なのはなの 光したたる 野辺に伏し わが故郷は かくのごときか
*なのはなの歌ですので、一応なのはなの写真をあげましょう。これはかのじょが愛していた野原に毎年咲いてくれるなのはなです。
この記事が発表されるころにはもうなのはなは終わっているでしょうが、実はこれを書いている今は、そろそろ巷で咲き始めるという頃合いです。梅は咲いているが、桜はまだです。ホトケノザはもうとうに咲いているが、オランダミミナグサはやっと咲き始めたころだ。季節の変化というものは嬉しい。誰かの誠が必ず表現されている。まじめに自分をやってくれる魂がそれはたくさんいるから、毎年きちきちと、自分の季節に自分の花を咲かせてくれるのです。
桜の花や、菜の花が満開の頃は、まるで世界が夢幻に包まれたようになりますね。これが本当に、苦しいことばかりがある人間社会と地続きなのかと、疑いたくなるような風景が広がります。わたしたちもよく、そういう景色の中にいては思うのだ。わたしの魂の本当の故郷は、このようなものなのだろうかと。
わたしたちは、ここからはとても遠いところからきています。この世界で肉体を持って生きている間は、故郷のことなど忘れ去っているが、どこかにいつも、何かが違うという意識を持っている。ここは自分の世界ではないのではないかという、おぼろげな疑惑に、いつも付きまとわれているのです。
その感覚は正しい。いろいろなことがありますがね、生きて人間の中に住んでいると、いつも自分だけが周りと違うことを感じている。子供のころから慣れ親しんでいる風景にさえ、どこか違和感がある。
だが、なのはなの咲き乱れる野の中にいると、不思議な安心感を感じることがある。それはなぜか。教えてあげますよ。わたしたちの本当の故郷に、とても似たところがあるからです。
忘れ去っていても、どこかで覚えているのだ。だから、あの人はなのはなの咲く野を見ると、引き込まれるように入っていったのだ。
わがふるさとはかくのごときか。
わたしたちは、この人生で使命を終えると故郷に帰る。そして、再びの使命を負えば、またここにやってくる。だが、あの人だけは。
なのはなの光がしたたる野に、溶けていったかのように、もう帰っては来ないのです。