。
15分後、予告どおり蔓は自分から落ちた。
すぐ緑陰荘にホットラインを入れる。どんなにゆっくり歩いても10分程度の道だ。もう着いているはずである。しかし、返事はNOであった。
ローザは箒を放り出して外に走り出た。
半分ほどの場所でラッセルが壁に背中を預けているのが見えた。駆け寄ろうとしたが彼の側に車椅子の男がいるのを見て足を止めた。話し声が聞こえてくる。

「おい、本当に一人で行けるのか」
「行きます」
「誰かの手を借りてもいいだろ」
「一人で歩いて帰るのが約束だから」
「そんな約束守る必要あるのか」
「あなたはどうなんです」
「俺?」
「そうですよ。そんな状態になってまだここに来る。約束だからでしょう」
「少し違うな。俺がしたいと思ったからするまでだ」
「大佐を追いたいから、ですか」
「そうだ。あの男の背中を守ってやる。前しか見ない男だからな」
「大佐は誰よりも強くて優しい。あの人を守る必要がありますか」
車椅子の男はタバコに火をつけた。
「強いな。だけどあの男の強さは違う。前に目的に向かう強さだ」
ラッセルは大佐の元部下と言った車椅子の男を改めて見た。
微妙に話が食い違う気がした。
煙が吐き出された。わずかな煙がラッセルのほうに流れてくる。急に目の前がかすんだ。
「おい、どうした」
男の声で我に返った。どうやらめまいを起こしかけていたらしい。
もう少し休みたかったが、休んでいる余裕は無いようだ。
「大佐の家はそっち側です」
片手で紅陽荘を指し示した。
思い切って壁から背中を離す。
壁に片手をつけてゆっくりと足を運ぶ。
(夕方までには着くかな)
なぜか車椅子の男は紅陽荘に行かず、ラッセルの横を着いてくる。
「あちらですよ」
「今日は行かないのさ」
「?」
「この姿で行っても役立たないからな。これから(戦障者リハビリ)センターでせめて杖で歩けるようになってから来る。どうせ大佐はいないのはわかってたしな。大将の顔ぐらい見ていくつもりだったが時間切れだ」
(大将?)
「こんなところで俺に付き合ったからでしょう」
「ま、な。お前大将に似ているな。一人で無理をするところが」
「そうおもうならほっといていただけますか」
「かわいくないところも口の悪さもそっくりだなぁ」
車椅子の男はなんだかんだと言いながら、さらにしばらくラッセルのペースについてきた。
緑陰荘の門が片手に触れたところで男は車椅子の角度を変えた。
「じゃあな、坊主。あまり無理ばかりするなよ」
「あ、お茶ぐらい」
「そのうちにな」
そういうと片手をあげてあっさりと行ってしまった。
結局、ラッセルが途中で倒れないよう見ていてくれたのだ。
(大佐の部下と聞いたけど、名前くらい聞けばよかった)
金髪の、車椅子に座ったままでもわかるぐらいの大男である。もっともアームストロングを見慣れた目には特に大きいとの印象は無い。
門から玄関まではさらに20メートルある。バラの香りが夕方の風に運ばれてくる。ラッセルはゆっくりと息を整えた。
弟に会ったらまず何と言おうか。最後に見た弟の姿がうかぶ。払いのけられた手を信じられないもののように見つめる姿。
(謝るのが先だろうな)
あれこれ怒られるのは覚悟しなければならないようだ。
そういえば不在時に出て来てしまってアームストロングにも怒られそうな気がした。それでももう限界だった。これ以上近くにいたら帰れなくなる。そんな気がした。
安心して寄りかかって、甘えて、あの人を待って。
ラッセルの中でそれらは処理不能の感情だった。
だから、 逃げた。

