瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

一日断食10:00

2006年01月28日 | 断食・少食
◆今日もリアルタイムで
先週と同じように、明日まで何回かリアルタイムで一日断食に伴う心身の変化を記していく。できれば明日の15時か16時ぐらいまでの断食としたい。

昨日昼はいつもの通り野菜サラダと生の玄米中心だったが、夕刻かなりの空腹感があり、夕食のあと、間食した。今朝の体重は60キロちょうど。

9時ごろから座禅30分。日中また時間をとって座禅したい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エゴと努力

2006年01月27日 | 読書日誌
◆『存在することのシンプルな感覚』より
ウィルバーを読むたびに、もっともっとウィルバーを読みたいと思う。とくにこの本は、ウィルバーのエッセンスを集めているので、なおさらそう感じる。ウィルバーをそのまま受け入れる必要はないにしても、「精神世界の旅」にとって、これほどすぐれた全体地図はないだろうと感じる。この見取り図をしっかりと押さえたうえで個々にあたれば、自分がいまどこで何を見ているのか、全体的な視野からの位置づけがしやすい。

「もしあなたが、この『自己』ないし『スピリット』を理解できないと感じられたら、その理解できないということに落ち着かれるとよい。それが『スピリット』なのである。」33(『ワン・テイスト』)

「エゴというのは単なる事象ではなく、微妙な『努力』(何らかの目的を達成するための目標)なのであり、努力して切り捨てることはできない。それでは、あなたは一つの努力のかわりに二つの努力をもつことになってしまう。エゴそれ自体が神性の完全な顕現なのであって、それは切り捨てようとするかわりに、ただ自由のなかに安らいでいることがエゴに対処する一番良い方法である。」36(『ワン・テイスト』)

一日に一度は読み直して自分に確認したい言葉である。分かっていてもすぐに忘れてしまうからである。なるほどと思ったすぐあとに、また努力してしまう。エゴに発する思考に気づいて、それを止めようとする。

思考に気づけばいいのだ。しかし、次の瞬間にまた思考。そうしたらまた気づく。止めようとする必要はない。ただ気づく。また思考。気づく。思考。気づく。その繰り返しだ。止めようとするのではない、ただ気づけばよい。

あるいは思考を止めることのできない自分がいる。そう分かったら、思考を止めることができないことに落ち着く。思考を止めることのできない自分に気づく。それを嘆いている自分に気づく。思考を止めようとしている自分に気づく。‥‥
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

見守り続ける

2006年01月25日 | 読書日誌


◆『存在することのシンプルな感覚』より

「人びとは『一者(ワンテイスト)』への道に関して、二つの間違いを犯す。一つは『目撃者』に接する時に起こり、もう一つは目撃者から『一者』へ移行する時に起こる。
 ‥‥最初の間違いは、『目撃者』を、またもや獲得できる別の対象としてしまうことであるが、実際には『目撃者』は、すべてのものから解放された大いなる『自由』、『解放』としてすべてのものの背景としてのみ『感じられる』ものである。
 起こることをすべて公平に見守ること、目撃すること、この『自由』と『空生』のなかに落ち着く。ゆがてあなたは、分離した自己すなわちエゴは、ほかのすべてと同じように、意識のなかに起きることに気が付くだろう。」

『目撃者』を努力して獲得しようとすればそこにエゴが入り込む。つねに背景へ背景へとまわって、見守ること。何かを求めようとするエゴが働いたら、そのようなエゴの働きを見守ること。そのようにして無限に背景へと後退していくこと。

エゴとして怒ったり、悲しんだり、傷ついたり、喜んだり、思考したりするのを、切り捨てるでも押さえつけるでもなく、ただただ見守り続けること。

★これは『ワンテイスト』からの引用だから、すでに読んだはずである。今読んでずっと印象深いのは、読む側の私が変化しているからだろう。

『無境界』にしても『万物の理論』にしても『ワンテイスト』にしても、かつて読んだ時とは別の味わい、別の感慨で深く心に沁み込むものを感じながら読んでいる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「私」という観念

2006年01月24日 | 読書日誌
◆『存在することのシンプルな感覚』より

「あなたは、すべての有限な対象から自分を切り離した(自己同一化を脱した)。あなたは無限の意識として安らいでいる。あなは自由であり、オープンであり、透明であり、光を放つものであり、空間に先立ち、時間に先立ち、涙と恐怖に先立ち、苦しみ、苦痛、死に先立つ存在としての至福の空に侵されている。あなたは偉大な「不生」、「深淵」、属性をもたない基盤を見つけたのである。それはかつてあり、今もあり、これからもあり続ける具グラウンドである。」15

「私」という観念は、どこをどう探しても結局はどんな根拠も見出すことのできない観念である。そこに「私」の根源的な不安がある。恐れがある。肉体がいつかは滅びるのと同じように、私の「私」という観念もまた、根拠なく生じてきて、根拠なく消滅していく。だから、それに自己同一化していることは、たとえようもなく愚かなことなのだ。

ほとんどの人が「私」に自己同一化していながら、その「私」は、泡のように生じては去って行く、はなかい存在であることを実は奥深いところでは認識しているのだ。私もどこかでそれを知っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

無限の脱同一化

2006年01月23日 | 読書日誌
◆『存在することのシンプルな感覚』より
ケン・ウィルバーの『存在することのシンプルな感覚』(松永太郎訳、春秋社、2005年)を読みはじめた。これまで出版されたウィルバーの膨大な著作の中から選びぬかれたアンソロジーである。そのなからとくに印象に残った言葉を選びながら、感じたことをつけ加えていきたい。

広大な気づきの意識。それは対象をもたず、主体として「見る」ことはできるが、対象として「見られる」ことはない。すべてに気づき、すべてを目撃している。

「あなたは、まさにこの目撃者ではないだろうか。純粋な『見者』ではないだろうか。純粋な意識、純粋な『スピリット』であり、起こっていることすべてに、一瞬一瞬まったく公平に、無私に気が付いているのではないだろうか。あなたの意識は広大であり、大きく開かれている。『空』であり、透明である。そして起こっていることすべてに気が付いているのだ。」9

純粋な見者、思考によって限定されない「見るもの」。

思考によって織り成され、かつ思考の基盤になっている自我。その思考、その自我からの脱同一化。一瞬一瞬の脱同一化。それがサティなのだ。無限後退、無限の脱同一化。

そんなことを一日意識しながら、気づけば思考にサティした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする