カンボジア日記  ゆめきの日々

カンボジアの情報と、世俗・慣習・文化
等も少し入った文章にしようとしています

ご期待の下さい

カンボジア(タケオ紀行)・ベトナム(サイゴン)・タイ(スーパーリッチ)

2014-10-17 10:22:38 | 価値のある記述
囲碁の話
囲碁名人戦は、双方2勝2敗になっていますので最終局7番勝負ですので、まだまだ楽しみが続きます(笑)
第5戦は、河野臨九段の投了で終了しましたので、3勝2敗の井山雄太名人の有利で更に熱戦が継続されます。
第五戦については、私自身の感想ですと、三隅を占めた時点で黒番の河野臨九段が有利であり、20目以上の大差状態なので黒の勝ちと早々に断定してました。
しかし、途中での緩着というか私には意味の理解できない石が打たれまして、今でも「何故?」という意味の理解できない黒の手番です。
しかも、投了? ・・・何故? 単につなげばいいではないのか?
碁の強い人から、内容の解説を願いたいものです。


いつものように天気から

10月10日程度から、「クチョール」と呼ばれる冷たい風が吹き始めてまして、15日の朝に肌が感じる気温に変わりつつあります。
何度も繰り返して吹いてましたが、周囲の気温が高いので冷たさを感じませんでしたけれど、15日に初めて肌が寒く感じる朝早くの「クチョールトルチィア=風が冷たい」です。
昨年も、同一時分に冷たい風を感じてまして、このまま冷たい風が吹くのかと思いきや「暑さがぶり返しましたが」、11月に入るや早朝から連日のクチョールで涼しい時が流れました。
しかも、10-20年程度に一度の「クチョールトルチィア」でしたので朝夕の涼しさは格別のものがあり、人によっては「クーラー稼働中止」で睡眠をしましたと言う話がありますので、皆様も十二分に涼しさを堪能されたと思います。
田舎に行きますと、日差しのある日中は暑く朝夕と夜間は格別寒く、井戸水も格別冷たいので「シャワー」の後1時間程度は暑さから逃れられる水温ですから、風邪の引きやすい事になります。
旅行最適季節の12月1月2月は涼しい約束のcool dry の季節で、数ヶ月間は暑さから逃れられる日々になりますので心待ちにしています。
※11月は、 cool wet season ですので雨があり涼しい時期の約束ですが、季節の移り変わりについては変異がありますので、数ヶ月程度は季節の状況に変化が無い場合も多い事をご了解ください。
従いまして、一応の目安程度の認識で間違いがないと思います。
※この時期の気温を肌で実感するには、タイの場合は高地のチェンマイ程度まで行けば街を往来する人々の着ている服装で容易に寒さを感じられますし、ベトナムではハノイで寒さを感じるはずです。
両地域では、12月になると「襟巻=マフラー」を使用する人も居ますし、綿入りのアノラックは昼間でも必需品です。
なお、カンボジアでも綿入りのアノラックが販売される時期でもありますから、夜間は寒くなるという事です。
★晴天日の日差しは強いので暑さを感じるはずですから、直射日光下の移動は【通年】を通して避けるべきですし、朝夕と夜間が涼しいのですが直射日光下は暑いと言う寒暖の差が激しくなる時期でもありますので、風邪を引きやすいと言う気温でもあります。
ですから、1日を通じて、身体が無理なく寒暖をなだらかに出来る様に心掛けるという事で風邪の予防をしやすくします。

〇何年前だったかな?
故シアヌーク元国王が崩御された年は、10月から連日燦々と輝く太陽光線でとても暑く11月と12月の中旬まで連日太陽光線が降り注ぎ、クチョールトルチィアがほんの2週間程度でしたから、カンボジアの気候は油断がなりません。(笑)
ベトナムは、電気の供給量が十二分だし電気料金も安価なので常時エアコンの稼働が可能ですが、更に暑いカンボジアでは電気料金が高く供給量も不安定なので、いつ何時停電があるのかワカラナイし、首都プノンペンは別にしても地方は今でもしょっちゅう長時間の停電がありますので体調維持が難しいです。




