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瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

許し

2006年05月23日 | 読書日誌
◆二つの視点
「わけ」もわからずにこの世に投げ出されている、しかもいずれば消える命として。その死すべき肉体をベースにして「自己」という虚構を作り上げ、それに執着する。おそらくそこに苦しみの根源がある。

子どもの問題を「上手に」忘れていることもできる。心のどこかに押し込んでしまうこともできる。確かにそういう傾向もあった。最近の私は、その悲しみに出会うとき、上に述べたような視点をどこかに意識している。限りある命、「自己」という虚構、その二つをどこかで感じながら、子どもの問題や、様々な人間関係に出会っているような気がする。

◆『グレース&グリッド』
破局の寸前まで突き進んだケンとトレヤだったが、やがて二人は苦しみのどん底で互いに学んで、立ち直っていく。

「‥‥自我という分離した自己感覚は、認識によって構成されたものというだけではなく、感情的なものでもあるということ。自我は、概念によってのみではなく、感情によっても支えられているということだ。またこの教え(『奇跡のコース』)によれば、自我の主要な感情は、怒りを伴う恐れでもある。

‥‥本来つぎめなのい意識を、主体と客体に、自己と他者に引き裂くときはいつも、その自己は恐怖を覚えるということだ。理由は単純。今やあまりに多くの「他者」がいて、それがみな危害を加える可能性ともっているからだ。‥‥この恐怖から怒りが生じてくる。

‥‥自我が他人を許そうとしないのは、他人を許すことが自我そのものの存在を蝕むことだからだ。‥‥他人からの侮辱を許すということは、自分と他人との境界線を曖昧にし、主体と客体という分離した感覚を溶かしてしまう。そして、許しによって、意識は自我やそれにたいして加えられた侮辱を手放し、そのかわりに主体と客体を平等に眺める〈観照者〉、あるいは〈自己〉すなわち真我に立ち返っていく。

‥‥ぼくの自我はかなり打撃を受け、傷ついていた‥‥だから許し以外には、自己収縮からくる苦痛を解きほぐす方法はなかったのだ。」p283-284

トレヤはトレヤで大切なことを学んでいくのだが、それは明日にでも書こう。「許し」の問題は、私にとっても大きな問題だ。最近、たまたま、かつてかなり侮辱されたと感じた人物と出会った。しばらくは彼とともに過ごすことになる。自分にとってのよい課題ができた。