次に幽霊たちが仕掛けてきたのが平心坊による説法。妻に唆された結果金品目当てで通りすがりの女子供を殺してしまった男が前非を悔いて出家したのち、自分が殺した女の夫が同じく僧侶となっていたのと出会って罪を告白、彼の手にかかろうとするが〈一つの寺で巡り会ったのも仏のお導き〉だと許される──というのがその内容である。
後に小次郎が「平心坊は、ひたすら仲直りを押し売りしていたが、あれもわしら二人に、誠心坊と五輪坊のようになれ、許し合って友達になれと、そう説いていたんだな。」とまとめているが、正直このエピソードの扱いは妙に軽い。平心の説法が終わってから一分と置かず、それこそ「許し合って友達になれ」という平心坊の「押し売り」が武蔵と小次郎の心に届く間もないうちに、まいが別れた子供についての告白を早々と始めてしまうのである。
(余談だが「ひたすら仲直りを押し売り」という表現がなんか面白い。先入観なしに聞くかぎりでは仲直りより念仏の有難さを押し売りしてる感じだが。そして「ときに、この誠心坊どのは、いまも高野山で念仏を唱えながら貯え漬を漬けておられます」というオチがまた(笑)。
現在も息災で修行に励んでいると言いたいのはわかるが、なぜわざわざ貯え漬に言及するのか。寺開きの挨拶の時にも乙女の紹介のところで貯え漬の話が出てきてるし・・・まあ貯え漬=沢庵漬の名の語源と言われる沢庵和尚がメインキャラで出張ってるのに掛けてるんでしょうが)
幽霊たちが武蔵と小次郎を変心させるべく様々の手を繰り出したうちでも、その仕掛けの手の込み方からいって乙女の仇討ちとここでのまいの〈皇位継承順位第十八位騒動〉が本命だったのだろうが、平心の説法には全く期待をかけてないかのごとくである。
そもそもこの説教、前半部分を小次郎は聞いていない。乙女によると翌日の決闘に向けて源氏山を下見に行ったとのことだが、翌日までに武蔵と小次郎の双方、とりわけ決闘を申し込んだ側である小次郎をなんとか改心させなければならないというのに、そのために仕込んだ説法を聞かずに出かけようとするのを引き止めなかったのか。いくらでも理由の付けようはあったろうに。
さらに小次郎はどうしたのかというまいの問いに乙女が答えるところへ武蔵が「この武蔵がなにか罠でも仕掛けているのではないかと、心配になったのでしょう」と話に加わってきたりして、この間三人とも説法の方はすっかりお留守になっている。さらに小次郎が帰ってきてからは武蔵と口喧嘩になってしまって宗矩がたしなめるまですっかり説法そっちのけ。
後半部だけでも話の意味は取れるし、上で引いた台詞からしても小次郎はこの説法のテーマ─説法に事寄せて平心が言いたかったこと─をちゃんと理解していたが、小次郎の帰りがもっと遅ければ説法は全部終わってしまって、小次郎に対しては全くの無意味になったことだろう。
なぜ幽霊たちはこの平心の説法に重きを置かないのか。というかこのエピソードはそもそも必要だろうか。
これは実のところ〈役者一人一人に見せ場を作るために、ストーリー的には特に必要性のない場面が設けられた〉というのが正解なんじゃないか。といってもこの場合の〈作者〉とは井上さんではなく、武蔵と小次郎に刀を捨てさせるべく一連の筋書きを作った乙女のことである。
自分も含めた幽霊たち全員出番があるように、特に参籠禅に参加しているメインの役者五人(宗矩、沢庵、平心、まい、乙女)にはそれぞれ彼らが主人公となるような見せ場を作らねばならない。
平心はこの後のまいの芝居(小次郎とは生き別れの母子だった)のために生前の技術を活かして証拠品の鏡を偽造するという大事な仕事をこなしているが、あくまで裏方の仕事なので、本来の目的にはあまり貢献しないが(一応〈恨みを捨てて仲良くなれ〉という内容にはなってはいる)彼にスポットライトの当たる、長台詞を滔々と喋れるような場面を用意したのだろう。