記述について

カンボジア・・・タケオ紀行と水祭りについて
ベトナム ・・・ホーチィミン紀行
タイ   ・・・ヤフーの知恵袋から  スーパー・リッチの話(20年前の情報が流されるので、時代遅れも甚だしい)


タケオ紀行・・・TAKEO 洲
カンボジアの州のひとつで、日本の自衛隊が進駐した地域です。
日本語表記はタケオでして、英語表記は発音の中に今でも「V」が入ります。
ですが、走行車両のナンバープレート表記は「日本式 ローマ表記に統一 TAKEO 」にされていますし、カンボジア国内テレビ放送でも発音は日本式ローマ字表記になりまして、昔から使用されていた発音は地元の人程度にしか使用されて無くなっていますので、どちらかと言えばマイナーな発声となっていて両方の発音が混在しているのが実情ですが、
地域が変わりますと日本式ローマ字発声しかない場所がありますので、どちらかと言えばメジャーな日本式発声となっています。
※恐らく、日本の援助政治力が日本語発声を促したと思うますけど、正しい昔からの発音は「V 入りの タケゥ゛」でしたね。
往路
10月11日(土曜日)午前7時に待ち合わせですが、集まるメンバーが「ちと難儀」なので時間をズラシテ15分程度遅れてバイクで集合場所に行きましたら、メンバーが随分足りずに待たされました。
しかも、どうにもならないのが段取りしていますから、バイクの駐輪場も確保していないので態々他の場所に駐輪に行く羽目になり、戻ってきて都合30分以上遅れているのに更にメンバーが足りません。
電話で確認するように促すのですが、カンボジア式のいい加減な会話方法ですので「更にまたされる事」になりまして、出発は8時少し前になりました。
(何しろ、碌に稼ぎの無い典型的な男なので、話をするという事が間違いです・・・内容を瞬時に予測される方は、カンボジアの達人です。 笑い)
法定15人乗りのハイエースタクシーですが、車体マークはベンツでハンドルのマークはトヨタの文様が付いていて前部のマークはベンツですから、幾度も限りなく修理した痕跡があり、寄せ集めの部品が使用された「外国製中古部品の混合外車」です。(笑)
〇前途多難
総勢が乗り込んで出発しましたが、出発地は「プノンペン Makara7」なのに左に曲がりまして直進しますので、何処に向かうのか?
オリンピックモールからシティモールを通り過ぎ、ステミンチャイの橋のたもとを右に上り新しい立体交差を走行しペートロッシーの前を通過しますので、何で迂回走行するのか?
此処で疑問の方は「相当カンボジアに詳しい方です」が、一般的には無関係なので割愛・・・意味の解る方は、地理と文化に慣習を理解している方デス。
えーと、色々な方が記述を精読されている事が「ひしひし」と感じていますので、通常は無関係な説明も入れて記述しますので、居住者の方も「玄人」の方にもお楽しみ頂ける内容を目指しています(笑)
道なりに直進し左手にある有名どころを過ぎまして、カンボジア最初の立体交差点を右に曲がりまして更にタックマウ方面に1km程度直進すると、超有名な建物が左手に出現します。
過去の日記に、「Mr ポー氏」と握手した記述に関係する建物で、私の記述では修正しなければならないが修正は時期早尚と判断している場所ですが、委細は各自ご確認ください。
理由
各種の日本語情報誌に説明記述が修正されていないので、コピーペーストされるのが嫌で修正していません・・・伏して、伏して、ご理解をお願います。
車はそのまま走行し、タックマウを通り過ぎて花壇・園芸用品の販売地域を過ぎまして、【タケオの道標】を過ぎて右手に見える「タイのワットアルン似=暁の寺院」を過ぎまして、プサー・タケオを越してから更に走行し、どっかで左折しまして目的地です。
〇以上、旅行者向けと居住者向けに玄人向けの記述でまとめてみましたが、旅行者の方はサラリ読みで居住者の方は此の事かで、玄人は「あれ?何だ? 若しかしたらこの事を力説?」となっていますので、どうぞ内容の点検と検証を是非もなく願い奉ります。(笑)
走行時間1時間45分程度と記憶しています。
(2014年現在は、通常速度ですと1時間30分程度なので、ちーと、遅い走行のドライバーです・・・バイクで私が走行すると、概ね1時間15分程度です)
タケオの有名寺院は、更に1時間程度先にもう一つありまして都合2つが有名ですが、何せ田舎の寺院ですから地元民か「相当暇なセレブ以外は訪ねません」ので、もし訪問される事がありましたら公務員を除いた日本人では二番目になると思います。
詳しい事は不明ですが、そのぐらいの確率と思います(笑)
用事の内容
私用で読者に無関係なので、割愛です。
復路
午後3時の帰宅の予定だったのですが、話の中で迂回して途中で降ろしてほしいと言う「我儘が出ました関係」で、予定が変更になり午後2時の出発になりまして、帰路プノンペンを目指しました。
帰路は、途中でロックメロンを購入する為に寄り道したりしまして、ステミンチャイを抜ける走行ルートだったので悪路というか工事中の連続で、車のタイヤがパンクしまして大幅な時間超過となりまして、帰路は午後6時少し前ですから都合4時間の走行でした。
うひっひゃー、足腰が立たないよー(笑)・・・心底から疲れました。


