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俳優・勝地涼くんのこと。

『ムサシ』(3)-10(注・ネタバレしてます)

2017-01-07 09:42:03 | ムサシ
(3)-5で芝居のラストに至って「復讐の連鎖を断ち切る」というテーマに真っ向から対立するような挿話=『孝行狸』のオチを入れ込んだことについて〈観客をあざ笑うため意外にもう一つ思いついた理由がある〉と書いた。
それは井上さんが上述のような意地悪を仕掛けた相手が不特定多数の観客ではなく、特定の人物である可能性だ。特定の人物─すなわち、『ムサシ』の演出家である蜷川さんである。

この可能性に思い当たったのは(2)-※28で書いた〈台本が届かないまま稽古を進めていて、台本が届いてはじめて「みんな死んでいたんだ!」とびっくりした〉という蜷川さんのインタビュー記事を読んだときだ。
遅筆で有名な井上さんの場合新作の台本が上がるのは初日の数日前、書いたはしから数ページずつ演出家や俳優に渡されるのが常であるが、こんな重大な、役者陣の演技に大きく関わってくるプロットくらい前もって伝達しないものなのか。新国立劇場で上演された作品(“東京裁判三部作”ほか)の時には台本に先立ってプロットを少しずつながらも書き上げて渡していたそうなのに。制作発表の時点では全くストーリーが出来てなかったというが((3)-※15参照)、まさかこんな基本的な設定さえ決めないまま台本を書き出すこともないだろうし。
連絡不足というレベルではない。嫌がらせ、とまでは言わずとも何か含むところがあって重要情報を伏せたのではないかと疑いたくなってくる。

蜷川さんは『ムサシ ロンドン・NYバージョン』のパンフレットをはじめあちこちで、初期の井上作品の持つエネルギー、猥雑な魅力に言及している(※78)(※79)。実際『ムサシ』以前に蜷川さんが手がけた井上戯曲は『天保十二年のシェイクスピア』に始まり、『藪原検校』『道元の冒険』『表裏源内蛙合戦』と全て初期作品ばかりである。
井上さん没後の「77フェスティバル」では中期戯曲の『しみじみ日本・乃木大将』『日の浦姫伝説』を演出しているが、これは蜷川さんが自分から手を挙げたのではなく指名されてのことだった(※80)。とはいえこれらは中期でも比較的早い時期の作品であり、『しみじみ日本~』の「馬格分裂」などの奇想天外なプロットと騒々しさ、『日の浦姫~』でメインキャラの一人が喋る海産物尽くしの台詞に見られる言葉遊びなどは初期戯曲に通じる匂いがあって、その意味で蜷川さんの好みに叶った作品だったのではないかと思う。
ただこうした蜷川さんの初期戯曲に対する思い入れは当の井上さんにとってはどう感じられたろうか。自分の作品を評価してくれるのは嬉しい、近年再演されることもそうなかった(『天保~』は2002年に日本劇団協議会十周年記念公演として初演から28年ぶりにいのうえひでのり演出で再演されている)初期戯曲に光が当たるのも有難い、しかし初期戯曲がいいと繰り返し言われると、今の自分の作品はダメだと言われてるような気になってきたりするんじゃないか。

もともとは井上さんは蜷川さんにいい感情を持っていなかった。※79、※80のインタビューで蜷川さんは近年になるまで井上さんと組むことがなかった理由を〈演出家はコンビを組む作家が自然と決まってしまうため〉〈井上さんと組んでいた演出家の木村光一さん、プロデューサーの本田延三郎さんに反感があったため〉と並んで〈井上さんがエッセイで「物を投げたり怒鳴る演出家は嫌いだ」と書いてるのを読んで「まずこれで井上さんとやることはないなぁと思った」〉ことを挙げている(※81)
井上さんは1990年の『藪原検校』再々々々演のパンフレットに寄せた「イツモ静カニ笑ッテヰル」(『藪原検校』を演出した木村光一さんを「稽古場でむやみに罵声を発したり、灰皿を投げつけたりはしない演出家である」とその人柄と力量を讃えている)でも同様の発言をしている(※82)。1989年に行った講演での「日本の、とくに東京の演劇の世界では、エジンバラの演劇祭に行ったから偉い、とかいう人がいま現にいます。世界のナントカという演出家もいます。ですが、「それがなんぼのもんじゃ」という気がするのです。」(※83)という発言中の「世界のナントカ」というのも、明らかに「世界のニナガワ」と呼ばれていた蜷川さんを揶揄したものだろう。
井上さんは蜷川さんをよく思わず(灰皿投げについては後に多分に作られた伝説だとわかって認識を改めたそうですが)(※84)、蜷川さんもそれを知っていて初期戯曲を評価しつつも距離をおいていたわけだ。

その二人が21世紀になって一緒に仕事をするようになった。しかし蜷川さんが手がけるのはごく初期の作品のみ、さらにト書きで衣裳や装置についても細かく設定してあるのに対して「ここまで指示しなくたって、いいじゃない(笑)と思う時が当然ある」「きっちり井上さんが計算して作ったものを、ちょっと亀裂を入れたくなる」(※85)とト書きの設定に反しない範疇で独自の演出を大胆に入れ込んでくる。
(井上作品の緻密なト書きについては上で名前を挙げた木村光一さんも「演出家としては、こんなにうまく書きやがってもうやることないじゃないか、という思いもあるんですが、逆に敵愾心というか自尊心が湧くということもある」「作家が考えてもいなかったような、井上さんの底にあるものに触れてやろう、といった子どもっぽい敵愾心ですよね」と語っている(※86))
そういう蜷川さんに井上さんとしては複雑な感情があったのではないか。

そしてついに2009年にはじめて蜷川さんは井上さんの新作を上演することになる。しかも20年来構想を練ってきた宮本武蔵の物語。蜷川さんは「井上さんから一定の信頼を得ることができたのかなあ」と嬉しかったそう(※87)だが、上述のようなことを踏まえると、井上さんは一種挑むような気持ちで新作を託したのではないかという気がする。
初期戯曲ばかりを高く評価する蜷川さんが新作─つまりは彼の好みに合わないはずの作品をどう料理するのか。初日ぎりぎりに最後の台本が届くような切迫した状況の中で、緻密なト書きの合間を縫った演出をいかに打ち出してくるのか。キャラクターのほとんどが死者という基本的かつ重要な情報を伏せておいたのも蜷川さんを試すためだったのではないか。
というのも実のところ「キャラクターのほとんどが死者」という設定は最初から匂わされてはいる。今村忠純「最上は、井上ひさしの新作」は宝蓮寺が初めて登場するさいのト書きの「竹林を背にした橋掛かり式の屋根付き廊下が正面をよこぎり、その廊下の上手側に、庭へ大きく迫り出した八帖の客間、そして広くとった前庭」という指定を「三間四方の京間を四隅の柱が支える能の本舞台と橋掛かりを現している」と書く(※88)。『ムサシ』は導入部の時点で物語の基本構造が能に拠っていることを示唆しているのだ。
第一部の時点で宗矩が『孝行狸』ほかの能を舞い、まいと乙女が『蛸』を舞っているのも『ムサシ』が能仕立てであることを早い段階で強調したものだろう(『蛸』については井上さん自身がそう説明している。(2)-※8参照)。とくに「蛸」の内容が能の修羅物(「戦い明け暮れた罪によって死後は修羅道に堕ちて苦しむ」という構造を持つ作品)に通じているのも前掲「最上は、井上ひさしの新作」が指摘するところだ(※89)
そして能とは「何物かの化身の前シテが、中入りをへて後シテとなって再登場し、その本体を現すという構造を持つ」のである。つまり『ムサシ』の構造が能、それも『蛸』が暗示するように修羅能に則っていることを見抜き、かつ乙女が仇討ちを放棄するくだりのト書きで武蔵と小次郎を除く全員が何かを示し合わせ企んでいるらしいことに着目すれば、彼らが全員(修羅道に堕ちて)苦しんでいる死者の化身である、と看破することは不可能ではないのだ(かなりのところ不可能に近いとは思うが)。
そう考えると(2)-7で書いた「大界外相」の石についての疑問も解ける気がする。「井上さんは武蔵がどかした石を宝蓮寺本来の結界石とすることを問題とはしなかった」というより〈ふーん、寺の結界石って設定にしちゃったんだ、へー〉って感じであえて放置したんじゃあるまいか。
芝居の根幹に関する情報を前もってはほとんど開示しない。戯曲の意図を蜷川さんが読み間違ったとしても訂正しない。そうやって蜷川さんの読解力、演出力を試していたのではないかという気がするのである。


※78-「井上さんの作品の根底には激しい怒りが渦巻いています。殊に初期作品のエネルギーたるや凄まじいもので、非常に前衛的でした。」「初期の井上さんの猥雑で哄笑にあふれる作品世界に強く共感していたぼくは、その凄さを大勢の人に知ってもらいたくて、最近になって4本の井上戯曲を演出しました。」(蜷川幸雄「もっと先へ」、『ムサシ ロンドン・NYバージョン パンフレット』、2010年)

