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about him

俳優・勝地涼くんのこと。

ambition

2019-08-20 21:01:18 | その他
7月26日放送の『アナザースカイⅡ』で、久しぶりに彼を見ました。

4年前にこの番組に出演した時に訪れたロンドンの街を再訪。当時は自分のために買い物をしていた彼が、今回はもっぱら子供の物ばかりを購入していた。奥様へのプレゼントは買ってない─おそらく買う必要性があるとさえ思ってない─ことにスタジオからツッコミが入っても「いや、二人も子供(第一)って感じになってるから」と当然のように答え、奥様を子供に取られたように感じることもないというのに驚きました。
決して奥さんをないがしろにしてるのではない、すでに新婚の甘い時間を過ぎて長年連れ添った夫婦のごとく、共に子供を守り育てていく同志としての固い信頼で結ばれているのだと何だか胸が熱くなりました。

そんな良き家庭人ぶりを見せる一方で仕事に対する思いもしっかり語ってくれた。この番組で語られた言葉は大概どれも聞きどころ満載だったのですが、とりわけ印象的だったのは「結局一人でできる仕事じゃないから 僕はアーティストじゃないから 誰かにこの役をやってもらいたいって思われなきゃいけなくて 役柄が振られて台本をもらって、それを読んだ時点から初めて僕がその役柄をスタートできる」という発言。
漫画家や小説家、あるいはミュージシャンなら自分一人で作品を制作しネットなどで発表することもできる。しかし俳優は一人芝居でもない限り共演者がいなければ作品が成り立たない。さらに原作・脚本・演出。まれにこれら全てを一人でこなし主演も兼ねる才人もいるものの、その場合だって撮影・照明などのスタッフは必要不可欠だ。
そしてその作品を観客(視聴者)に届けるためにはプロデューサーや配給元も介在することになる。これだけネットや音楽・絵画の制作ソフトが発達した時代において、舞台・映画・テレビを問わず芝居とは最も人力頼りの芸術なのかもしれない。人と積極的に関わろうとし、人から愛される彼は、俳優として大きなアドバンテージを持っているといえるんじゃないでしょうか。

とどめが「主役をやって バリバリやっている人の景色も見たい」という言葉。彼はすでに単発ドラマや小さい舞台、アニメの声優としては主演をやっていますが(映画もダブル主役はあり)、より注目度の高い場で堂々の主役を張る日が遠からず来るかもしれない。いつにない彼の力強い、思い出の地での宣言にすっかりワクワクしてしまいました。新しい家族を得てまた新たなステージへ踏み出した彼の一年をしっかり見届けたいと思います。

33歳、おめでとうございます。

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NEXT STAGE

2018-08-20 00:30:21 | その他
まず最初に、お誕生日おめでとうございます。
そして─こんなに早くこの言葉を書くことになるとは思っていませんでしたが─ご結婚おめでとうございます。


年齢的には普通に適齢期なんですが、『恋するハニカミ!』での「僕は(結婚は)40までにできればいい」という発言を結構真に受けてたのもあり、入籍のニュースを読んだとき「早すぎないか?」と真っ先に思ってしまいました。
交際期間が短めなこともあって、何となし不安というかもやもやした気分がなかなか拭えませんでした。


それが一気に吹き飛んだのが映画『銀魂2』完成披露試写会の記事を読んだ時でした。写真の中の彼の陰りのない最高の笑顔。指輪をかざしたポーズもあいまって、今本当に幸せなんだなあと、心から納得することができたのでした。
この先いろいろと山あり谷ありでしょうが、彼女と二人で仲良く乗り切って行ってほしいものです。そしてその経験を演技に生かして、さらに俳優としても進化していってくれることでしょう。彼のこれからの活躍が改めて楽しみです♪


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新たな一歩

2017-08-20 00:51:05 | その他
去る8月12日にNHKのスペシャルドラマ『1942年のプレイボール』が放映されました。

このところ、NHKの終戦記念ドラマに毎年のように出演している彼ですが、今作での役柄は主演を務めた2014年のドラマ『撃墜~3人のパイロット』にも匹敵する出番の多さであり、名演でした。
近年すっかりコミカルな演技のイメージが強くなった彼ですが、やはりこうした目で語る、重心の低いお芝居こそが真骨頂という気がします。
涙ぐむようなシーンでも、〈泣きの芝居が必要だから泣いてみせた〉感のない、感情が高ぶった結果涙が出たように見える、あざとさのない実に自然な演技を見せてくれました。

そんな彼の次の大きなお仕事が笠原秀幸くんとの演劇ユニット「ともだちのおとうと」としての9月21日開演の二人芝居。少年時代からの友人である笠原くんとの〈二人で何かやりたい〉という夢がついに実現した形です。
とはいえ『fabulous stage』のインタビューでも話していたように、キャストが二人だけ、それも年の近い同性同士というのはドラマを展開するうえで面白味を出しにくい。脚本・演出の石井監督も映像では実績のある方ですが舞台の演出は初経験、キャストの集客力も正直高いとは言えず、そのわりにハコは大きい、と不安材料の多さが心にかかって仕方ありませんでした。

その不安感を一気に霧消させてくれたのが「ともだちのおとうと」公式ツイッターで7月15日に紹介されたとあるエピソードでした。なんと「劇団☆新感線」恒例の罰ゲームとして、ロビーでDVDの販売をやらされたのだという。
「新感線」の舞台に出るたびに罰ゲームをやらされている彼ですが、今回は出演者じゃないのになぜ?と思ったら〈観劇に遅刻した〉のが理由なのだそう。
もちろんこれは表向きの理由であって、物販のかたわら二人舞台の宣伝チラシも配っていたこと、この日「新感線」を観劇に訪れた笠原くんもあとで合流したことからして、ユニット初の舞台を控えた彼のために宣伝の機会を用意してくれたのは明らかです。
彼が「新感線」の方々から可愛がられているのは承知していましたが、ここまで愛されているとは。
感激すると同時にすごく安心しました。この〈愛され力〉があるかぎり彼は大丈夫だと。
考えてみれば彼らの夢に石井監督が乗ってくれたのも、新ユニットの初公演にしては分不相応なほどの大きな会場で演じることになったのも、周囲の人間に彼の、彼らのために〈何かしてやりたい〉と思わせたゆえだったのかもしれません。

今回の舞台がすぐに成果を出せるかは未知数ですが、彼にとって大きな成長の糧となることは間違いないでしょう。
本来得意ではないだろうSNSを始めたり、そのSNSのフォロワー数を増やすためにバラエティ番組で呼びかけたり事務所の後輩に助力を仰いだりしているこのところの彼の姿には、自分たちのために動いてくれている人々に報いるためにも舞台を成功させなければという責任感と気魄を感じます。
今日31歳になったばかりの彼がこの舞台を通してどれだけ大きくなるのか、ワクワクしながら見届けたいと思います。

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やっと終幕です

2017-04-08 04:05:48 | ムサシ
誕生日企画でありながら、ずるずる半年も続いてしまいました・・・。週一更新のペースも途中から全然守れなくなってしまい、迷走ぶりが実に顕著でお恥ずかしい限りです(汗)。

書きながら痛感したのが、どうも私は〈笑い〉に対する感受性が低いらしいということでした。作中の笑いの在り様についていろいろと突っ込んでますが、単に考えすぎなんじゃないか、七面倒くさいことを考えず素直に「ウサギ→ウ+サギ」で笑っておくのが正解なんじゃないかという気が次第にしてきました・・・。
(3)-9で触れた戯曲『ロマンス』で取り上げられているチェーホフの「喜劇」にしても、(チェーホフ自らが喜劇だと断言しているにもかかわらず)私には正直『桜の園』も『かもめ』も『ワーニャ伯父さん』もかねてそう見なされてきたように悲劇、せいぜいが悲喜劇としか思えない。思い出の我が家を失おうとして嘆く人々を、愛を失い夢も半ば失いかけながら逞しく生きようするかつての恋人を尻目に成功者と見えた男がピストル自殺する様をどうして笑えるのか。
ロシア文学者の浦雅春さんが「距離を無化して対象に寄り添いすぎると悲劇しか見えてこない。 ラネフスカヤやガーエフに寄り添っていた目をぐっと引いてロングで見てみよう。ロングに引かれた目から見れば、無限の距離をおいて見れば、この世に生起する事象はもはや悲劇でも喜劇でもない。ただ脈絡もなく出来事が生起するだけだ。 チェーホフのいう「コメディ」という言葉を杓子定規に取る必要はないだろう。悲劇に転化することに予防線を張るために「コメディ」という言葉でチェーホフは距離を介在させたのである。」(※1)「対象に密着した視点は「悲劇」を生み出すが、そこに無限の距離を介在させれば、それは「喜劇的な」様相を帯びてくる。誰が読んでも「悲劇」としか思えないような作品を書きながら、チェーホフはそれを「喜劇」だと強弁して演出家や研究者を悩ませてきた。『かもめ』も「四幕の喜劇」(原文傍点)と題されている。その謎を解く鍵はやはりこの距離にあるだろう。距離を介在させると、すべては「喜劇」へと変貌する。「喜劇」とはおもしろおかしい状況や運命をさすのではなく、無限の距離からながめられた人々の営みそのもの、ダンテの「ラ・ディヴィナ・コンメディア」つまり「神曲」に通じるものなのだろう。」(※2)と書いているのを読んで、要はキャラクターに感情移入せず客観的な視点で見てくれという、いわばブレヒト的な異化効果を狙って「喜劇」と言い立てたのかとやっと少し納得が行く気がしたものでした(※3)

そんな具合なので、私が『ムサシ』という〈喜劇〉をきちんと咀嚼できてるかは甚だ怪しく、何ヶ月もかけて的外れな感想を列挙しただけという可能性も大いにあるかもしれません。眉に唾つけつつ読んでいただければと思います。

なお(3)について若干の補足情報を注の形で追加しました。わかりやすいように赤字で、注番号もローマ数字にしてあります。また※54がなぜか飛んでしまってたので付け加えました。申し訳ありません(汗)。



※1-「作家のナボコフはほとんど箴言らしい言辞など弄することがない作家だが、あるエッセイでこんなことを書いている。「現実がときに陰鬱に見えるとすれば、それは近視のせいだ」と。あまり対象に近づきすぎては対象は見えない。距離を無化して対象に寄り添いすぎると悲劇しか見えてこない。 ラネフスカヤやガーエフに寄り添っていた目をぐっと引いてロングで見てみよう。ロングに引かれた目から見れば、無限の距離をおいて見れば、この世に生起する事象はもはや悲劇でも喜劇でもない。ただ脈絡もなく出来事が生起するだけだ。 チェーホフのいう「コメディ」という言葉を杓子定規に取る必要はないだろう。悲劇に転化することに予防線を張るために゜「コメディ」という言葉でチェーホフは距離を介在させたのである。」(チェーホフ著・浦雅春訳『桜の園/プロボーズ/熊』(光文社古典新訳文庫、2012年)の訳者あとがき)。なおこのあとがきは『ロマンス』にも言及し、「笑いというものは、ひとの内側に備わってはいない、だから外から・・・・・・つまりひとが自分の手で自分の外側でつくり出して、たがいに分け合い、持ち合うしかありません」という劇中のチェーホフの台詞を「ボードビルの本質の一面をつく、すぐれた解釈」と評している。

※2-浦雅春「『かもめ』の飛翔」(浦雅春訳『かもめ』(岩波文庫、2010年)のあとがき)

※3-ちなみに蜷川さんは〈喜劇=客観的〉という見方に対して批判的な言葉を述べている。「今の世の中は、日本は喜劇っぽいのをやると批評家は褒めるんだよ。社会を、世界を客観的に見てると思うんだよ。あのバカたちはおしえたがるんだよ。ブレヒト主義者の崩れ者だから。喜劇的だと、社会を批判的に見ていると思いたいんじゃないの。」(「蜷川幸雄インタビュー 「ああ面白かった」と言われたい」、秋島百合子『蜷川幸雄とシェークスピア』(角川書店、2015年))

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『ムサシ』(4)

2017-03-31 02:28:33 | ムサシ
タイトルに反してこのところ、勝地くんはおろか『ムサシ』そのものにさえ触れない回が続いたので、最終回前にちゃんと『ムサシ』について、キャスト中心に振り返ってみようと思います。

(3)-4~6あたりを書いていた頃に、遅ればせながら初演のDVDを見ることができました。『ロンドン・NYバージョン』のパンフレットで吉田鋼太郎さんが「今回は蜷川さんも、初演よりシリアスな部分を大切にしていこうとされてるようなので」と語ってらっしゃるのを読んではいたものの、予想以上にコント的な笑いを取る場面が多かったのに驚きました。
特に五人六脚のシーンはもつれっぷりがより激しく、武蔵が扇子でハリセンのごとくバシバシ相手を叩きまくっていたり、小次郎が「それがしの方がはるかに残念です」とコミカルに悔し泣きしたり(ここは再演ではシーンごと削られた)それに対して宗矩が「泣いてるぞ」とツッコんだり(この台詞は戯曲にない。戯曲の台詞を変えることを嫌う蜷川さんにあとで怒られなかったろうか)・・・。
「初期の井上作品に目立った爆笑喜劇風の笑いが生き生きとよみがえった。」との評(※168)が改めて腑に落ちた気がしたものでした。

それが再演にあたってよりシリアスな演出に変わったのはなぜだったのか。一つには海外、特に2001年のアメリカ同時多発テロ事件の舞台となったニューヨークで公演が行われるとあって、「報復の連鎖を断ち切る」という作品のテーマをよりわかりやすく切実に打ち出していく必要を蜷川さんが感じたからかと思います。
そしてもう一つと考えられるのは、蜷川さんがあえてやりにくい方向を目指したという可能性。井上さんの初期戯曲を好む蜷川さんは、五人六脚など脚本の段階でコント的要素を持つ『ムサシ』を初演時は初期戯曲のような「爆笑喜劇風」に演出したものの、自分にとってやりやすい、好ましい方向に作品を曲げてしまったような感覚があったのかもしれない。
6年間武蔵との再戦を期して厳しい修行を経てきた小次郎の苦心や無念はギャグにしていいようなものなのだろうか──そんな疑問が次第に生じてきたのではないかと思えるのです。

蜷川さんは再演にあたって「大きく変えたいと思っているのは小次郎像」だとパンフレットで語っています。
初演の小栗旬くんに変わって勝地くんが小次郎を演じることが決まったのが、小次郎像を大きく変えることに決めた前なのか後なのかはわかりませんが(パンフレットの勝地小次郎の写真が小栗小次郎を思わせる小綺麗な姿なのは、撮影の時点ではまだ初演のような小次郎でやるつもりだったのか)、小栗くんの貴公子然とした小次郎とは対極の薄汚れた「野良犬のよう」な小次郎、一度地に堕ち泥に塗れたところから這い上がろうとする怨念じみた迫力を漂わせた鬼気迫る小次郎を現出させたのは勝地くんの演技があればこそだったと思います。
「おのれとだまれの二つしかない」と武蔵に揶揄される語彙の乏しさ、単線的な物言いも、小栗小次郎ではお坊ちゃんらしい子供っぽさと感じられたものが勝地小次郎では復讐一途ゆえの視野の狭さと映りました。
上でも書いたように脚本を一字一句変えないことを旨とする蜷川さんにとって(今回海外公演のために井上さん自ら脚本を手直ししてはいますが、シーンごとカットした箇所がほとんどで残した場面の台詞はほぼ手を入れていない)、同じ台詞、同じ場面でも初演とは別のニュアンスを乗せられる勝地くんの表現力は、新たな小次郎像を作りあげるうえで大きかったんじゃないでしょうか。
たとえば親王のご落胤だと〈判明〉する場面で、小栗小次郎は目を剥いていかにもかつユーモラスな驚きの表情を作っている(初演の喜劇志向的にはそれで正解)のに対し、勝地小次郎は無表情に突っ立っているだけ。なのに〈動揺が大きすぎてリアクションを示すことさえできない〉状態なのがありありと伝わってくる。
わかりやすい動きは何もないのに何もしないことでかえって感情を表現するのは勝地くんの得意とするところで、初演より笑いの要素を抑えながらも基本はやはり喜劇というこの作品において勝地くんはその持ち味を上手く活かしていました。

また武蔵役の藤原竜也くんと小栗くんが同い年の、元々仲の良い友人なのに対し、4つ年下でなおかつ初めて観た舞台が藤原くん主演の『身毒丸』だった勝地くんにとって藤原くんが憧れの先輩というべきポジションだったことも大いに役作りに反映したと思います。
武蔵と小次郎も実のところ小次郎が六歳下の設定であり、常に小次郎が武蔵の背中を追いかけているような関係なので、勝地くんが藤原くんを見上げるような関係性はちょうど小次郎と武蔵さながら。当初はそれが演技のうえでの遠慮として現れてしまったものの、藤原くんにもっと正面からぶつかってくるようハッパかけられて以降は、武蔵に追いつき追い越そうとする小次郎の思いを我が物にできたのでは。
(3)-15ほかで書いたように武蔵と小次郎のやりとりは実際の藤原くんと小栗くんのやりとりに触発されたところの多い、いわばこの二人に対するアテ書きのはずですが、最初から勝地くんにアテ書きしたかのようにしっくりと、彼は小次郎と一体化していたと思います。

同時に小次郎を演じるうえでもう一つ有利に働いたのが、彼特有の品の良さ。薄汚れた着物に無精髭、目の下の隈が目立ついかにも復讐鬼然とした姿にもかかわらず、その佇まい、雰囲気にはどこかしら涼やかな清潔感がある。
真っ赤な嘘だったとはいえ親王のご落胤、皇位継承順位第十八位と言われても十分ありえそうと思えるだけの品性が小次郎役にはやはり必要なわけで、野良犬のような鋭さ・泥臭さと端正な上品さという対極のような二要素を同時に表現しうる(野良犬ぽさの方は演技、上品さの方は本質的なもの)勝地くんはまさに小次郎には適役でした。

