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俳優・勝地涼くんのこと。

『カリギュラ』(1)-2

2009-01-21 02:29:34 | カリギュラ
私は残念ながら舞台そのものは観られなかったのですが、シアターコクーンへ出向いて無事パンフレットは入手できました。主演の小栗くんが絶頂の人気だったこともあって、上演当時品切れしたことも多々あったようです。
演出の蜷川幸雄さんやキャスト陣のインタビューのほか、舞台稽古のレポと写真、さらに古典的名作(しかもそのわりに日本では上演されたことが少なく知名度が低い)だけに『カリギュラ』という戯曲と作者カミュに関する識者の解説や評論も載っているのが出色の、実に読みどころ満載のパンフレットでした。

いろいろと感じ入るところが多かったのは蜷川さんのコメント。長く日本の演劇界を牽引してきた人だけの重みを醸しだしつつ、その一方で若々しい気概も感じさせる、教養に裏打ちされたユーモアと溢れる巧みな話術(インタビューをテキスト化したものなので)に、彼が勝地くんや小栗くんたち若手俳優たちから尊敬されつつ親しまれているのがよくわかる気がしました。
このインタビューに限った話ではありませんが、蜷川さんが小栗くんについて語っているのを見聞きするたび、蜷川さんが小栗くんをとても高く買っているのが伝わってきます。
『千の目、千のナイフ』を読むと若い頃の(今も?)蜷川さんは相当トガッてたようなので、同じく「生意気」(蜷川さん談)な小栗くんが可愛いのかも。
『演出術』でも、「若い世代に「冷静な頭と体力があるやつがいたらいいな」とは思いますよ。俳優は大体悪いのが好きなんだ。迷惑なやつが・・・・・・。行儀がいいやつよりは、問題児の方が好きかな。」(※1)と話してますしね。

カリギュラを「パンクの王」と定義し、ネオンを舞台装置に取り入れたのはご本人も言うように、大きな意味があったと思います。
ネオンというごく現代的なアイテムを持ち込むことで、古代ローマを舞台とする戯曲を遠い過去の物語ではなく「いま」の出来事として、現代に生きる我々の皮膚感覚にじかに訴えかける効果をあげていました。
これは「装置は重要ではない。ローマ風のもの以外ならば、どのようなものでも構わない」と記した作者カミュの意図にも叶ったものだったと思います(※2)

また戯曲を現代に接続する手段として、衣装を現代風にするとか現代の都市の街並みを映像で見せるとかでなく、どこか安っぽい俗悪なイメージを伴うネオンを用いたことで、カリギュラ治世下のローマ宮廷の頽廃的空気をくだくだしい説明抜きですんなり感じ取れるようになっていたと思います。
「ヤッター!古代ローマの話なのにネオンなんて発想が浮かぶんだから、俺はまだまだ大丈夫だ」と諸手を上げて喜んでる蜷川さんは、こう言っては失礼ながら、とても可愛い方だと思いました。

今回『カリギュラ』について書くにあたって蜷川さん関連の本をいくつか読んだのですが、そこで感じたのは戯曲および俳優をとても大事にする方だということ。
これまでは蜷川さんの演出というと、今回の『カリギュラ』なら上述のネオンと全面の鏡、『NINAGAWA マクベス』での仏壇と桜など、観客の意表をつくような舞台装置の印象が強くて、有名な灰皿投げ(笑)の怖いイメージもあいまって、戯曲や俳優の演技についても自身のカラーを強く押し出してゆく、舞台の隅々までに支配力を及ぼすような演出をされる方と思ってた部分がありました。
演出家は「戯曲を自分の世界観に限りなく引き寄せ、独自のスタイルと力ですべてを統一していくタイプ」と「自分のほうから戯曲の持つ世界のなかへ出かけていくタイプ」に分かれるものだそうですが(※3)、蜷川さんは前者だろうと考えてたわけです。

けれど「いつでも演出家も俳優も、他人の言葉しかいえないから、その屈折が想像力を生んでいくんだって思いがある」「違う感性、違う世界が出会って、新しいものを生んでいくんだという気がするんです」(※4)という発言を見るとむしろ後者が強いのかも。
(その裏には「他人の書いた言葉を自分のものにすることによって、新しい作品にしてしまいたいと思うからです」という前者的な自負があるわけですが(※5)

そしてインタビューや著作で、戯曲の台詞を変更すること(※6)や、俳優を物のように扱うこと(※7)(※8)(※9)への抵抗感を繰り返し語ってらっしゃるのを見て、彼と仕事をする作家さんや俳優さんは、むろん大変は大変だろうけど、その創作の苦心や演じ手としての根本的想いを深く理解し尊重してくれる蜷川さんとの仕事はとても幸せでもあるんじゃないかなと思ったものでした。