水祭りについて
11月5,6,7日に行われる手筈ですし、既に新聞でも発表されているのですが、何となく暗雲が漂い初めまして「開催の可能性51%」にします。
説明
新聞発表の話ですが、全紙に同一に発表されている訳では無く、各紙勝手に報道の自由で報道しているので信ぴょう性については不明の部分が大きいはずです。
当地の特徴として、以前にも新聞で水祭りが開催されると発表された後に開催数日前に取り消し報道された事実がありますので、予測が困難な部分がありまして、当日にならないと判らないと言うのが真相です。
★特に、水祭りに関しては「多くの要因がある」のです。
(多くの要因があるについては、過去の日記にヒントになる記述があるはずなので、原因を確認したい方は過去の日記をご精読願います)





翌日10月12日・・・ホーチィミン紀行
(プノンペン⇔ホーチィミンのバス往復利用)
数ヶ月ぶりにホーチィミンに行きましたので、記述します。

まず、バス情報から
利用したのはキャピトルバスで、運転手はベトナム人でした。
(国籍不明ですが、ベトナム語と簡単なクメール語しか話しませんでしたので勝手にベトナム人と判断)
キャピトルバスの出発時間についてですが、幾度も繰り返し記述している通り時間の変更は日常茶飯事ですので、利用する数日前に必ず一度は各自ご確認願います。
今回の発着時間について説明しますと、僅か数ケ月しか違わないのに全ての発着時間が往路と復路で変更されていましたので、構えて必ず利用前に発着地と発着時間のご確認願います。
他社について
オリンピック市場近くから発着していた在カンボジア朝鮮系のバス会社は、建物の契約切れで使用が不可能になった会社が2社ありますので、集客が難しくなったようで定期運行から不定期になっていまして、集客があればとか依頼があれば運行する手法が採用されていますが、早晩別な場所に移動するか運行廃止を選択しなければならないと思う。
ベトナムのバス会社が、朝鮮系2社分の穴埋めの為に新規に早朝と深夜便を形成して運行し出しまして、日帰りのホーチィミン滞在5時間が可能なバス運行もされていますが、必要最低時間が5am-11pm程度の時間が考えられるので通常は利用不可能な内容です。
〇他の場所でも、相当数の運航便がありますので、バス会社の淘汰が始まっていると言う認識が正しいはずですので、どの会社の利用に関しても注意が必要です。
以上、バス利用上の注意を「ふまえて」記述開始です。



開演の幕が上がります。パチパチパチー

キャピトルバス利用ですから外国人が沢山乗客として乗っていますが、白人が一塊で勝手に指定椅子の変更で乗っていますので「ちょこっと」トラブルです。
理由
バス利用チケットには、購入時に乗客の要望が尋ねられ本人の意向に沿う乗客の乗るべき椅子のシートナンバーが記載されていますが、購入時にはどのような人々が利用するのかはその時にならないと内容が判りません。
しかし、バスの出発時間前に指定された椅子に座っていても、新規に外国人が来ると「派閥形成」というか「英語圏」で一塊になろうとして白人の女も男もお構いなしに一塊になって開いている席にどっかと座っているので、後から来たクマエが座る場所が無いと文句を言うのですが、言葉が通じないので「勝手に座った白人連中はワカラナイ」です。
〇一応、中立的立場で悶着しないように記述していますが、実はシートナンバーが記載されているので「問題提起」されるのが承知ですから、事がややっこしいです。
ガイドが呼ばれまして、英語で説明するのですが「確信犯」ですから座った椅子を譲らないのでちーと悶着が始まりまして、クマエの夫婦家族が譲歩して解決し出発です。
★★
このような悶着はしょっちゅうありまして、99%は白人連中の我儘というか土壇場で椅子の変更を勝手に行う事が原因です。
殴り合いに発展したのを見た事がありますが、確率は3×365×9= 何ぼかワカラナイ (笑)
この数年は、口論その他を聞いた事がありませんが、これは発地点でバス運行する側も対応改善を試行した結果、男性担当者から熟練した女性担当者になってから「口論」が無くなったという事ですので、いつも白人バックパッカー連中の我儘には「憤り」を感じます。

往路
バスは、いつもの時間でスバイリェンに到着しましたから、順調な走行でした。
水の多い地区を走行していましたが、水位が幾分低いな程度の認識がありましたので、川の水位が低いのかもしれません。
ネアックルンのフェリーに乗りましたので、橋の完成程度を確認しましたら川の中の橋脚が見事に二本立っていてつり橋の様子が窺い知れたのですが、橋の接続はされてませんでしたから、まだまだ完成までは時が必要かと思います。
アクセス道路の工事も継続していますが、新規造成された道路法面の強度に問題提起がされるはずと認識がありまして、こんな程度の強度では1年以内に道路が崩壊するぞと強い思いがしましたから、どうなるのかはこの先のお楽しみですね(笑)
カンボジア側バベットとベトナム側モクバイの通過前に腹ごしらえのレストランにバスが入りますので、此処では食事その他の用事をすませました。
〇勝手に椅子の変更をした連中は、全員ひと塊で椅子に座っていまして、常に見事な団体行動をしますので「旅慣れたバックパッカー」ですから、レストランで食事はしませんで単に座っているだけですね。
此処が日本人とは異なる認識と思想でして、何かが有ったら同一の派閥を直ちに結成して同一の問題として対処する大陸的感性ですから、白人の側に居たら白人の立場で行動する事が必要です。
私の場合は、クマエの立場で家族主義ですので、皆知らんぷり(笑)