他のキャストの方々も皆素晴らしかった。とりわけ主演の藤原竜也くん。武蔵役はタイトルロールでありながら自分から積極的に何かを仕掛けていくことはほとんどない、食ってかかってくる小次郎をいなし幽霊たちの企みに振り回される、基本的に受けの芝居が中心となる。
再演時でさえ27、8歳という若さでありながらどっしりとした重心の低さで、めったに自分からは動かない、しかし時折その泰然たる態度を破って剣客としての闘争本能が吹き出してくる(「あのときの沸き立つような命の瞬間がまた味わいたくて、おぬしに止めを刺さなかったのかもしれないな」「戦うのだよ、小次郎」)ような、静の中に動のある武蔵という男を見事に演じきっていました。
勝地くんも基本、年に似合わぬ重心の低い演技をする人ですが、今回は目をぎらつかせながら主役に挑みかかっていく挑戦者の役どころ。加えて憧れの役者である藤原くんと初めてがっつり共演することや蜷川舞台で初の二番手、初の海外公演など、俳優・勝地涼にとっても二重三重に挑戦の連続だったことと思います。
重心の低さはそのままに、同時に大きな壁に立ち向かって行くひりつくような熱さを感じさせる点では『亡国のイージス』に通じるものがあるかもしれません。
また藤原くん以外のキャストも勝地くんより年下の鈴木杏ちゃんに至るまで、抜群の表現力と安定感を備えたベテラン揃い。しかも沢庵役の六平直政さんを除けば全員初演からのメンバー。顔馴染のメンバーもいるとはいえ、すでに半ば出来上がっているカンパニーに途中参加する意味でも、勝地くんはチャレンジャー的なポジションだったわけですね。

このあとも『ムサシ』は2013年から2014年にかけて再々演されていますが、他のキャストはそのままに小次郎役だけが溝端淳平くんに代わりました。
ベテラン揃いのカンパニーの中に若手俳優が一人後から入っていくという構図(勝地くんの場合は若くともすでにデビューから十年近いキャリアを重ねていたわけですが)──役柄の上でも役者としてもチャレンジャーな小次郎という型を、ある意味勝地くんが確立したのかなと思ったりもします。


※168-「井上氏が蜷川演出のために初めて書き下ろした新作が前述の『ムサシ』だった。宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の後日談だが、初期の井上作品に目立った爆笑喜劇風の笑いが生き生きとよみがえった。」(扇田昭彦「井上ひさしと蜷川幸雄の共通項」、初出・こまつ座&ホリプロ『ムサシ』再演パンフレット、二〇一〇年五月)

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『ムサシ』(3)-15(注・ネタバレしてます)

2017-03-15 19:01:42 | ムサシ
話がいいかげん広がり過ぎたのでここらへんでまとめると、井上さんと蜷川さんは批評に対し戦う姿勢、反骨精神、新劇に対する愛憎半ばする思いなど多分に似た資質を持っていながら、井上さんの方は蜷川さんが初期戯曲ばかりを高く評価することやその「いちばん新劇的」な要素に反発したい気持ちも抱いていた、それが初めて新作戯曲を託すにあたって、〈武蔵と小次郎以外の全キャラクターは実は死者〉という重要情報をあえて伏せる、しかも完成稿を初日の2日前にようやく渡すという蜷川さんへの嫌がらせに近いような挑戦に繋がったのではないかというのがここまでの主旨である。

ところで近年やはり「嫌がらせに近いような挑戦」を蜷川さんに挑んだのが、小説家の古川日出男さんだった。初の戯曲『冬眠する熊に添い寝してごらん』(初演2014年)を蜷川さんの依頼で書き下ろすにあたって古川さんは、「蜷川さんへの挑戦状のつもりで書きました」と製作発表で語ったという(※149)
また初日直前に書かれたエッセイでは「対決などという大それたことをするつもりはなかった。対峙しようと決めていただけだ」「できあがった戯曲は、どうやら蜷川さんを本気で困惑させている。つまりここに“本気”対“本気”がある。」(※150)と記していて、実際蜷川さんも「やりにくいものが来ることを期待して古川さんにお願いしたんですが、想像以上にやりにくい。まだ僕らが理解しえていない部分も何カ所かあって、初日までに解けるといいなってところです。三割くらい謎が残ってる。」「とにかく整理無視、ルール無視のホンですね。 だから裏方も苦労しています。」(※151)と大分苦しんだらしい。
膨大なト書きを適当に取捨選択すれば大分楽になったのだろうが、蜷川さんはいかなる時も台詞やト書きをいじらずその通りやるのが信条の人である(※140参照)(※152)。もちろん古川さんもそれを承知のうえで〈ト書きが異様に長い台本〉という挑戦状を用意したのだ。

といっても古川さんは悪意をもってそうしたわけではなく「あのニナガワに戯曲を依頼されたのだから、一〇〇パーセント本気で書こう」(※150参照)とした結果だった。そして「やりにくいものが来ることを期待して」とあるように、蜷川さんにとってこの困難は自ら買って出たものだった。晩年にあって自己のスタイルの解体・再構築を目指し続けた蜷川さんにとっては『冬眠する~』のような今までの方法論が通用しない戯曲はむしろ望ましかった。
となれば、井上さんの初期戯曲を高く評価する蜷川さんにとって近年の、というより最新の戯曲である『ムサシ』は、自分の好みに合わないことが想定されるがゆえにかえってやり甲斐のある作品だったのではないか。噂に聞く井上さんの大遅筆による迷惑をついに正面から被るに違いないことも、かえって燃える要因になったことだろう。

前回名前を挙げた清水邦夫さんも遅筆で知られた方だが、蜷川さん演出の『血の婚礼』(1986年初演)を執筆したさい、初日一週間前になっても全く台本ができていない状態にもかかわらず蜷川さんが先にセットを作り、それにインスパイアされた清水さんが10枚ほど書き、その10枚分の稽古の様子を見てまた触発されて書き・・・を繰り返して無事完成した(!)そうだが、蜷川さん曰く「ライブみたいなもんで、そういうときの清水の作品って、すごくいいんですよ」「“現在”というものが刻印されている気がして、ライブ感覚がすごくいい。言葉のライブ感覚。」(※153)
脚本家の遅筆ゆえに苦労を背負いこみながら、演出(セットの設定、稽古)・役者(稽古場での演技)・脚本が相互作用しながら作品が仕上がっていく過程を「ライブ感覚」として逆に楽しめる感性と強靱な精神力。近年の蜷川さんが即興的な演出を行うようになった(※151参照)のも「ライブ感覚」を重視する気持ちの表れなのではないか。
蜷川さんにとっては井上さんの遅筆に伴うさまざまな面倒事も、結果いい脚本が仕上がってくるなら、むしろ好ましい困難ですらあったかもしれない。井上さんも『ムサシ』執筆中に蜷川さん及び役者陣の訪問を受けて、生の藤原くんと小栗くんのやりとりに触れたことで筆が進んだ(※92参照)(※154)というが、これもまさに「ライブ感覚」の所以であろう。

井上さんの遅筆を「好ましい困難」と捉えたのは蜷川さんばかりではない。井上作品を数多く演出してきた鵜山仁さんは※153のトークショーの中で「僕なんかは「これからどうなるんですか」と伺うと、「いや、わかりませんよ」と言って、よーいドンなんで気楽なんですよね。」「(俳優から)「どうしたらいいんですか」と言われて「僕はわかりません」なんて言うと普通演出家としては具合が悪いんですけど、井上さんの現場は「いやあ、わかりません」と苦笑まじりに言っておけば、よーいドンで同じ目線で仕事ができる」(※155)と語っている。
同じく井上作品を多く演出した栗山民也さんも「井上さんはよく遅筆が話題になるけど、演出家の立場からすると、今の現代演劇の書き手から一年前につまらない台本をもらうよりも、井上さんの稽古場のほうが、より芳醇な時間を過ごすことができた。人生なんて結局、ラストシーンがあって、そこへたどる伏線を張って、それでこの人はどういう人だったのかなんて考えませんよ。その瞬間を必死に生きて、会話を交わす。どこへ行っちゃうのかなんてわからない。僕は、芝居はそういった瞬間の連続で作られていくのが一番面白いと思う。」(※156)と言う。

井上さんと親交のあった作家たちがその遅筆に苦言を呈している(※157)(※158)一方で、直接迷惑をかけられたはずの演出家たちが井上さんの遅筆ぶりを好意的に見ているのが面白いが(※Ⅹ)、考えてみれば栗山さんのいう通り、いかに時間的にはゆとりがあろうと、どう演出しても面白くなりそうもない箸にも棒にもかからないような作品を渡されるより、初日ぎりぎりの綱渡りであろうと演出し甲斐のある(役者にとっては演じ甲斐のある)名作を渡されたほうがどれだけいいかしれない。
そして「その瞬間を必死に生きて、会話を交わす。(中略)芝居はそういった瞬間の連続で作られていくのが一番面白い」とは蜷川さんの「ライブ感覚がすごくいい」に等しい見解であろう。ギリギリのスケジュールの中で演出家も役者も全身全霊をかけて奮闘することによって、かえってリアルな息吹のこもった芝居が生まれてくる。それはまぎれもなく「芳醇な時間」に違いない。
もっとも※153のトークショーの中には〈今回新国立劇場で連続上演した「夢三部作」は台本がぎりぎりだった初演に比べて「全然違うなぁと思うくらい、出来がいい〉」(※159)という話も出てくる・・・まあ確かにしっかり稽古する時間があった方がより完成度の高い作品になるのが普通だよなあ。

ちなみに井上さん自身は『代役』という短編小説(今村忠純さんはこの作品を「台本、演出、俳優、裏方たちへの、小説のかたちをかりた井上演劇論」と評している(※160))の中で、「その俳優が持っているものは初日の舞台にすべて発現される。もっていないものは出ない。それだけのことである。もしも台本がはやく上ればもっといい演技ができたのにという俳優がいるなら、彼はシェイクスピアの作品で名演技を示してくれなければならない。だが、決してそうはならない。」(※161)との見解を述べている。
これはさすがにちょっとヒドいというか議論のすり替えめいたものを感じる。役者にも向き不向きがあるわけで、シェイクスピアの舞台で名演技を示せない役者でも井上作品の再演─つまり台本が稽古初めから出来上がってる状態─では初演時よりいい演技をするかもしれない。俳優が無理に無理を重ねてかろうじて芝居として成立させたもの(「かろうじて」なので※159にあるように微妙な出来ばえだったりする)を〈実力のある俳優ならそれくらい出来て当然〉とばかりに開き直られると・・・。
さらに井上作品の多くはミュージカル仕立て、つまり歌があり、方言のある芝居も多い。歌も方言も通常の芝居以上に練習時間を必要とする。これを初日まで残り数日という状況で覚えろ、お金をとって観客に見せられるレベルに仕上げろというのだから無茶ぶりもいいところだ。

しかしこまつ座唯一の専属俳優として多くの井上作品に出演している辻萬長さんが〈井上さんの作品には多くの「責め」があるが、それをちゃんとやるとお客さんの拍手があるのが一番の喜び〉と語っている(※162)ように、その「無茶ぶり」は演じ手に俳優冥利に尽きる喜びを与えてもくれるものだった。
ぎりぎりに届く台本に四苦八苦し、そもそもちゃんと初日の幕が開けられるかどうかの不安にいらいらし続け──それでも井上さんの芝居に出ようという役者が引きもきらないのは、出来あがった台本が面白いからであり、難しいけれど演じ甲斐のある、役者を喜ばせるような仕掛けが用意されているからなのだ。

この無茶ぶり、難しいけれどやり甲斐のある仕掛けは演出家に対してもまた用意されている。蜷川さんは井上さんとの対談の中で、初めて井上戯曲を演出した『天保十二年のシェイクスピア』の時の経験を、「「ロミオ、ふわりと上へ上がる」なんてト書きがあると、どうやったらいいんだろう、と頭を抱えて悩むわけです。でもそこをリアルに変更してしまうよりも、工夫して本当に「ふわりと」ロミオが飛ぶと、客席からは大喝采が起きるんですよ。」と述べている(※163)
苦しいが、そこを抜けた先には喝采が待っている。そして苦しんだ分、自身も一つステップアップできる。苦しみと背中合わせのそんな喜びが俳優や演出家を井上作品へと惹きつけるのだろう。

(ちなみに舞台美術の大御所で蜷川作品も多く手がけている朝倉摂さんは、おそらくは蜷川さんを念頭において「あたしの場合は、演出家はわがままなことを言うほどいいと思ってるわけ。とんでもないようなこと、とてもできないようなことを言ってくれた方が、できることに近づき得るわけです」とインタビューで発言している(※164)。蜷川さん自身もスタッフに無茶ぶりし、その無茶ぶりをかえって慕われ望ましく思われているわけだ)

また※163の対談で蜷川さんは「僕は、何が嬉しかったかというと、生き返ったんです。井上さんの戯曲の言葉で。僕自身が蘇生した。井上さんはどうしてこんなに美しい言葉を書けるんだろう、どうやったら、こんなことが舞台の上で成り立つんだろう。この人の言葉を何とか自分のものにしたい……。三島由紀夫に対しても、寺山修司に対してもそうですが、その思いが、僕を芝居へと駆り立てているんだと思います。」とも述べている。
無茶な指定のト書きに挑むことのみならず、井上戯曲の言葉の魅力もまた蜷川さんの演出意欲を駆り立てるものだった。蜷川さんは「再生」という言葉を使っているが、上で書いたように自身の解体・再構築を目指していた蜷川さんにとって自分を「再生」させてくれる井上作品との出会いが実に大きかったのがわかる。

一方の井上さんも同対談で『天保~』の導入部について長かったト書きを削りに削って「「農民合唱隊が歌う」とそっけなく始め」たところが、「蜷川さんの手にかかると、皆が半裸で肥桶を担いで、とどろくような大合唱に生まれ変わっていた。稽古場で最初のシーンを見たときは、驚いて、面白くて、腰を抜かしそうになりました」「次々に繰り出されてくる色彩の組み合わせの面白さとか、役者さんたちの色気や熱気とか、大道具の出てくるスピードとか、芝居10本分くらいの手が使われていて、気がついたら4時間たっていました。自分の作品を通して、蜷川さんというのはすごい人なんだと改めて実感しました。」と興奮を表明している(※165)
ト書きでごく細かいところまで指定されていて演出の自由度の低い井上戯曲について、「演出家としては、こんなにうまく書きやがってもうやることないじゃないか、という思いもあるんですが、逆に敵愾心というか自尊心が湧くということもあるのです」(木村光一さん談、※86参照)、「木村光一さんが「(井上さんの作品は)僕がやっても君がやっても同じだね」と乱暴なことをおっしゃったことがあります。それだけ井上さんの戯曲は井上さんの色が濃いので」(鵜山仁さん談、※166)と演出家から冗談交じりの不満の声が上がる中、蜷川さんも「演出家の俺は、どこにやるべきことが存在しているのだろうかと思うのね。」と言いつつも、「ぼくはそういうとき、井上さんの本の中に生々しいものをちょっと入れたくなる。(中略)きっちり井上さんが計算して作ったものを、ちょっと亀裂を入れたくなるんだよ。」(※85参照)と独自の仕掛けを投げ込んできた。井上さんを驚嘆させた『天保~』の大合唱がいい例だろう。ト書きの指定は厳密に実行し台詞には一切手を加えない、元の戯曲を徹底して尊重しながら、井上さんの色に拮抗できる蜷川色を打ち出してきた。

井上さんは、その遅筆にめげることなくぎりぎりで届いた戯曲を一定以上の完成度を持った芝居に仕立ててくれる優れたパートナーとしての演出家たちと長く仕事をしてきたが、晩年に至って下手をすると自分の色を消されかねないような好敵手としての演出家と出会うことになった。
ただこれまではすでに台本の存在する既存の作品、演出プランに時間をかけることのできる状況があったが、新作ならばどうか。台本がぎりぎりに届くような状況でも蜷川さんはこれまでのように自分の色、独自の演出を入れ込んでくることが可能だろうか。
台本そのものはぎりぎりになろうとも、「演出家にどっさりと考える時間をさしあげなければならない」からと、「演出家に「世界」解読の鍵を呈上するため」に事前に長いプロットを書いて渡すことにしている(※167。もっともこのプロットも大分遅れがちではある)井上さんが、〈武蔵と小次郎以外は全員死者〉という根幹的設定をぎりぎりまで演出家にさえ洩らさなかったのは、『ムサシ』という作品を通して蜷川さんに勝負を挑んでいたからではないかという気もするのである。



※149-「製作発表で古川は「僕の初めての戯曲は、ト書き(登場人物に対するせりふ以外の動作や行動の指示)が異様に長く、蜷川さんへの挑戦状のつもりで書きました」。蜷川は「古川さんの小説は、現代の捉え方に劇作家と違う、独特の疾走感があって、ぜひ戯曲を演出したいとお願いしました。ただ、台本をもらって『えっ、古川さん、これどうやって演出すればいいの?』と思うことが次々と出てくる。でも、舞台化のハードルが高いことは、演出家として燃えます。もっと上に行ける可能性が生まれますから」と答えていた。」(高橋豊「舞台 冬眠する熊に添い寝してごらん 蜷川幸雄が燃えた古川日出男の挑戦状」、『週刊エコノミスト』2014年12月31日・1月7日合併号)

※150-「対決などという大それたことをするつもりはなかった。対峙しようと決めていただけだ。あのニナガワに戯曲を依頼されたのだから、一〇〇パーセント本気で書こう、と。差し向かいになり、「おれは一人の小説家として、曝されている」と感じながら筆を執りつづけようと。そして、そうした。できあがった戯曲は、どうやら蜷川さんを本気で困惑させている。つまりここに“本気”対“本気”がある。」(古川日出男「舞台初日三時間前のメッセージ」、『波』2014年2月号)

※151-「奔放な戯曲なので演出は全部難しいですよ。もちろんやりにくいものが来ることを期待して古川さんにお願いしたんですが、想像以上にやりにくい。まだ僕らが理解しえていない部分も何カ所かあって、初日までに解けるといいなってところです。三割くらい謎が残ってる。(中略)とにかく整理無視、ルール無視のホンですね。 だから裏方も苦労しています。最近の僕はやりながら作っていくから、その日その場で演出していく。はじめから全部プランがあって、建築のように構造的なものを作るわけじゃない。熊の穴をちゃんと寝られるようにとか、堤防作ってとか、大仏の扉は観音開きがいいとか、ほぼ即興演出です。スタッフは意地でしょうね。僕を喜ばせたい、古川さんを驚かせたい、そういう気持ちでやってるんじゃないかな。」(蜷川幸雄「舞台初日三週間前のインタビュー ─古川日出男『冬眠する熊に添い寝してごらん』」、『波』2014年2月号)

※152-「(唐十郎作の83年の舞台『黒いチューリップ』について)僕は演出家として、戯曲の台詞を変えず、ト書きを守るのを原則としています。唐さんは、ト書きの中で文学的に問い掛けてきて、僕はそれに対して演劇的に応えたつもりです。ト書きに書いてあることはすべてやりました。」(インタビュー・構成 高橋豊「蜷川幸雄インタビュー ファッショナブルな街にノイズを」(扇田昭彦ラ長谷部浩ラパルコ劇場『パルコ劇場30周年記念の本 プロデュース!』、株式会社パルコエンタテインメント事業局、2003年)