※79-「(初期の作品を中心に演出を手がけていることについて)それはぼくが初期の作品が好きなのね。後期のヒューマニティにあふれていたり、社会問題がきっちりすっきり描かれている作品よりは、混沌として不合理なことがいっぱい出てきて筋も錯綜していて性的なものが氾濫して、なんだって下半身に話がすぐいっちゃうの(笑)。理由もなく下半身。それで、話もめちゃくちゃでしょ。破壊力があって、言葉のボキャブラリーが豊富。その当時、ぼくはシェイクスピアを商業演劇でやったときに、自分の理論的補強をするために、バフチンを勉強していた。(中略)井上さんの作品はバフチンそのものじゃないかって思えるぐらい構造がそうで、大好きだった。それで分析すると、いくらでも分析できていく。それがあって、殊に初期のものがずっと好きだった。それで、初期のものをやって、まあ長いし、場数は多いし、たいへんなんだけども、まるで祝祭空間みたいにして、それをやってることが、井上さんの作品が、そのときに世の中が受け入れているものとまったく違う要素をもった作品のおもしろさがあるんだと。で、そのことのほうがはるかに演劇的な意味があるんだというふうに思ってたのね。」(蜷川幸雄「井上ひさしを伝える」(『悲劇喜劇』2013年1月号)

※80-「この77フェスティバルでやった「しみじみ日本・乃木大将」にしても、「日の浦姫物語」にしても、俺が熱望して選んだのではなくて、プロデューサーたちの意向でやることになった。「ほかの若い演出家がやると、蜷川さんと違って、戦中のにおいが出ないのよね。そういうところは蜷川さんがやってくれると、おもしろくなる。もっとゲラゲラ大笑いする芝居だから、蜷川さんにやってほしい」といったことを言われて、それは喜んだんですよね。じゃあ、やってみようかなって。」(蜷川幸雄「井上ひさしを伝える」(『悲劇喜劇』2013年1月号)

※81-「それぞれ演出家はコンビを組む作家が決まっているんですね。井上さんには木村光一さんがいて、清水邦夫にはぼくがいる。そういう形でなんとなく、ある種の棲み分けができて、パートナーが決まっているというわけです。 まずそれが、井上さんの作品をいいと思ってもなかなかできない理由の一つ。それからもうひとつ、ぼくの育った青俳は、演出家がいないため、木村光一さんが演出をしにきていた。ぼくらはそういう来て去る木村光一さんに対して批判をもって見ていた。(中略)ぼくが演出をしようとしたけど、劇団プロデューサーの本田延三郎さんはやらせてくれなかった。だから青俳批判をして、ぼくは劇団を辞めました。(中略)そのあと本田さんも青俳を辞めて、五月舎を作って、井上ひさしさんの作品を木村光一さんの演出でやっていたのね。だから余計、井上さんの作品がいいと思っても、絶対にできなくなったなあと思っていた。(中略)そのあと、本田さんが自分たちの集団がうまくいかなくなって「天保十二年のシェイクスピア」の演出をやってくれないかとぼくに言ったことがある。それは、何の事情だか知らないけれど、壊れちゃったんだよ。(中略)それと、ぼくらが青俳を辞めて現代人劇場を作ったころ、井上さんのエッセイを読むと「物を投げたり怒鳴る演出家は嫌いだ」って書いてあった(笑)。井上さんとはお会いしたことがなかったし、井上さんはぼくの稽古場を見ているはずがないから、誰かから聞いて、そういうふうにお書きになったんだと思うんです(笑)。それで、まずこれで井上さんとやることはないなぁと思ったんだよ。」(蜷川幸雄「井上ひさしを伝える」(『悲劇喜劇』2013年1月号)

※82-「木村光一さんは稽古場でむやみに罵声を発したり、灰皿を投げつけたりはしない演出家である。むろん罵声や灰皿投げにも効能はあるだろう。(中略)大声や灰皿は本質的には何も創り出しはしない。それぐらいのことで芝居がよくなるのであれば、芝居なぞ皿洗いより簡単な仕事である。怒鳴ったり、モノを投げつけたり、剣道着をつけ竹刀で俳優を追いかけ回したりする演出家がいい舞台を創造することも稀ではないが、それは彼に別種の力があったからであって、大声や灰皿や剣道着のせいでは決してない。」(「イツモ静カニ笑ッテヰル」、『演劇ノート』、白水社、1997年、初出1990年)

※83-「日本の、とくに東京の演劇の世界では、エジンバラの演劇祭に行ったから偉い、とかいう人がいま現にいます。世界のナントカという演出家もいます。ですが、「それがなんぼのもんじゃ」という気がするのです。 彼らのいう「世界」はほとんど欧米のことにしかすぎませんし、欧米の物差しでちょっと上に評価されたからのぼせるというのは、あまり立派な姿勢とはいえないと思います。なぜ、自分の足元の物差しを信じられないのでしょうか。(中略)日本の人びとがほんとうに感動してくれる芝居は、おそらくどこへ持って行っても感動されるのです。ロンドンでやったとか、エジンバラへ行ってきたとか、フランスのナンテールの演劇祭に参加したとかで、勲章のつけっこをするより、いま自分のいるここにユートピアの時間をつくり出すことのほうが、演劇人としても、人間としても、大事なことではないでしょうか。」(「ユートピアを求めて ─宮沢賢治の歩んだ道─」(講演・原題「なぜいま宮沢賢治か」、1989年5月3日、井上ひさし『この人から受け継ぐもの』(岩波書店、2010年)

※84-井上「蜷川さんはすごく怖くて、稽古場では灰皿を投げたりテーブルをひっくりかえしたりするという伝説。僕もずーっと最近まで信じていたんですが、あれは実はたった1回か、2回。稽古場に大部屋の役者たちがサングラスをかけて、時代劇なのに浴衣も着ないで、スリッパ履きで現れて、しかも掃除用具で立ち回りをしたからなんですってね?」蜷川「僕、商業演劇で仕事を始めたときに、他人の金で仕事ができる人たちがすごくうらやましかったんです。コーヒーだって自分で淹れたことしかなかったのに、稽古場へ行くとコーヒーが出てくるんですよ、商業演劇って。それなのに座敷箒でフェンシングはないだろうと。だからね、その怒りをぶつけたんです。闘争だったですね。」(「演劇界の両雄、初顔合わせ 「リア王」よりも「怒れるジジイ」でいたい 井上ひさし×蜷川幸雄」、http://hon.bunshun.jp/articles/-/4861、初出『オール讀物』2006年1月号)

※85-「井上さんの作品は、「道元の冒険」も「表裏源内蛙合戦」ももちろんですけど、ト書きが綿密で出入りがものすごく細かく決まっているんですよ。それで、その指示通りにやった方が、よくできる。ただ、ここまで指示しなくたって、いいじゃない(笑)と思う時が当然あるわけですね。(中略)そうすると演出家の俺は、どこにやるべきことが存在しているのだろうかと思うのね。(中略)ぼくはそういうとき、井上さんの本の中に生々しいものをちょっと入れたくなる。(中略)きっちり井上さんが計算して作ったものを、ちょっと亀裂を入れたくなるんだよ。」(蜷川幸雄「井上ひさしを伝える」(『悲劇喜劇』2013年1月号)

※86-「(『藪原検校』について)縄を使うというのも井上さんの発想です。戯曲に書いてあるんです。あとで考えてみれば、それをぼくが考えたかったのに、ということになるんですが。そこでもう負けですよね」「井上さんの中では演出ができあがっているのではないかと思いますね。どうやったってうまくいく、といったところがあるのです。舞台のイメージが非常に鮮明にできあがっているのですよ。演出家としては、こんなにうまく書きやがってもうやることないじゃないか、という思いもあるんですが、逆に敵愾心というか自尊心が湧くということもあるのです。 あくまで戯曲中心で、作家が何を語りたがっているかということをどうやって出すかに専心するわけですが、作家の意識の底にあるものをつかみ出してやろう、という考えもあるのです。作家が考えてもいなかったような、井上さんの底にあるものに触れてやろう、といった子どもっぽい敵愾心ですよね」 と木村は話している。」(桐原良光『井上ひさし伝』(白水社、2001年)

※87-「井上さんから一定の信頼を得ることができたのかなあって思うんですね。作家が新作を書き下ろしても、ちゃんと演出してもらえるなあという思いを持ってもらえた。それまでは、テスト期間みたいな感じだったのかな。やっぱり、新作を書こうと思ってくれたのは、うれしかったですね。」(蜷川幸雄「井上ひさしを伝える」(『悲劇喜劇』2013年1月号)

