カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 44

2008年03月20日 | 神父様からメッセージ(C年)
   2008・3・15(土)NO・47
イエス様のことを愛される皆様へ、

教会の庭の木蓮はもう美しい花を咲かせています。それはまるで、わたし達に春の到来を告げて揺れている旗のように、わたし達の心を大きな喜びで満たしています。
全世界のカトリック教会は枝の主日を迎えることになりました。当日曜日によって聖週間に入ることになり、この時、全世界のキリスト者はイエス様のエルサレムの入場と、イエス様が弟子達と共に行われた最後の晩餐、イエス様のむごいご受難と死、そしてイエス様のご復活を思い起こして記念します。
洗礼を受ける方々にとっては、自分の信仰の歩みの中で、最も重要な頂点である時を迎えることになりました。なぜならこの時に受洗者は、イエス様と共に死んで、つまりその折の神秘的な所作の意味は、水の中に入り込むことで示され、イエス様と共に復活すること、イエス様と一緒に水の中から浮き出てずっと生きるようになるのです。イエス様が死を迎えたことは偶然な出来事、突発的な事件ではありません。むしろイエス様がこの世に来られた目標を全うされた最後までの最高の選択でした。 イエス様がエルサレムに入るのは、律法学者達、ファリザイ派の人々、ローマ軍が集中した所だとよく解っていたのですが、そこで最後まで御父の御心を述べ伝えることと決まっていました。それだけではなく同時に、エルザレムは王様達の玉座であり、預言者達が神様の言葉を述べた所であり、天国の栄光を現す都として象徴的な場所でした。言い換えれば当時の世界の中心部とも扱われていました。さてイエス様は繋いであるロバと一緒にいた子ロバを引いて来させ、その子ロバにまたがって都に入場し、御父の御心を最後まで述べ伝えるために進んだのです。ロバにまたがって入場するのは、王様達のように都に入場することですが、同時にイエス様が人間の弱さを見せながら、神様の偉大な力を称える意味もありました。イエス様が印によって新しいエルサレム(人間の心)に入場されたと同時に、予言的な印を見せることにしたのです。つまり愛の弱さを通してだけ、全人類を救い得ることになります。エルサレム入場の時、群衆はイエス様を歓迎して祝いました、けれども同じ群衆が、その後イエス様を殺せと叫びイエス様の死刑を願いました。勿論その間、イエス様を本当に救い主であり、メシアであると受け入れていた人達もいました。
上記の出来事を思い起こしながら、枝の主日にマタイの福音書のご受難の物語を朗読することになっています。わたし達はまず、イエス様がわたし達のために背負われた苦しみを思い起こし、イエス様と一緒にその苦しみを分ち合い、イエス様が人間に大きな愛情を示されたことを黙想し、また人間の苦痛は愛だけを通してその癒しを得ることを知らされます。聖週間の間、イエス様が教えられた偉大なメッセージが少しずつ述べられます。イエス様のむごい苦しみによって、人間が愛のために生きる道を覚え、苦しみを受け入れることによって、イエス様のように復活までの救いの道を進むことが出来ます。
モヨリ神父