※153-「清水「『血の婚礼』って作品では、きみに迷惑かけたけど、今考えると、不思議な稽古だったね。まるでおくれちゃって、一週間前になっても台本ができない。ところが本がゼロなのに、「セットつくったぞ」って連れていかれて、セットを見ながら書き出した。書き出したって、一日十枚ぐらいできればいいところで、その十枚で稽古するわけなんだ。それを見て、ぼくがまた次を書いてくる。 蜷川「清水に体力があれば、そういうやり方をしたときの清水の芝居って、ぼくは好きなんです。『血の婚礼』がぜんぜんできなくて、ぼくがコインランドリーとビデオショップのセットをつくって、稽古場で遊んでいたんです。それがおもしろいんで、清水に「ちょっと見に来い、見に来い」って、ベニサン・ピットに来てもらったの。そうしたら清水が見て「あっおもしろい、書く」ってすぐ帰って、翌日十枚ぐらいくれた。それをもらって、みんな初見で稽古していく。清水はこっち側で見てて帰る。すると、次が出てくる。それをもってくると、またみんながやりながら、清水は見ている。で、また帰って書く。その繰り返しを一週間ぐらいやってできた本なんです。ライブみたいなもんで、そういうときの清水の作品って、すごくいいんですよ。そういうきみの芝居がぼくは好きなの。(中略)文学的に言ったらいろいろな問題はあるのかもしれないですけど、なまの演劇として、パフォーマンスとして、すごく生き生きとしてておもしろいんです。“現在”というものが刻印されている気がして、ライブ感覚がすごくいい。言葉のライブ感覚。」(清水邦夫ラ蜷川幸雄「ぼくたちの青春 ぼくたちの演劇」、『KAWADE夢ムック 文藝別冊 蜷川幸雄 世界で闘い続けた演出家』(河出書房新社、2016年)収録、初出1995年)

※154-「びっくりしたのは、『ムサシ』という新作をやったとき。僕らこまつ座のときの新作は大事に鎌倉の自宅で書いてらっしゃるから、絶対に邪魔しないようにということで、ひたすら待つだけだったんですが、『ムサシ』のときは井上さんのところに陣中見舞いに行こうということになって、そんなことしたらと僕は内心思っていたんですが、実はそれが大成功で、藤原竜也と小栗旬が出ていて、彼らは若いから井上さんもあまりご存じないふうでしたが、井上さんの自宅にみんなで行った次の日に出てきた原稿がすごかった。まさに当て書きの、若い2人のキャラクターを生かしたすごい台詞が出てきて、そのときは新作で苦闘しているときでも井上さんのところに行ったほうがいいんだと思いました。」(「「東京裁判三部作」新国立スペシャル・トーク ─井上ひさしの現場─」(出席者 辻萬長・鵜山仁、聞き手・大笹吉雄、http://www.nntt.jac.go.jp/library/library/theater_talk07_03.html)より辻さん発言。

※155-「僕なんかは「これからどうなるんですか」と伺うと、「いや、わかりませんよ」と言って、よーいドンなんで気楽なんですよね。」「(俳優から)「どうしたらいいんですか」と言われて「僕はわかりません」なんて言うと普通演出家としては具合が悪いんですけど、井上さんの現場は「いやあ、わかりません」と苦笑まじりに言っておけば、よーいドンで同じ目線で仕事ができるんで、新作をやらせていただくときは妙に気楽に入っていけたというか、実はそういう感じでした。」(「「東京裁判三部作」新国立スペシャル・トーク ─井上ひさしの現場─」(出席者 辻萬長・鵜山仁、聞き手・大笹吉雄、http://www.nntt.jac.go.jp/library/library/theater_talk07_02.html)より鵜山さん発言。

※156-「井上さんはよく遅筆が話題になるけど、演出家の立場からすると、今の現代演劇の書き手から一年前につまらない台本をもらうよりも、井上さんの稽古場のほうが、より芳醇な時間を過ごすことができた。人生なんて結局、ラストシーンがあって、そこへたどる伏線を張って、それでこの人はどういう人だったのかなんて考えませんよ。その瞬間を必死に生きて、会話を交わす。どこへ行っちゃうのかなんてわからない。僕は、芝居はそういった瞬間の連続で作られていくのが一番面白いと思う。」(井上麻矢・栗山民也・辻萬長「追悼 こまつ座が見た井上ひさし 待たされた、ダマされた──だけど楽しかった」、『文藝春秋』2010年6月号)

※157-「永六輔は、ひさしについて話をすることについて、これだけは書いてくれないと、と条件を提示した。筆者も約束を違えるわけにはいかないのでここに紹介しておこう。 「ひさしさんはすごい人ですけれども、台本が遅れるのは許しません。遅れても本が良ければ許されるというのは、一回二回限りです。慣例になってしまってはいけません。俳優というのは弱い立場にいるのです。立場の弱い役者をいじめちゃいけません。初日に緞帳を上げられなくては劇作家とはいえません。天才ですから、彼の周囲には累々と仲間がころがるのは仕方がないことことかもしれませんけれども、それを見ているのは、正直いってつらいです。」(桐原良光『井上ひさし伝』(白水社、2001年)

※158-「井上さんは一〇回、舞台の幕が開かなかったことがあるんです。心のやさしい、いい人なのにどうして、芝居の初日までに台本が届かないということが演者や演出家、劇場の経営者にとってつらいことかわからないんだろう。わからんはずがないと思うんだけど、そこだけはどうにもならないところがありましてね。幕が開かなかったことが一〇回で、開かなくなりそうなことは、そのまた三倍くらいはあったんじゃないかと思いますけどね。」(阿刀田高「小説の書き手として、読み手として」、菅野昭正編『ことばの魔術師 井上ひさし』、岩波書店、2013年)

※Ⅹ-ちなみに井上さんの遅筆のためにおそらくは最大の被害を被ったと思われる人物──(3)-13で触れた公演中止になった舞台『パズル』のプロデューサーだった本田延三郎さんの娘である青木笙子さんは「パズル事件」に関してこう書いている。「八十三年一月十二日から三十一日に西武劇場で予定されていた「パズル」が、公演間近になって中止になった。それまではぎりぎり公演に間に合った。だから今度もそうなるにちがいないと、本田は踏んでいただろう。しかし、間に合わなかった。 中止と決断するに至るまでの、井上ひさしの苦闘がどんなものか、とうていわかるものではない。なんとか完成させねばという焦りといらだちが極限に達し、それでも書けないとわかったときの無念さ。すでに公演日程も決まり、それに向けて関係者は動いている。それでもどうすることもできない。書けない。中止だ。そう決意するまでの長い時間、地獄を見た思いであったろう。」「スタジオジブリ発行の「熱風」(二〇〇五年五月号)には、特集記事として「僕が演劇を続けてこられたわけ」というテーマで、四人の演劇関係者が文章を寄せている。そのなかの一人、渡辺さん(管理人注・こまつ座の渡辺昭夫氏)は「早送り “私”のこまつ座二十年」という題で書いている。(中略)「天才とただの男が仕事をするということはどういうことだろう。理屈抜きに感じていた恐怖があった。自己の存在にかかわることだった。」 この部分を読んだとき、本田の姿が重なった。父も同じ思いではなかったかと。渡辺昭夫はそれを知っていた。だからこそ、同じ制作者という立場以上のものを本田に感じていたのだろう。井上ひさしの恐ろしいほどの才能、そして温かい人柄は誰もが魅せられる。一緒に仕事をする人間は心酔しきってしまうのではないか。それがどういう結果をもたらすか。それが「理屈抜きに感じていた恐怖」という言葉になって出てきたような気がする。 「天才とただの男が仕事をするということ」の怖さを、渡辺昭夫は「パズル事件」にも見たにちがいない。(中略)井上ひさしの原稿の仕上がりに本田はこれまでも何度もはらはらしてきたが、それでも結果として間に合った。今度も大丈夫だ、そう信じていたのだろう。でも、間に合わなかった。どの世界にだってそんなことはいくらでもある。誰が悪いのでもない。今回はうまくいかなかった、それだけのことだ、本田はそう思っていたにちがいない。 誰かに、何かに賭ける──それは本田にとって幸せなことだった。「才能」に賭ける──渡辺昭夫もそうだったのではないか。でもその結果、何かが見えなくなる、見えなくさせられてしまう。その何かがわからないから、「恐怖」という言葉になって出てきたのだろう」(青木笙子『沈黙の川 本田延三郎 点綴』(河出書房新社、2011年))。この事件のせいで相当の迷惑を被ったはずなのに、井上さんに恨み言を述べずかえって彼の苦しみを思いやる青木さんの寛容さには驚くが、本田さんが井上さんの遅筆にさんざん振り回されながらも幸せだったはずという確信があればこそなのだろう。ちなみに本田さんは戦前プロレタリア演劇同盟の中核人物だったためにたびたび検挙され、ゆえに「小林多喜二の検挙・虐殺は本田の「自白」に基づくものではないか」との不名誉な疑いを長らくかけられていたが、井上さんは遺作となった戯曲『組曲虐殺』の中で多喜二逮捕をお膳立てしたのが特高警察のスパイだった三船留吉であったことをはっきり描いている。この作品の取材のために青木さんからご両親の日記を借り出したりもしていて、執筆の動機のうちには、かつて大迷惑をかけた罪滅ぼしのために本田さんの無実を作品を通して世に知らせようという意図もあったのかなと思ったりします。(「渡辺さんからお願いしたいことがあると電話を受けたのは、二〇〇九年の初夏だ。井上ひさしが『組曲虐殺』を書くにあたって、小林多喜二と同時期に築地警察署にいたわたしの父の何か資料でもあればという話だった。直接当時のことと関係はないが、父の日記と母の日記が手元にあったので、それでよければと、その日に持参した。(中略)しばらくして本田の日記が戻ってきたときに添えられていた手紙には、丁寧なお礼の言葉とともに「本田延三郎様が、あの時代に生き抜くことのできなかった(官憲の拷問などによって)方々の生命を受けついでこられた!それはプロデュースされた演劇作品になって結実していると思います。本田さんの生命も、本田さんが手がけた井上作品を上演することで、私たちも引きつがせていただいているとも感じております。八月三日」と書かれてあった。」「昭和八年二月二十日正午、小林多喜二は同志今村恒夫とともに赤坂溜池付近で拘束され、その夜京橋区(現・中央区)築地警察署で、特高刑事によって拷問の果てに殺された。 その一週間前、二月十三日、父本田延三郎は検挙され、同じ築地警察署に留置、取り調べを受けていた。 このことが本田にとって、のちに決定的な「烙印」を焼き付けられることになる。小林多喜二の検挙、虐殺は本田の「自白」に基づくものではないか、ということが、当時もまた後にも囁かれもし書かれもした。 本田は終生、これについて自ら何の弁解もしなかった。ただ戦後、「五月舎」を立ち上げたとき、劇作家の井上ひさしにだけは、事実の一部を伝えていたようである。井上は最晩年「組曲虐殺」の構想に際して、この歴史的事実を徹底的に検証していった。井上の取材に全面協力した渡辺昭夫から、一冊の資料を手渡された。司法省調査部作製の極秘資料「司法研究」報告書二十八輯九「プロレタリア運動に就ての研究」(昭和十五年三月)というものだった。これを読むと運動に携わってきた人たちの動向を司法局は同時点で完全に把握していたということがわかる。」(青木前掲書)。余談ながらこの『沈黙の川』には蜷川さんの舅にあたる生江健次氏((3)-※39参照。共産党員で小林多喜二とも本田さんともプロレタリア運動に関して直接接触があった)も登場している。井上さんも当然生江氏のことは知っていたでしょうが、蜷川さんの身内だと気づいていただろうか。

※159-「大笹「この夢シリーズも初演はたいへんだったようですが。」  鵜山「僕は現場にいなかったんですが、3本ともそれぞれぎりぎりでしたね。」 大笹「だから、というとちょっとおかしな言い方になるんですけど、今回の連続上演は初演とは全然違うなぁと思うくらい、出来がいいんですよね。」(「「東京裁判三部作」新国立スペシャル・トーク ─井上ひさしの現場─」(出席者 辻萬長・鵜山仁、聞き手・大笹吉雄、http://www.nntt.jac.go.jp/library/library/theater_talk07_02.html)より大笹さんと鵜山さん発言。

※160-今村忠純「解題」、『井上ひさし短編小説集成第7巻』(岩波書店、2015年)

※161-「読者のなかの、さらに心ある方々はこうおっしゃるかもしれない。「いくら創作劇だからといっても、やはり台本は早く上るにこしたことはないではないか。仕上りのおそい役者は、台本がおくれると困るだろう。彼らに発酵する時間を与えなさい」と。 一理はある。とくに台本の最後の一枚が舞台稽古の三日前にようやくできあがったというような忌わしい前歴をもつぼくには、これは恐しい批判である。しかしあえて強弁すれば、俳優の演技に、おそい仕上りだの、はやい仕上りだのというものはない。その俳優が持っているものは初日の舞台にすべて発現される。もっていないものは出ない。それだけのことである。もしも台本がはやく上ればもっといい演技ができたのにという俳優がいるなら、彼はシェイクスピアの作品で名演技を示してくれなければならない。だが、決してそうはならない。」(井上ひさし『代役』、『井上ひさし短編小説集成第7巻』(岩波書店、2015年)収録、初出1985年)

※162-「大笹「書き手としては、役者を責めているというとおかしな言い方だけれど、苦しませたあげくに花を咲かせる仕掛けがありますね。」 辻「井上さんの芝居をやっていていちばんの喜びというのは、いまおっしゃったようにいろんな責めがあるんですよ。なんでこんなことやらなくちゃいけないんだと思うんですけど、それをやるとちゃんとお客さんの拍手がある、ご褒美が待っている、これがいちばんいいですね。」 大笹「いわゆる「かせ」というんでしょうか、それが何重にもあって、「かせ」が重くかかってくればくるほど、芝居としてもおもしろい。俳優としてもやりがいがあるわけでしょ。そして、それを抜けたらお客さんの拍手が待っていると、それこそ私は俳優の経験がないので味わったことがないけれども、うまくいったらこれは俳優冥利につきると思いますね。」 辻「『雨』で最後に白装束をおたかが着せるじゃないですか、やっぱり着せるというのは実はすごい技術なんですよ、しかも着せながら山形弁でしゃべる。それをやるとお客さんがわぁとくるから、それが井上さんの舞台をやっていちばんの喜びですね。」(「東京裁判三部作」新国立スペシャル・トーク ─井上ひさしの現場─」(出席者 辻萬長・鵜山仁、聞き手・大笹吉雄、http://www.nntt.jac.go.jp/library/library/theater_talk07_04.html)より大笹さんと辻さんの発言。

※163-「あと、僕の場合は何とかして戯曲の「言葉」に拮抗したいなあと思っている。今回も、印刷された上演台本のほかに、井上さんの手書きの修正が入った原稿をテーブルの上に置いているわけです。どこをどう直したか、たとえば「ね」を消して「と」にしたとか、そういうのがヒントになる。僕は台本の言葉は変えないで一字一句そのままやりたいので、役者にもすぐ「語尾を変えるな!」って言うし、飛躍しているところ、よくわからない部分はパズルを解いているみたいな感じです。たとえば井上さんの「ロミオ、ふわりと上へ上がる」なんてト書きがあると、どうやったらいいんだろう、と頭を抱えて悩むわけです。でもそこをリアルに変更してしまうよりも、工夫して本当に「ふわりと」ロミオが飛ぶと、客席からは大喝采が起きるんですよ。」(「演劇界の両雄、初顔合わせ 「リア王」よりも「怒れるジジイ」でいたい 井上ひさしラ蜷川幸雄」、http://hon.bunshun.jp/articles/-/4861、初出『オール讀物』2006年1月号)

※164-「強固な美意識をもち、鮮烈で躍動的な動きを重視する蜷川幸雄演出と組むことで、朝倉摂の世界はそれまで以上に躍動的になり、重層的になり、視覚性も強くなった。 雑誌『新劇』(白水社)一九八〇年五月号に掲載された座談会「舞台空間の可能性」で朝倉摂さんはこう語っている。 「あたしの場合は、演出家はわがままなことを言うほどいいと思ってるわけ。とんでもないようなこと、とてもできないようなことを言ってくれた方が、できることに近づき得るわけです」 要するに、常識を破り、舞台美術家に難しい課題を突きつける「とんでもない」演出家のほうがスリリングで好ましいというのである。具体名は出していないが、「とんでもないようなことを言う」演出家として朝倉さんが蜷川幸雄をイメージしていたのは確かだろう。」(扇田昭彦「きっぱりとした国際派─朝倉 摂」、扇田昭彦『才能の森 現代演劇の創り手たち』(朝日新聞社、2005年)収録、初出2000年)

※165-「削りに削って「農民合唱隊が歌う」とそっけなく始めました。あとはすべて蜷川さんにお任せしようと……。それが蜷川さんの手にかかると、皆が半裸で肥桶を担いで、とどろくような大合唱に生まれ変わっていた。稽古場で最初のシーンを見たときは、驚いて、面白くて、腰を抜かしそうになりました。あの通し稽古はすごかったですね。自分が作者であることも忘れて唖然として観ていました」「次々に繰り出されてくる色彩の組み合わせの面白さとか、役者さんたちの色気や熱気とか、大道具の出てくるスピードとか、芝居10本分くらいの手が使われていて、気がついたら4時間たっていました。自分の作品を通して、蜷川さんというのはすごい人なんだと改めて実感しました。」(「演劇界の両雄、初顔合わせ 「リア王」よりも「怒れるジジイ」でいたい 井上ひさしラ蜷川幸雄」、http://hon.bunshun.jp/articles/-/4861、初出『オール讀物』2006年1月号)

※166-「木村光一さんが「(井上さんの作品は)僕がやっても君がやっても同じだね」と乱暴なことをおっしゃったことがあります。それだけ井上さんの戯曲は井上さんの色が濃いので、「あれは僕だっけ、君だっけ」みたいに、(笑)とぼけた言い方をされることがあるくらいで、つまり強力な井上さんの世界があるものですから、それを変にゆがめるとか、趣向の変わった演出でどうのこうのというのを考えるより先に、まず台本がないですからね。(笑)それ、戦略じゃないかと思うくらいですけど。」(「東京裁判三部作」新国立スペシャル・トーク ─井上ひさしの現場─」(出席者 辻萬長・鵜山仁、聞き手・大笹吉雄、http://www.nntt.jac.go.jp/library/library/theater_talk07_02.html)より鵜山さんの発言。