62 ボーイ

2007-01-03 14:56:26 | 鋼の錬金術師
くれると思いながら無理やり飲むブラックコーヒーは普段より数倍苦く感じた。
コトン
小さいものが目の前におかれた。見上げると食堂の料理人が小さなミルクポットとシュガーポットを置いている。
「マスタング准将は甘党と伺っていましたがお使いになりませんか」
「あぁ、ありがとう」
コトンとさらになにか置かれた。プチサイズのケーキが5個乗った皿が置かれる。
「錬金術師の方は等価交換をされると伺いました。トリンガム中佐のことを教えていただけませんか」
つまりはケーキで情報と交換という事だろう。
苦笑しつつロイは尋ねた。
「私の好みを誰に聞いた」
「トリンガム中佐からです」
意外だった。ラッセルが食堂の料理人と仲良くなっているなど考えもしなかった。
「この頃誰も姿を見なくなってみんな心配しているのです。ブロッシュ副官もこっちに来なくなっているし」
たまたまロイを見つけて聞くことにしたらしい。
それにしてもみんなとは誰のことだろう。
「青バラ隊のメンバーですよ」
返事は簡単だったがさて青バラ隊とは何だろう。
「トリンガム坊やのファンクラブです。35歳以上の女性が中心でうちのメンバーもほとんど入っていますよ」
内心ロイとしては幾分面白くない。ロイでさえもセントラルではファンクラブなど持っていないのだ。しかし目の付け所は悪くない。士官食堂は軍の噂の集まるところである。どうやらラッセルはロイの教えを師匠以上にまじめに実践しているらしい。
「少し調子が悪いので休ませているが、まだしばらく出て来られないな」
料理人はロイに丁重に礼を言い、下がった。
まめな子だとつくづく思う。口では何気なさを装っているが結構こまめで真面目で努力するタイプなのだろう。
「お買い得だったな」
ケーキの中に隠された明らかに報告書と思われる小さなカプセルを握り締めロイは久しぶりに満足の笑みを浮かべた。

63 優しさの深み

61 いたずらな青バラ

2007-01-03 14:49:11 | 鋼の錬金術師
61 いたずらな青バラ

翌日、アレックス・ルイが軍から帰ると紅陽荘は明かりが点いていた。薄暗い昨日と違い、壁にかけられた黄金のレリーフもはっきり見える。
昨夜、風呂から上がった後、精神療法師のヒーラーがラッセルを独占した。どういう話し合いがあったのかはわからないが効果はあったのだろう。
病室の窓の曇りガラスが透明ガラスに戻っている。
壁には鏡が戻されていた。
ラッセルはブロッシュに支えられながらじっと鏡を見ている。
「真っ白か、年寄りみたいだな」
「そんなことない。金もよかったけど銀もきれいだし、よく似合っているよ」
「そうかな。また、エドに老けたって言われそうだ」
鏡を見て苦笑する。
(どうやら大丈夫のようだな)
「大佐、お疲れ様です」
「おぉ、ブロッシュも今日は早かったのだな」
ラッセルが長期で休んでいる今もブロッシュはラッセル専属のままである。
「さぁ、あまり起きていると疲れるから」
「ん、工場の指示を」
「ちゃんと伝えてくるから本を読まずに休んでいるんだよ」
「わかった」
上司と部下というより手のかかる弟と兄の会話のようである。
ブロッシュがラッセルの背中を支えて、ベッドに横にさせる。支えられるほうも支えるほうも慣れきっている。
「では、大佐。ラッセル君をお願いします」
「何だ、用事か?夕食ぐらい付き合ってもよかろう」
「ブロッシュさんには、工場に指示を伝えてもらいたいから」
「工場?指示?何だ、それは」
しまった。声にはならないが、ラッセルの手が口元を押さえた。
「待て、ブロッシュ、工場への指示とは何だ」
めったに怒ることのないアレックス・ルイが少し語気を強めた。
子供が悪さをしている現場を見つけたような気がした。