※88-「竹林を背にした橋掛かり式の屋根付き廊下が正面をよこぎり、その廊下の上手側に、庭へ大きく迫り出した八帖の客間、そして広くとった前庭、ト書きの指定は、そっくり三間四方の京間を四隅の柱が支える能の本舞台と橋掛かりを現している。能舞台は、もともと屋外に建造されている。その能舞台がこの劇の仕掛けになっていた。 そして武蔵と小次郎とが、寺開きの参籠禅に立ち合う旅人だったことはとても重要である。橋掛かりは、この世とあの世にかけわたされていた。二人はその架け橋をわたってきた。能とは、いわば人間の情念を写す鏡の劇の別言である。二人はここで人間の情念をのぞきこむ。 前後二場に別れた能や狂言は、何ものかの化身の前シテが、中入りをへて後シテとなって再登場し、その本体を現すという構造をもつ。「ムサシ」にはこの能の構造が引用されている。さらに別にいうと例えば三修羅と呼ばれ広く知られる重い曲も思い出せる。戦い明け暮れた罪によって死後は修羅道に堕ちて苦しむというそれらに代表される修羅物のパターンが「ムサシ」にも活かされていた。」(今村忠純「最上は、井上ひさしの新作」、『悲劇喜劇 3月号』、早川書房、2010年)

※89-「(まいと乙女が演じる舞狂言「蛸」は)能の修羅物に通じており、またこの場面からは老女が月明りに舞う「姥捨」も想起することができるはずである。「ムサシ」という劇の仕掛けがあらかじめ舞狂言「蛸」に準備されていたことは、井上ひさし自身の解説がある。」(今村忠純「最上は、井上ひさしの新作」、『悲劇喜劇 3月号』、早川書房、2010年)

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『ムサシ』(3)-9(注・ネタバレしてます)

2016-12-30 02:49:59 | ムサシ
もちろん基本的には井上さんは笑いを肯定する立場に立っている(※56)(※57)(※58)。それはチェーホフを主人公にした芝居『ロマンス』(初演2007年)に強く表れている。
従来悲劇とみなされがちだったチェーホフの戯曲が喜劇として書かれていることとチェーホフが「笑い」をどう捉えていたかを描いたこの戯曲の精神は、第八場の「わらう わらい わらえ それが ひとを すくう」というストレートな歌詞の歌に象徴されている(※59)
『黙阿弥オペラ』(初演1995年)の中で夢破れて入水自殺しようとした四人組が、彼らを追い詰めた憎い相手の残した立て札も一緒に沈めようとして格闘する仲間の姿のおかしさにやがて笑いだしてしまい、「腹ァ抱えて笑いながら死ねるやつがいたら、こりゃよほどの達人だぜ」「笑っているうちにスーッと死ぬ気が失せてしまいましてね」と生き直す決意をするくだり(※60)は、まさに「それが ひとを すくう」の好例だろう。

一方で笑いの残酷さを描き出しているのが『シャンハイムーン』(初演1991年)のワンシーン。主人公の魯迅が知人の須藤医師と、学生時代に見て人生最大の衝撃を受けたニュースのスライド─ロシアのスパイだと疑われた中国人が斬首される場面─について語り合う場面がある。
魯迅「まわりをぐるりと見物の中国人が取りかこんでいたでしょう、みんな、薄ぼんやり笑って。同胞が殺されようとしているときに、笑うやつがあるもんか。」(中略)須藤「わたしのみたスライドでは、まわりを取りかこんでいたのは日本軍の将校だった。生命がひとつ、この世から消えようとしているのに笑いながら一升瓶のまわしのみをしていた。人間の死は酒の肴ではない。わが武士道はどこへ行った!?」(※61)
斬首そのものの残虐さもさることながら、ただまわりを取り囲んで見物していただけでなく「笑いながら」見ていた事実が、見物人の残酷さとこの映像に対する魯迅と須藤二人の衝撃を増幅させている。本来笑うべきないところで笑う─追従笑いにせよ嘲笑・哄笑にせよ─ことのグロテスクさをこの短いエピソードは端的に提示してみせているのだ。

そして井上さんにとって笑いとはまず身を守るためのものだった。井上さんは自身が吃音だった経験に基づき「たいていの吃音者は、この厄介な状況を抜け出すと、とたんにお道化者になるみたいなのだ。他人と自分との間にすぐに「笑い」の樋を渡してしまおうとする。」とエッセイで書いている(※62)
また中三から高三までを孤児院で過ごしたことも大きかった。孤児院時代を描いた半自伝小説集『四十一番の少年』(『四十一番の少年』『汚点』『あくる朝の蝉』収録)巻末に載る百目鬼恭三郎氏による「解説」は、「早くから他人の中で苦労すると、相手に気をつかい、自らを卑下してまで相手のごきげんをとり結ぶという姿勢は、第二の天性とでもいっていいほど身についてしまうものである。そして、こういう立場におかれた人間にとっては、自分を極端に卑小化し、滑稽化してみせることは、実は、優越感の裏返しなのであり、彼がこれを誇張すればするほど、優越感の満足度も大きくなるという利点もある。平たくいうと、相手に自分をバカと思わせるのに成功したということは、相手が自分よりバカになったということなのだ。」と書く(※63)。井上さんの三女・麻矢さんのエッセイの記述もこの洞察を裏付ける(※64)

一方孤児院時代には自身を滑稽化するのとは逆方向の〈演技〉も必要となった。上で名を挙げた小説『汚点』には〈恵まれない孤児〉を慰めようと善意を押し売りしてくる市井の人々を満足させるためにことさら〈不幸な子供〉らしく振る舞ってみせるくだりがある(※65)。『あくる朝の蝉』は夏休みの間、善意の市民たちによる孤児院収容児童との交流イベントに毎日のように駆り出されることを嫌った主人公が田舎の祖母の家で休みを過ごそうと企てるのが物語の発端となっている(※66)
あくまで小説なので書かれていることが皆事実とは限らないが(表題作『四十一番の少年』については孤児院での実体験に当時巷で起きた誘拐事件を接続したものでフィクションの度合いが大きい)、※65のエピソードについてはつかこうへいさんとの対談でも話しているので事実とみなしていいだろう(※67)
自身を滑稽に見せるか悲痛に見せるかの違いはあるが、自分を低く見せて相手の優越感を満たすという点では同じであろう。これとて他人をいい気分にしてやるわけだから〈笑いが人を救う〉一例と言えなくもないわけだが・・・。個人的にはどんな形にせよ他人を貶めることで喜びを得る、そんな〈笑い〉は不健全だと感じてしまう(この手の笑いを世の中からとっぱらったら、みんな人生で笑う回数が半分以下に激減するだろうけど)。

この孤児院時代の体験が示すように、他人を笑わせること、自分を低く見せることを処世術としながらも、それは井上さんにとって時に苦痛を伴うものだった。
中学三年の時と大学入学のための上京時に訛りをからかわれるのが苦で吃音になり(※Ⅲ)、さらに大学の時には吃音に悩むあまりノイローゼになった(※Ⅳ)のも、〈笑われる〉ことを逆に利用して積極的に〈笑わせる〉方向へすぐに転化できなかった、自分を低く見せて相手を喜ばせる戦法を徹底できなかったからだろう。
そう考えると井上さんが「ウサギ→ウ+サギ」に救われたのがよくわかる気がする。地口=駄洒落は誰も傷つけない笑いであるから(※68)。他人を貶めることも自分を低くすることもなく言葉それ自体を笑う──言葉のために傷つけられてきた井上さんが言葉に救われたのだ(※69)

ただ最初は「ウ+サギ」や「反吐前のかば焼」といった駄洒落の馬鹿馬鹿しさに笑わされ、救いをもたらしてくれた『親敵討腹鼓』に対する感情はその後いささか変化していったようである。
『笑談笑発 井上ひさし対談集』収録の「戯作の可能性」(国文学者・松田修氏との対談。初出1973年)の中で井上さんは「「ウサギ」をふたつに切ると「ウ」と「サギ」になるという一種の地口のようなものに寄りかかって話が作られているわけですね。書く、という作業が、一個のゴロ合せの上に辛うじて立っているというのは松田さんがおっしゃるように、かなりつらかったと思います。書いた人の心中を察すると他人事とはとても思えない。」(※70)と発言している。
一方で同書収録の「神とユーモア」(小説家・遠藤周作氏との対談。初出1974年)では「ウサギをパッと切ったら、ウとサギになって飛んでっちゃったというようなバカな話をえんえんと書いてる戯作者がいますけど、それを読むと、語呂合わせひとつのために、綱渡りしながら書いてる戯作者が、やはり金色にパッと輝くわけです。こういうバカな人間がいる限り、やっぱり人間はいいもんじゃないかという気がするわけです。」(※71)とほとんど逆のことを話しているのだが、対談相手を立てて話を合わせた結果の矛盾(井上さんは〈対談ではすぐ相手に迎合してしまう〉とエッセイに書いている(※72))というわけではなく、初めて読んだ時の晴れやかな感動を保ちつつも、自身が地口や語呂合わせを駆使して作品を書く立場になってみてわかる辛さもあるという──つまりはどちらも本音なのではないだろうか。

