背く子の 思ひ隔つる 背を見つつ 微塵も減らぬ 親心かな
*「背く子」というのは、子育てをするものにとっては、何度も味わわねばならない苦悩の種です。愛していても、子供というものはいつも親に背くものだ。素直に従ってくれた方が、その子が幸せになれるのにと思うことは多くあるのだが、そういう時に限って、子供というものは親に背くものです。
あなたがたもよく、わたしたちにたてついてきますよ。子供が親に背く気持ちには、いろいろありますが、底辺には、自分より大きくて優れたものに対する引け目とか嫉妬がある。それは、存在としては宿命的に味わわねばならない心の文様です。いつかは乗り越えねばならないことだが、誰でも一度は苦しまねばならない。
何に頼ることもなく立派に生きていける強い存在になりたいのだが、自分の弱さからは逃げられない。誰かに頼らなければ生きていけない子供という身分は、時に子供にとっては、堪えがたい屈辱に思える時がある。特に、親が自分より優れた人格だと思えない時には、その苦悩は強い。
「思ひ隔つ(おもひへだつ)」とは、心に壁を作るという意味の言葉です。
背いている子の、親に心を閉じている背中を見ながらも、微塵も減らない親心であることよ。
どんなに苦労をさせられても、子供を愛する親の気持ちというものは、微塵も減らない。どうにかしてやりたいと思う。そういう親の気持ちは、親になってから初めてわかる。
どんな思いをして育ててくれたか、わかったときにはもう、親はいないことが多い。そういうものだ。そして自分もまた、自分の子に、親が注いでくれたような愛を注いでいく。それが、自分を愛してくれた親への愛であるかのように。
子を愛することができるようになった人は、それがどんな幸せであることかを、深く知っているでしょう。何もいらない。あの子を愛しているだけで幸せなのだ。そのためになんでもできる自分の、見知らぬ神に頂いたような澄んだ美しさが、うれしいのだ。
だからどんな苦労でもしてやろう。
勉強というものは、神が滴り落してくれるそういう教えを食べていくことです。愛していくことが本当の幸せだということを教え続けてくれる、神の愛を知ることが、人間の本当の幸せなのです。
だからこの世で、人は子の親になり、親の子になる。そういう関係を通して、深い情愛を学び、自分の愛を深めていくことができる。ここはそういう世界なのだ。
誰かの親になることができる。誰かの子になることができる。
それは本当は、すばらしい幸福なのですよ。あなたがたは、そういう幸福を、当然のように神にいただいているのです。
それが、人間への御親の愛だからです。