ブロッシュの視線がラッセルに向く。
「ラッセル」
地を這うように低いアレックス・ルイの声が追求する。
こくん
ラッセルがあきらめたようにうなずいた。
(どうしてこの人の声はこんなに低いのだろう?)
体格による声帯の違いはよくわかっている。自分には決してこの人のような落ち着いた大人の声は出せない。
(でも、それだけじゃない)
(なぜ、この人の問いには答えてしまうのだろう)

ラッセルは少しずつ話し出す。
それは決して話すのを嫌がっているわけではなくて、むしろ本当は。
「欲しい物があったから」
「何がいるのだ」
「手に入らないものが、だから自分で作ることに決めたんだ」
おや、とブロッシユは気づく。紅陽荘に来てからラッセルの口調が時々変わるようになった。
『口先3寸で渡ってきた』
ラッセルはセントラルに出てくる前のことをそんな風に言った。彼の過去を考えると、そんな風になってしまっても仕方なかったのではないかとブロッシュは思う。まだ少年のうちに親を失い、小さな弟だけは守らなければと必死になって大人の間を歩いてきた。そんな中で大人顔負けの会話術を身に着けたのだろう。
そのラッセルの口調が紅陽荘に来てから年齢相応に時々変わる。
(安心しているのかな)
確かにこの大きな上司の傍はとてつもなく安心感があった。
「行き先は軍に血液製剤を納めているゼネラル薬品の研究所です」
「前にブロッシュさんに頼んで、セントラルで研究施設の整った薬品会社や化学薬品会社を調べてもらった。どうしてもほしいものがあるから」
ラッセルとブロッシユはお互いに補完しあいながら話し続けた。
「もう、准将に話したから知っていると思うけど、ゼノタイムにいたとき赤い石を作りかけていました」
ラッセルは知っていると思うと前置きしたがアームストロングもブロッシュも初耳だった。

