カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 B年 年間第七主日

2009年02月21日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

春は一進一退しながらやってくるのが常です。立春を過ぎてからの寒さを「春寒」あるいは「余寒」と言います。どちらも同じことですが、言葉から受ける感じは違います。実は「春寒」の一語には、春に心を寄せたところがあります。年間第7主日に向かいます。神様の日、日曜日に、私たちは神様の言葉を聞くことができます。神様の体を頂きます。どんなことよりも素晴らしくありがたいたことではありませんか。その上、今年も神様は新しい機会を与えてくださいます。来週迎える灰の水曜日のことです。旧約聖書によると、灰はもっとも古い回心の徴であり、イスラエル人は自分達を愛されてきた神様以外に、他の価値のない神々に従ったことを反省して、灰を自分の体に振りかけ、思いと行いの回新を求めていました。四旬節の始まり、灰の水曜日に向っている私たちも、勇気をだして神様の愛の呼びかけをより高く優先しましょう。
使徒パウロのコリントの教会への手紙(2)1・18~22.
日本を初めて訪れた外国人が、日本語の難しさを乗り越えようとするとき、驚く現象に気付きます。それは言語の独特な特徴です。つまり、黒と白、然りと否とがはっきりしている外国語に対して、あいまいな、はっきりしない言葉使いがある不思議な日本語を聞くことになります。しかし、使徒パウロがイエス様の言葉を強調するキリスト信者の話し方、あるいはその行いは、はっきりした心の有り様から発生しなければなりません。つまり使徒パウロが言うように、私たちが「然りか否か」をはっきりしなければなりません。なぜなら、神様は最初に、はっきりした約束で私たちを大きな愛に結んでくださいました。神様は弱い人間である私たちに、聖霊を注ぎ、聖油によって聖なる者としてくださいました。だから私たちの人生は、イエス様とひとつになることによって、神様の愛に応えなければなりません。そうすれば、イエス様と共に神様の愛の保証に対して、はっきりと「ァーメン」と言えるようになります。
マルコによる福音書 2・1-12
このマルコの福音書の個所によると、イエス様は再びカファルナウムに戻ってきます。いつものようにイエス様が大勢に囲まれています。皆がイエス様を見たかった、イエス様の言葉を聞きたかったからです。どんな用事よりもイエス様のことを優先して、イエス様のところに集まっていました。今までこのような素晴らしい行いを見なかったからです。イエス様がご自分の聞き手の中で信仰が薄いファリザイ人にも、素晴らしい真実を分からせようとしています。神様の心を現わすイエス様が、信仰があれば罪を全部赦されるのが分かります。罪を赦されるとはどういう意味かというと、病気が治り、床から立ち上がるようなことです。私たちの体を大切にされる神様が、罪から病んだ心と体も治された時、それは新たな命、健康体、喜びになります。人類に対して慈しみ深いイエス様が、罪を赦せる神様であることを示すために、今日の福音書では中風の人が癒され床を担いで立ち上がり、復活のように神を賛美したのです。
                                 モヨリ神父

《 お知らせ 》
†毎月第1と第2の木曜日、午前10時から信徒会館で、
 聖書による勉強会「使徒言行録の朗読と解説」があります。皆さんのご参加をお待ちしています。

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1 コメント

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A年 四旬節第三主日 (神父)
2009-02-21 16:38:02
イエス様のことを愛される皆様へ、

春と共に復活祭は目の前です。毎日の厳しい寒さが少しは緩んだように思いますが、まだまだ本格的な暖かさではないようですね。しかし大自然は春の到来のために色々な準備をしています。わたし達の若者もそれぞれの学校の卒業式のための準備と共に、家毎に飾られたひな壇にひな祭りの祝いを期待し、心の中で皆さんは復活祭の喜びを想像して待っていますね。
四旬節の第三の日曜日にあたり、わたし達は日曜日の喜びを洗礼志願式で飾ることになりました。洗礼の準備のために、四旬節は最もふさわしい時期ですが、毎週、典礼から勧められた福音書も洗礼式の神秘的な内容と価値を紹介してくれています。
当日曜日の福音書は、イエス様がサマリアの井戸で出会った婦人との対話を語ってくれています。暑い日の、お昼ごろ、喉が渇いたイエス様はサマリアにあるシカルの井戸に近寄った時に、信仰まで導く話をある婦人に仕掛けました。その対話の結果、出会った婦人はイエス様に対しての信仰だけではなく、自らの人生を見つめて、それを見直すようになりました。実は深くイエス様に出会う人が、イエス様を信じることによって自らの人生を見つめ、自分自身をさえ再発見することが出来るのです。
サマリ人の女との出会いが語られる聖ヨハネの福音書には、まずとても象徴的な話しで、細かく書かれているのは、先礼を受ける人のための重要な手段であり、同時に復活祭に洗礼を受ける人の為、また一般のキリスト信者の為に、信仰まで達する道の公教要理になっています。まずイエス様はメシアであること、そして丁寧に自分のことを紹介して、救い主であることを明らかにします。そして同時にサマリア人の女の信仰への歩みを語りながら、三つのテーマが強調されています、第一「水のシンボル(象徴)」、第二「どこで、どのように神様を拝むか」、第三「メシアはどのようなものなのか」と、そしてそれに加えて色んな役割を果たしたサマリア人達のこと、イエス様の弟子たちの反応についても話されています。 聖書によりますとユダヤ人にとって、水は法の中に含まれた智恵を象徴していました、だからいつも法の中から智恵を汲むことが出来ました。イエス様にとって水は聖霊のことを象徴しています。だからわたし達が汲むべき井戸は智恵と霊で満たされているイエス様自身のことです。それからサマリア人の女も、わたし達でもその井戸に普遍的な「水」を汲むように勧められています。イエス様の井戸からわたし達が汲むのは聖霊の力、わたし達の人生を導く智恵です。だから聖霊と智恵に導かれているわたし達の行いは、法に縛られている行いではなく、愛の霊と智恵に満たされて自由な行いを表します。
同じようにこのような井戸に水を汲むことによって、神様は神殿だけではなく、どこでも自由に自分の日常生活の中でも自分の良い行いを通しても神様を拝むことが出来ます。わたし達の人生を満たすのは、唯一のメシアであるイエス様です。それを分かったサマリア人の女、それに従ったサマリア人達、イエス様の弟子達も誰にでも、イエス様は救い主である福音を告げ知らせる事にしました。
モヨリ神父
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