カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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A年 復活節第三主日

2014年05月01日 | 神父様からメッセージ(A年)
復活祭が過ぎてからキリスト信者は、その実りを収穫します。復活祭の実りはまず、心の平和、神様のものであること、神様に属することを実感することです。そして神様の命の中で生きるのです。最後に皆さんの心の中にしみ込んだものは、大きな喜びです。その喜びは聖霊が宿るところであり、人生を満たす賜物です
ルカの福音書 24・13-35
さて、今日の福音書のメッセージに耳を傾けましょう。キリスト信者の場合、誰でも「エマオに行く人の弟子」の物語をよく知っていて、むしろ何回も読んだかあるいは聞いたことがあると思います。けれども誰でも、いつもそれを聞く時、新しい発見が伴うと思います。何回もその物語を読んだ私にとってもそうです。だから同じように、だれにとってもそうなると思っています。その理由は、神様の言葉である聖書のどんな個所でも、生きている言葉であり、読む人の心に触れると又、その人の心に入り込み、その人の心の中で新しい思い、新しい気持ちを呼び起こして、その人の人生と生き方まで、新しく変えることがあるからです。
では、もう一度上記の物語に沿って、この復活節の第三の主日に神様が何を教えておられるかを見つめましょう。まずイエス様は、わたし達と一緒に「同行二人」をしています。つまり、わたし達の人生の旅路をいつも、ずっと共に歩いてくださっているのです。でも、わたし達はその存在にたまにだけしか気づきません。イエス様はエマオへ行く弟子達と同じように、わたし達の辛い時期に、わたし達と一緒に歩かれていて、聖書の言葉を通してわたし達の辛い出来事を理解してくださっています。常にそばを歩いていてくださるイエス様が「私だ、恐れることはない」とわたし達の心に語りかけてくださいます。エマオ行きの二人の弟子は、復活されたイエス様とずっと一緒に歩いていたことに気づいた時、どんなに大きな喜びを味わったことでしょう。道中に消えそうだった希望は素晴らしく蘇えりました。だから、イエス様の言葉を通して味わったわずかな喜びでも、イエス様がわたし達のすぐそばにおられる証拠であり、失望の中に生きるわたし達のその失望をも、大きな希望に変えてくださいます。美しさは神様の姿です。喜びはわたし達と一緒に歩く復活されたイエス様の証拠です。 わたし達のふさがれた目を開いてくださるのは、大きな力を持つ二つの印です。それは聖書、神様の言葉、そしてパンを裂いていたイエス様の姿です。
                                   
モヨリ神父