それはこういう話だった。

ラッセルから設備の整った薬品会社を大至急調べてほしいと言われたブロッシュはデータを渡した。その中で、ゼネラル社が条件に合っていたらしい。次には社長以下役員全員のデータを要求された。それも渡してやると何やら楽しげな様子でお得意の青バラの花束を作っている。
3人の女性の名をあげると彼女らに花を贈るようにいった。
その後、データをそろえるのに手を貸してくれた秘書課のご婦人一同に青バラと香水を送る。この辺りの気遣いは、さすがにロイ・マスタングの弟子である。
「腕に覚えのある術師なら人生一度は賢者の石を望む。
それが一度で終わるか、一度しかできないかは実力しだいである」
100年程前の有名な術師の遺言である。この術師自身は一度しかできなかった。すなわち練成後のリバウンドで亡くなった。
ラッセルの父、ナッシュ・トリンガムも強制されたとはいえ、赤い石を作ろうとした。結果は不完全な液体を残した。
その後ラッセルは父の残した研究を受け継ぐ形で赤い石を作った。不完全品であったがそれなりの力はあったらしい。
『父』のことを語るときラッセルの言葉は完全に事務的になった。父という言葉はない。何気なく聞いていると偶然誰かの研究を受け継いだだけとしか聞こえない。だが、指先が言葉を裏切った。ベッドの枠をきつく握り締めわずかに伸びかけた爪が浮き上がっていく。神経が『父』のことに乱されて傷みを感じていないらしい。
ブロッシュが話をやめさせようと立ち上がりかける。しかし、アームストロングに止められた。言い出しかけたことは言わせたほうがいい。途中で止めるとしこりを残す。視線だけでそう語る。幸い今夜は医師も精神科医もいる。何かがあっても対応できる。
「おそらく、ゼノタイムと同じ方法をとってもまた同じ場所で停滞する。それなら」
ラッセルにはセントラル随一の有機練成者としての視点があった。
命はどこから命なのか?
命を突き詰めていくと命といえるか曖昧なモノに行き着く。それなのにいまだに錬金術師は『命』を作れない。
ラッセルが作る青バラも生長練成に過ぎない。元になる白バラの細胞に手を加え好きなサイズ香り色に成長させる。ただそれだけである。とはいってもいまだにまねできる者さえいない。
「『石』を作るのに『命』以外からの方法がないかと考えたのです」
この辺りに来るとブロッシュはついていけなくなり始めた。化学式をそのままやり取りする錬金術師の会話は一般人には理解できない。
実のところアームストロングでさえもすべて理解していない。これは能力の問題でなく専門性の問題だった。現にラッセルに火系の練成はできない。アームストロングのような大型の豪快な合成練成もできない。
ゼネラル社は血液製剤と輸血用保存血を軍に納入している。しかし、輸血用保存血の保存性は悪く、品質劣化が問題になっていた。軍にとって負傷者がどのくらいの率で再戦力化できるかは次の戦闘のデータとして重要である。
ゼネラル社は軍から血液の保存性向上を求められていた。ゼネラル社の研究所に紙一重の天才と言われる研究員がいた。その研究員を中心に社は人工血液の開発に乗り出した。成功すれば会社の業績アップは計り知れない。
しかし、後一歩と言うところでいきづまっていた。2代目社長はあせった。もう相当の投資をしている。妻にも先代社長にも軍への納入を迫られている。
社長は愛人の家にいた。家は社長令嬢だった妻のもので、婿養子の彼の居場所はない。会社では先代以来の重役たちがのさばっている。彼がのんびり羽を休められるのは没落貴族の愛人の家だけである。
愛人が自慢げに大きな花瓶を抱えてきた。
「見て、きれいでしょう」
「青バラか、珍しいな。どこで買ったのだ」
「贈り物よ。この間のお茶会でピアノを弾いたお礼にいただいたの」
没落したと言ってもまだ貴族社会と少しはつながりのある愛人は楽しそうに言った。このご機嫌なら今夜はいい夜になる。彼も上機嫌になった。
彼の上機嫌は会社で社長室の花瓶に、愛人の家で見たのと同じ青バラを見るまで続いた。
「それは?」
彼の顔色はバラよりも青くなった。
「先ほど軍の方がいらっしゃいまして、明日工場を視察したいとおっしゃいました。視察はトリンガム様です。その方が私宛にくださいました」
30を過ぎた秘書は下膨れのとても美しいとはいえないほほを染めた。
婿養子社長が家に帰ると妻の部屋にも青バラがあった。
翌日、やってきたのは黄金の髪に純白の肌。どこかの王子様と呼びたいような貴族的な若者である。
「次回の査定のために追っているテーマが血液内の抗体の抵抗値をマイナス28まで転じ、…」
専門用語を駆使してのトリンガム国家錬金術師の説明は2代目社長にはまったく理解できなかった。社長はただ彼が贈った青バラを見ていた。
(この若造はあいつのことを知っている)
にっこりと愛想のいい微笑を見せるラッセルは工場と研究所への自由出入りと研究への協力を求めた。代わりにいきづまっている人工血液開発への全面協力を申し出る。
社長にはイエスの答えしかなかった。

早速、その夜からラッセルは研究所に出入りし始めた。毎晩のように深夜に車を走らせ夜明け前に緑陰荘につれて帰るのは当然のようにブロッシュの役目である。ラッセルは軍の副官とはそういうものだと思っているが、これは破格のサービスであった。
そんな日々が続く中ラッセルは行きの車の中でめまいを起こした。気配の変化にブロッシュは車を止める。青白い顔で震える彼を落ち着かそうと抱き上げた。
その手ごたえのなさにぞっとした。
「休もう」と言うブロッシュにラッセルは怒った。
「後一歩まで来ているんだ。休んでいる暇なんかない」
力の入らない手でブロッシユの胸を叩く。その姿はわがままな上司と言うより駄々をこねる子供を連想させた。
「それなら、必要な指示を私が伝えますから、結果も聴いてきますし、今日は帰りましょう」
それがきっかけでラッセルの体調が悪い日は指示だけをブロッシュが運ぶようになった。電話では盗聴の恐れがある。それに結果を聴いてくる必要もあった。今回もラッセルが何とか意志を伝えられるようになったとたんに指示の伝言と結果報告を頼まれた。今夜はもう何度目かに指示を伝えにいこうとしたらたまたまアームストロングにつかまったのである。
話を聞き終えてアームストロングはどちらを先に怒るべきか真剣に悩んだ。
62 アイドルボーイ

