カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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A年 年間第7主日 

2017年02月13日 | 神父様からメッセージ(A年)


 主の祈りをよく唱えるキリスト信者たちは、主の祈りの様々な文書の意味を理解しにくい時もあります。たとえば「み名が聖とされますように」と祈ると、実際にどのようなことを願うことになるのか、すぐには言いにくいと思います。まず、聖書と祈祷文の中で、文章が受身形になる時に主役になるのは、神様自身です。だから神様自身が自分の名前を聖なるものとします。神様の名前とはオリーブ山でモーセに教えられた名前でした。それは「わたしはある」と言う表現で、神様は自分が人々の日常生活の中に溶け込んで、働いて、人間と一緒に喜び、悲しんでおられると言うことを伝えたかったのです。そして「聖とされる」と言うのは生き生きとする、躍動する、燃え立たせることを示しています。だから、祈りの言葉を一つ一つ分析してまとめれば、祈りの内容が豊かに現れてきます。「神様、人間である私たちの間に、というよりむしろ、私たちの心の中に神様を生き生きとした存在にしながら、私たちを支え、豊かなあなたの命と力を与え、命の尊さをたっぷり味わわせてください」と言う内容になります。是非このような思いの中で、主の祈りを唱え、命である神様の心に向かい、大きな信頼を持って神様の助けと安らぎを求め、得られますように。
「マタイによる福音書5・38-48(黄金の法)」
 イエス様は新しく、人生の過ごし方を考える方法を勧めてこられました。場合によっては正直な考えよりも、革命的な行動と思いも勧め、そのように自分の弟子にも生きるように教えました。イエス様はいつも自分の思いや話に父である神様の姿を基本にして話しました。それでイエス様は、弟子にも「神様が完全であるように、あなたがたも完全な者になりなさい」と呼びかけられました。当福音書では、イエス様が山上の話を続けています。特別に隣人の愛によって仕返しの法を廃止して、その古い考え方を乗り越えるように教えています。それを乗り越える為に欠かせない理由があります。「神様は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、雨を降らせてくださるからである。」つまり、神様が皆を大きな慈しみと愛で包んでいます。イエス様の時代に「目には目を」「歯には歯を」と言う原始的な法律がありましたが、しかし、イエス様は完全にこの法をも廃止し、それを乗り越えようとします。実際にイエス様の時代、頬を人が打つことはとても屈辱的な行動でした、それを帳消しにするためには多大な金額が必要でした。しかしイエス様がおっしゃるのは、右の頬を打たれた弟子は仕返しを求めず、左の頬も見せなければなりません。イエス様自身もカイファの裁判所の兵士に打たれた時にとても優しく、憐れみ深く、反感を持たず答えました。そして、当時、敵を憎むこと、敵と戦うことは当たり前のことでした、なぜなら、イスラエルの敵は神様の敵だと考えられているからです。しかしイエス様は、当時の法律ではなく、模範として神様の思いとやり方(完全な)に基づいて、それに従って真似をするように勧めています。イエス様に従った弟子は、人の中にイエス様の姿をみいだし、イエス様と同じように考え、同じように行い、心から人や敵を愛します。これがキリスト教の「黄金の法」です。                                                                     
                                     モヨリ神父