ベトナム入国の段取り
両替場所は食事のレストランで、必要な物全てを此処で調達します。
(当日の交換レート レストラン us1$=21370ベトナムドン  サイゴンのレートus1$=20700-21000ベトナムドン サイゴンマーケット最良両替比率us1$=21100ベトナムドン  理由 日曜なのでサイゴンは低い)
米ドルをベトナムドンに半分程度両替し、ベトナムで使用する電話の利用料金前払いを数ドル分購入し電話機に入れてもらいました。
やり方は、業者任せの一辺倒・・・料金支払いは可能だが、記載された番号を確認できない視力です(笑)
40分程度の食事時間ですが、白人連中は一塊で椅子に座ってますからいつもの光景で、日本人は何人いても一人ぼっちです・・・これまた、いつもの光景。
食事終了
国境検問へ
カンボジア側の出国検問なのですが、一つのゲートの係官が丁寧に対応するのでタチマチ列ができましたので別のゲートに移動し手続きを開始したのですが、前のベトナム人の旅券保持者には厳しく確認し出したので更に列が伸びましたが、更にゲートを拡大して解放してくれたので列が途中途中からぶっちぎれまして、10分程度で全員終了です。
係官が愛国者らしく、家族三人分の日本旅券とカンボジア旅券を一瞥した感じで「ニコリ」としまして、私だけが指紋の採取を右手一回だけです。
これじゃ、優遇処置の人種差別だぁー(笑)
この、記述の意味を考えて欲しいものです(笑)
問題はベトナム側
日曜でバスが連続して到着していますので、たちまちゲートの前は黒山の人だかりができていまして前が見えません。
バックパックを持つように言われていたので背中にしょっていますので、暑く重いので顔見知りの人達に挨拶を送り「勝手にゲートの通過」を家族三人でしまして、これまたガイドに先に行っていると告げてバスに乗り込もうとしましたら、バスが違いますので「あんだぁー? 着てねーのかよ??」で外に待ってました。
30分ほどしたら、バスが来て「もうすぐなのでバスに乗ってて欲しいと変なクマエ語で言いますので」、無理だーです。 
(乗らずに、外で煙草を吸っていました・・・係官が一人でスタンプ作業をしていましたので、旅券一山30分以上は必要な処理を三山以上分ありますので、最低90分以上必要)
結局、2時間弱バスの中で待っていましたけど、白人連中は重い荷物を背中に背負ってゲート前に並んでいた訳ですから相当大変な目に遭っていますけど、これが正常な姿で私のは「ズル」ですが、ずるの真似をすると「上手くいくときと行かないときがあると思う」ので、成功してもいい気になって繰り返して挑戦しては駄目です。(笑)
〇ここには、要領と勝手があり100回くらい往来すると意味が判ります。

全員乗って出発です。
直ぐに、バイクタクシーの溜り場で人が乗せろと合図をしますが無視して走行です。
(バスの空き椅子が10個程度ありましたけれど、乗せません)
3KM先程度の飯屋で客が7-8人待っていますけれど全然止まらずに走行しますから、「どうしたのか?」。
自称、事情通曰く、煩いので2回目禁止??? 何??? ・・・ボソボソの話で終了(笑)
本当の事は判りません・・・当事者ではないので、内容までは不鮮明という事にします(笑)

午後9時少し前にサイゴンです。
★ホーチィミンという話が正式の呼称名として日本人には周知されていますが、昔からの呼称名サイゴンも立派に継続して使われていて、サイゴンビールとかビルの名前にもサイゴンが使用されていますので、ホーチィミンに画一的に統一された呼称名ではありません。
※役所関係の書面については不明ですが、例え画一化された内容であっても街場では同一視の内容では無いという事です。
(日本語情報誌の発信元は日本に住む日本人なので、日本的常識でしか記述しませんので「大きな間違いが目白押し」ちゅうもんだよ)笑い。
この点を曲解記述している日本語情報誌がありますけれど、サイゴンには「ベトコン銀行」だってあるんだよ。(笑い事実 2014/oct)

前回宿泊した場所に行きましたら受付の人間が変わっていて、前を通り過ぎても声を掛けてくれませんので「営業」しているのか?
英語で声をかけたのですが、此処はホテルではないと言い張りましてアパートメントハウスと言い張りますから「何言ってんだ?」ですけど、どうやら税金の問題が絡んでそうなので半歩引いた話をしましたら、経営者が出て来まして「何となく泊まれ」みたいな言い方です。
受付の女は、外国人の私にまでオーナーが宿泊を許可したと言い、芸の無い真っ正直で責任回避「ミエミエ」の全てに無責任言動です。(笑)
〇芸達者な踊りの名手も困るけれど全然踊れないのも困るし、何の為に居るのか理解していない言動には「もっと困ったアルヨ」。(笑)