60 認識 銀

2007-01-03 14:47:09 | 鋼の錬金術師
60 認識 銀

「鍋祭りというのは?」
「あら、そうね。初代の当主は流しの錬金術師で、鍋作りの名人だったの。大鍋作りをきっかけに財を成してセントラルで軍人貴族の娘を妻にした。初代を記念して毎年彼らの結婚記念日に当主が鍋を練成して一族」
「全員で同じ鍋の料理を食べて結束を図ろうというわけだ」
説明は途中からアレックス・ルイの声に変わった。
「ルイ」
自分の声を自分で聞いて初めてラッセルは自分が何を言ったか気づいた。
たった今、セカンドネームで呼ぶのが普通と聞いて、つい大佐をルイと呼ぶところを考えてしまった。そんなときにいきなり現れられたから、ついそのまま呼んでしまった。
「あ、失礼しました。大佐」
「いや、さっきのままでいい」
ローザは紅茶のカップを手ににっこりしながら部屋を出てしまった。
(何だか、置いていかれたような気がする)
ラッセルは一人で両手を握り合わせている。なんとなく一人で気まずい思いを抱えていた。
「先生の許可が出たから風呂に入るぞ」
そう言われてみれば、もう下手すると1ヶ月近く入浴してないはずである。生きるか死ぬかの瀬戸際でそれどころでは無かったのだが、どれぐらい汚れているかと思うと自分でもぞっとした。
だが、風呂場までは手すりが無かった。
それにさっき立ち上がろうとしてベッドから落ちたばかりである。
(どうしようか)
せっかくの許可を断りたくは無い。しかし。あれこれ考えている間にアームストロングは軍服の上着を脱いでベッドの上に置いた。
当然のように抱き上げられてしまった。
「うわ!」
「風呂はこっちだ」
ローザが手際よくドアを開ける。
「!わかりましたから降ろしてください!大佐」
声に焦りが混じっていることを否定できない。
「さっきのままで言いといったぞ」
「さっきっていったい」
わかっているがそれでも訊いてしまう。逆に訊いた事で墓穴を掘ったと気づいたのは墓穴に落ちてからだった。
「ルイと呼べばいい」
(落ちた)
自分のうかつさにため息が出る。

ローザが風呂場のドアを内側から閉めた。
浴室は十分保温してある。
ガラス戸越しに見えた風呂は温泉といったほうがよかった。広さは5メートルかける3メートル、天然石で作られ深さは1,5メートルほど。一隅に竜の像が飾られそこから熱い湯が出ている。湯の表面には一面に花が浮いていた。欄の花びらである。確かに香油成分が汚れを溶かすはずだし、香りもよい。しかし、この一度の風呂にどれほどの花が摘み取られたのだろう。
ローザは坊ちゃまの着替えを手伝おうとした。
「ローザ姉さん、もう着替えぐらいできるが」
「あら、ずっと一人では入れなかったのに」
「25年も前の話でいじめないでほしいな」
どうやらこの二人は小さいころ一緒に入っていたのかとラッセルはあえて人事に意識を集めた。そう、人事どころではなかった。この雰囲気ではアームストロングと一緒に入ることになる。
さらに冷や汗をかく事にはローザがエプロンをはずしたのだ。
「あの、まさか彼女も一緒はありえませんね」
恐る恐る訊いてみる。
「安心して任せていただいていいですよ。まだご自分で洗うのはつらいですからね」
にっこりと微笑まれてしまう。
急に上体を倒して脱力してしまったラッセルをアレックスは怪訝そうに見た。
「気分が悪いなら、明日にしてもいいが」
「大佐、お願いですから一人で入らせてください」
「何を言っておる」
「そうですよ。お一人でなんて無理です。あら、もしかしたらいやなのは私かしら」
「そうか、以前ロス少尉に聞いたな。地方によっては一人で入るものだと」
(地方性の問題ではないはずだけど、こういうところが、ルイは貴族のお坊ちゃまそのものなんだ)
あの見上げるほどの、いや見上げても上までは見えなかった本宅の城を思い出す。人格や性格以前の育った環境の問題だった。
(ブロッシュさんも結構苦労していたのだろうな。上司の常識が普通とかけ離れていては)
人は自分以外のことなら冷静な判断をできるものである。