※167-「俳優が生きなければならぬ「世界」を解読するのは演出家の仕事だ。この仕事がうまく行われると、どこのどんな台詞がどんな意味をもち、どんなふうに云われなければいならないかが明らかになる、仕草にしても同じことだ。演出家は自分が解読したことを正確に俳優へ伝え、俳優はその指示を己が肉体へ取り込む。つまり俳優の肉体のなかに演出家が移り住むのである。(中略)したがって俳優と演出家とのもっとも仕合せな関係は、演出家のもろもろの指示を俳優が充分に吸収しつくして、ついには演出家の存在がまったく俳優の肉体のなかに溶けて消えてしまうことにあるといっていい。こうなるためには演出家にどっさりと考える時間をさしあげなければならない。ぼくが百枚以上も筋立(プロット)を書くのは、演出家に「世界」解読の鍵を呈上するためである。」(井上ひさし『代役』、『井上ひさし短編小説集成第7巻』(岩波書店、2015年)収録、初出1985年)

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『ムサシ』(3)-14(注・ネタバレしてます)

2017-03-03 00:02:15 | ムサシ
また、(3)-13で井上さんが名前をあげたバフチンだが、蜷川さんもバフチンの影響を強く受けていることをあちこちで表明していて、「井上さんの作品はバフチンそのものじゃないかって思えるぐらい構造がそうで、大好きだった。それで分析すると、いくらでも分析できていく。それがあって、殊に初期のものがずっと好きだった」とも述べている。((3)-※79参照。また(3)-※102も初期の井上さんの作劇術が「聖なるものはすなわち俗なものであるというバフチンのカーニバル論に通じている」ことを指摘している)。
井上さんが「当時日本で流行りはじめたバフチン」と言っている通り、当時少なからぬ文化人がバフチン理論の影響を受けてはいるのだが、蜷川さんは晩年までバフチンの『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』を座右に置いていたというから筋金入りである。
そういえば、大江健三郎さんが座談会で引き合いに出した((3)-12参照)サイードについても、蜷川さんはインタビューで「僕は、つくづく僕自身がパレスチナ出身の思想家エドワード・サイードに依拠する人間なんだと実感します」。(※131)と述べるほど大きな影響を受けている。
すぐ後に「ここで『オリエンタリズム』の話をしたってしょうがないけれど」と続けているように、ここで蜷川さんが想定しているのはサイードの代表作『オリエンタリズム』だが、「サイードに依拠する」と自認する蜷川さんはこのインタビューの前後で邦訳が出版された『晩年のスタイル』も読んだことだろう。

思えば『晩年のスタイル』が説く〈大作家は晩年カタストロフィーに陥るものだ〉という理論は、蜷川さんにそのまま当てはまる。蜷川さんの追悼特集では、多くの評論家・作家が彼の「絶えず新しい作品と舞台を創ろうとする熱い情熱」((3)-12参照)や〈成熟を否定し、常に自己の演劇を解体・再創造しようとする姿勢〉に言及している(※132)(※133)(※134)
特に「ヴィスコンティもフェリーニも、晩年は力のある仕事をしていない。ピーター・ブルックもどんどん小さな世界を描くようになっている。そういう優れた人たちの収束の仕方にぼくは抵抗感がある」「作品を小さな世界に閉ざさない。もっとほころびと荒々しい隙間がある終わり方がいい」(※135)という発言などはまさしく『晩年のスタイル』の説くところそのままではないか。


そして蜷川さんが「自己の演劇を解体・再創造する」中で目指したものは※132の指摘に従うなら、「自らが薫陶を享けた新劇の演劇修行時代を総括し、自分の演出家としての出発点であるアングラの時代をさらに過激に解体することで、彼の目指すべき演劇を獲得」することだった(※136)
演劇人生の最初、新劇系の劇団青俳に所属していた蜷川さんは演出の倉橋健さんから台本を徹底的に分析することを叩き込まれた(※137)(※138)。蜷川さんの〈台本を直さない、とにかくト書き通りにやる〉「新劇的」姿勢はこの頃培われたものだ。あちこちで話しているように当時からの盟友・劇作家の清水邦夫さんの〈生みの苦しみ〉を間近に見てしまった影響も大きかっただろう(※139)。そう考えると、蜷川さんに対する「新劇最後の演出家」」(※140)「新劇運動の最後のランナー」(※141)という評は適切である。
その彼が晩年に目指した演劇とは「セリフの内容、感情をしっかり作」った「言葉、言葉、言葉の演劇」(※141参照)だった。あたかも倉橋さんから学んだスタニスラフスキー・システム、新劇的方法論の再来のごとくである。
「一周回ってオレは今そのことに気がついたんだ」という台詞通り、新劇、アングラ劇、商業演劇と経験を重ねてきた蜷川さんはそれらを総括・解体しつつ最後に新劇に戻ってきた。むしろ「あの時代は、よくも悪くもヨーロッパ演劇を勉強させられたから、まず徹底的に啓蒙と分析なんだよね。だけどいま外国で仕事をするとき、まさにその遺産で食ってるというところがある。これは倉橋先生に感謝しなきゃいけない」と※137で語っているように、そして台本を直さない、ト書き通りにやるスタイルから言っても、蜷川さんは終始新劇の人だったという言い方もできるかもしれない。

そしておそらくは蜷川さん以上に、自身の中の新劇的なものに対して複雑かつ分裂した感情を持っていたのが井上さんだった。特に初期において新劇を繰り返し批判しながら(※142)(※143)、一方で「新劇がダサイだなんて冗談じゃないと思っている」(※144)と述べたりもする。
そうした井上さんの屈折した態度を中野正昭さんは「おそらく井上ひさしほど新劇嫌いを公言しつつも、自らの演劇的スタンスとして新劇に拘った劇作家もいないだろう。」(※145)と評し、数年間井上さんとの対談を連載した平田オリザさんは「「(井上さんは)自分は日本の演劇界の傍流から出発したという想いが強かったようで、いわゆる「新劇」というものに対する愛憎相半ばする感覚は、他人には理解できない繊細なものがあった。」「「正統」と呼ばれるものへの距離感と、自分自身がその「正統」の中に入っていく違和感がない交ぜになっていた」(※146)と書く。
蜷川さんは井上さんに「蜷川さんがさ、いちばん新劇的なんですよね」」(※147)と言われたというが、新劇に対する「愛憎相半ばする感覚」を井上さんは「いちばん新劇的」な蜷川さんに対しても感じていたのかもしれない。
そしてその井上さん自身を「井上ひさしはもっとも正統的な新劇の継承者の一人」とする評者もいるのである(※148)


※131-「僕は、つくづく僕自身がパレスチナ出身の思想家エドワード・サイードに依拠する人間なんだと実感します。ここで『オリエンタリズム』の話をしたってしょうがないけれど」。 公演プログラムのインタビューで突然サイード(一九三五-二〇〇三)にふれたのは、サイードが代表作ともいえる著書『オリエンタリズム』(一九七八)の中で、西洋が中東やアジアをエキゾチシズム(異国情緒)等のロマンチックなイメージで包む伝統が帝国主義や植民地主義の隠れ蓑になっていると論じたことについて、蜷川が共感したからである。」(「オセロー」、同上)(秋島百合子『蜷川幸雄とシェークスピア』(角川書店、2015年)

※132-「《もっと過激に拡大してやりたいんだ。つまりね、劇団を創った時、世界を否認したいと思った。世界を否認して否認して続けて、その結果世界を肯定するものを発見したい。自分の人生も終わりが見えているから、とにかくそれを一貫させたいんです。これは単なる決意だけど、ぼくは自分の演劇を解体しますよ、最後にはね。それをちゃんとやろうと思う。まとまって終わらないよ》(拙著『[証言]日本のアングラ』作品社、二〇一五年、二百十一頁) これは蜷川幸雄が二〇〇六年に筆者のインタビューに答えて語った言葉である。(中略)この言葉は、わたしの質問「・・・・・・現代人劇場や櫻社の時代、つまりアングラでやり残したことをもう一回新たにやり直すということですか」に答えてのものだった。 蜷川は自らが薫陶を享けた新劇の演劇修行時代を総括し、自分の演出家としての出発点であるアングラの時代をさらに過激に解体することで、彼の目指すべき演劇を獲得したいと語っているのだ。七十歳にしてその気魄は凄まじく、尽きることなき演劇への野望が彼を前駆させているように思えた。まだまだ彼には到達すべき〈演劇〉があったのである。」「蜷川の決意が並々ならぬものであったことは、かつて成功した作品を今の視点で読み直し、解体しながら再創造したことでも了解できる。彼は自分の「名作」が神話に包まれることを決して許さなかった。」(西堂行人「蜷川幸雄の演劇の解体、脱神話化、そして来たるべき演劇」、『悲劇喜劇2016年9月号』(早川書房)

※133-「扇田「演出家・蜷川幸雄にとって、成熟っていうのはあるんですか。 蜷川「放っておくと、安定した作品を作ることはさほど困難ではなくて、イメージは、本読んでる間にそれなりに整合されたものが出てくるんですね。それが自分ではいやなわけです。成熟ってみっともないじゃないですか。」(蜷川幸雄インタビュー「芝居は血湧き肉踊る身体ゲームの方がいい」扇田昭彦編『劇談 現代演劇の潮流』(小学館、2001年)

※134-「晩年の作品で私が最も衝撃を受けたのは『蒼白の少年少女たちによる「ハムレット」』だろうか。若き愛弟子たちが熱演好演する舞台に突如、旧き大衆芸能を象徴するこまどり姉妹を出現させて、自らが創りあげた秀作を自らの手で破壊してみせたところにアングラの旗手、蜷川幸雄の面目躍如たるものがあった。」(松井今朝子「五体が痺れた舞台」、『KAWADE夢ムック 文藝別冊 蜷川幸雄 世界で闘い続けた演出家』(河出書房新社、2016年))

※135-「蜷川は、日本の芸術家に多い枯淡の晩年は送りたくないという。 「ヴィスコンティもフェリーニも、晩年は力のある仕事をしていない。ピーター・ブルックもどんどん小さな世界を描くようになっている。そういう優れた人たちの収束の仕方にぼくは抵抗感がある」 では、どんな収束の方向を蜷川は目指すのか。 「作品を小さな世界に閉ざさない。もっとほころびと荒々しい隙間がある終わり方がいい。例えば、ブニュエル、ダリ、ピカソのような。老いの終点が盆栽や室内楽のような小さな宇宙というのは嫌なんだ。演劇人としては、頭脳だけでなく、体全体を使った官能の追究を続けたい。知的ゲームでは終わらない、体がうずき、痙攣するような舞台を作りたい」(扇田昭彦「過激な晩年へ─蜷川幸雄」、扇田昭彦『才能の森 現代演劇の創り手たち』(朝日新聞社、2005年)収録、初出1999年)

※136-「彼は言葉の探究に心血を注いだ。「新劇」が果たしてきた役割を明確に認識し、翻訳劇主流だった歴史を再点検した。それと同時に、後発のアングラ・小劇場によって開拓された実験や前衛の成果を、新劇の肥沃な土壌に継ぎ木し、重層化しながら発展させようと考えた。歴史を批判的に継承し、未来や後続世代にどう繋いでいくか、蜷川が自らに課した使命は、おおよそここらあたりに集約される。蜷川にとっての「現代演劇」の未来形を舞台そのもので指し示そうとしたのである。」(西堂行人「蜷川幸雄の演劇の解体、脱神話化、そして来たるべき演劇」、『悲劇喜劇2016年9月号』、早川書房)

※137-「あの時代は、よくも悪くもヨーロッパ演劇を勉強させられたから、まず徹底的に啓蒙と分析なんだよね。だけどいま外国で仕事をするとき、まさにその遺産で食ってるというところがある。これは倉橋先生に感謝しなきゃいけない。倉橋さんのいいところも悪いところも、ぼくが言うぶんにはいいわな。倉橋さんは徹底的な分析をするわけです。 たとえば、安部公房の『制服』という芝居をするとき、初めから終わりまでの全セリフ、全ト書き、全部上にサブテクストを出していく。もちろん「・・・・・・」まで出すわけですから、下の文章よりはるかに膨大な分析が出てくるわけですよ。ひと月の稽古だと、それは約十五日から二十日間かけるわけです。それを徹底的にたたきこまれる。ぼくなんか、倉橋さんの芝居に出るときは、行動表といって、分析とか、サブテクストを言葉であらわさなきゃいけないから、夜寝るときに、枕元に鉛筆とノートを置いて寝ているんです。で、ぱっと目が覚めて、たとえば、「・・・・・・」は黙っているときに相手をうかがっているんだと思うと、「相手をうかがう」と夜中に書いて、また寝るといったふうだった。そういう徹底的な分析をさせられたんです。」(清水邦夫ラ蜷川幸雄「ぼくたちの青春 ぼくたちの演劇」、『KAWADE夢ムック 文藝別冊 蜷川幸雄 世界で闘い続けた演出家』(河出書房新社、2016年)収録、初出1995年)

※138-「青俳時代、蜷川幸雄は劇団の指導者だった倉橋健にスタニスラフスキー・システムをたたきこまれた。セリフの背後にある心理を分析し、アクションにつなげる。そのため枕元にいつも台本を置き、セリフの意味に気づくと、すぐ書きこむ習慣がついた。サブテキストを徹底して作りこむこと。衝動的な演技を重んじた蜷川演劇の源には、このサブテキストがあった。」(内田洋一「逆説を生きた自己処断の人」、『悲劇喜劇2016年9月号』、早川書房)

※139-「僕は清水邦夫が初めて脚本を書いて直しているとき、同じホテルに泊まって寝ていたんですが、清水は「できないっ、できないっ。ダメだ、ダメだっ」て言いながら、ウウ~ッって部屋の中をグルグル走っている。僕はそこで起きられなくて、寝たふりをしていたんですが、そのとき、ああ、自分は文字に手出しをしちゃいけないと思いました。」(「演劇界の両雄、初顔合わせ 「リア王」よりも「怒れるジジイ」でいたい 井上ひさしラ蜷川幸雄」、http://hon.bunshun.jp/articles/-/4861、初出『オール讀物』2006年1月号)

※140-「蜷川は演出するにあたり、戯曲の言葉をカットしたり、編集を加えないというポリシーを持つ。(中略)設定は変えても台詞はいっさい変更しない──これが彼にとっての「演出」だとすれば、彼はアングラ以前、すなわち「新劇最後の演出家」だったことになる。」(西堂行人「蜷川幸雄の演劇の解体、脱神話化、そして来たるべき演劇」、『悲劇喜劇2016年9月号』、早川書房)

※141-「アングラ演劇は近代をまたいだ新劇運動に芽生えた最後の波で、その自己破壊のエネルギーによって新劇そのものが滅んだと私は思っている。その分水嶺に生きた蜷川幸雄はまさに新劇運動の最後のランナーだったといえるかもしれない。新劇は知的階層には受け容れられたが、西洋演劇をついに大衆に根づかせることができなかった。蜷川幸雄のシェイクスピアは日本的な意匠の力、スターの輝きを取り入れることで、新劇の宿題を成しとげたといえる。(中略) 自己の中にある新劇的なものを信じこむことは、だができなかった。時代が宿命づけた新劇的な自己への懐疑、それとの闘いがあのひりひりした演技を生んだのだろう。 逆説を生きた蜷川幸雄は最後の『ハムレット』で、演劇史的にも重要な自己否定を打ちだした。主役の藤原竜也を激しいダメだしで責めたが、目指したのは言葉、言葉、言葉の演劇であった。稽古場で滝沢修まで例にひき、セリフの内容をしっかり言うことを求めた。「正統な思想も芸術もなくなり、世の中が表層的な言葉で満たされてしまうと、かつてオレがタツヤに言わせていたような衝動的なセリフじゃもうダメなんだ。セリフの内容、感情をしっかり作れ。一周回ってオレは今そのことに気がついたんだ」 新劇から出発して新劇に帰ったが、そのとき新劇はなかった。長い旅を終え、新しい演劇が始まるはずだった。私は最後の最後でそのことに気づいた。」(内田洋一「逆説を生きた自己処断の人」、『悲劇喜劇2016年9月号』(早川書房)

※142-「なぜ、新劇の「劇場」に、浅草の大道で耳に出来るあの活々したコトバがないかといえば(ということは私にいわせれば「演劇」がない、ということでもあるが)、西洋の演劇を手本として出発した築地以来の日本の新劇が、西洋の観念を輸入するついでに、それを支えるコトバまで取りこむこができると過信しているせいであろう。観念を持込むことが出来ても、コトバまで取り込める道理はない。ごく少数の語学堪能者を除いて、だれにとってもコトバとは母国語のことなのだ。とすれば、生硬な翻訳臭を絶えず放ちつつ横行する「新劇コトバ」でものを考えている間は真の解決がないのは当然で、駄洒落や地口や語呂合せの可能性に富むわれわれの母国語を十分に駆使し、そういったコトバ遊びを通して、われわれの問題を考え、つきつめて行くよりほかに、私の方法はない。」(「浅草のコトバと劇場のコトバ」、『パロディ志願』(中公文庫、1982)収録、初出1971年)


※143-「コトバを喋る専門家たちといってよい新劇俳優の道具の使い方の拙さはどうであろうか。(中略)コトバの専門家としての訓練の足りなさはブレヒトの芝居などをふると覿面に暴露される。ブレヒト劇には歌が多いが、いまだに一度も、歌詞を明瞭に喋りながら歌う役者に、お目にかかったことはない。新劇の大衆化という結構なお題目を掲げ、歌の多い芝居に取り組んだ新劇の劇団が軒並み惨敗を喫したのは、歌詞そのものの拙さ、芸のなさも相当なものだが、まず、 なによりも歌詞を観客に伝える訓練が全く出来ていなかったことに主な原因のひとつがあったのではないかと、私は睨んでいる。」(「アテゴト師たちのおもしろい劇場」、『パロディ志願』(中公文庫、1982)収録、初出1970年)
※144-「ぼくは内心では、新劇がダサイだなんて冗談じゃないと思っている。民主主義がいまだにきちんと成立したことがないのに、「戦後民主主義は破産した」と利口そうに言い触らす早トチリ屋さんが多いが、それと構図は同じ、新劇が大きな可能性を秘めながらまだ成立の途上にあるのに、その可能性を少しも点検しようとせずに、「新劇リアリズムはもうダメだ、だいたいダサクてかなわない」と言い立てる新しがり屋さんが大勢いるのである。ぼくの戯曲もそのダサイ新劇のうちの一つと見られ、演劇青年たちに敬遠されている」(「決定版までの二十年──『十一ぴきのネコ』」、井上ひさし『演劇ノート』(白水社、1997年)収録、初出1990年)