宿泊費用と条件
朝食3人分付きで、1 room 2bets 但し、日本的には4Fの部屋(階段使用) us22$/one night two days
とてもきれいな部屋で、無料の無線ラン付・・・ケーブルTV W/HBO, A/C,歯磨きセット,バスタオル有り。
宿泊施設コーリングカードについてですが、記載の番地と異なる場所にあり「相当複雑」なのでご紹介不可能です。
就寝
good morning vietnam
朝食がam0700という事でしたが、0730分には待ち合わせがあるので30分繰り上げてもらいまして食事をしました。
コーヒーを段取りするのが遅いので、私だけ注文のコーヒーを再三再四催促してやっと口に入れたら既に7時10分ですので、こうしちゃいられません。
出発です。
徒歩2分程度の場所で、カンボジアのヌンパン・パティーのベトナム版を10,000 vietnam-dong で購入し、待ち合わせ場所にタクシーで向かいました。
車内で、相手に連絡して確認完了。
用事終了 午前10時30分

タクシーで宿泊施設に戻りまして、今日は連泊しないので帰る事を告げ、11時30分頃に精算に降りるので必ず居て欲しいと確認し、併せて旅券の収受をするので取り揃えておいて欲しいと話をしました。
ベトナム式の簡易な食事ですので腹が減っていますから、ヌンパンその他を平らげてシャワーしたら、戻る時間になりましたので精算です。
約束の精算金us22$を支払い、旅券を受け取りバスの会社に行きました。
バスの出発時間が変更になっていて、1時30分の便があると言うので予約を入れまして荷物を預けて、本日2度目約束で12時に待ち合わせた場所に行きました。
軽い飲み物を飲みながら待っていましたら相手も時間前に来たので話し合いまして、直ちに終了です。
近くの市場に行って、買いたいものがあったので購入しに行きました。
終了

復路
13日は、直射日光が燦々と輝く日になりましたので、暑い事・・・バスの中も暑かった。
サイゴンからモクバイまでは、時間にして概ね140-170分程度ですので、しばしグースカです。(船を漕いでました)
起きろと言う話なので起きましたら、モクバイの国境です。
旅券?
どうだったのか?
多分、家族が持っていたと思う・・・記憶喪失デス(笑)
えーと、子供と約束の国境で購入するチョコレートを購入し、4$50¢の支払いに5$を支払いまして10,000dongの釣銭というベトナム式に遭いまして、そのままバベットにバスで向かいまして、カンボジア国境審査終了です。
★バス会社は、入国カードその他についての段取りをしますので、単に旅券を預けるだけです。
平たく説明すると、バス会社のガイドは、乗客の旅券の確認も仕事として行うので、旅券の有効期限確認はもとより査証の有無も確認しますから、査証が無ければ取得する様に段取りします。
この場合の代行金額がありまして、ガイド言い値料金となっていますが、ボッタリの話は無いとお考えください。
料金の考え方
査証料金+写真代金+代行手数料(入国カード記入・査証取得申し込み用紙記入)。
★★支払い総額料金は、通常ですと査証料金にプラス5$程度内外です。

カンボジア国境審査が終了しましたので、直ぐにレストランで食事休憩に入りましたが、ガイドが何か変です。
旅券があるのに本人が居ないので、「ガイドが何か変」と言う話で何やら連絡帳で確認しようとするのですが確認できないので、私に知り合いに確認してくれと話があり、私は妻に連絡しろと言いましたら、妻が子供に連絡しろと冗談を言いましたが、子供は電話で本当に連絡し出しました。
本人と連絡がついて、「かくかくしかじか」で旅券はレストランに預けておく事になりまして一件落着です。
〇本人は、「クマエ・クローイ」です・・・いずれ、内容について記述するつもりです。