そう考えると、もし武蔵と小次郎が乙女の仇討ちのあたりで早々と刀を捨ててしまったなら沢庵以下の出番はなくなってしまったわけだ。それでも二人に戦いを止めさせるという目的を果たせたからと心置きなく成仏できたろうか。・・・なんかできなさそう(笑)。
宗矩の見せ場も五人六脚だけじゃ微妙だから、能を舞わせたり〈三毒を断った者しか刀を抜けないことにする〉沢庵の「大構想」のくだりにも関わらせてるのだろうし。
この平心メインの箸休め的場面から間をおかず、いよいよ本命というべきまいの大芝居が始まる。小次郎が持つ母の形見と対になる鏡を偽造して、小次郎を自分の生き別れの息子=親王のご落胤と言い立てたのである。
最初は頑強に信じまいとした小次郎も証拠品の鏡を前に陥落、以降しばらく熱にうかされたようになった彼が第十八位第十八位言うたびに客席に笑いが起こっていたが、(2)-5でもツッこんだように本来これはひどい話なんじゃないだろうか。
二十六年ぶりに思いがけず再会した死んだはずの母親が「母さんと呼んでおくれ」と叫び取りすがっているのに、父方の高貴な血のことしか息子の頭にはない。全てが芝居でまいが小次郎の実母などでなかったからいいようなものの、小次郎のこの反応は母親に対して残酷極まりない。本人に悪気などまるでない、自然な感情の発露であるだけになおさら。
さらに先には三種の神器の行方によって正義の行方が決まる滑稽さを沢庵が指摘したのに同調していた宗矩が「理屈から云えば」と前置きしてはいるものの〈帝(になる可能性のある人物)に刃を向けようとする武蔵は史上最悪の大悪人〉だと言い出すのもひどい。
この「皇位継承順位第十八位」騒動だけでなく、先から見てきたように乙女作の一連の芝居は〈ひどい〉場面だらけだ。とどめが正体を明かした亡霊たちの〈自分たちを成仏させるために戦いを止めてくれ〉という身勝手な言い分である。
これだけ図々しかったり残酷だったり変わり身が早すぎたり平和主義の顔して要は自分たちの都合だったりする台詞と行動が頻出しているのに、観客はさほど気に留めず笑って流してしまう。
理由の一つは上でも引いた武蔵と小次郎による「この三日のうちにおきたこと」の総括である。乙女が刀を投げ捨てたことを「わしらに、うらみの鎖を断ち切れと云っていたのだな」、沢庵の大構想は「わしら二人に、刀を抜くなと諭していたのさ」、偽の母子ご対面は「おぬしを雲の上の、そのまた雲の上の貴いお方に仕立てあげて、わしに切らせぬよう企んだ」と簡単にまとめて説明してくれるために、観客はこれが各エピソードを通じて井上さんが言いたかったことだと思い込まされ、この解釈からはみ出す上述の〈ひどい〉部分を見逃してしまうのだ。当然井上さんはわざとそう仕向けているのであろう。
もう一つの理由は「笑い」である。五人六脚や剣術の稽古がいつのまにか踊りになってしまうという役者の身体を使った滑稽な芝居、要所要所に差し挟まれる笑える台詞や顔芸・言い回しの面白さが〈ひどさ〉を覆い隠してしまう。
いい例が『孝行狸』のオチで、実態は胴体を真っ二つにされているスプラッタシーンであるのに、ウサギ→ウ+サギという地口オチの馬鹿馬鹿しさで誤魔化されてしまう。
(これは地口オチのせいだけでなく真っ二つにされるのがウサギ─動物だというのもあるだろう。前半でまいと乙女が踊る『蛸』もそうだが、これが人間だったらエグいだけである。乙女に切られた浅川甚兵衛の腕とそれ以外の体がそれぞれ別の生き物になって飛んでいくのを想像すると・・・)
加えて復讐を完遂して「めでたしめでたし」で終わる『孝行狸』は『ムサシ』の「復讐の連鎖を断ち切る」というテーマと真っ向から対立してるにもかかわらず、ウ+サギに笑わされて、つい気づかずに通りすぎてしまう。
笑いが「否定的状態から人を引き離す」「常識やきまりきった言葉や思考のパターンに囚われ眠りこんでいたわたしたちの感情と思考を目覚めさせる」(※55)効能を持つのは確かだろう。だが一方で「笑い」が残酷さ、否定的状態を覆い隠してしまう場合もしばしばあるのではないか。