※145-「おそらく井上ひさしほど新劇嫌いを公言しつつも、自らの演劇的スタンスとして新劇に拘った劇作家もいないだろう。劇作家を志しながらも一端は放送の仕事に携わり、時を得て再び再デビューを果たすことになった井上にとって、先ず必要性を感じたのは旧態依然とした演劇形式の刷新であり、これは極めて知的で新劇的な問題だった。(中略)「新劇なんて、“理解しよう”という観客と、“理解してもらいたい”という舞台との、なれあいの上に成立っている演劇」だという井上の批判には、「なれあい」を前提としない者、「なれあい」を前提と出来なかった者を排除する閉ざされた関係性への怒りが秘められている。」(中野正昭「日本人のへそ─放送作家から劇作家へ」、日本近代演劇史研究会『井上ひさしの演劇』(翰林書房、2012年)収録)

※146-「(井上さんは)自分は日本の演劇界の傍流から出発したという想いが強かったようで、いわゆる「新劇」というものに対する愛憎相半ばする感覚は、他人には理解できない繊細なものがあった。 ちょうど、この対談の連載が行われていた時期は、井上さんが、新国立劇場に立て続けに作品を書き下ろし、名実共に「国民作家」(小説家としてではなく劇作家として)の地位を確立していった時期でもあった。「正統」と呼ばれるものへの距離感と、自分自身がその「正統」の中に入っていく違和感がない交ぜになっていた時期であったかもしれない。そのような、晩年への変化の時代に、六年間も対談を続けられたことは、まことに幸せであった。」(平田オリザ「井上さんの思い出」、井上ひさし・平田オリザ『話し言葉の日本語』(新潮文庫、2014年)文庫版あとがき(2013年11月)

※147-「井上さんからぼくに言った印象的な言葉で「蜷川さんがさ、いちばん新劇的なんですよね」っていうのがある。台本は直さないし、ト書き通りにやるからね。(蜷川幸雄「井上ひさしを伝える」、『悲劇喜劇』2013年1月号)

※148-「戦時中から戦後にかけてのお上のやり方、大人のやり方に不信感を抱いた井上ひさしは、歴史を教訓にして自分を生きることの必要性、中央政府に対案や代案を出す必要性をたえず感じている。 築地小劇場以来、欧米の演劇を糧として育ってきた演劇、新劇全体の持っている「志」が、新劇の代表とは位置付けにくい井上ひさしによって体現されているのは皮肉なことである。だが、新劇の規定の仕方によっては、大笹吉雄が説くように、「井上ひさしはもっとも正統的な新劇の継承者の一人」と見ることも可能であろう(大笹吉雄『同時代演劇と劇作家たち』)。 とまれ、ここに取り上げた二作を通じて、井上ひさしが問うたことは、日本および日本人の在り方を異化してみせるということであった。そしてわたしが思うには、その誕生以来、新劇のもっとも大きな課題がこの問題だったとするならば、リアリズムに拠らないそのスタイルにもかかわらず、井上ひさしはもっとも正統的な新劇の継承者の一人であろう。新劇とは、おそらくほかの何であるより、演劇的な一つの精神志向である。 大笹吉雄が「ここに取り上げた二作」とは、『しみじみ日本乃木大将』(ママ)(一九七九)と『小林一茶』(一九七九)である。新劇の「志」を革新性、旧劇に対する自己主張とするならば、日本の社会や時代、あるいは日本人の思考や有り様に対して問いかけ、異なった在りようを模索し、日本的な在りようを異邦人の目で眺め、ときに異議申し立てをし、対案を出している井上ひさしを「もっとも正統的な新劇の継承者の一人」とすることは、たしかに当に得ている。」(秋葉裕一「ベルトルト・ブレヒトと井上ひさし─「あとから生まれてくる人々へ」の「思い残し切符」」(谷川道子・秋葉裕一『演劇インタラクティヴ 日本ラドイツ』、早稲田大学出版部、2010年)

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『ムサシ』(3)-13(注・ネタバレしてます)

2017-02-15 19:43:28 | ムサシ
また、権威や時代の風潮に対する反骨精神も両者に共通する要素だろう。井上さんの初期戯曲で、それまでと一変したダークな作風で人々を驚かせかつ高い評価を得た『藪原検校』(初演1973年)は、その年開場したばかりの西武劇場(後のパルコ劇場。2017年2月現在、建物の建て替え工事に伴い一時休館中)で上演されたが、当時ファッショナブルな若者文化の牽引役だった渋谷パルコのイメージにこの作品の泥臭さ・グロテスクさは何ともそぐわない。なぜそれまでのような、当然パルコ側もそうした作品を予想し期待していたであろう、言葉遊びに満ちた抱腹絶倒型の喜劇ではなく、あえてダークな芝居を書き下ろしたのか。

その理由を井上さんはパルコ劇場30周年を記念して2003年に出版された『プロデュース!』という本のインタビューで〈同じような作風の話ばかり書いていると飽きてくる、というより先がないんじゃないかと不安になってくる〉から、主人公が三段斬りという残酷な方法で処刑されるラストについては〈当時日本で流行りはじめたバフチンの「犠牲者がいないと祭りは成立しないという理論」の影響〉だと話している(※118)
素直に受け取れば、これまでと違うテイストの作品を書きたいと思っていたタイミングでバフチンの本を読んだのでその理論を取り込んだ、となるのだろうが、パルコのコンセプトが「祝祭空間」だった(※119)ことを考え合わせると、パルコとパルコに代表されるお洒落で華やかな世界が成り立つ陰で犠牲になった者たちがいたはずだ、という一種のあてこすりがこの芝居の裏テーマだったんじゃないかと思えてくる。後に新国立劇場のこけら落としに書き下ろした『紙屋町さくらホテル』について「天皇の戦争責任を問うような芝居は上演できないと拒否されるような戯曲を書きたいと思った(笑)。」(※120)と語った井上さんならやりかねない。
上掲のインタビューの前文でインタビュアーの扇田昭彦さんが「渋谷を若者たちが集まる街に変えたこのファッショナブルな劇場のために、井上ひさしはあえてダークで残酷な味わいのある音楽劇の秀作を書いた。」(傍線引用者)(※121)と書いているのも、井上さんがたまたま目先を変えてダークな作品を書きたくなったわけではなく西武劇場を皮肉るためにわざとダークな作品をぶつけたのだと匂わせてるんじゃないか。

(ちなみに井上さんはつかこうへいさんとの対談の中で、当時花形職業だったコピーライターに代表される高度経済成長期の文化への違和感を語っている。西武百貨店の宣伝コピーとして一世を風靡した「おいしい生活」(1982年)につかさんが批判的に言及した際に積極的に乗っていかなかった(※122)のは、出世作というべき『藪原検校』と続く江戸三部作の二つ目『雨』を上演した(そして上演予定だった芝居『パズル』を台本が上がらず中止にしたことで多大な迷惑をかけた)パルコ─西武グループに遠慮があったものか。もっとも同じ西武系列でも西武ライオンズのオーナー堤義明氏のことは名指しで批判しているのだが(※123)。

一方の蜷川さんも1981年に西武劇場で唐十郎さん作の『下谷万年町物語』を上演しているが、こちらは蜷川さん曰く「百人のおかまの話」(※124)。しかもパルコ入口に終戦直後の掘っ立て小屋を作るという、これまたパルコのイメージとは対極のような芝居で、「当時、スキャンダルな話題になった」というのも無理からぬところ。
なぜこんな「露悪的な」作品を作ったのかについて、蜷川さんは上でも取り上げた『プロデュース!』掲載のインタビューでは30周年記念の本だけに「(パルコの)格好良さと違う形で、僕たちの演劇を存在させたいな、と思いました。今でも時々あるんだけれど、ある状況に対して違和感やノイズを意図的に入れたくなることがある」(※125)と比較的穏当な表現を選んでいるが、※124の対談では「唐さんと二人で、パルコの建物を「このビルを包んじゃおうか?」「なんとかして壊す方法はないか」と話しました。高度成長期を経済発展してきた虚像のパルコが勢いを持ってた時代の建物に砂利をひいたり、砂の家をつくろうかと唐さんと話したわけです。」とより過激な発言をしている。
特にパルコを「虚像」と言い切り、その外観を損なうような道具立てや演出をことさら導入する挑戦的な姿勢には驚かされる。そこにはパルコ─西武グループが牽引していたファッショナブルで軽佻浮薄な生活スタイルに対する違和感と反感がはっきりと感じられる(扇田さんによれば、掘っ立て小屋を建てるなどの露悪的仕掛けは唐さんの主導だったようだが(※126))。
反感といってもオファーを受け入れたわけだから心底嫌がってるわけではなく、ちょっと混ぜっかえしてみたいという感覚─蜷川さん言うところの「違和感やノイズを意図的に入れたくなる」気分を刺激されたものだろう。

かたやこれまでのイメージに反するダークな芝居でパルコ文化を暗に皮肉り、かたやそのファッショナブルなイメージをわざと汚してみせる、そのうえでこの皮肉に相手(パルコ)が気づくか、どこまでこちらの無茶を相手が許容できるかを試していたようにも思える。
実際、こうしたエピソードを読んでいると、当時のパルコの上層部は大物だったんだなあと感じます。「とにかく君ら、ピストルだけはぶっ放さないでくれ」(※124参照)という言葉がその度外れの寛容さを象徴している。
井上さん没後の座談会で作家の辻井喬さん=元セゾングループ代表でパルコの生みの親である堤清二さんが「井上さんの作品は、時代や世の中に対して非常に鋭い批判・批評にあふれている。しかし不思議なことに、それは肩を怒らせての批判ではなく、井上さん生来の感性でもって受けとめたこと、それ自体が批判になっている。そういう批判のあり方というのはとても独特で、以前から井上ひさしという作家に興味をもっていたし、その実力を尊敬していたんです。」(※127)と語っているが、これはオープン間もないパルコ劇場で『藪原検校』が上演されたことについての発言なので、辻井喬としてより堤清二として、その「鋭い批判・批評」の矛を向けられているのが「時代や世の中」を動かしている自分たち自身であることを承知したうえで井上さんの起用を認めたという含みがうかがえる。
彼とその信任を受けたパルコ専務(のち社長)の増田通二さんがいればこそ、パルコのこの鷹揚さと大躍進があったのだろう(※128)(※129)(※130)

ともあれこうした流行や権威に対し違和感を表明したくなる反骨精神も井上さんと蜷川さんに共通する要素といえる。そして井上さんの目には「世界のニナガワ」もまた違和感を表明し挑戦すべき権威として映っていたのではないかと思うのだ。




※118-「──グロテスクでダークな世界にびっくりしました。特に主人公が三段斬りという残酷な刑を受けるシーンは衝撃的でした。 井上「あの頃はバフチーン(思想家ミハイール・バフチーン)が日本ではやり始めた時期なんです。たまたま彼の著書で、犠牲者がいないと祭りは成立しないという理論を読んだばっかりだったんですね。劇中で塙保己市が主人公の藪原検校を極刑に処するよう進言するあたりはバフチーンですね。それから山口昌男さんを愛読、というより熱読してましたから、バフチーンと山口昌男さんの手の上で踊っていたようなものでした。」 ─それまでの抱腹絶倒型の喜劇とは異質の作品を書いたのはどうしてですか。 井上「劇作家、作家はみんな同じだと思いますけど、お客さんは面白いと言っているのに、作者はだんだん飽きてくるんです。というか、危険を感じるんです。ちょっと違う方向に抜け出さないと、先がないんじゃないか。僕の中には、東北と東京をどうつなぐかというテーマがいつもあるんですね。そこで、目が見えない東北出身の人間が生き馬の目を抜く江戸でどう生きていくかという物語が生まれた。」(インタビュー・構成 扇田昭彦「井上ひさしインタビュー 渋谷を変えた劇場でダークな喜劇の実験」、扇田昭彦ラ長谷部浩ラパルコ劇場『パルコ劇場30周年記念の本 プロデュース!』(株式会社パルコエンタテインメント事業局、2003年))

※119-「商業スペースを祝祭空間としてみなすコンセプトをさらに押し進めて、人々をその空間の祭司のひとりとみなすPARCOは、最上階に君臨する劇場によってシンボライズされていた。」(長谷部浩「イメージ戦略としての劇場」、扇田昭彦ラ長谷部浩ラパルコ劇場『パルコ劇場30周年記念の本 プロデュース!』(株式会社パルコエンタテインメント事業局、2003年)

※120-「『紙屋町さくらホテル』の場合は、新国立劇場から、「天皇の戦争責任を問うような芝居は上演できないと拒否されるような戯曲を書きたいと思った(笑)。不純な動機です。不思議なもので、不純な動機のときには本が上がる(笑)。」(井上ひさし・平田オリザ『話し言葉の日本語』(新潮文庫、2014年)収録「戯曲の構造と言葉」、初出1998年)

※121-「1970年代、開場したばかりのパルコ劇場の評価を一気に高めたのは、『藪原検校』『雨』などの井上ひさしの戯曲だった。 渋谷を若者たちが集まる街に変えたこのファッショナブルな劇場のために、井上ひさしはあえてダークで残酷な味わいのある音楽劇の秀作を書いた。 その後の劇作術の変化にも触れながら、パルコ劇場とのかかわりを語る。」(インタビュー・構成 扇田昭彦「井上ひさしインタビュー 渋谷を変えた劇場でダークな喜劇の実験」、扇田昭彦ラ長谷部浩ラパルコ劇場『パルコ劇場30周年記念の本 プロデュース!』(株式会社パルコエンタテインメント事業局、2003年)

※122-「つか「あれはどういう人種なんですかね、コピーライターというのは。「おいしい生活」っていったって、スポンサーがデパートである必要はない。なんだっていいわけです。そのデパートの持つ構造から出たコピーじゃなく、コピーでそのデパートの構造をつくろうとしてると言ってるらしいんですけど。ヒットしたからつじつまが合っちゃう。」 井上 「やはり「逆立ち現象」のひとつだと思うんですけど・・・・・・。」(「広告に見る逆立ち現象」、井上ひさし・つかこうへい『国ゆたかにして義を忘れ』(角川書店、1985年)収録、初出1984年)

※123-「西武が嫌いな理由がやっと解った。わたしはどうもこの堤義明という人物が苦手なのだ。選手に高給を払うところは好きだが、税金を払わずにすませているところが気に入らないのである。 コクド(旧国土計画)という四〇兆円の資産を有する大企業がある。ところがこのコクドが八六年から八八年に支払った法人税はゼロだ。(中略)さてこのコクドの四〇パーセントを所有する大株主が西武のオーナーの堤氏である。べつに言えば、この国の税金を払わない人びとの御大将が堤氏なのだ。冗談ではない、そんな御仁の持つ球団にわたしたちの大事な夢を托すことができるものか。」(「胸のマークを読み替えて」、井上ひさし『文学強盗の最後の仕事』(中公文庫、1998年)収録、初出1992年)

※124-「渡辺「「下谷万年町物語」の話に行きますけど、八一年に、いまのパルコ劇場、当時は西武劇場だった、渋谷の最先端のファッションビルにある劇場で、「下谷万年町物語」があるって言うんで、当時、スキャンダルな話題になったんですね。」 蜷川「できたものもすごかった。百人のおかまの話ですから。全国から美少年、それからホモセクシュアルの人もたくさんくるわけです。いろんな人がいました。売れる前のアラーキーが写真を撮ってくれた。唐さんと二人で、パルコの建物を「このビルを包んじゃおうか?」「なんとかして壊す方法はないか」と話しました。高度成長期を経済発展してきた虚像のパルコが勢いを持ってた時代の建物に砂利をひいたり、砂の家をつくろうかと唐さんと話したわけです。パルコの社長に呼ばれて「とにかく君ら、ピストルだけはぶっ放さないでくれ」と言われました。」(唐十郎ラ蜷川幸雄(聞き手・渡辺弘)「劇場都市東京の行方」、『KAWADE夢ムック 文藝別冊 蜷川幸雄 世界で闘い続けた演出家』(河出書房新社、2016年)収録、初出2011年)

※125-「唐さんとまた仕事したいね、と言っていたら、パルコから話がありました。当時、パルコは、石岡瑛子さんが広告戦略のアートディレクションを担当し、最新の文化メッセージを発信している場所というイメージが強かった。その格好良さと違う形で、僕たちの演劇を存在させたいな、と思いました。今でも時々あるんだけれど、ある状況に対して違和感やノイズを意図的に入れたくなることがある。唐さんと二人、道路を隔てた反対側で、ファッショナブルなパルコのビルを見ているうちに「オカマを登場させ、それを公募しよう。パルコ入口に終戦直後の掘っ立て小屋を作ろう」とか、露悪的な話になってね。60年代後半に始まった小劇場運動の僕たちに共通するのは、ある種の山師のような面白がり方で、スキャンダリズムを逆手にとりながら社会的な事件にしようとする。公募で選んだ彼らを公園通りに寝転がして、アラーキー(荒木経惟)に宣伝用の写真を撮ってもらった。」(インタビュー・構成 高橋豊「蜷川幸雄インタビュー ファッショナブルな街にノイズを」、扇田昭彦ラ長谷部浩ラパルコ劇場『パルコ劇場30周年記念の本 プロデュース!』(株式会社パルコエンタテインメント事業局、2003年)

※126-「反権力志向が強いアングラ演劇出身の唐としては、『下谷万年町物語』の上演に際しても、パルコにすんなり収まる印象は与えたくなかったのだろう。そこで唐は蜷川、朝倉摂らと話し合い、パルコ側の了解も得て、上演期間中、パルコのビルの前に長屋風の小屋を建て、汚れた洗濯ものなどをいっぱいぶらさげた。「六〇年代」の申し子の唐が新しい場に打って出るためには、そうした異物で「武装」することが必要だったのだ。」(扇田昭彦「西武劇場「下谷万年町物語」 1981」、『こんな舞台を観てきた 扇田昭彦の日本現代演劇五〇年史』(河出書房新社、2015年)収録、初出2000年)

※127-辻井喬+成田龍一+小森陽一「座談会 井上ひさしの文学③ 自伝的作品とその時代」(『すばる 8月号』、集英社、2012年)

