カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 B年 年間第十三主日

2009年06月27日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛される皆様へ、
序文
梅雨の時期、長く雨降りが続き河川が氾濫して、田畑や人家などに被害を及ぼしたりすることを「出水」と言います。秋の台風の時期などに起こる出水は「秋出水」といって区別します。面白いことは熊本では浮巣と言えば「にお(鳰・カイツブリ)の浮巣」のことです。晴れた日に鳴き合いながら浮巣を出入りするにおたちを見るのは楽しいものです。さて、梅雨の時期は日々の蒸し暑さに体力が衰えがちです、けれども心の喜びはそうではありません。神様はいつも私たちの人生の流れを飾ってくださいます。6月21日から司祭の年が始まりました。司祭職を高める時になっています。今年は皆さんの司祭に対する憐みと慈しみの心を高める一年であればと願います。神様は人類との間に、人間として司祭を選び道具のように用いられご自分の声、ご自分の体を見せたのです。その謙虚な存在を通して、神様はご自分の限りない愛を示しています。それによって司祭に対する憐みの目をもった人だけが神様の姿を見ることができ、神様の声が聞こえるようになります。そして6月28日に使徒パウロの年を終ることになりました。使徒パウロは私たちの理想として残りますが、私たちの弱さを実感しながら、それを神様の手に委ねることにしましょう、神様はマリア様のように弱いものによって偉大なことをなさいます。
マルコ 5・21-43
 この長い福音書の中に、より素晴らしいイエス様の言葉と行いを見つめましょう。「しるし」つまり「奇跡」を通してイエス様がご自分の心を見せてくださいます。旧約聖書では命は神様からの贈り物です。それに従って小さな病でも、命の衰えは死の闇の世界の広がりとなっています。命のない死は「汚れ」と呼ばれています。福音書の中に出てくる、患いで出血の止まらない女は命を失いそうでした、(出血とは命を失うこと)だから病人は汚れたものと言われています。同じようにヤイロの娘は死んで命を失いましたが、イエス様が死に勝って命を取り戻すことによって、悪に対して死に対してご自分の勝利を示しています。神様は生きるものの神であり、神様に反するものだけが死の闇を求めています。しかしイエス様は死より、汚れより強いものです。またモーセの法律によると、イエス様が出会った女性たちは汚れたものに過ぎなかったので、イエス様も彼らに係わって汚れたものになったはずでした。しかし命であるイエス様は彼らに触れることによって命を与えました。命を探し求めるものはイエス様に触れようとすればその命を得られます。出血の止まらない患いの女や、ヤイロの娘も命を失うところでしたが、命を深く求めていましたので、イエス様が神様のあふれ出る命を彼女らの心に注がれます。この「しるし」によって、イエス様は奇跡そのものよりもご自分の正体を明らかにします。その「しるし」によって私たちはイエス様が誰であるかを身近に理解できます。神様に創造された万物を改善するのではなく、しるしによって天国はこの世に入り込み、永遠の命はこの世の限られた時間の中に入りました。神の国は人間の間にやどるようになりました。死の世界にしばられた人間は、命であるイエス様によって解放されたのです。今日もイエス様の力強い言葉に目を覚ますように勧められています、そうすることによって死は恐れることではなく安らかな眠りとなります、そしてイエス様が手を置くことによって新たな命が与えられます。私たちの洗礼の時に同じことが起ったのではないでしょうか。病気の時もそれがイエス様に触れる機会になれば、その時に私たちの目がより大きな光に開かれて命であるイエス様を見、病気を通してより素晴らしい喜びにまでに導かれることも経験します。病気が冶るのは、病気が消えるのではなく、病気を通してより素晴らしい真実をみることなのです。
                                   
モヨリ神父