そして自身を喜劇作家と位置づけ、笑いにこだわり続けてきた井上さんが、笑いの持つマイナスの側面に気づいていないはずはない。
※55-「笑いは、肯定的な状態をもたらすわけではない。肯定的状態がすぐそばに見わたせる場所に人を連れ出すのでもない。そんな便利なものではない。 しかし、笑いは、人間的かつ社会的歪みからくる孤独、逃避、苦しさ、死への傾斜など否定的な状態に、一瞬、休止符をうつ。そのような重苦しい否定的状態をいきどまりにせず、そこからわずかに人を離れさせる。 たいして、悲しみや怒りは、否定的状態につよく密着する力をもつものの、否定的状態から人を離れさせない。(中略)あまりに巨大でうごかすことなど考えもしなかった状態の、意外な小ささや弱さを明るく元気な笑いとともに発見した人は、勇気をもって肯定的状態をめざしはじめる。 あるいは逆に、すこし離れて見ることで人は、否定的状態の広がりと深さにあらためて直面する場合もあるだろう。このとき笑いは明るい笑いではなく、暗く残酷な笑い(ブラックユーモア)にかたむく。しかし、暗く残酷な笑いも、否定的状態に人が囚われたままでないことを告げる。だからそれは、人に否定的状態をくぐりぬけるのを大胆にうながす笑い、すなわちロシアの思想家ミハイル・バフチンの提起したグロテスクで解放的な哄笑ともなりうる。 こうして、否定的状態から人を引き離す笑いは、肯定的状態へとむかう可能性、あるいは否定的状態を深くくぐり変更する可能性を人にもたらす。」「意表をつく展開と笑いは、常識やきまりきった言葉や思考のパターンに囚われ眠りこんでいたわたしたちの感情と思考を目覚めさせる。そのとき、常識や言葉や思考の型がいささかも普遍的なものでなく、同時代の権威や権力によってつくりあげられ、強調されたものであることに気づけば、この困難も変更可能と思えるにちがいない。 人間がつくりだしたものは、人間によってつくりかえられる。」(高橋敏夫『むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく・・・・・・ 井上ひさし 希望としての笑い』、角川新書、2010年)
後に小次郎が「平心坊は、ひたすら仲直りを押し売りしていたが、あれもわしら二人に、誠心坊と五輪坊のようになれ、許し合って友達になれと、そう説いていたんだな。」とまとめているが、正直このエピソードの扱いは妙に軽い。平心の説法が終わってから一分と置かず、それこそ「許し合って友達になれ」という平心坊の「押し売り」が武蔵と小次郎の心に届く間もないうちに、まいが別れた子供についての告白を早々と始めてしまうのである。
(余談だが「ひたすら仲直りを押し売り」という表現がなんか面白い。先入観なしに聞くかぎりでは仲直りより念仏の有難さを押し売りしてる感じだが。そして「ときに、この誠心坊どのは、いまも高野山で念仏を唱えながら貯え漬を漬けておられます」というオチがまた(笑)。
現在も息災で修行に励んでいると言いたいのはわかるが、なぜわざわざ貯え漬に言及するのか。寺開きの挨拶の時にも乙女の紹介のところで貯え漬の話が出てきてるし・・・まあ貯え漬=沢庵漬の名の語源と言われる沢庵和尚がメインキャラで出張ってるのに掛けてるんでしょうが)
幽霊たちが武蔵と小次郎を変心させるべく様々の手を繰り出したうちでも、その仕掛けの手の込み方からいって乙女の仇討ちとここでのまいの〈皇位継承順位第十八位騒動〉が本命だったのだろうが、平心の説法には全く期待をかけてないかのごとくである。
そもそもこの説教、前半部分を小次郎は聞いていない。乙女によると翌日の決闘に向けて源氏山を下見に行ったとのことだが、翌日までに武蔵と小次郎の双方、とりわけ決闘を申し込んだ側である小次郎をなんとか改心させなければならないというのに、そのために仕込んだ説法を聞かずに出かけようとするのを引き止めなかったのか。いくらでも理由の付けようはあったろうに。