※128-「渋谷のパルコ劇場(一九七三年開場。八五年までは西武劇場)は、今はニール・サイモン、三谷幸喜をはじめとする都会的でおしゃれな喜劇を上演する劇場というイメージが強いが、以前はもっと破天荒な演目も登場する小屋だった。その代表的な例が、西武劇場プロデュースで一九八一年の二月から三月にかけて一カ月間上演された唐十郎作、蜷川幸雄演出の『下谷万年町物語』(朝倉摂美術、吉井澄雄照明、猪俣公章音楽)である。」(扇田昭彦「西武劇場「下谷万年町物語」 1981」、『こんな舞台を観てきた 扇田昭彦の日本現代演劇五〇年史』(河出書房新社、2015年)収録、初出2000年)

※129-「当時、パルコ専務だった増田通二さんから「砂だけは少なくしてくれ」と言われ、小屋を小さくしました。「パルコ文化」と呼ばれた、増田さんの文化戦略は、攻撃的な大胆さに魅力があり、製作を担当していた山田潤一さんらの支えで、僕たちは面白い仕事をさせてもらったと思ってます。」(インタビュー・構成 高橋豊「蜷川幸雄インタビュー ファッショナブルな街にノイズを」、扇田昭彦ラ長谷部浩ラパルコ劇場『パルコ劇場30周年記念の本 プロデュース!』(株式会社パルコエンタテインメント事業局、2003年)

※130-「文化的な話題性に富み、時代の動きを反映し、観客の入りがある程度見込めるものなら、何でも上演しよう、というのがパルコ劇場の基本姿勢であるように思われる。その柔軟性と幅の広さが結果としていくつの好企画を生んできた。(中略)パルコ劇場は新しいタイプの商業劇場だが、ここにあるのは「トレンド」や「情報発信」の包装紙にくるめばどんな実験劇でも上演してしまう融通のきく商業主義なのだ。」(扇田昭彦「あとがき」、扇田昭彦ラ長谷部浩ラパルコ劇場『パルコ劇場30周年記念の本 プロデュース!』(株式会社パルコエンタテインメント事業局、2003年)


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『ムサシ』(3)-12(注・ネタバレしてます)

2017-02-02 20:10:51 | ムサシ
ところで(3)-11で取り上げた井上さん没後の座談会「井上ひさしの文学」の2回目で、作家の大江健三郎さんが「ぼくの友達のエドワード・サイードが、『晩年のスタイル』という本を最後に書きました。これは芸術家の晩年の仕事を考察したもので、大作曲家、大映画作家といわれる人たちが、晩年にどうしてもカタストロフィーに陥ってしまうということを、サイードは書いています。 (中略)あの井上ひさしが、かれらしい大きいカタストロフィーに陥らざるを得ないような、しかもついには破綻しながら、人物の一人、一人、科白の一行、一行がじつにおもしろいというものをつくって、それを天才的な演出家が演出すればかつてない大演劇ができるだろうという手紙を書いたことがありますけれど、出せませんでした(笑)。『ムサシ』こそ、それだったという、大方の演劇批評家が正しいのかもしれませんが。」(※103)と話している。
『ムサシ』の劇評というと〈報復の連鎖を断ち切ることの大切さを笑いの内に描き出した〉といった内容のものがもっぱらで、〈破綻している〉と指摘した評は寡聞にして知らなかった。しかもそれが「大方の演劇批評家」の意見とは。井上さん存命中は大っぴらに言えなかっただけで、実はみんな陰ではそういう話をしていたのか。
またこの場合の「破綻」とは何を指しているのだろう。復讐否定の物語の締めに復讐肯定の『孝行狸』のオチが語られること?父を殺された少女が途中で仇討ちを放棄したり、将軍家の政治顧問と朝廷に近い高名な禅僧がこれからの時代は侍に刀を抜かせない工夫が必要だと語りあったり、それぞれ社会的立場・置かれた状況を前提に平和主義を説いていたのが〈自分たちの身の上は全部嘘でした〉と告白してその前提を引っ繰り返してしまったこと?

いろいろ謎はあるが蜷川さんを「天才的演出家」とした部分については同意である。蜷川さんが井上戯曲を初めて手がけた2005年の『天保十二年のシェイクスピア』が「それまで井上劇を上演してきたさまざまな劇団や劇場の舞台とは明らかにスケール感と質感の違う刺激的な舞台が生まれていた」(※104)と評されたように、井上さんと蜷川さんがタッグを組んだことで「かつてない大演劇ができる」可能性が開かれた。
そして再演ではなく初めて井上さんが蜷川演出に向けて書き下ろした(※105)『ムサシ』がその大演劇足りうるかもしれないと周囲の期待を集めたというなら話がわかる。実際蜷川さんが初めて井上さんの新作を演出するというので結構話題になっていたような記憶がある。

ちなみに※105でも引用した扇田昭彦「井上ひさしと蜷川幸雄の共通項」は両者の共通項として「世代」(一歳差)、〈新劇畑(ただし大手劇団ではない)の出身〉〈作品数の多さと大衆性〉「作風を固定せず、絶えず新しい領域に挑戦し続けてきた」ことを挙げ、「二人に目立つのは、七十代半ばという年齢を忘れさせるほどの枯れないエネルギー、言い換えれば、絶えず新しい作品と舞台を創ろうとする過剰な熱い情熱である。それは年下の同業者たちに負けまいとする強い対抗意識、ライバル意識を伴ってもいる。私はかつてこうした最近の蜷川氏を「過激な晩年」と呼んだことがあるが、それは井上氏についても当てはまる。」としている。
これらに加えて〈批判的な劇評に対し強く反論する姿勢〉も二人に共通するところだろう。

井上さんの最初期の戯曲である『日本人のへそ』『表裏源内蛙合戦』は観客には大受けしたものの、評論家には「大変面白いが、思想がない」などと書かれて、井上さんは新聞紙上で反論したり〈思想とは何ぞや〉ということで思想関係の本を片っ端から買ったりしたと言う(※106)
この「面白いが、思想がない」という評を書いたのは英文学者・演劇評論家の小田島雄志さんで、井上さんの反論を受けて別の雑誌の舞台評で言葉が足りなかった点を釈明、その後直接会って話して和解し、以後は親しく付き合うようになったそうだ(※107)

蜷川さんの場合1988年に演出した『ハムレット』に対する批判的劇評に激怒して劇場ロビーに壁新聞を貼り出して反論した件が有名だが(※108)、上で名を挙げた扇田昭彦さんも1978年版の『ハムレット』に批判的劇評を書いたところ、その後どこかの劇場ロビーで蜷川さんと顔を合わせたさいに怒りもあらわに詰め寄られたことを上述の「蜷川氏を「過激な晩年」と呼んだことがある」評論で述べている(※109)
近年でも2015年公演の『ハムレット』について扇田さんが朝日新聞に劇評を書いたのに対し、翌日(ちょうど蜷川さんの連載コラムの掲載日に当たっていた)の朝日新聞で「きのう、朝日の夕刊に演劇評論家・扇田昭彦氏の「ハムレット」の最低の劇評が出た。」と即座に反論する〈事件〉があった(※110)
しかしまたしても『ハムレット』。内田洋一氏が書くとおり「『ハムレット』は演出家にとっても劇評をものするものにとっても鬼門」(※111)としか言いようがない。
とはいえ蜷川さんは扇田さんを嫌ってるわけではなく、渡辺弘氏(蜷川さんが芸術監督を務めた埼玉県芸術文化振興財団の理事)がフォローするように「同時代を共に生きてこられた長年の「戦友」同士」(※112)という意識に裏打ちされた信頼と親しみが根底にあればこそかえって強いことも言えたと見るほうが正解だろう。実際2015年5月に扇田さんが急逝された際には例の朝日新聞の連載で「なんという大事な友人を失ったのか」(※113)とその死を惜しんでいる。
この〈追悼文〉の中で「彼の意見に同調できる時もあれば、相反することもたくさんありました」と述べている通り、結構あちこちで扇田評を否定する発言(※114)(※115)をしながらも、陰口ではなく本人にも直接同じことを話していたりして(※116)、まさに「良いけんか相手」と言える関係だったのだと思う。
扇田さんの方もそう感じていただろうことは、『才能の森』あとがきの「この本に登場した人たちの敬称について」書いたくだりで、「私より上の世代の人たちには原則として敬称を付けましたが、蜷川幸雄氏のように、私より五歳年上でも同世代感覚が強い人については、あえて敬称抜きとしました。」(※117)とあることから窺える。
批判的劇評に対し仲がいいからこそ強く反論したり、強く反論したところからかえって仲良くなったり──そうした点において蜷川さんと井上さんは似ているように思います。


※103-「ぼくの友達のエドワード・サイードが、『晩年のスタイル』という本を最後に書きました。これは芸術家の晩年の仕事を考察したもので、大作曲家、大映画作家といわれる人たちが、晩年にどうしてもカタストロフィーに陥ってしまうということを、サイードは書いています。 ぼくは、井上さんも自分の晩年のスタイルとしてカタストロフィーになるような、それこそ収拾がつかないような大きいものをやってほしかったんです。そんな気持ちがあるものだから、舞台のすそのピアニストがピアノを弾いて、歌を歌って話がまとまるというようなことはやめようじゃないかと、いつか言ってやろうと思っていた(笑)。(中略)あの井上ひさしが、かれらしい大きいカタストロフィーに陥らざるを得ないような、しかもついには破綻しながら、人物の一人、一人、科白の一行、一行がじつにおもしろいというものをつくって、それを天才的な演出家が演出すればかつてない大演劇ができるだろうという手紙を書いたことがありますけれど、出せませんでした(笑)。『ムサシ』こそ、それだったという、大方の演劇批評家が正しいのかもしれませんが。」(大江健三郎+成田龍一+小森陽一「座談会 井上ひさしの文学② “夢三部作”から読みとく戦後の日本」、『すばる 2月号』(集英社、2012年)より大江発言。

※104-「『天保十二年のシェイクスピア』は、初期の井上ひさしの熱い過剰なエネルギーがまるで溶岩流のようにあふれ出た異様な傑作である。シェイクスピアの全戯曲三十七本の要素をすべて織り込むという趣向で書かれたこの不条理劇風の音楽劇は、作品が破天荒で長大すぎたせいもあって、一九七四年の西武劇場(現・パルコ劇場)での初演はうまく行かなかった。 だが、二〇〇五年、蜷川はこの難しい大作を実にうまく、躍動感と笑いのある舞台に仕立てた。何よりも、蜷川の舞台の特色である過剰に沸き立つエネルギーが、井上の初期作品の演出にぴったりだった。底辺の人々の視点からものを見るという井上作品の基本姿勢も蜷川演出と重なるものだった。それに蜷川はすでに数多くのシェイクスピア劇を演出して成果を上げていたから、『天保十二年のシェイクスピア』を深いレベルで、趣向豊かに演出する術を知っていた。さらに一九九四年に初めて手がけた『夏の夜の夢』以降、得意分野ではなかった喜劇でも、蜷川は経験を積んできた。(中略)そして作者の井上は、『天保十二年のシェイクスピア』の舞台成果を観て、蜷川演出への信頼を強めた。そこには、それまで井上劇を上演してきたさまざまな劇団や劇場の舞台とは明らかにスケール感と質感の違う刺激的な舞台が生まれていた。」(扇田昭彦「冒険する大人たちの演劇」(扇田昭彦『井上ひさしの劇世界』、国書刊行会、2012年)収録、初出2008年)。
ちなみに「初演はうまく行かなかった」状況を、井上さんは丸谷才一さんとの対談の中で「上演時間が長すぎてだめだったんです。」「七時に始まって、終ったのが十二時過ぎなんですね、初日が。それで次の日に半分ぐらいにカットしたら、パロディにならなくなっちゃったんです。」「幕間が二回あったんですが、そのたびにお客がいなくなっちゃうんですね。もう終ったと思って(笑)」(井上ひさし・丸谷才一「パロディ精神ってなんだろう」、『笑談笑発 井上ひさし対談集』(講談社文庫、1978年)収録、初出1978年)と話している。

※105-蜷川さんは「作家が新作を書き下ろしても、ちゃんと演出してもらえるなあという思いを持ってもらえた」((3)-※87参照)と語り、『ムサシ ロンドン・NYバージョン』のパンフレットにも「井上氏が蜷川演出のために初めて書き下ろした新作が前述の『ムサシ』だった」(扇田昭彦「井上ひさしと蜷川幸雄の共通項」)とあるが、ホリプロ最高顧問で『ムサシ』の原型となった企画から深く関わっている堀威夫氏はインタビューで〈『ムサシ』の構想がある程度まとまってきたと井上さんが言ってきたのをホリプロのプロデューサーが蜷川さんに話したら、ぜひ自分が演出をやりたいと手をあげた〉と語っている(堀威夫「演劇『ムサシ』の奇跡」(東洋経済オンライン、2011年9月14日号、http://toyokeizai.net/articles/-/7714)。この話だと井上さんが自分から蜷川さんに『ムサシ』を演出してほしいと思ったわけではなく蜷川さんの方からアプローチしたような感じである。実際書く時点ではもう蜷川さんが手がけることが決まっていたわけで、蜷川演出に向けて書いたことに違いはないが。ちなみにこの堀氏インタビューは『ムサシ』キャスト陣による井上さん宅訪問にも触れているが、「ひげぼうぼうでやせ衰えた井上さんが出てきた。命を削って書いていることがわかって、台本が遅れていることへのみんなの不満が一挙に消えた」というくだりは(3)-※97の栗山さんの感慨を思い出させる。

※106-井上「僕も「日本人のへそ」という芝居で、「大変面白いけど、思想がない」と書かれました(笑)。」 蜷川「本当? それ、すごく失礼ですね。」 井上「それで、思想、思想ってなんだと思って、いろいろ思想関係の本を買いました(笑)。僕が芝居の世界に入ったのは、明日、食えるようにしたいというそれだけの理由でしたから、思想なんて関係なかった。今日、自分の力の中で一番いいものを出さないと、明日、食えないんじゃないかという強迫観念。それは僕の生い立ちや、僕らの世代とも関係があると思いますが。」(「演劇界の両雄、初顔合わせ 「リア王」よりも「怒れるジジイ」でいたい 井上ひさしラ蜷川幸雄」、http://hon.bunshun.jp/articles/-/4861、初出『オール讀物』2006年1月号)

※107-「『悲劇喜劇』(一九七〇年八月号)での私の軽率な発言から、井上ひさしとのお付き合い(最初はお突きあい?)(管理人注・原文傍点)が始まりました。対談「演劇時評」の『表裏源内蛙合戦』の戯曲評で、私は「こんなにおもしろくていいのか不安になったほど」とほめたあと、「哲学がない、というのはいやな言い方だけど・・・・・・」となんの説明もなしに余計なひとことを付け加えたのでした。 それに対し、井上ひさしからはこんな“反論”がありました。 「この作品を面白いといってくださる方は多い。でも“思想・哲学がない”という新劇の諸先生の評価は一番アタマにくるんです。(中略)」 この「新劇の諸先生」とは私もそのひとりです。さらに『悲劇喜劇』同年十月号、同じ作品のテアトル・エコー初演の舞台評で、再びふれました。 「エコー・ひいき」になるけれど、とさんざん笑ったことを語ったあとで、「戯曲評のときに、いやな言い方だけど哲学がない、と言いましたが、そういう評言に対して、パンフレットや朝日新聞で井上ひさしが反駁している」が、と懸命に、しどろもどろに、私の真意を伝え、シェイクスピアにも私にも哲学がない、ことを述べました。やがて初めて会って話をして、本人に了解を得たように思います。その証拠に、翌年一月に刊行された『表裏源内蛙合戦』(新潮社)に、几帳面な字で「小田島雄志様、井上ひさし」と署名して贈ってくれました。 その後、私がシェイクスピア三十七本の芝居の完訳『シェイクスピア全集』全七巻(一九八〇年、白水社)を刊行したときに、井上ひさしから次のような推薦文「教養から娯楽へ」をもらいました。(中略)彼が一九八三年にこまつ座を創設し活動し始めると、初日乾杯の席で毎回私がスピーチに指名され、駄洒落落ちをつけて喜ばれました。もう二十数年前になりますが、私が入院して初日に行けなかったとき、井上が、「今日は小田島さんがいらっしゃらないからスピーチはなしです」と言われた、と聞いて以後初日は休めなくなりました。」(小田島雄志『井上ひさしの劇ことば』(新日本出版社、2014年)

※108-「一九八八年、蜷川は東京・青山のスパイラルホールで渡辺謙主演の『ハムレット』を演出したが、この舞台に対する朝日新聞の批判的な劇評(私の先輩の編集委員が書いた)に蜷川は「激怒」し、劇場ロビーに「ニナガワ新聞」という壁新聞を張り出して反論しただけでなく、雑誌『文藝春秋』に「朝日新聞よ、目には目をだ」という文章を発表した。当時、演劇界で大きな話題になった「事件」である。」(扇田昭彦「過激な晩年へ─蜷川幸雄」、扇田昭彦『才能の森 現代演劇の創り手たち』(朝日新聞社、2005年)収録、初出1999年)

※109-「私自身も蜷川の怒りを買った劇評を書いたことがある。一九七八年八月、帝国劇場で蜷川演出、平幹二朗主演の『ハムレット』が上演された。これは劇中劇に日本のひな祭りの趣向を導入した点で記憶される舞台だが、辻村ジュサブローがアートディレクターを務めた無国籍風の装飾過多の衣裳とどぎつい仮面のようなメーキャップが私は気に入らず、雑誌『創』に批判的な「演劇時評」を書いた。しかも見出しは「悪趣味の王国」という刺激的なものだった。 やがて、どこかの劇場のロビーで顔を合わせた蜷川は、怒りもあらわに詰めより、私の劇評を激しく批判した。そのとき、狼狽した私がどう答えたかは忘れてしまったが、きまずい関係が何カ月も続いたのは間違いない。 だが、翌七九年二月、蜷川演出を代表する傑作の一つ、『近松心中物語』(秋元松代脚本)が帝国劇場で初演され、感銘を受けた私はかなり熱の入った長文の劇評を雑誌『新劇』(白水社)に書いた(拙著『現代演劇の航海』リブロポート、八八年に収録)。そのあたりから蜷川との関係は徐々に修復に向かったのである。」(扇田昭彦「過激な晩年へ─蜷川幸雄」、扇田昭彦『才能の森 現代演劇の創り手たち』(朝日新聞社、2005年)収録、初出1999年)

※110-「きのう、朝日の夕刊に演劇評論家・扇田昭彦氏の「ハムレット」の最低の劇評が出た。」(「やっぱりいいよな 芝居の稽古は」『演出家の独り言』(朝日新聞金曜夕刊に連載、『KAWADE夢ムック 文藝別冊 蜷川幸雄 世界で闘い続けた演出家』(河出書房新社、2016年)収録、初出2015年1月30日)