(余談ながら上掲「神とユーモア」の中で井上さんは「ウサギを二つに切ったら、ウとサギになっちゃったっていうのは翻訳できないですからね(笑)。」と話している。『ムサシ ロンドン・NYバージョン』はロンドンとニューヨークでの公演のさい台詞の英訳を電光掲示板で表示する方式を取ったというが、『孝行狸』のオチの場面をどんなふうに訳したんだろうか・・・)

井上さんは上掲「戯作の可能性」の頃、戯曲で言うと翌年初演の『天保十二年のシェイクスピア』あたりから次第にそれまでのような「地口のようなものに寄りかかって」話を作るスタイルを離れていく(※73)(※74)
それについては後ほど書くとして、この「戯作の可能性」の中で松田氏は戯作者十返舎一九について「見方によれば鋭く政治的であるような面を持っていて、しかもそれを「私のやっていることはばかばかしいことでござんすよ」という自虐でくるんでお客には出す。お客は笑いの中の毒には気がつかないで、ほとんと「ああ、おもしろい、おもしろい」ですんでしまう。「誰もおれの仕掛けたワナには気づかないで、おれの料理のほんとうのねらいはわからないで食べてんだな」という自己満足──もちろん通じれば通じた喜びはある。」(※75)と分析している。
これは単に一九個人についての評ではなく戯作者全般に共通する心性を述べたと考えてよい。ここから〈現代の戯作者〉と評され戯作者の心中に「他人事とはとても思えない」ほどの共感を寄せていた井上さんも、笑いの中に毒を混ぜて観客に供し、ワナに気づかない、本当の狙いを読み取れない彼ら─私たちを密かに笑っていたとしてもおかしくない・・・と考えるのは穿ちすぎだろうか。※63の指摘をより具体化したような井上さんの自己評価(※76)を読むと、満更考えすぎとは思えないのである。

「復讐の連鎖を断ち切る」という表看板も心にもない嘘というわけではなく、井上さんの真摯な願いには違いないだろう。しかし「フツー人」の味方でありつつ彼らの罪を繰り返し告発せずにいられないような二面性(※77)(※Ⅴ)が、笑いのオブラートで観客の目を欺きながら復讐肯定の挿話をクライマックスに配置するような意地の悪い仕掛けを行わせる。
そこにかつて自分を救ってくれた『親敵討腹鼓』を改変引用したのは、言葉のために悩んだのが言葉を武器とし、笑われることに苦しんだのが笑いを処世の道具とするようになった──いわば人生に180度の転換を促し、素直な感動と戯作者の悲しみへの共感という相反する感情を生起させるこの作品が、〈憎しみの連鎖は断ち切ることができる〉と信じると同時に〈いや無理でしょ〉と茶々を入れたくなる心情に嵌まったからではなかったろうか(※Ⅵ)(※Ⅶ)





※56-「僕の考えによると、怒りは人をキズつけますが、笑いはどんなあざとい嘲笑でも相手を生かしておくものだと思うのです。つまり共に生きる、共生という基盤はしっかり守ろう、相手を抹殺すまいというところがあって─いまはいじめとか排除する笑いもあるような気がしますが─そこが笑いの好きなところなんです。」(井上ひさし・大江健三郎・筒井康隆『ユートピア探し 物語探し』(岩波書店、1988年))

※57-「昔まだ世の中の大半の人が命と引き換えに働いていた時代の話、笑いとは大きな次の日を生きる糧だったという。「こまつ座の芝居にいらっしゃる人は気持ちよく笑ったり、泣いたりしたいのだ。その欲求を中途半端にしてしまうとお客様が気持ちよく帰れないのだよ」と常に心配し、「どうしたらお客様を快く裏切ることができるか、常にお客様は心地よく裏切られない(ママ)なのだよ」ということを考えて戯曲を考えていたのだなと思うと頭が下がる。」(井上麻矢『夜中の電話 父・井上ひさし最後の言葉』(集英社インターナショナル、2015年))

※58-「僕の芝居には必ずといっていいほどユーモアや笑いが入っています。それは、笑いは人間が作るしかないものだからです。 苦しみや悲しみ、恐怖や不安というのは、人間がそもそも生まれ持っているものです。人間は、生まれてから死へと向かって進んでいきます。それが生きるということです。途中に別れがあり、ささやかな喜びもありますが、結局は病気で死ぬか、長生きしてもやがては老衰で死んでいくことが決まっています。 この「生きていく」そのものの中に、苦しみや悲しみなどが全部詰まっているのですが、「笑い」は入っていないのです。なぜなら、笑いとは、人間が作るしかないものだからです。(中略)笑いは、人間の関係性の中で作っていくもので、僕はそこに重きを置きたいのです。人間の出来る最大の仕事は、人が行く悲しい運命を忘れせるような、その瞬間だけでも抵抗出来るようないい笑いをみんなで作り合っていくことだと思います。 人間が言葉を持っている限り、その言葉で笑いを作っていくのが、一番人間らしい仕事だと僕は思うのです。」(井上ひさし『ふかいことをおもしろく 創作の原点』(PHP研究所、2011年、NHKBSハイビジョンで2007年9月20日に放送された「100年インタビュー/作家・劇作家 井上ひさし」をもとに構成)

※59-「「笑い」についての井上ひさしの見解が鮮明に浮かび上がるのは、『ロマンス』の第七場「十四等官の感嘆符!」である。(中略)つまり、人生の至るところにある苦しみを描く悲劇を書くのはそれほど難しくないが、「ひとの内側に備わってはいない」笑いを作り出し、観客を実際に笑わせる喜劇を書くのは実に「たいへん」な作業だというのだ。 このせりふを語るのは劇中のチェーホフだが、ここからは明らかに、喜劇作家として生きてきた井上ひさし自身の切実な肉声が聞こえてくる。チェーホフと井上自身が「笑い」を介して、ぴったりと重ね合わされるのだ。 しかも、井上ひさしにとって「笑い」は、観客を喜ばせる娯楽であると同時に、たんなる消費を超えた、もっと大きなものでもある。それに続く第八場で六人の俳優全員が歌う「なぜか・・・・・・」の歌詞がそれを明らかにする。(中略)この歌詞が示すのは、笑いは娯楽であると同時に、苦しみの中で生きる「ひと」と「やるせない世界」を「すくう」とても大きなものでもある、ということだ。」(扇田昭彦「世界を救う「笑い」」、『井上ひさしの劇世界』(国書刊行会、2012年)収録)

※60-『黙阿弥オペラ』(『井上ひさし全芝居 その六』(新潮社、2010年)収録)

※61-『シャンハイムーン』(『井上ひさし全芝居 その五』(新潮社、1994年)収録)

※62-「たいていの吃音者は、この厄介な状況を抜け出すと、とたんにお道化者になるみたいなのだ。他人と自分との間にすぐに「笑い」の樋を渡してしまおうとする。一対一、五分と五分との関係をしまいまで保っていることが息苦しくて、悪ぶり、ふざけて、バランスを崩したくなる。いってみれば、まずこっちは地べたに這いつくばってそのことによって相手を高みへまつりあげ、こういう関係になった以上は自分がどのようなへま(原文傍点)を演じてももう下へおっこちようがないと安心して、それから相手と意志を疎通しはじめるのである。べつの型として、磊落ぶるとか、知識をべらべらと並べ立てたりするものもあるけれども、仕掛けそのものは前述のものと同巧で、とにかく相手とのハンディキャップなしの一騎打を最初から回避しようと心掛ける」(井上ひさし「お道化者殺し」、『ジャックの正体』(中公文庫、1982年)収録、初出1976年)

※63-百目鬼恭三郎「解説」(『四十一番の少年』(文春文庫、1974年、新装版2010年)収録)

※64-「男親が男の子に喧嘩を教えるように、私は父に戦い方を教わった。父は孤児院にいる頃、戦うことを強いられてきたせいかもしれない。というのは、孤児院では自らが道化になって、人を笑わせることで、身を守ってきたとある日の電話で話していた。父の幼い頃の苦労を彷彿とさせる話で切なくなってしまった。父は幼い頃から剽軽でユーモアの才野を持っていたから、笑いを手段にしたようである。作品にも笑いがちりばめられているのは、そのせいだと思う」(井上麻矢『夜中の電話 父・井上ひさし最後の言葉』(集英社インターナショナル、2015年)

※65-「ぼくらの孤児院に慰問バスや見学バスがやってくるのは珍しいことではなかった。特に頻繁に訪れるのは中年婦人の団体だった。彼女たちは乾パンか、せいぜい花林糖ぐらいを手土産にやってきて、ぼくらから不幸の匂いを嗅ぎ出すのを楽しみにしていた。(中略)彼女たちは何十万円もする着物の生地を眺めるときのような嘆声を洩らし、ぼくらの不幸を鑑賞して帰って行く。」(井上ひさし『汚点』(『四十一番の少年』(文春文庫、1974年、新装版2010年)収録)