 

※1-蜷川幸雄+長谷部浩『演出術』(紀伊国屋書店、2002年)

※2-東浦弘樹「カミュの『カリギュラ』の演出をめぐって―アントニオ・ディアズ・フロリアンと蜷川幸雄―」(『人文論究』第五十八巻第一号、関西学院大学人文学会、2008年)。「カミュはまた、舞台装置について、「装置は重要ではない。ローマ風のもの以外ならば、どのようなものでも構わない」(カリギュラ41年版)と記している。彼は歴史に取材しながら、自らの戯曲を可能なかぎり歴史的現実から引き離し、特定の国、特定の時代にとらわれず、いわば普遍的な次元で、ひとりの人間のドラマを描こうとしたのである。」

※3-栗山民也『演出家の仕事』(岩波書店、2007年)。ちなみに栗山さんは後者のタイプ。「作品と出会うということは、知らない新しい世界と向き合うこと、ならば未体験の時間と空間の何かが自分のなかで必ず反応を起こします、その瞬間を大事にしたいのです。」というのがその理由だそうです。

※4-蜷川幸雄「芝居は血湧き肉躍る身体ゲームの方がいい」(扇田昭彦編『劇談』(小学館、2001年)収録)。「『真情あふるる軽薄さ』で、初めて清水(注・邦夫氏)と仕事をした時、清水とぼくが、本直しで一緒のホテルに泊まったことがある。ぼくがうたた寝してたら、清水が頭を叩きながら、だめだ、だめだ、だめだ、って言いながら、部屋中走りながら戯曲を直していた。起きるに起きられず、そういう光景を見ながら、作家っていうのは、こんなに言葉と格闘しながら書いてんだな、と。そんな原体験があるんです。いつでも演出家も俳優も、他人の言葉しかいえないから、その屈折が想像力を生んでいくんだって思いがあるものですから、少々言えないと思っても、自分の都合で本を変えるな、と。そこを想像力で埋めるから、違う感性、違う世界が出会って、新しいものを生んでいくんだという気がするんです。」

※5-「蜷川幸雄」(藤岡和賀夫『プロデューサーの前線』(実業之日本社、1998年)収録)。「 「台詞を変えるな!」と俳優に怒りながら、俺だってこんなもの認めてねェやと思いながらやるときもあるわけです。それは何とかして、出来損ないの戯曲でも、あるいは他人の書いた言葉を自分のものにすることによって、新しい作品にしてしまいたいと思うからです。」

※6-蜷川幸雄『蜷川幸雄・闘う劇場』(日本放送出版協会、1999年)。「大前提として、演出家も俳優も、基本的に「自分の言葉」は終生言えない、大事なことは「他人の言葉」を媒介にして伝えるしか方法がないと思おう、そう自分自身で決めているからだ。僕たち作家ならざるものは、日々言葉を選択しつつ書いたり、他人がしゃべる言葉として言葉を選び出しながら生きてはいない。そういう人間が、自分の言葉で世界や人間を対象化することを職業として選んだ人間に対し、よけいな手出しはすまいと決めたのである。」

※7-蜷川+長谷部前掲書。「コロスに仮面をかぶらせないで、どう演出していくか、(中略)現代の演出家として考えたときに、俳優の素顔を見せないまま、何時間も上演してしまうことはできない。そういう演出家は、俳優を物として扱っているのと同じです。そんな演出家は、必ず俳優に復讐される。俳優の復讐は何かというと、その演出家と仕事をしなくなることなんです。仮面をかぶらなかった俳優も、絶対に一緒に仕事をしなくなる。自分の顔を見てほしいし、自分の身体を見てほしいから役者をやっている。それはどんな理念や歴史的事実より何よりも、俳優の生理の絶対的なスタート地点で、僕は鉄則だと思っています。」

※8-蜷川+長谷部前掲書。「やっぱり僕が思うのは、ひとつには演出家として、俳優を機能としてだけ扱っているとは見られたくない。一人の人間として、世界を持っている人として演出したいと思っている。単にデザインで人を配置しているとすれば、俳優を物として扱っていくことになるでしょう。(中略)僕が言ったからそこにいるんじゃなくて、彼や彼女は自分の意思でそこにいるように見せたいわけです。」

※9-蜷川+長谷部前掲書。「寺山(注・修司)さんの作品は見てて面白いけれども、ぼくには、俳優がオブジェになりすぎていてね、そういうことに対する反発がいちばん大きいんじゃないかと思うんです。寺山さんの演出については、彼の理論とは別に、ここまで物として、役者扱えるかよって、それは役者にいつか逆襲されるぞって、ぼくはそう思って見ていた。」

 

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