午後7時40分頃にプノンペンに到着しました。
ふーう、疲れました。
洗濯物が山になりまして、1日では干しきれないので2日間洗濯です。




タイの話 (ヤフー知恵袋から)
タイで外国通貨両替について(街場の両替所)
別名、スーパリッチ

★現在は、銀行や空港内の両替所の方が両替比率は良いはずですので、街場の両替所の場合は緊急的に両替する場合だけという認識を持つべきです。
従いまして、事前両替については「銀行内」で行うのが望ましいはずですので、知恵袋の記述には間違いがあるという事になります。
決定
必ず、両替レートの検証をすべし・・・銀行・空港内の方が、外国通貨両替比率は高いレートになっているはずです。

内容説明
タイでは、バーツ下落の騒動があった時期がありまして、1us$→75-55bart その他の場所ではus1$→89-75bart 程度までのレートがありました。
この事実については、30才未満の方は判らなかったはずで、40才前後程度の方になって初めて認識できる事実ですが、知恵袋を利用される方は多くの方が40才未満と考えれば仕方のない内容の質問かと思いますけれど、是非事実の認識を保持されるように願います。

タイでバーツ騒動が起きた時に、バーツが限りなく下落しましてus1$が60bartを切り始めたころから、街場に米ドル有利な交換所ができました。
当時は、スーパーリッチという日本語呼称名で日本人の間には通用していた名前ですが、当時のバンコクには日本人が常時50,000人は滞在していたと言う社会状況が有ります関係で、絶対多数派の日本人が使用する呼称名が白人関係者にも浸透しましたので、外国人は全てがスーパーリッチという名称を使用していたと思います。
この、街場の私設両替所が銀行の無い地区に雨後の筍のように沢山出来ましたので、便利でしかも両替比率が良いという事ですから多くの外国人が外国通貨を持ち寄りました関係で、銀行や国家に入るべき外貨が入りません。
現金は、高額紙幣ほど引き取り利率が高く、日本円の現金需要もあるので米ドルよりも少し交換比率が良かった記憶があります。
ですから、現金は街場の闇に流れてしまうのですが、タイの官僚はT/Cの両替比率を1%では無くて1,5%程度有利な両替比率を政策決定し施行したのですが、中国人の闇市場はT/Cもバクバク消化してしまうので国家の外貨貯蓄が底をつきまして、政府が外国から品物を購入できないが民間は可能という本末転倒の現実になりましたので、政府が新規の政策を次々実行するのですが、中国人にはタイ政府の関与する政治家が多数在籍しているので、実行が不可能な状況になり「降伏の旗が掲げられました」。

降伏の旗が掲げられたので、他国からの政策をタイ国が受け入れると言う話になりましたので、急激にタイバーツの価値が上昇したのですが10年以上の月日が流れていまして、us1$ 40bartの時期は、2002-2003年程度まで続いたはずです。
※現在は、us1$ 30bart 程度と思います…各自ご確認を願います。

★★
街場のスーパーリッチが利用されていたのは2000年程度までの話しであり、タイ国の為替フロートが完全に行きわたってからは街場の両替所の方が両替比率が悪い状況になりましたので、2001年程度には両替所を営業している経営者はほとんどいなかったはずとの認識です。
従って、スーパーリッチの話は、タイ国為替に関する騒動時の「ゲリラ商法」という認識が正しいので、長期に亘る商いではありませんでした。
〇タイのバンコクは大きな都市なので、緊急に外貨が必要な時には突然相場よりも1-2bart高くなったりする場所が目白押しの状況でしたから、us100note ×10程度の両替では交渉する事も容易い社会情勢でして、交渉によって掲示両替率よりも3-6%程度の有利な両替も可能でした。
(この両替比率を求める時は幾つかの両替所を駆け巡り気持ちが必要なので、概ね半日から1日程度はかかりました)
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ボート祭り(11月5,6,7日)・・... | トップ | 水祭りの開催情報 他 »

コメントを投稿

価値のある記述」カテゴリの最新記事