※66-「孤児院の夏休みがなぜ重労働かというと、この期間に市民の善意や心づくしがどっと集中するからだった。(中略)なにしろこれらの善意の人たちは自分たちの施す心づくしがぼくらにどれだけ喜ばれているかをとても知りたがっていた。だからぼくらは心づくしへのお返しに必要以上に嬉しがり、はしゃぎ、甘えてみせなくてはならなかった。そうするよりお返しのしようがなかったわけだが、これはずいぶん芯の疲れることだった。」(井上ひさし『あくる朝の蝉』、同上)

※67-「われわれ孤児院収容児童がもっとも苦手としたのは、日曜日なんです。日曜になると、市内のおばさんたちがバスを仕立てて、慰問にくるのです。このおばさんたちを気持ちよく帰すのがひと苦労でしたね。というのは、われわれの施設には進駐軍がパトロンについていたのです。ですから野球のグローブは本皮製です。ローラースケートは全員もっている。トランプは新品。それから全員、皮製の編上げ靴をはいている。さらに建物が新築したてで立派。さあ、おばさんたちはだんだん滅入ってくる。「ここの子どもは、自分の子どもが持っていないようなものを全部持っている。・・・・・・ひょっとすると、自分が死んで、子どもが孤児になって、ここへ収容されるほうが、子ども自身にとって幸せなのではあるまいか」と考えだして不機嫌になる。そこで僕らは、このまま帰したんじゃまずい、なんて思うわけです。そこで、チョロッと、「自分たちは物質的には恵まれているけれど、やはり夕方になるとさびしくなる。親のことを思い出したりして・・・・・・」としめっぽい顔をする。するとにわかにおばさんたちが元気づく。「やっぱり、子どもには親がいるのが一番なのだ」。そういう自信を得てにこにこして帰っていく。(中略)「不幸な施設児童」が陽気じゃいけないんですよ。そこで陰気に振舞う。ところがそのうち本当に陰気になってしまう。これが困る。」(「情報整理とカタルシス」、井上ひさし・つかこうへい『国ゆたかにして義を忘れ』(角川書店、1985年)収録、初出1984年)

※Ⅲ-「中学三年の秋、ぼくは軽度の吃音症患者になったが、これは半ば作為的なものだった。この年の春から秋にかけて、山形南部の山村から八戸、八戸から一関、そして一関から仙台へと、言葉来まるでちがう四つの地方を転々と渡り歩いたのだが、この矢継ぎ早の移動が、ぼくの唇を引きつらせ、その地方にそぐわない言葉をもつれつつ、しどろもどろでしゃべって他人に笑われるよりは、吃音症を装った方が、より安全、より気楽だと思ったからである。」「吃音者は滅多に笑われないのにくらべ、ぼくは嘲笑の的になる。同じように辛いのなら、笑われないで暮らした方がよかろう。そこで、ぼくはある夜、つくづく吃音者になりたいと願ったのだが、不思議なことに、翌朝から、ぼくは願いどおりにどもるようになっていた。それに気づいたとき、すこしあわて、そして、大いに安堵したことをおぼえている。 ぼくが吃音症と縁を切ったのは世の中に「紋切り型」のコトバというものがあることを知り、それを使いこなすことを覚えたときだった。(中略)そのとき「アジャパー」というコトバが全国を席巻していたが、あるとき,教室で何の気なしにこのコトバが口をついて出、数人が笑った。途端に、ぼくは他人を笑わせることの快感にしびれてしまい、それからは、はやりコトバをいちはやく蒐集し、それを連発するおどけもの(原文傍点)に転向していた。」(「わが言語世界の旅」、『パロディ志願』(中公文庫、1982年)、初出1972年)

※Ⅳ-「状況との齟齬感は、駅の階段に落ちている新聞紙を踏むとそこに載っている人に不幸が起る、手紙の宛名を何度たしかめても正確であるという自信が持てない、歩くときは電柱の本数をかぞえないと不安で前へ進めない、学校の図書館への煉瓦道のきまった煉瓦石を踏まぬと異常が起るような気がする、カトリック学生寮の小聖堂のマリア像がゆっくり動き、御自分から着衣を剥ぎ出すというイメエジがくりかえしくりかえし能裡に泛びあがるなとの強迫症状をぼくに植えつけた。もっとも手古擦った症状はそばを一本一本数えることで、数えないでたべると自分になにか不幸が訪れてくるような気がしてならない。(中略)吃音症がぶり返し、かつ悪化したことは、これまでに何度も書き、戯曲にもしたのでここでは省くが、七月初旬、夏休み前にはぼくはフォビアに対するフォビアという奇妙なところまで追いつめられていた。これは高所や閉所や広場や群衆や女性を怖がるだけでは足りず、さまざまな状況に恐怖を抱く自分に対して恐怖するという念の入った恐怖症である。自分で自分の視線がコントロールできなくなるのではないか、自分はひょっとしたら人前で性器を引っぱり出したりするのではなんか、味噌汁の入ったお椀を見ているうちにそのお椀が湖のように広く思われて来て自分はそこに飛び込んだりしないかなどなど、自分をおそれはじめたら恐怖の種は無尽蔵だ。」(「恐怖症者の自己形成史」、『さまざまな自画像』(中央公論社、1979年))


※68-「よく出来たコトバ遊びは、人をずいぶんしあわせにすることは確か」(井上ひさし「喜劇は権威を笑う」、『パロディ志願』(中公文庫、1982)収録、初出1971年)

※69-「この作品のおかしさと、自分の心のこわばりの滑稽さ、それが笑えて笑えて仕方がないのです。笑いがとまったとき、ぼくは自分の身体が軽く、やわらかくなっているのに気づきました。コトバで他人に笑われるのが恥かしい、屋台の息子だから肩身がせまい。他人の目にはつまらない男に見えるだろうけど、それが辛い。そういう屈託がいっぺんで吹っ飛んでしまったみたいでした。ここに馬鹿々々しいムダな作品がある。しかし、その馬鹿馬鹿しい作品が、自分の心と身体のこわばりを、ちょうど臓物をほぐすお湯のように、やわらかくしてくれた。とすれば、馬鹿なもの、ムダなことにも値打ちがあるのだ。だから、自分もそんなに立派な人間になろうとしなくてもいいのではないか。」(「わたしのとっての戯作」、『パロディ志願』(中公文庫、1982)収録)、「言葉に縛られて万事内向きになっている自分とは、なんてケチでアホでつまらない存在なのだろう。ここに言葉を自在に使いこなして笑いを爆発させた人たちがいるではないか。言葉に縛られていてはだめだ。この人たちに倣おう。 このときの私は、自分を圧し潰そうとする言葉を、逆にこちらから迎え撃つ視座を手に入れて、言葉を使いこなす物書きへの第一歩を踏み出していたのではないかとおもいます。」(井上ひさし「著者から読者へ わかれ道」、『京伝店の烟草入れ 井上ひさし江戸小説集』(講談社文芸文庫、2009年)所収)

※70-井上「何でしたかぼく忘れましたが、「ウサギ」を二つに切ったら「ウ」と「サギ」になったという黄表紙がありますね。」松田「ええ、『親敵討也腹鼓』(管理人注・原文ママ)でしたか。」井上「ああいう黄表紙は、「ウサギ」をふたつに切ると「ウ」と「サギ」になるという一種の地口のようなものに寄りかかって話が作られているわけですね。書く、という作業が、一個のゴロ合せの上に辛うじて立っているというのは松田さんがおっしゃるように、かなりつらかったと思います。書いた人の心中を察すると他人事とはとても思えない。」松田「ストーリーはなんら本質的ではない。「ウ」と「サギ」だけで──。」井上「ええ、それだけが最後のねらいどころでずうっと書いていくというのはずいぶんつらかったろうと思います。 戯作というのは言葉をよりどころにせざるをえなくなって追い詰められていくとかなりわびしいものだろうという気がするのですけどね。」(井上ひさし・松田修「戯作の可能性」、『笑談笑発 井上ひさし対談集』(講談社文庫、1978年)、初出1973年)

※71-井上ひさし・遠藤周作「神とユーモア」、『笑談笑発 井上ひさし対談集』(講談社文庫、1978年)、初出1974年)

※72-「わたしは、自分で言うのもおかしいが、気が弱く臆病である。いつも、他人の顔色を窺って汲汲としている。それは対談のときなどに恥しいぐらいよく出る。他人の意見に対して反駁できない。すぐ「なるほど」と迎合してしまう。したがってわたしの出席した対談は例外なくいわゆる《異議なし対談》になってしまうのだ。おもしろくもなんともない。」(井上ひさし「さよならとグッドバイ」、『続家庭口論』(中公文庫、1976年)収録)