※111-「内なる自己は手がつけられないほど暴れる。自己を賛美する一方で激しく嫌悪する。世の中と折り合えず、怒りを爆発させ、際限なく衝突を引き起こす。蜷川幸雄という演出家にとって、この自己という魔を制することができた稀有な場が演劇だったのではないか。(中略)なぜ、あんなに劇評に怒ったのか。むろん、ほとんどの演出家は劇評の悪口に憤りを隠さないものだ。が、蜷川は桁違いだった。ふつうの読者がほめていると感じる文章にも怒りを炸裂させる。最後の『ハムレット』に対する扇田昭彦評は半世紀におよぶ観劇歴に裏づけられた周到な文章だったが、罵詈雑言を楽屋口の壁に殴り書きした。その前、七度目の『ハムレット』評についていえば、私の原稿に憤激し、かなりの間、話すことも会うことも拒んだものである。古くは宮下展夫評に激昂、壁新聞を劇場にはりだした例もあって、ことに『ハムレット』は演出家にとっても劇評をものするものにとっても鬼門であった。 そんなとき蜷川幸雄を突き動かしていたのは、恥ずかしいという感情であった気がする。人を責める常套句は「恥ずかしくないのか」であった。七十歳を過ぎてからはこれ以上ないほどの賛辞に包まれたが、本人の意識の中では劇評で恥をかかされつづける人生をなお送っていたと思う。 今はこう考える。劇評を酷評とみるまなざしは、あの自己処断の衝動からきていたもので、そのとき生じる怒りが次の飛翔に必要だったのだ、と。なんという演劇の修羅。」(内田洋一「逆説を生きた自己処断の人」、『悲劇喜劇』(早川書房、2016年9月号)

※112-「蜷川さんは、常に支えてくれるスタッフ・キャストは自分が守るという姿勢を貫いてきました。ですから劇評に対しても同様で、キャスト等が批判されると「蜷川新聞」と称する壁新聞をロビーに出すなど果敢に反論を行ってきました。 この冒頭の二行、「きのう、朝日の夕刊に演劇評論家・扇田昭彦氏の「ハムレット」の最低な劇評が出た」は、印刷ギリギリのタイミングで付け足されました。蜷川さんの意を受けた私と朝日新聞の連載担当者が、載せるべきか否か、その切羽詰まった状況で協議をしたことが昨日のように思い出されます。そして、このコラムは蜷川さん自身の執筆であること、同時代を共に生きてこられた長年の「戦友」同士という関係を充分意識してのことなのではないかとの結論となり、掲載の運びとなりました。 掲載後、二人の仲はどうなったのか、扇田さんは怒っていないのかなど、演劇界に小さな波紋を投げかけたのは確かです。その数ヶ月後、4月14日の彩の国さいたま芸術劇場での「リチャード二世」(シェイクスピア作、蜷川幸雄演出)マチネ公演後の楽屋ロビーで、観劇された扇田さんと蜷川さんは顔を合わせました。二人は、やや照れながら10分ほど作品についてのことや演劇界の四方山話をされ、「じゃ、また」とにこやかに扇田さんは帰られた。蜷川さんもとても穏やかな表情で見送っていた記憶があります。その約一ヶ月後の5月22日に扇田さんは突然亡くなられたため、これが「戦友」二人の最後の会話となりました。」(渡辺弘「「演出家の独り言」補足エッセイ 戦友だからこそ、投げかけた二行」、『KAWADE夢ムック 文藝別冊 蜷川幸雄 世界で闘い続けた演出家』(河出書房新社、2016年))

※113-「扇田さんと僕は良いけんか相手でした。彼の意見に同調できる時もあれば、相反することもたくさんありました。でも、それはお互いの友情の上に成り立つ言い合いだったと思います。(中略)もちろん、扇田さんと僕は立場が違います。扇田さんは、ものごとを論理的に理解し、怜悧に伝える仕事。僕は、内面の衝動を大事にしながら、例えば観念的に語られ過ぎているシェークスピアを、もうちょっと民衆の魂の方向に持って行きたいと考えてきたと思います。 そんな大きな違いも、戦友である僕らの友情を傷つけることはありませんでした。 なんという大事な友人を失ったのか、という悔しい思いでいっぱいです。もう少し、僕らは共に切磋琢磨する論陣をはって、この時代を共有したかった。」(「僕より先に逝ってしまうなんて」、『演出家の独り言』(朝日新聞金曜夕刊に連載、『KAWADE夢ムック 文藝別冊 蜷川幸雄 世界で闘い続けた演出家』(河出書房新社、2016年)収録、、初出2015年5月29日)

※114-「メッセージをいう気は全然ないのだけれど、そういうものが自然に映し出されるようにしたい。日本では、たとえば扇田昭彦なんかが、「世界は喜劇に傾斜する」という言い方をするけれど、それはすごく受けるわけなんだよね。で、そうはなりたくないと俺はつむじが曲がるわけ。別に喜劇に傾斜することはないじゃないかって。扇田さんはそういう本を出しているんだから。そしてそれが受け入れられるわけだから。別に喜劇に傾斜してねえよ、っていいたくなるわけだよ。つまり、俺はブレヒト主義者ではないから、啓蒙する気なんて全然ないわけ。だけどそのままやれば、喜劇も入るし、いってみればトラジ・コメディ(悲喜劇)になるでしょう。ってことをただやればいいと思っているんですよ。」(「蜷川幸雄インタビュー 「ああ面白かった」と言われたい」、秋島百合子『蜷川幸雄とシェークスピア』(角川書店、2015年)収録)

※115-「「岩松さんの作品を『静かな演劇』と言う奴がいるけど、全然静かじゃない。登場人物みんなが狂っている」とよくおっしゃっていました。僕の作品にあるアナーキーな要素が蜷川さんの演劇心をくすぐったのではと思います」(岩松了「蜷川さんから学んだ「ものづくりの原点」」、『悲劇喜劇』(早川書房、2016年9月号)。
岩松作品を最初に(たぶん)「静かな劇」と評したのは扇田さんである(「バブルの祭りのあとの九〇年代には、当然、その反作用が生まれた。(中略)第三の変化は、小劇場でよく見られる絶叫型の発声法やおおげさな芝居がかった演技を排し、日常を抑制したタッチでリアルに描く「静かな劇」の系譜である。劇作家の岩松了(中略)らの劇は、にぎやかな笑いとスピードで彩られた八〇年代の小劇場とは違う世界を作り出した。それはバブル崩壊後の不況でだれもが足もとをみつめざるをえなくなった等身大の生活感覚に対応している。」、扇田昭彦『日本の現代演劇』(岩波新書、1995年))。

※116-扇田「今までの蜷川さんは、悲劇の演出家でしたよね。それが『夏の夜の夢』という喜劇を成功させた。喜劇はある種の成熟度がないと、成立しない。成熟を嫌っても、蜷川さんもやはり、その成熟を確実に備えてきたんじゃないかと思いますが。 蜷川  自分じゃ成熟だとは思ってなかったですねえ。冒険だと思ってる。よく扇田さんに、世界は喜劇だけじゃない、俺は喜劇には傾斜しないなんて言ってたでしょう。でも、てめえが喜劇をやり始めると、それはそれなりに面白いわけだ(笑)。」(蜷川幸雄インタビュー「芝居は血湧き肉踊る身体ゲームの方がいい」、扇田昭彦編『劇談 現代演劇の潮流』(小学館、2001年)収録)

※117-扇田昭彦『才能の森 現代演劇の創り手たち』(朝日新聞社、2005年)

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『ムサシ』(3)-11(注・ネタバレしてます)

2017-01-19 01:11:47 | ムサシ
ところで蜷川さん及び『ムサシ』初演のスタッフ・キャストが武蔵・小次郎以外のキャラクターは死者という設定なのを知ったタイミングを(2)-※28では(終盤の)〈台本が届いた時〉としているが、『ムサシ』初演時の舞台裏に密着したドキュメンタリー『ムサシ 激動の123日間の舞台裏』では台本の到着が滞る中で初日が二週間後にまで迫った2009年2月14日、皆で気分転換をかねて鎌倉へ行き、鎌倉在住の井上さんの自宅(『ムサシ』のメイン舞台である架空の寺「宝蓮寺」のすぐ近所、というか自宅=宝蓮寺かもしれない(※90)にも押しかけていったさいに井上さんが〈命を大事にしなかったことを悔やむ幽霊がたまたまやってきた剣豪二人に話を聞いてもらうことで成仏しようとする話〉だと種明かしする場面を映し出している(※91)
『ムサシ』初演で沢庵を演じ、それまでにも井上作品に多く出演している辻萬長さんは、井上さん没後の井上麻矢さん・栗山民也さんとの鼎談の中で〈若い俳優たちが「井上さんの家に激励に行こう」と言い出したときとんでもないと思った、でも若い俳優たちとのやりとりが刺激になったのかその後原稿が進んだようだ〉(※92)と話しているが、ここで押しかけてなければ〈武蔵と小次郎以外はみんな死者〉設定を知るのがもっと遅れたかもしれないわけだ。
ちなみにこの鼎談で辻さんに〈さすがに演出家だけは戯曲のアウトラインを俳優陣より早く知らされてるんじゃないか〉と聞かれた栗山さんは、〈本当に知らない、前もって尋ねたところで後から設定ががらっと変わってしまうので無意味〉と答えている(※93)。となると、井上さんは意地悪で〈武蔵と小次郎以外は死んでる〉ことを伏せたわけではなく、書きながら自分でもこれが決定稿になるのか急に全面改訂したくなるのか判断がつかなかったということも考えられるわけだ。
井上さんの、突然の大きな設定変更については、『四谷諧談』』(※94)、『イヌの仇討』(※95)、『キネマの天地』(※96)など数々のエピソードがあり、栗山さんが演出助手として初めて井上作品に参加した『しみじみ日本・乃木大将』にしても、最初におおまかな設定を聞かされた時に感心するあまり黙りこんでいたら井上さんはウケが悪いと誤解したらしく、全く別の(現行の)ストーリーに改変してきた話が※91の鼎談で語られている。
しょっちゅう台本の到着が初演ギリギリになるキャスト・スタッフ泣かせの言動も、より面白い作品を生み出そうとする必死の試行錯誤の結果にほかならない。栗山さんは上掲『キネマの天地』の時にあまりの台本の遅さに業を煮やしてやはり井上さん宅に押しかけたことがあるそうだが、机に向かう井上さんの命を削るような執筆姿勢に胸を打たれて、責める言葉が出てこなくなったという(※97)
実質怒鳴り込みにきた人間を感動させて帰途につかせてしまうのだからすごい。井上さんがどれほど真摯に〈書くこと〉に向き合っているのかを想像させる。

(余談ながら上掲の〈若い俳優たちとの会話が刺激になった〉くだりを読んで一つ腑に落ちたことがある。
(2)-5で〈武蔵は小次郎の保護者か〉と突っ込んだ場面や、気絶から醒めた後もまだ魂を抜かれたような小次郎の着物を武蔵が直してやる場面がいかにも、言葉は悪いが〈腐女子向け〉な感があるとかねてから感じていた。
しかし女性ファンの多い若手人気俳優を起用する機会の多い蜷川さんなら女性心理─贔屓の俳優が別のイケメン俳優とどんな風に絡むと喜ぶか─に通じていてもおかしくないが、これらの場面のほとんどは戯曲の段階で「武蔵 間に入る」「武蔵、小次郎を抱き起こして、立たせて、扇子を持たせたり、ちょっと身繕いなどもしてやりながら、」とト書きで指定されている(※98)。蜷川さんと違ってアイドル的若手俳優と仕事することの少ない井上さんが、男同士のスキンシップを嬉しがる〈女心〉を理解しているようなのがいささか意外だったのだ(実際『ムサシ』以外の井上戯曲に腐女子向け要素を感じたことはほとんどない。もっとも戯曲で読んだだけで実際の舞台を見ていないからかもしれないが)。
だから上のくだりを読んだとき、プライベートでも仲の良い藤原くんと小栗くんの素のやりとりにインスパイアされるところがあったのだろうな、と何やら納得できたのだった)

ちなみに井上さんの初期戯曲を近作より高く評価するのは蜷川さんに限った話ではない。桐原良光『井上ひさし伝』での演出家・評論家たちへのインタビューなど見ると、著者の桐原氏自身をはじめ、〈最近の作品には毒気が足りない〉〈初期戯曲の破壊的なパワーは凄かった〉といったコメントが少なくない(※99)
中でも扇田昭彦氏はたびたび初期作品の悪の魅力と破天荒なエネルギーにに言及している(※100)(後に『太鼓たたいて笛吹いて』の三木清のキャラクター造型を見て考えを改めたそうだが)(※101)(※Ⅷ)
井上さん没後に文芸雑誌『すばる』誌上で数度にわたって行われた座談会「井上ひさしの文学」でも〈こまつ座立ち上げ以降のわかりやすい、人間愛に満ちた作品より、初期中期作品の方に魅力を感じる〉という意見が複数人から出ていた(※102)
私自身、戯曲を読むかぎりにおいては、ヒューマニズム溢れる〈いい話〉よりも、(3)-5でも触れた「江戸三部作」における主人公の(特に色事がらみでの)残酷さと彼らをスケープゴートに仕立てて恬淡としている一般民衆のさらなる残酷さの形象に惹かれる。
これら三部作や、近作でも〈悪人〉は登場しないものの笑いの要素をほぼ完全に排除した『少年口伝隊一九四五』(初演2008年)には慄然とせざるを得ない凄味を感じる(※Ⅸ)。『少年口伝隊~』など朗読劇だから(まして私は戯曲で読んだだけだから)いいようなものの、これを役者が舞台の上ないし映像で実際に演じたとしたら正直最後まで見続ける自信が私にはない。
初期中期のみならずその気になれば晩年でもこれだけ重い、凄味のある作品を書ける人が、天皇や庶民に対する毒を多分にまぶしながらも基本は口当たりの良い、善人ばかりで構成された喜劇をもっぱら描いているなんて(喜劇作家に対して甚だ失礼な言い種ながら)もったいないとすら思ってしまう。
その他の初期中期作品に関しても、『天保水滸伝』の枠組みにシェイクスピアの全作品を入れ込んだ『天保十二年のシェイクスピア』(初演1974年)の実験精神や『日本人のへそ』(初演1969年)『珍訳聖書』(初演1973年)のしつこいほど何重にもしつらえられたマトリョーシカのごとき入れ子構造、愛馬の脚の視点で乃木大将を語る『しみじみ日本・乃木大将』(初演1979年)や鎌倉時代の高僧・道元と現代の精神病者を夢を介して接続する『道元の冒険』(初演1971年)の奇想天外さなど、具体的な芝居の内容より発想のとんでもなさと、その発想を本当に芝居にしてしまうさらなるとんでもなさに目眩くようなワクワク感を覚える。比べると近年の、というより『イーハトーボの劇列車』(初演1980年)以降の作品の大半はどうも大人しく感じられてしまうのだ。



※90-井上ひさし・こまつ座編著『太宰治に聞く』(文春文庫、2002年)収録の表題作(初出1998年)で、井上さんは「鎌倉の山の中」にある自宅の裏の崖に掘られた穴=ヤグラについて「中世鎌倉に特有の横穴式の墳墓である。(中略)持仏堂でもあり、ときには仏殿としても使用されたりもするので、ヤグラの前には広場がある」以下詳細な説明があるが、宝蓮寺にもヤグラがあるのが、平心の寺開きの挨拶の中の「(武蔵が寺を普請するさいに)夜は夜で向うのやぐら(正面竹林)、鎌倉武士たちの洞穴墓場のことをこのあたりではやぐらといいますが、そのやぐらに蝋燭を立てて図面を引き直」したという言葉から明らかである。この近辺ではヤグラは珍しくないものらしいが、井上さんが長年構想を暖めてきた『ムサシ』執筆にあたって、自宅を舞台に設定したことは充分考えられるだろう。

※91-『ムサシ 激動の123日間の舞台裏-蜷川幸雄と若き俳優たち─』。ちなみにこの中で蜷川さんは「初日の一日・・・半前に最終稿が来たから、ま、俳優だって大変だったし、ぎりぎりで通し稽古をやって、翌日直したから、そこに間に合ったってことですね」と語っている。ひええ。ついでに書くと、一度は公演中止が決定しながら紆余曲折の末上演された『黙阿弥オペラ』の時は初日三日前に最後の台本が届いたという(栗山「あのときはいったん、稽古場でお別れ会をやって、マスコミにも公演中止を発表した。でも、井上さんは、「僕は書く」とおっしゃる。書くっていっても、もう劇場のスケジュールもないし、メンバーは解散しているんですよ。ところが本当に書き続けた。役者やスタッフはみんな次の仕事に入っている。そこで二十四時間使える稽古場を探したら、シアターコクーンが使えるというので、みんなテレビや他の仕事が終わったあと集まって稽古をしましたね。舞台も、たまたま東京映画祭が延期になって同じシアターコクーンが一週間なら空いているという。それで再度、初日が決定された。」辻「三時間四十分という長い芝居を必死に稽古して、わずか四日間、六回公演しかなかったけど(笑)。」栗山「井上さんに、初日が決まりました、と報告すると、「ああ、よかった。じゃ、しっかり書きます」とおっしゃった。だけど、またペースがゆっくりになって、結局、台本が全部出来たのが初日の三日前。こんなことなら、「勝手に書いてください。出来上がったらやりますから」と言ったほうがよかった(笑)。」(井上麻矢・栗山民也・辻萬長「追悼 こまつ座が見た井上ひさし 待たされた、ダマされた──だけど楽しかった」、『文藝春秋』2010年6月号))。現場の苦しみは想像に余りあるが、それだけに無事初日を迎え千秋楽を迎えた時の満足感も半端ないんだろうなあ。

※92-「書き上がる前は、僕らには遠慮があって、なかなか側に行くことができなくて、とにかく稽古場で待つだけなんですが、この前の『ムサシ』のときは、若い小栗旬や藤原竜也が、みんなで鎌倉のご自宅を訪問しようなんて、なんとも無神経なことを言い出した(笑)。ところが実際に行ってみると、若い連中がいろいろ話すことが、井上さんにはすごくヒントになったようで、次の日にはもうワンシーンが出来ていた。それが、二人の会話のニュアンスがふわっと出ている、とても面白い掛け合いのシーンになっていたから、オレたちはちょっと考えすぎていたのかなとも思いましたね。」(井上麻矢・栗山民也・辻萬長「追悼 こまつ座が見た井上ひさし 待たされた、ダマされた──だけど楽しかった」、『文藝春秋』2010年6月号)

