カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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C年 年間第二十四主日 

2013年09月11日 | 神父様からメッセージ(C年)
キリストに従う者達でも誰でも、同じように希望を持って探し求めるものがあります。キリスト信者は不満や寂しさからだけで探し求めるのではありません、まず感謝の心をもって生き、希望をもって探し求めています、それは神様の心です。どんなことが起こっても、キリスト信者はその中に神様の愛を見出します。現在の大切な一瞬一瞬を生きるとき、神様と一緒に生きていることを味わっています。未来の方に目を向けると、神様の思いやその救いの計画を、神様のみ言葉と出来ごとの中に探し求めながら、神様の心を果たすことができると思っています。イエス様に従いたい者たちは、いろんな人の心の中に神様の姿を探していて、それを大切にします。最後にイエス様ご自身が言われているように「探しなさい!求めなさい!」その中に含まれているのは確かに良いこと、人の喜びと幸せ、それに失った小さくても大切なものもあります。小さなものでも全て神様のものですから、キリスト信者は神様の心を映しながら、良い牧者のように、母親のように、放蕩息子の父親のように、弱い者、罪人、それら全てを探し求めて大きな愛で包んでしまいます。
「ルカによる福音書」 15・1-32
イエス様の時代、罪人は神様に嫌がられて、よい人から離れるべきものだと考えられていました。残念ながらこのような考え方はまだ現在でも残っています。それに従って赦しは自分の罪を認めた人だけに与えるべきだと思われます。イエス様はそのような考えを乗り越えて、罪人は神様に大切にされるもので、罪人が神様に受け入れられ、神様のもとに戻る時の喜びを強調されています。赦しを与える方も赦しをいただく方も共に大いに喜んでいます。イエス様が例え話を通して、福音書の目的を見せています。赦す時に、赦された時により大きな愛の体験になります。その時に救いを見出しますから、喜び祝うことは当たり前ではないでしょうか。当福音書でイエス様が語られた例え話は二つのパターンにつながっています。一つ目は「失ったもの、探し求めたもの、大喜び」。二番目は「出発し、戻る、祝うこと」。これらのイエス様の例え話を読むと三つの慈しみの例え話、つまり失った羊を見つけた時の例え話、見失った銀貨を見つけた時の例え話、放蕩息子が帰った例え話に大きな喜びで結びついています。上記のイエス様の例え話が罪人に対する神様の心の有り様を語っています。さて、物語の大詰めは、神様と人間とが大きなものを分かち合った喜びです。この例え話を、憐れみの例え話と言いますが、イエス様は自分の心と同時に神様の心を開いて見せています。ルカ福音記者は信仰を持つに至る異邦人の為に福音書を書いていますから、新しい神様のイメージをそれらの人々の為に徐々に作ろうとしています。ギリシャ人にとって神様は不動であり、厳しい姿を見せながら、失敗した人(罪人)は適切に罰せられるものとして知られています。しかし、イエス様が教えられる神様の心は、相手の事情によって慈しみの心に変わるもので、失敗した人、失った人を非常に愛して、その人と出会って、その人が改心した場合、共に大いに喜んでいます。イエス様の例え話を朗読する人は、素晴らしい優しいキリスト教の神様の姿に導かれていきます。            
                                     モヨリ神父