※73-「この『天保十二年のシェイクスピア』あたりを境に、以後、作者はこうした破目をはずしたことば遊びの奔流を次第に抑制し、主題と表現の釣り合いのとれた成熟した作風へと移行していったということである。作者がそのように作風を変化させていった事情については、たとえば『天保十二年・・・・』の執筆時に近い時点でおこなわれた国文学者松田修との対談での発言がひとつのヒントを与えるかもしれない(学燈社刊『國文学』一九七三年十二月号。講談社文庫『笑談笑発──井上ひさし対談集』所収)。 この対談で作者は、音の組み合わせに狂奔する戯作者のことば遊びに触れ、「せんじ詰めていくと戯作というのは音の問題になっていく」が、そこに今はどうしようもなく「わびしさ」を感じるとして、次のように語る。「戯作者の哀しさというのは、たったひとりで必死になってこんな役にも立たぬことをしているけれども、はたしてこんなことをしていていいだろうかという問いかけがどっかでいつも聞こえてくる。(中略)世の中に背を向けて頭の中を言葉でいっぱいにして、それをつかんだり、ひっくり返したり、ねじまげたりしながら、飯にありつくことに対するうしろめたさ。辞書をたくさん買い込んで、朝から夜中までパラパラッとやっていることのむなしさ。」「(『ノンセンス大全』書評での発言を引いて)つまり、作者は「観客の反感を買うか」、「狂人世界」に突入するかのどちらかに収斂するしかないことば遊びの果てを見越して、その手前で立ち止まり、徐々に作風を変化させていったのだと言えるだろう。以後、井上戯曲には社会的なひろがりのある主題が多く登場するようになり、元来この作家にそなわっていた警世家の面がさらにはっきりと打ち出されてくる。」(扇田昭彦「解説」、『井上ひさし全芝居 その二』(新潮社、1984年)所収)。

※74-「浅草には〈コトバによる笑いを武器としたコメディアンはけっして大成することはない〉というテーゼがある。事実そのとおりで、このことはコトバ遊びを飯の種にするわたしなどにも当てはまるように思われるのだが、それはなぜか。便宜上、コトバ遊びを地口、語呂合わせ、駄洒落などに限定すると、これらの〈笑わせるための工夫〉は、いつにかかって「意味ではなく音が似通った単語への置きかえ」(本書三三頁)にある。したがって、コトバ遊びを職業としている者たちはコトバを音だけで考えるようになっていく。ちがう言い方をすれば、社会的に合意された記号の体系としてのラングへ果敢な反抗を続けるわけである。この反抗は当初のうちはたいそう効果的でお客は手もなく笑い転げてくれるが、そのうちコトバの遊び人たちが個人的運用としてのパロールに至上権を与えすぎると、反感を抱きはじめる。コトバの遊び人たちがここで立ち止まれば救われるのだが、職業としている以上はそうはいかぬ。どんどん先へ進む。かくして彼らの、意味を失ったコトバは「秘教的な念誦言語、あるいはいわゆる《グロッソラリー》(異言伝授、霊媒や意味不明者が発する言葉)」(三二頁)へと限りなく接近していき、ついには狂人言語に衝突し、そこに吸収されてしまう。つまり職業的コトバ遊び人の精進は、やがて観客の反感を買うか、狂人世界への通行券を手に入れるか、このどちらかにしか行き先がない」(井上ひさし「高橋康也『ノンセンス大全』」、『風景はなみだにゆすれ』(中央公論社、1989年(初版1979年))収録。初出1977年)

※75-井上ひさし・松田修「戯作の可能性」(『笑談笑発 井上ひさし対談集』(講談社文庫、1978年)、初出1973年)

※76-「まずできうるかぎり頭を低くし、潮垂れた格好で新しい世界へ入って行き、明かな落伍者、異分子として振る舞いながらそこの人たちを安心させておく。それから慎重にその世界のここかしこに当りをつけておき、足がかりを得たらそろそろと頭を擡げ、「おや、あいつはなにものかだね」と認めさせる。もっと簡単にいえば、哀れっぽくはじめて途中で居直る。これは国民学校の、冬の体操時間におぼえた手口だが、それが敗戦のときの「世の中に絶対はない、世界はすべての両極を含む。つまり世の中ってわからないものなんだなあ」という感想で磨かれて、わたしの、世界への対処法となった。世の中はどうなるかわからない、だから低い姿勢でいよう。安心だと見究めがついたら、その分だけ頭を擡げよう、というわけだ。これに鷹山公の遺した倹約を加えると、もうそっくりいまのわたしができあがる。天皇の日本語に衝撃を受け、すぐその後の、ことばを貯め込む時期に各地を転々としたせいもあって、ことばを客体として扱う術も知らないうちに身についた。さらに詐話癖もある。哀れな恰好で新しい世界に入って行くためには自分をより貧しく、より可哀想に身づくろいしなければならず、そこで小さな嘘を並べて鎧う。それがわたしの詐話癖の中味なのであるが、それはとにかく、「ひろがる世界、さまざまな言葉」などと鹿爪らしい題のもとに、鹿爪らしくあれこれ書き綴ってきたものの、自己形成(自己発達)の跡などどこにもない。見えるのは自己防衛(自己虚飾)の跡ばかりではないか。」(井上ひさし「ひろがる世界、さまざまな言葉」、『聖母の道化師』(中公文庫、1984年)収録)

※77-「井上ひさしの劇世界は、根本的には、ブラック・ユーモアの世界と大きく重なりあわない。黒い笑いを心から楽しむには、この劇作家はあまりに人間を愛しすぎ、心配しすぎているところがある。(中略)にもかかわらず、驚くほどの多面性と、人間を世界の中心とは見ない喜劇的視点を持ち、グロテスク趣味をもそなえた井上ひさしには、黒い笑いの秀作といえる作品がいくつかある。」(扇田昭彦「黒い笑いへの傾き」、『世界は喜劇に傾斜する』(沖積社、1985年)収録、初出1980年)


※Ⅴ-「井上ひさしは、この『藪原検校』において突然変異したのだろうか。人々をかろやかで上機嫌な笑いに誘った抱腹絶倒喜劇の才人作家、心やさしいほのぼの『ムーミン』の作詞者、「武器をとりなさい/明日を美しくしたいなら」(『表裏源内蛙合戦』)と歌った反体制的アジテーターは突如、ペシミストに変貌したのだろうか。 そうではあるまいと私は思う。井上ひさしは一貫して井上ひさしでありつづけてきた。ただし彼は、これまで作中においてはほとんど全面的な自己表白をしないまれな作家の一人だったのだ。なぜなら、その道化的資質からいって、井上ひさしは多極的に分裂した作家だからであり、これまで彼の劇中にあらわれた「思想」的部分も、たいていは彼の一面をあらわすにすぎない。『表裏源内蛙合戦』で「美しい明日を/みんなは持っているか」と歌いながら、その半面で、「美しい明日」の到来に人一倍疑問を持っていたのは作者だったはずである。(中略)心の底には神による救済をひそませつつも、井上ひさしの内部には、同時に、空漠感がひろがり、黒い炎が燃えあがる。 だからこそ、彼は駄洒落・地口・語呂合わせで埋めつくした一種華麗な文体の鎧をまとった。極度に肥大した細部で全体をおおいつくすマニエリスムの演劇を書きつづけた。」(扇田昭彦「黒い志向見せた凄惨な傑作」、『現代演劇の航海』(リブロポート、1988年)収録、初出1973年)

※Ⅵ-「かつて、「井上ひさしにおける「暗さ」」と題する一文において、川本三郎が次のように評したことがある。 井上ひさしといえば通常、その「笑い」「軽み」「喜劇的精神」あるいは「肯定性」「ヒューマニズム」といった、要するに井上ひさしにおける「明」の部分において語られることが多い。(中略)しかし、この作家には実はそうした明るい一面とまったく逆な「暗」の側面がある。性善説を信じている井上ひさしのすぐ裏にはしたたかに性悪説を主張している井上ひさしがいる。ヒューマンな協調・連帯を描く井上ひさしのすぐ隣りでは、出し抜け、密告の現実を冷徹に見ている険しい顔の井上ひさしがいる。幇間よろしく世間様のあちこちにサービスにつとめている井上ひさしのすぐ横には世間に対して反吐を吐いているもうひとりの井上ひさしがいる。それは「面白い」井上ひさしに対して「怖い」井上ひさしである。「やさしい」井上ひさしに対して「きびしい」井上ひさしである。 (中略)井上のひょうきんやおどけ(原文傍点)は東北各地を転々とした他所者の自己防衛の策、ときに養護施設に受け入れられるための保身の術であったのかもしれない。道化の顔の背後には、置かれた境遇への反発や上昇志向、社会への批判を通り越して、復讐を夢想する少年が棲んでいる。(中略)「ヒューマンな協調・連帯」を説きつつ、エゴイズムで支配されつくされた現実を見ている作家。その「笑い」の背後には、世間に向けた険しい視線が隠れている。将来に希望を持ちたいが、世間を決して信用はしない姿である。」(秋葉裕一「藪原検校─ブレヒト受容の視点から」、日本近代演劇史研究会『井上ひさしの演劇』(翰林書房、2012年)収録。太線部分は引用箇所) ちなみにその「井上ひさしにおける「暗さ」」は「井上ひさしの「暗」は、結局のところ、“業”として「言葉」に憑かれてしまった人間が、まっとうな人間たちのあいだを生きるときにすれちがいざまにきしむ(原文傍点)、その、負い目と矜持が両極端にひっぱり合うアンバランスなうめき声が生むものである。「言葉」に憑かれてしまった“極道者”には、血の匂いと死臭しか行手にないのである。」(川本三郎「井上ひさしにおける「暗さ」」、『同時代を生きる「気分」』(講談社、1986年)収録)と評している。