結局一人で入るのはあきらめるしかなかった。自力ではまだ手すりにすがるようにしか歩けない。さすがに服を脱ぐのは時間をかけて一人で脱いだが、後はアレックス・ルイにたよるしかなかった。
湯船に入ったときから目を硬く閉じているラッセルにルイの低い声が耳元で響く。
「つらいのか。先生はそろそろいいと言ったのだが」
「少し、きついですけど、しかたないですから」
今目を閉じている理由は体のつらさではなかった。浴室の壁の一面はおおきな鏡になっていた。
鏡を見たとき自分の身体がどのような反応を示したか、覚えている。
いや、それは身体の反応ではなく精神の反応だった。
(鏡が、怖い)
無意識に震えだしたラッセルの腕をルイは湯船に沈めた。
びく。
震えたことに気づいてそれを抑えようとするあまり、全身が硬くなる。反動でびくりと大きく動いた。
湯船に入ってからラッセルはなるべくルイに寄りかからないようにしていた。鍛え抜かれた筋肉質のルイの身体は前に最南端で見たときよりも大きく見えた。
「怖いか」
何を訊かれているのかわからなかった。
「目を開け。いつまでも逃げるな」
あごを掴まれ無理やりルイの方を向かされた。
「鏡をしっかり見ろ。いつまで影におびえるつもりだ」
応接室でヒーラーは坊ちゃまに話した。あのときのヒステリーは私を父親の影と思ってのことだと。ラッセルの父ナッシュは銀の髪に白い肌、青い瞳であった。ヒーラーは白い肌に銀の髪、瞳は濃い色のサングラスに隠されいつも見えない。
『なるべく早く自分を認識させないと一生恐怖心が残ります。無理やりにでも納得させてください。後は私がフォローします』
アームストロングが急に風呂に入れようと思ったのはそのためだった。
風呂なら逃がしようがないし、ラッセルの得意技も材料無しでは使えないはずである。
「怖くなんか、無い」
搾り出すような声。
『父親に対して罪悪感があります。詳しく調べてみなければわかりませんが長引くでしょう』
「目を開け。あれは君の姿だ」
力ずくで鏡の方を向かす。
「わかっています」
それでも目を開くことができない。
「こっちを向け。我輩を見ろ」
(ルイを)
思い切って目を開く。
ルイがまっすぐこっちを見ている。見上げたルイの瞳に自分の姿が写っている。
銀の髪、白い肌。
「とうさん」
思わず目をそむけかける。
「見ろ!目を閉じるな!これは君の姿だ!」
力強い声に再び引き込まれた。
瞳に写るのは銀の髪、銀の瞳。見慣れてはいないけれど自分の姿。
「あ、」
右手を伸ばしてルイの固い筋肉質の肩に触れる。確認するように手の動きを見る。もう一度瞳を見上げる。そしてルイの後ろにある壁面の鏡に視線を移す。
そこに移っているのは瞳に写っていたのと同じ銀の髪と瞳の自分の姿