あまさかる 鄙のあふちの 陰に住み 国を思ひて 神をとふ月
*ここのところきつい内容のが多いので、少し美しいのを誰か詠んでくれないかと言いましたら、友人がこういうのを作ってくれました。
「あまさかる(天離る)」は「鄙」にかかる枕詞です。「あふち(樗)」はセンダンの木のこと。こういえば、もうわかりますね。
都から遠く離れた田舎の、センダンの木の陰に住んでいながら、国のみんなの幸せを頼もうと、神を訪ねていく月であることよ。
かのじょは生きていたころ、毎日のように、近くの小さな山のてっぺんにある小さな神社を訪れ、国を助けてくれと祈っていました。知っている人は多いことでしょう。
滑稽なことだとは思っていたが、真剣に祈らずにいられなかった。国のことを思うと、心配でいられなかったのです。天使というのはそういうものですよ。みんな王として国を背負ったことがある。皆を愛してきたことがある。そういうことをしてきた魂は、田舎の一主婦という境遇であろうとも、国のことを全く見捨てたような生き方はできないものです。
かのじょがそうやって祈ってくれていたおかげで、国は何度となく危機を逃れているのです。それについては、後々の人が真実を語ってくれるでしょう。あなたがたも、いつまでも馬鹿ではない。真実を知りたいという人が探求していけば、必ず真実がわかるようになる。そういう段階に進むことができるのです。
ところで「あふち」は、現代語では「オウチ」と読むが、これにはひとつおもしろい秘密があります。かのじょの二冊目の著書「小さな小さな神さま」には、「オオチコノメワカヒコの神」という神さまが出てくるのだが、この「オオチ」には実はこの「オウチ」があるのですよ。要するに、「センダンの木の芽のような若い男の神さま」という意味です。かわいらしいですね。
近くの公園に生えていたセンダンの木は、早い時期からかのじょと友情を結んでくれていました。人間の友人はほとんどできない、夫にも理解されないという寂しい人生で、木だけがかのじょを愛してくれた。そしていろいろなことをやってくれた。そのセンダンの木への気持ちが、かのじょがつけた小さな神さまの名に出たのでしょう。
野原のクスノキも、たびたびかのじょの作品に出てきている。
もうあのクスノキはなくなってしまったが、センダンは傷つきながらも、まだ生きている。あの木は大事にしなければなりません。かのじょの形見ですから。あの人は行ってしまっても、あのセンダンの木はまだあそこに生きてくれる。そして、後の人に、かのじょのことを教えてくれる。
あなたがたもいつまでも馬鹿ではない。感性が育ってくれば必ず、木の言っていることがわかるようになるのです。
あの時代のこの国の王は、田舎のあふちの木の陰に住んでいたのです。木は、そのすべてを知っているのです。