※Ⅶ-井上さんは『宮澤賢治に聞く』の中で、詩人で宮澤賢治研究家の天沢退二郎の「少年時代から早くもしのび寄っていた“人間嫌い”が、《宮澤賢治》のあの伝説的な愛情深さと表裏をなしていたのではないか・・・・・・ そう考えると、賢治の書きのこしたものにみなぎる深さとユーモアの共存の源も、わかるような気がしてこないだろうか?」という言葉を引きつつ「天沢さんは、人間嫌いのあなただったからこそ、あれほど深く人間を愛することもできたのだとおっしゃっているわけです。」と賢治に問いかけている。(『宮澤賢治に聞く』(宮澤賢治への架空インタビュー)、井上ひさし・こまつ座編著『宮澤賢治に聞く』(文春文庫、2002年)収録)この〈人間嫌いだからこそかえって深く人間を愛することができた〉という賢治評は井上さん自身にも多分にあてはまるのではないか。




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『ムサシ』(3)-8(注・ネタバレしてます)

2016-12-21 08:48:02 | ムサシ
次に幽霊たちが仕掛けてきたのが平心坊による説法。妻に唆された結果金品目当てで通りすがりの女子供を殺してしまった男が前非を悔いて出家したのち、自分が殺した女の夫が同じく僧侶となっていたのと出会って罪を告白、彼の手にかかろうとするが〈一つの寺で巡り会ったのも仏のお導き〉だと許される──というのがその内容である。
後に小次郎が「平心坊は、ひたすら仲直りを押し売りしていたが、あれもわしら二人に、誠心坊と五輪坊のようになれ、許し合って友達になれと、そう説いていたんだな。」とまとめているが、正直このエピソードの扱いは妙に軽い。平心の説法が終わってから一分と置かず、それこそ「許し合って友達になれ」という平心坊の「押し売り」が武蔵と小次郎の心に届く間もないうちに、まいが別れた子供についての告白を早々と始めてしまうのである。

(余談だが「ひたすら仲直りを押し売り」という表現がなんか面白い。先入観なしに聞くかぎりでは仲直りより念仏の有難さを押し売りしてる感じだが。そして「ときに、この誠心坊どのは、いまも高野山で念仏を唱えながら貯え漬を漬けておられます」というオチがまた(笑)。
現在も息災で修行に励んでいると言いたいのはわかるが、なぜわざわざ貯え漬に言及するのか。寺開きの挨拶の時にも乙女の紹介のところで貯え漬の話が出てきてるし・・・まあ貯え漬=沢庵漬の名の語源と言われる沢庵和尚がメインキャラで出張ってるのに掛けてるんでしょうが)

幽霊たちが武蔵と小次郎を変心させるべく様々の手を繰り出したうちでも、その仕掛けの手の込み方からいって乙女の仇討ちとここでのまいの〈皇位継承順位第十八位騒動〉が本命だったのだろうが、平心の説法には全く期待をかけてないかのごとくである。
そもそもこの説教、前半部分を小次郎は聞いていない。乙女によると翌日の決闘に向けて源氏山を下見に行ったとのことだが、翌日までに武蔵と小次郎の双方、とりわけ決闘を申し込んだ側である小次郎をなんとか改心させなければならないというのに、そのために仕込んだ説法を聞かずに出かけようとするのを引き止めなかったのか。いくらでも理由の付けようはあったろうに。
さらに小次郎はどうしたのかというまいの問いに乙女が答えるところへ武蔵が「この武蔵がなにか罠でも仕掛けているのではないかと、心配になったのでしょう」と話に加わってきたりして、この間三人とも説法の方はすっかりお留守になっている。さらに小次郎が帰ってきてからは武蔵と口喧嘩になってしまって宗矩がたしなめるまですっかり説法そっちのけ。
後半部だけでも話の意味は取れるし、上で引いた台詞からしても小次郎はこの説法のテーマ─説法に事寄せて平心が言いたかったこと─をちゃんと理解していたが、小次郎の帰りがもっと遅ければ説法は全部終わってしまって、小次郎に対しては全くの無意味になったことだろう。
なぜ幽霊たちはこの平心の説法に重きを置かないのか。というかこのエピソードはそもそも必要だろうか。

これは実のところ〈役者一人一人に見せ場を作るために、ストーリー的には特に必要性のない場面が設けられた〉というのが正解なんじゃないか。といってもこの場合の〈作者〉とは井上さんではなく、武蔵と小次郎に刀を捨てさせるべく一連の筋書きを作った乙女のことである。
自分も含めた幽霊たち全員出番があるように、特に参籠禅に参加しているメインの役者五人(宗矩、沢庵、平心、まい、乙女)にはそれぞれ彼らが主人公となるような見せ場を作らねばならない。
平心はこの後のまいの芝居(小次郎とは生き別れの母子だった)のために生前の技術を活かして証拠品の鏡を偽造するという大事な仕事をこなしているが、あくまで裏方の仕事なので、本来の目的にはあまり貢献しないが(一応〈恨みを捨てて仲良くなれ〉という内容にはなってはいる)彼にスポットライトの当たる、長台詞を滔々と喋れるような場面を用意したのだろう。
そう考えると、もし武蔵と小次郎が乙女の仇討ちのあたりで早々と刀を捨ててしまったなら沢庵以下の出番はなくなってしまったわけだ。それでも二人に戦いを止めさせるという目的を果たせたからと心置きなく成仏できたろうか。・・・なんかできなさそう(笑)。
宗矩の見せ場も五人六脚だけじゃ微妙だから、能を舞わせたり〈三毒を断った者しか刀を抜けないことにする〉沢庵の「大構想」のくだりにも関わらせてるのだろうし。

この平心メインの箸休め的場面から間をおかず、いよいよ本命というべきまいの大芝居が始まる。小次郎が持つ母の形見と対になる鏡を偽造して、小次郎を自分の生き別れの息子=親王のご落胤と言い立てたのである。
最初は頑強に信じまいとした小次郎も証拠品の鏡を前に陥落、以降しばらく熱にうかされたようになった彼が第十八位第十八位言うたびに客席に笑いが起こっていたが、(2)-5でもツッこんだように本来これはひどい話なんじゃないだろうか。
二十六年ぶりに思いがけず再会した死んだはずの母親が「母さんと呼んでおくれ」と叫び取りすがっているのに、父方の高貴な血のことしか息子の頭にはない。全てが芝居でまいが小次郎の実母などでなかったからいいようなものの、小次郎のこの反応は母親に対して残酷極まりない。本人に悪気などまるでない、自然な感情の発露であるだけになおさら。
さらに先には三種の神器の行方によって正義の行方が決まる滑稽さを沢庵が指摘したのに同調していた宗矩が「理屈から云えば」と前置きしてはいるものの〈帝(になる可能性のある人物)に刃を向けようとする武蔵は史上最悪の大悪人〉だと言い出すのもひどい。
この「皇位継承順位第十八位」騒動だけでなく、先から見てきたように乙女作の一連の芝居は〈ひどい〉場面だらけだ。とどめが正体を明かした亡霊たちの〈自分たちを成仏させるために戦いを止めてくれ〉という身勝手な言い分である。

これだけ図々しかったり残酷だったり変わり身が早すぎたり平和主義の顔して要は自分たちの都合だったりする台詞と行動が頻出しているのに、観客はさほど気に留めず笑って流してしまう。
理由の一つは上でも引いた武蔵と小次郎による「この三日のうちにおきたこと」の総括である。乙女が刀を投げ捨てたことを「わしらに、うらみの鎖を断ち切れと云っていたのだな」、沢庵の大構想は「わしら二人に、刀を抜くなと諭していたのさ」、偽の母子ご対面は「おぬしを雲の上の、そのまた雲の上の貴いお方に仕立てあげて、わしに切らせぬよう企んだ」と簡単にまとめて説明してくれるために、観客はこれが各エピソードを通じて井上さんが言いたかったことだと思い込まされ、この解釈からはみ出す上述の〈ひどい〉部分を見逃してしまうのだ。当然井上さんはわざとそう仕向けているのであろう。
もう一つの理由は「笑い」である。五人六脚や剣術の稽古がいつのまにか踊りになってしまうという役者の身体を使った滑稽な芝居、要所要所に差し挟まれる笑える台詞や顔芸・言い回しの面白さが〈ひどさ〉を覆い隠してしまう。
いい例が『孝行狸』のオチで、実態は胴体を真っ二つにされているスプラッタシーンであるのに、ウサギ→ウ+サギという地口オチの馬鹿馬鹿しさで誤魔化されてしまう。
(これは地口オチのせいだけでなく真っ二つにされるのがウサギ─動物だというのもあるだろう。前半でまいと乙女が踊る『蛸』もそうだが、これが人間だったらエグいだけである。乙女に切られた浅川甚兵衛の腕とそれ以外の体がそれぞれ別の生き物になって飛んでいくのを想像すると・・・)
加えて復讐を完遂して「めでたしめでたし」で終わる『孝行狸』は『ムサシ』の「復讐の連鎖を断ち切る」というテーマと真っ向から対立してるにもかかわらず、ウ+サギに笑わされて、つい気づかずに通りすぎてしまう。
笑いが「否定的状態から人を引き離す」「常識やきまりきった言葉や思考のパターンに囚われ眠りこんでいたわたしたちの感情と思考を目覚めさせる」(※55)効能を持つのは確かだろう。だが一方で「笑い」が残酷さ、否定的状態を覆い隠してしまう場合もしばしばあるのではないか。
そして自身を喜劇作家と位置づけ、笑いにこだわり続けてきた井上さんが、笑いの持つマイナスの側面に気づいていないはずはない。