※93-辻「僕ら俳優は、最後どうなるか知らないまま稽古しているけど、栗ちゃんは演出家なんだから、ある程度、井上さんと話をして、知っていたんでしょ」栗山「いやぁ・・・・・・。」辻「そういう機会はなかったの?」栗山「というか、井上さんはとにかくいろんなことを話されるから。もちろん会って、今回はこういう芝居にしたいということを一時間も二時間も話しますよ。そのとき井上さんは僕や周囲の反応を見ているわけ。「ここは面白い仕掛けを考えていて、こうなります」などと言ったとき、辺りの表情が輝いていないと、「これはペケだな」と、その場で物語を変えてしまう。(中略)井上さんがこうなりますと言ったところで、それを信用してはいけないんです。決してそうなりませんから(笑)。」(井上麻矢・栗山民也・辻萬長「追悼 こまつ座が見た井上ひさし 待たされた、ダマされた──だけど楽しかった」、『文藝春秋』2010年6月号)。ちなみに『キネマの天地』の時にも「井上さん、これは推理劇ですよね。今、稽古場は、なんとなく動きのポジションだけは付けてありますが、それにしてもこれからの展開で一つだけ知りたいことがあるのです。いったい犯人は誰なんですか?」井上ひさしさんはお茶を一つすすってからゆっくりと、「栗ちゃん、それがわかったらすぐに書けるんだけど」静かに、そして、真顔でそうおっしゃいました。」(栗山民也『演出家の仕事』(岩波新書、2007年)というやりとりがあったそう・・・。

※94-「(三億円強奪事件をテーマにした『四谷諧談』について)スンナリできるわけがないじゃありませんか。この芝居は、最初『聖面聖絵』という題名だったのです。三億円事件を担当していた刑事が定年になって四国へ帰り、巡礼宿へ行ってみると、毎晩、客が一人二人といなくなるというんですな。おかしいというので追及し始めると、これがどうやら客を安楽死させているのではないか、という話になっていくというわけです。 女主人には楠侑子さんだというので決めていたら、本ができません。大騒ぎでした。できてみたら『四谷諧談』でしょう。仙台から公演が入っていて、初日が明けてはじめてこういう芝居だったのか、とこっちもやっと分かったぐらいですから。あちこちポスターや看板作っちゃったところは、ぼくが勝手に“お断り”をつけちゃったんですな。ヒュードロドロなんてお化けのように出ていっては、『実は今日の題名が変わりました』とやるわけです。(中略)あの方のものは、やれば面白いんですが、やるまでが地獄の苦しみなんです」(桐原良光『井上ひさし伝』(白水社、2001年)中の小沢昭一インタビュー)

※95-1988年9月初演(こまつ座)の「イヌの仇討」はもとは「長屋の仇討」のタイトルで〈常陸国(茨城県)牛久藩の江戸上屋敷の侍長屋に住む元締役(金穀の係)がふとしたことから、ある日の正午敵討の討手となり日没時には返り討にされ夜には死体になっていた〉というストーリーの予定だったが、上演直前になって、〈赤穂浪士に襲われ炭小屋に隠れた吉良上野介が、大石の本音(吉良を討つことでお上の裁きに対する異議申し立てをする)を推察したうえで、コロコロ気の変わる将軍家への意趣返しのため自分から赤穂浪士に討たれてやる〉という筋の「イヌの仇討」に変更された。変更前の「長屋の仇討」の内容を綴った井上さんのエッセイ(おそらく『イヌの仇討』上演時のパンフレットに収録されたもの)が井上ひさし『演劇ノート』(白水社、1997年)に収録されているが、エッセイのタイトルが「長屋の仇討」なのに目次は実際上演された戯曲のタイトル通り「イヌの仇討」になっていて、文章の末尾に〈「長屋の仇討」がぎりぎりで「イヌの仇討」に変更になった〉との説明が付されているあたりが(笑)。上演当時パンフ制作などもいかにギリギリ進行だったのかがうかがえます。

※96-「一九八六年のことになりますが、井上ひさし書き下ろし作・演出の東京・日生劇場公演『キネマの天地』のときのことです。私はその演出助手の仕事を頼まれ、喜んで引き受けたものの、一抹の不安は確かにありました。それは初日ひと月前の顔合わせのころから、はっきりしたカタチで現れました。そうなのです。新作の原稿が一向に現れないのです。書いた原稿は毎日数枚ずつ稽古場に届くのですが、稽古場に演出家井上ひさしはいないのです。当たり前のことですが、作者は執筆のため、カンヅメ状態。仕方なく、演出家不在のまま、できた場面だけの立ち稽古に入りましたが、さて、いったいこの先どうなるのだろうか・・・・・・。(中略)ある時、登場人物全員の名前が変更になったのです。皆同じ一つのイニシャルにするための変更でした。俳優にとって、覚えていた相手役の名前が変わることほど、悲劇的なことはありません。到底、言葉で伝えられる状況ではなかったので、変更になった名前を大きな模造紙に書いて、稽古場の壁に貼り出し、知らん顔で、 「じゃあ、稽古をはじめます」と続けていたら、そのうち一人の女優が、「あれ、何かしら?・・・・・・何ですか、これ?アレーェッ」と過呼吸で倒れてしまった。これをきっかけに、もう一人の大物女優が、中央の椅子にデンと腰を下ろすなり、 「出来ない。もう出来なーい!」 と野太い声を響かせました。稽古場は水を打ったかのごとくの長い静寂の間。仕方なく、私が、「今日の稽古は、これで終わります。明日は、明日は・・・・・・」と口ごもったその瞬間に、稽古場は崩壊しました。」(栗山民也『演出家の仕事』(岩波新書、2007年)

※97-※96の事件の直後、「担当プロデューサーと、 「とにかく台本完成が先決だ」と当たり前のことを呟きながら、井上さんのカンヅメ先の新橋の古い旅館に向かったのです。(中略)学生が使うような木製の机を部屋に運び入れ、裸電球にアルマイトの笠の卓上ランプを灯し、原稿用紙を高く積み上げその原稿用紙に十五センチぐらいのところまで顔を近づけて、一字一字書いている。私は何も言えずただその光景に見入っていました。(中略)必死に机に向かいながら、一つひとつの言葉がそのとき生まれ出る、まさに血の滲むようなその瞬間に出会い、私は涙がこぼれそうになりました。 昔、東ベルリンで出会った養成所の若い女優の卵が言っていた、「世界で一番美しい職業は、俳優です」という、私にとって決して忘れられない言葉が、「世界で一番美しい職業は、言葉の作者です」とそのときは、確かに思えたのです。(栗山民也『演出家の仕事』(岩波新書、2007年)

※98-『ムサシ』(『井上ひさし全芝居 その7』、新潮社、2010年)

※99-「ひさしが、その後、平穏な家庭を取り戻して、落ち着いた大きな仕事を次々と展開しているのはご承知のとおりである。ただ、ひさしの舞台に、以前のようなもっとすさまじい笑いが欲しい、という人はいる。単純な構造の頭脳しかもち合わせのない筆者もその一人だ」(桐原良光『井上ひさし伝』、白水社、2001年)。「井上さんは、基本的に権威に対する対立項、アンチテーゼで書いていくほうですよ。オーソドックスなドラマツルギーをもっている方だと思いますけど、いまや中心も周縁もごちゃごちゃになってしまって、テーマ設定が難しくなった。」(同上、扇田昭彦インタビュー)。「井上さんの作品は、鋭い文明批評になっていたのですが、いまは何もかもが相対化されて文明そのものがものすごく小さくなってしまったでしょう。いまほど『個性』が口に出る時代はなかったと思いますけれど、いまほど個性的でなくなった時代はないでしょう。 文明が薄っぺらになってしまったのですから、日本の構造を撃つというか、かつて確固として存在していた撃つ対象が、いまは風化して拡散してしまったのです。井上さんの批判精神が衰えたというよりも、対象そのものがなくなってしまったのです。井上さんの笑いは、下位の者が上位の者をひっくり返す、権威をひっくり返すという面白さが笑いになる快感ですね。(中略)権威というものがすっかりなくなってしまって、いまは政府なんて批判の対象にすらもならないほどですから」(同上、長部日出雄インタビュー)。「(井上さんの芝居が最近になって真面目になったとは思わない、という。)世の中がハチャメチャになっているんですよ。ハチャメチャの上にハチャメチャをやるというのが井上さんではないと思うのです。世の中がハチャメチャになったのなら、ハチャメチャじゃない別の世界を求めているのが井上さんではないでしょうか」(同上、宇野誠一郎インタビュー)

※100-「近年の井上ひさしの劇作について懸念があるとすれば、それは二面性のうちの俗の部分、つまり悪ふざけやナンセンスな笑い、無償の遊びといった部分が縮小気味になり、その分だけ聖なる部分、ひたむきな警世の精神、つまり治癒をめざす使命感が突出してきたことだろう。なかでも目立つのは、「悪」の形象がしだいに少なくなったことで、『頭痛肩こり樋口一葉』(八四年)や『きらめく星座』(八五年)では、善なる被害者の心やさしい円環だけでドラマが構成されている。悪徳、流血の殺人、ぎらつく欲望が抑制を排除してあふれだし、人間の闇の世界を拡大してみせた『藪原検校』や『天保十二年のシェイクスピア』(七四年)の世界からは、かなり遠い地点である。 だが、ここで私たちは井上ひさしが「変質しない」果敢な喜劇作家として、困難な闘いを執拗に持続している努力をもう一度見直すべきかもしれない。(中略)対立しあう二つの面のバランスは絶えずどちらかに傾くかもしれない。しかし、彼がどちらの面にも決定的には加担せず、しかもどちらの面をも過激に冷徹に育てあげていく時、私たちはそこに、世界そのものにも似た大きな怪物的作家像を見ることになるかもしれない。」(扇田昭彦「世界救済のドンキ方程式に挑むハムレット」、『井上ひさしの劇世界』(国書刊行会、2012年)、初出1986年)。「「悪妻」といわれた好子さんが身近にいた時期は、井上氏がこの「二律背反」を作品の上でもっとも過激に生きた時代だったといえるだろう。シェイクスピアの『リチャード三世』を連想させる戯曲『藪原検校』(七三年)のような「悪の魅力」にあふれた傑作が生まれたのもこの時期だ。カオス的活力にあふれた血みどろの流血喜劇『天保十二年のシェイクスピア』(七四年)もこの時期の作品だ。 こうした作品に比べると、近年の井上戯曲は、「悪」の要素が際立たず、心優しい善人の登場人物が増えている。その点に不満を覚え、私はたびたび、「もっと『悪』を描いてほしい」と思った。」(同上、「複雑な喜劇的多面体」、初出2005年)。「『天保十二年のシェイクスピア』は、初期の井上ひさしの熱い過剰なエネルギーがまるで溶岩流のようにあふれ出た異様な傑作である。」(同上、「冒険する大人たちの演劇」、初出Bunkamura『道元の冒険』公演パンフレット、2008年)。「驚くほどの多面性と、人間を世界の中心とは見ない喜劇的視点を持ち、グロテスク趣味をもそなえた井上ひさしには、黒い笑いの秀作といえる作品がいくつかある。『藪原検校』(七三年)、数十人の登場人物が不条理に「みな殺し」になる『天保十二年のシェイクスピア』(七四年初演)といった作品である。ことに『藪原検校』では、井上ひさしのうちに確実にあるグロテスクな怪奇趣味が、ヒューマニズムの修正なしにあらわにほとばしり出ることによって、とりわけすぐれた作品となった。グロテスクな悪の化身である杉の市を主人公にすえることによってこの劇全体が、まるで遊園地のイルミネーションに輝く恐怖の館のように不気味にまばゆく放電しているのである。」(扇田昭彦「黒い笑いへの傾き」、『世界は喜劇に傾斜する』(沖積社、1985年)、初出1980年)。

※101-「二〇〇二年にこまつ座が初演した秀作劇『太鼓たたいて笛ふいて』(栗山民也演出)を観て、私の考えは変わった。」「(登場人物の三木孝について)こうした変節漢は普通、嫌味な悪役として描かれることが多いが、作者の井上氏は意表をついて、この男を気さくで明るい、人情味のある善人風の人物として設定した。つまり、三木は自分の変節に疑問も抵抗感も屈折も覚えない「いい人」なのだ。そして、自分の「悪」を自覚しないこういう普通の「いい人」こそが、実はもっともおそろしい「悪」であり、それは私たちの分身かもしれないことを、この作品は暗示している。(中略)つまり、いかにも悪漢風の「悪」ではなく、さりげない風貌をした新しい「悪」、より身近でよりおそろしい「悪」を、井上氏は鮮明に造形したのだ。 というわけで、私は「悪」の形象をめぐる注文をすぐに撤回した。そして井上氏の才能に対する賞賛の念をさらに強めたのである。(扇田昭彦「複雑な喜劇的多面体」、初出2005年)

※Ⅷ-「以前は、善玉と悪玉がいて、対立が大事だ、セリフ自体も対立していかなきゃいけない、対立がドラマツルギーだと思っていた時期があるんですね。自分の頭の中に善玉と悪玉を作って、善玉に勝たせるために悪玉を武装させて、悪玉が勝ちそうになる最後の時にかろうじて善玉が勝利をおさめるというスタイルが多かったと思うんです。でも、これは劇作家の頭の中で処理したことをただ観てるだけで、お客さんはいやな感じがするんじゃないかと思いまして。全員が悪玉と善玉を兼ねていて、それが時間と共にどういう風に変わっていくか、自然に「生まれて成る」、生成ドラマツルギーと言うんですかね。そっちへ移ってきた。つまり、善玉と悪玉が対立しているようでいて、実はその悪こそが自分自身だったという、そういうドラマの作り方に変わってきたんですね。」(インタビュー・構成 扇田昭彦「井上ひさしインタビュー 渋谷を変えた劇場でダークな喜劇の実験」、扇田昭彦ラ長谷部浩ラパルコ劇場『パルコ劇場30周年記念の本 プロデュース!』(株式会社パルコエンタテインメント事業局、2003年)

※102-「たとえば教科書的な学者先生のシェイクスピアについての高説を解体してみせたのが『天保十二年のシェイクスピア』です。井上さんは芝居においては、一に趣向、二も趣向、そして思想も趣向のうちといっていた。その趣向で、リア王の家督相続はたちまち侠客の跡目相続になってしまう。聖なるものはすなわち俗なのものであるというバフチンのカーニバル論に通じている。『藪原検校』『日の浦姫物語』『雨』などもそれです。またこまつ座以前の井上さんの芝居は、一通りでは語れない複雑な仕掛けを次々とつくり出していったんですね。『しみじみ日本・乃木大将』という作品では、人格ではなく「馬格」、馬の前脚と後脚によって乃木大将の生涯が演じられる。あるいは『小林一茶』では、寸劇仕立ての劇中劇の構造を持っている。つまり、仕掛けをどこまでも探求していくというところに重点がおかれていたのですが、それを、こまつ座のために「平明な前衛」へシフトしていったということです。」(今村忠純+島村輝+成田龍二+小森陽一「座談会 井上ひさしの文学① 言葉に託された歴史感覚」、『すばる 5月号』(集英社、2011年)より今村発言)。「永井「(『頭痛肩こり樋口一葉』について)不思議なのは、あの難解な『漱石』(管理人注・1982年初演の『吾輩は漱石である』のこと)の後なのに、こちらは非常にわかりやすい。しゃべる言葉はすべて現代風だし、子供が見ても観てもわかる。それはなぜかと推測すると、井上さんにはとうしても伝えたいことがあったからではないかと思うんです。その頃の井上さんは、押しも押されもせぬ中央の人。今までは少し中心から外れていたところにいたはずなのに、いつの間にか真ん中に来てしまったという意識もあったと思います。 そうしたときに、昔のようなナンセンスやあからさまな毒気より、中央にいる者の責任が芽生えたのではないか・・・・・。難しいことを易しく、面白く、深く、というまさにお手本のような本です。(中略)この後に書かれた『泣き虫なまいき石川啄木』や『太鼓たたいて笛ふいて』も読みやすい。でも、『しみじみ日本』と『小林一茶』は上演時間内になんか読めません(笑)。(中略)上演時間はどんなに長くても三時間くらいですから、読むならもっと早いはずです。ところが、それまでの井上さんの戯曲は読むのに倍くらい時間がかかる。それが後年になると、どんどんシンプルになっている。(中略)複雑なことは伝えにくい。だからどうしても簡略化し、わかりやすい形で伝えることになる。でも、そのことによって失われるものもある。それが何なのか。井上さんのように大きな問題を書こうとしてきた人には、永遠について回るのだと思います。 知的な表現者たちの背負った問題を、数時間の芝居で観客に伝えていかなくてはいけない。それにはなるべく単純化しなければならない。難解なところがない台詞で、人間世界の複雑さを描く。この非常に難しいバランスを、井上さんは強いられ続けていたのだと思う。 複雑な人ほど単純に見えるという宿命を、井上戯曲は負い続けている。」成田「井上さんの後期の作品に対する、とても共感あふれる批判だと思います。」永井「批判でありません。ただ、井上さんに直接こういうことをお聞きする勇気が出なかったのが最大の後悔です。」」(永井愛+成田龍一+小森陽一「座談会 井上ひさしの文学④ 評伝劇の可能性」、『すばる 7月号』、集英社、2013年)


※Ⅸ-今井克佳「少年口伝隊一九四五─記録と記憶の間で」(日本近代演劇史研究会『井上ひさしの演劇』(翰林書房、2012年)収録)は「死んだ兵隊が残した手榴弾を用いてテロリズムを起こそうと決心していた少年、勝利を台風による洪水が飲み込んでしまう。少年の死はやるせないが、テロリズムは実行されなかった。復讐の連鎖を起こすテロリズムを井上はこのような表現で否定したのではないだろうか。」と指摘する。なおこの論文は、この作品に頻出する具体的な数字データ(特に被害者数)や事実と相違する描写(「原子爆弾がパラシュート付きで投下されたという俗説」など)について「実際、公表されている記録データと付き合わせてみると、これらの数値はあまり正確とはいえないものであることがわかってくる。」「いかにも「記録」を装いながら、客観性に欠ける誤解や俗説をそのまま、当時の人々の「記憶」がそうであるから、といって上演を続けることは間違った「史実」を伝えることになってしまい、むしろこの作品に傷がつくのではないか。」との危惧を示している。

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