さらに小次郎はどうしたのかというまいの問いに乙女が答えるところへ武蔵が「この武蔵がなにか罠でも仕掛けているのではないかと、心配になったのでしょう」と話に加わってきたりして、この間三人とも説法の方はすっかりお留守になっている。さらに小次郎が帰ってきてからは武蔵と口喧嘩になってしまって宗矩がたしなめるまですっかり説法そっちのけ。
後半部だけでも話の意味は取れるし、上で引いた台詞からしても小次郎はこの説法のテーマ─説法に事寄せて平心が言いたかったこと─をちゃんと理解していたが、小次郎の帰りがもっと遅ければ説法は全部終わってしまって、小次郎に対しては全くの無意味になったことだろう。
なぜ幽霊たちはこの平心の説法に重きを置かないのか。というかこのエピソードはそもそも必要だろうか。
これは実のところ〈役者一人一人に見せ場を作るために、ストーリー的には特に必要性のない場面が設けられた〉というのが正解なんじゃないか。といってもこの場合の〈作者〉とは井上さんではなく、武蔵と小次郎に刀を捨てさせるべく一連の筋書きを作った乙女のことである。
自分も含めた幽霊たち全員出番があるように、特に参籠禅に参加しているメインの役者五人(宗矩、沢庵、平心、まい、乙女)にはそれぞれ彼らが主人公となるような見せ場を作らねばならない。
平心はこの後のまいの芝居(小次郎とは生き別れの母子だった)のために生前の技術を活かして証拠品の鏡を偽造するという大事な仕事をこなしているが、あくまで裏方の仕事なので、本来の目的にはあまり貢献しないが(一応〈恨みを捨てて仲良くなれ〉という内容にはなってはいる)彼にスポットライトの当たる、長台詞を滔々と喋れるような場面を用意したのだろう。
そう考えると、もし武蔵と小次郎が乙女の仇討ちのあたりで早々と刀を捨ててしまったなら沢庵以下の出番はなくなってしまったわけだ。それでも二人に戦いを止めさせるという目的を果たせたからと心置きなく成仏できたろうか。・・・なんかできなさそう(笑)。
宗矩の見せ場も五人六脚だけじゃ微妙だから、能を舞わせたり〈三毒を断った者しか刀を抜けないことにする〉沢庵の「大構想」のくだりにも関わらせてるのだろうし。
この平心メインの箸休め的場面から間をおかず、いよいよ本命というべきまいの大芝居が始まる。小次郎が持つ母の形見と対になる鏡を偽造して、小次郎を自分の生き別れの息子=親王のご落胤と言い立てたのである。
最初は頑強に信じまいとした小次郎も証拠品の鏡を前に陥落、以降しばらく熱にうかされたようになった彼が第十八位第十八位言うたびに客席に笑いが起こっていたが、(2)-5でもツッこんだように本来これはひどい話なんじゃないだろうか。
二十六年ぶりに思いがけず再会した死んだはずの母親が「母さんと呼んでおくれ」と叫び取りすがっているのに、父方の高貴な血のことしか息子の頭にはない。全てが芝居でまいが小次郎の実母などでなかったからいいようなものの、小次郎のこの反応は母親に対して残酷極まりない。本人に悪気などまるでない、自然な感情の発露であるだけになおさら。
さらに先には三種の神器の行方によって正義の行方が決まる滑稽さを沢庵が指摘したのに同調していた宗矩が「理屈から云えば」と前置きしてはいるものの〈帝(になる可能性のある人物)に刃を向けようとする武蔵は史上最悪の大悪人〉だと言い出すのもひどい。
この「皇位継承順位第十八位」騒動だけでなく、先から見てきたように乙女作の一連の芝居は〈ひどい〉場面だらけだ。とどめが正体を明かした亡霊たちの〈自分たちを成仏させるために戦いを止めてくれ〉という身勝手な言い分である。
これだけ図々しかったり残酷だったり変わり身が早すぎたり平和主義の顔して要は自分たちの都合だったりする台詞と行動が頻出しているのに、観客はさほど気に留めず笑って流してしまう。
