カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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B年 年間第18主日 

2015年07月30日 | 神父様からメッセージ(B年)
あちこち夏祭りで賑やかなこの頃、近くの祭りに出かけて金魚すくいの水の中をじっと見ていましたが、目は金魚に向いていても心は違うことを考えていたりします。父母への懐かしさ、恋しさがこみ上げてきます。幼い頃、両親と仲良く金魚すくいをした思い出はありませんか。一人でいる日暮れの寂しさに蘇る風景があります。祭りの喜びは花火のように一瞬華やかで心踊るものがありますが、それはすぐに消えて、より寂しさがつのったりするものです・・・・・
 しかし、キリスト信者は毎週、主の日に神聖な祭りを迎えます。キリスト信者はその時に味わった喜びをずっと、心の中に保ちながらより普遍的な喜びを味わい、その時、その後もずっと日常生活を喜びが染めていきます。キリスト信者は主の日に神聖な祭りの中でイエス様を通して神様に感謝し、イエス様と共に神様に自分の人生を奉献し、イエス様から頂いた命で生きるのです。
 さて、今週8月6日から平和旬間が始まります。この間に求める平和は戦争のない世界です。けれども、戦争のない世界は正義の土台の上に建てられて、自己中心的な考えを超えた広い心を持った社会の上に立っています。そのために私たちに何が出来るかが欠かせない課題になっています。まず、人類が皆、誰でも神様が告げられたようにお互いを愛すれば、人を愛する心が平和な世界への一歩になります。しかし何もできない私たちは、世界の平和のためこの頃に特に祈るように勧められています。なぜならこの様な平和は、人の力の対立によっては得られず人の心の憐みと弱さによって実現するものだからです。
「ヨハネによる福音6・24-35」
 イエス様のパンも旧約聖書のマンナと同じように天から降っています。命のパンであるイエス様自身、天から降っています。天から降っている神様のパンは世に命を与えます。実は人間の心は自分を満たすものを探し求めています。それは私たちに与えてくださった御言葉を通した神様の命です。当福音書で注目すべきことは、イエス様に対する群衆の質問です。「ラビ、いつ、ここに来られしたか。] 「神の業を行うためには何をしたらよいでしょうか。」「どのようなしるしを行ってくださいますか。」イエス様が心のこもった言葉でこの群衆の願いに応えようとします。群衆の質問は思い違いから発生しているとイエス様が気付きます。群衆がイエス様に求めているのは口にできる、飢えを満たす食べ物です。イエス様の答えは群衆の思いを超えて、手にとって食べられる物をしるしにして、その中に含まれた永遠の命の贈り物のメッセージを語っています。砂漠を歩き渡っているイスラエル人に、マンナが無償で神様から与えられた食べ物であり、当時の人類にたいする神様の憐みの象徴的な食べ物になりました。イエス様は全く同じように天から降ってきて、無償の神様の命を与える贈り物として人類を支えてきました。人間はイエス様に出会うことによってイエス様を天から降ってきた贈り物として受け入れ、信じるしかありません。信じるとは神様の業であり、それを受け入れる心が特別な幸せに達しています。モーセがイスラエル人の指導者として受け入れられるためにマンナのしるしを提供しました。イエス様も同じようなしるしになって人の注目を集め、最終的なマンナ(食べ物)であり、指導者であることを示しています、同時にマンナのような食べ物になったイエス様は、人類を満たされる命、人生の知恵であることを明らかにされています。  
                                モヨリ神父