理由の一つは上でも引いた武蔵と小次郎による「この三日のうちにおきたこと」の総括である。乙女が刀を投げ捨てたことを「わしらに、うらみの鎖を断ち切れと云っていたのだな」、沢庵の大構想は「わしら二人に、刀を抜くなと諭していたのさ」、偽の母子ご対面は「おぬしを雲の上の、そのまた雲の上の貴いお方に仕立てあげて、わしに切らせぬよう企んだ」と簡単にまとめて説明してくれるために、観客はこれが各エピソードを通じて井上さんが言いたかったことだと思い込まされ、この解釈からはみ出す上述の〈ひどい〉部分を見逃してしまうのだ。当然井上さんはわざとそう仕向けているのであろう。
もう一つの理由は「笑い」である。五人六脚や剣術の稽古がいつのまにか踊りになってしまうという役者の身体を使った滑稽な芝居、要所要所に差し挟まれる笑える台詞や顔芸・言い回しの面白さが〈ひどさ〉を覆い隠してしまう。
いい例が『孝行狸』のオチで、実態は胴体を真っ二つにされているスプラッタシーンであるのに、ウサギ→ウ+サギという地口オチの馬鹿馬鹿しさで誤魔化されてしまう。
(これは地口オチのせいだけでなく真っ二つにされるのがウサギ─動物だというのもあるだろう。前半でまいと乙女が踊る『蛸』もそうだが、これが人間だったらエグいだけである。乙女に切られた浅川甚兵衛の腕とそれ以外の体がそれぞれ別の生き物になって飛んでいくのを想像すると・・・)
加えて復讐を完遂して「めでたしめでたし」で終わる『孝行狸』は『ムサシ』の「復讐の連鎖を断ち切る」というテーマと真っ向から対立してるにもかかわらず、ウ+サギに笑わされて、つい気づかずに通りすぎてしまう。
笑いが「否定的状態から人を引き離す」「常識やきまりきった言葉や思考のパターンに囚われ眠りこんでいたわたしたちの感情と思考を目覚めさせる」(※55)効能を持つのは確かだろう。だが一方で「笑い」が残酷さ、否定的状態を覆い隠してしまう場合もしばしばあるのではないか。
そして自身を喜劇作家と位置づけ、笑いにこだわり続けてきた井上さんが、笑いの持つマイナスの側面に気づいていないはずはない。
※55-「笑いは、肯定的な状態をもたらすわけではない。肯定的状態がすぐそばに見わたせる場所に人を連れ出すのでもない。そんな便利なものではない。 しかし、笑いは、人間的かつ社会的歪みからくる孤独、逃避、苦しさ、死への傾斜など否定的な状態に、一瞬、休止符をうつ。そのような重苦しい否定的状態をいきどまりにせず、そこからわずかに人を離れさせる。 たいして、悲しみや怒りは、否定的状態につよく密着する力をもつものの、否定的状態から人を離れさせない。(中略)あまりに巨大でうごかすことなど考えもしなかった状態の、意外な小ささや弱さを明るく元気な笑いとともに発見した人は、勇気をもって肯定的状態をめざしはじめる。 あるいは逆に、すこし離れて見ることで人は、否定的状態の広がりと深さにあらためて直面する場合もあるだろう。このとき笑いは明るい笑いではなく、暗く残酷な笑い(ブラックユーモア)にかたむく。しかし、暗く残酷な笑いも、否定的状態に人が囚われたままでないことを告げる。だからそれは、人に否定的状態をくぐりぬけるのを大胆にうながす笑い、すなわちロシアの思想家ミハイル・バフチンの提起したグロテスクで解放的な哄笑ともなりうる。 こうして、否定的状態から人を引き離す笑いは、肯定的状態へとむかう可能性、あるいは否定的状態を深くくぐり変更する可能性を人にもたらす。」「意表をつく展開と笑いは、常識やきまりきった言葉や思考のパターンに囚われ眠りこんでいたわたしたちの感情と思考を目覚めさせる。そのとき、常識や言葉や思考の型がいささかも普遍的なものでなく、同時代の権威や権力によってつくりあげられ、強調されたものであることに気づけば、この困難も変更可能と思えるにちがいない。 人間がつくりだしたものは、人間によってつくりかえられる。」(高橋敏夫『むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく・・・・・・ 井上ひさし 希望としての笑い』、角川新書、2010年)