※55-「笑いは、肯定的な状態をもたらすわけではない。肯定的状態がすぐそばに見わたせる場所に人を連れ出すのでもない。そんな便利なものではない。 しかし、笑いは、人間的かつ社会的歪みからくる孤独、逃避、苦しさ、死への傾斜など否定的な状態に、一瞬、休止符をうつ。そのような重苦しい否定的状態をいきどまりにせず、そこからわずかに人を離れさせる。  たいして、悲しみや怒りは、否定的状態につよく密着する力をもつものの、否定的状態から人を離れさせない。(中略)あまりに巨大でうごかすことなど考えもしなかった状態の、意外な小ささや弱さを明るく元気な笑いとともに発見した人は、勇気をもって肯定的状態をめざしはじめる。 あるいは逆に、すこし離れて見ることで人は、否定的状態の広がりと深さにあらためて直面する場合もあるだろう。このとき笑いは明るい笑いではなく、暗く残酷な笑い(ブラックユーモア)にかたむく。しかし、暗く残酷な笑いも、否定的状態に人が囚われたままでないことを告げる。だからそれは、人に否定的状態をくぐりぬけるのを大胆にうながす笑い、すなわちロシアの思想家ミハイル・バフチンの提起したグロテスクで解放的な哄笑ともなりうる。 こうして、否定的状態から人を引き離す笑いは、肯定的状態へとむかう可能性、あるいは否定的状態を深くくぐり変更する可能性を人にもたらす。」「意表をつく展開と笑いは、常識やきまりきった言葉や思考のパターンに囚われ眠りこんでいたわたしたちの感情と思考を目覚めさせる。そのとき、常識や言葉や思考の型がいささかも普遍的なものでなく、同時代の権威や権力によってつくりあげられ、強調されたものであることに気づけば、この困難も変更可能と思えるにちがいない。 人間がつくりだしたものは、人間によってつくりかえられる。」(高橋敏夫『むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく・・・・・・ 井上ひさし 希望としての笑い』、角川新書、2010年)

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『ムサシ』(3)-7(注・ネタバレしてます)

2016-12-13 20:30:41 | ムサシ
ついで宗矩と沢庵による「侍どもに刀を抜かせない妙案」。
先に乙女の仇討ちを止めようとした際に沢庵は「殺生はいかん」、宗矩は「争いごとはいけませんよ」という言い方で反対を唱えているので、つい彼らが平和主義、ヒューマニズムから刀を抜かせまいとしているかに思ってしまうが、(2)-4で突っ込んだように、彼らが、というか将軍家の兵法指南役兼政治顧問である宗矩が侍に刀を抜かせまいとするのは幕府を安泰に保つため、要は自分が所属している組織の権益を守りたいがゆえなのである。
当然それは将軍家、秀忠と家光の切望するところでもある。むしろ能を隠れ蓑に家光と政治についての相談をしているのだという宗矩の言葉からすれば、沢庵に「侍に刀を抜かせない妙案」を尋ねること自体家光の依頼かもしれない。
自身が地方の一領主から国の頂点に成り上がるまでは武力を存分に用いておきながら、いざトップに立つと真逆のことを始める。宗矩が最初に「侍どもに刀を抜かせない妙案」を沢庵に相談したさいに太閤秀吉の刀狩り令に触れているが、自分の地位を脅かしかねない他人に武力を持たせておくのは脅威であるという心情が最高権力者に共通のものであることを端的に表している。

しかしこの「侍どもに刀を抜かせない妙案」に比べて、妙案を提供する交換条件のはずの〈大徳寺住持選定に対する幕閣の差出口を封じる〉についてはあまりクローズアップされない。宗矩による活人剣の何たるかの説明のあとにそれを応用しての「侍に刀を抜かせぬ策」を沢庵が披露したさいに「大徳寺の件、なにとぞよろしく」「心得た」という会話が交わされるのみである。
この一連の流れについて、武蔵は翌日「侍に刀を抜かせてはならぬという沢庵大和尚の大構想も、わしら二人に、刀を抜くなと諭していたのさ」と総括しているが、それを言いたいだけなら宗矩が沢庵に一方的に「刀を抜かせぬ策」を相談した設定でもよかったのである。なぜわざわざ大徳寺の件などに言及する必要があったのか。
(3)-4で書いたように天皇家の権威をかさにきる滑稽さを表したかったというのもあるかもしれないが、沢庵の方も交換条件を持ちかけている設定によって、将軍家と天皇家にそれぞれ近しく発言力も大きい二人がこっそり幕府と禁中の先行きに関わる取引を行っているという秘密会合の雰囲気が醸しだされている。
実際宗矩は「その妙案を聞き出そうとおもって、この参籠禅に加わっている」と言い、沢庵も「(大徳寺の件について)秀忠さまや家光さまに、さようお取りなしいただきたいのだよ。宗矩どのをこの宝蓮寺にお誘いしたのも、それがあってのこと」と話している。
上で引いたように宗矩と家光は「お能を政治の隠れ蓑」にしているそうだが、ここでは参籠禅もまた政治の隠れ蓑として利用されている。参籠禅の最中にもかかわらず仇討ちの相談を始める乙女たちを「これが座禅か!」と叱りつけた沢庵だが、自分だって禅を政治に利用しておいて言えた立場かというものだ。こんなところで密やかに国の行く末は決定されているわけである。

ところでこの「能を隠れ蓑に政治に相談をしている」という話のすぐ前で、宗矩は『孝行狸』の筋は家光の発案によるものだと明かしている。
具体的に引用すると「泥舟で沈められたあの古狸に、親に煮似ぬ孝行息子があったとせよ。その孝行子狸の仇討が舞狂言にならないだろうか。宗矩、考えてまいれ」。
なぜ家光はこんな題材で狂言を作ることを宗矩に命じたのか。普通に考えればこれは儒教的な孝の精神を、新作能を通して鼓舞しようとしたものだろう。つまり家光は、子が親の仇を討つことは孝心の証として推奨されるべき事柄だと捉えているのである。
江戸時代は仇討ちが公式に認められていて(武家の場合だが)、むしろ親を殺された犯人が逃亡した場合それを見つけ出して仇を討たなければならない社会的圧力さえあった。
幕府としては別段仇討ちを奨励していたわけではなく、仇討ちを免許制にしたのも逆恨みなどによる不当な復讐を防ぐためだったと思われるが((2)-※18で井上さんも幕府の〈できるだけ刀を抜かせないようにする〉政策の一つとして「仇討ちが免許制になった」ことを挙げている)、一方で乙女のように子が親の、忠助のように家来が主人の仇を討つのは正義の行いであるとする庶民感情は強く、幕府もこれを無視できなかった。というより次代の将軍自身も(朱子学を通して?)忠孝の精神の発露である仇討ちを〈正義が悪をくじく〉勧善懲悪のドラマと見なしていたんじゃないか。
その家光の意を受けて仇討ちがテーマの能を製作中の宗矩が「争いごとはいけませんよ」と乙女の仇討ちを止めようとするのだから、いわば二枚舌である。

二枚舌といえば活人剣自体もそうである。「一人を殺すことで万人が救われるときは、殺すのが正義としている」というのが活人剣の定義であり、活人剣を振るうときは己の内の「三毒」を断つことが必須だと宗矩は説明するが、(3)-3で書いたように本気で三毒を断とうとすればノイローゼに陥るわけで、そうなれば結局活人剣を行使することはできない。
万人を救おうと志を立てても剣を抜く前の段階で躓いてしまい、結局万人を見殺しにするほかはない。柳生新陰流の秘伝中の秘伝と言いつつ、つまるところ活人剣とは幻にすぎないのではないか。
宗矩の話を聞いた沢庵が「侍に刀を抜かせぬ策」として「刀を抜くことができるのは、心に三毒を持たない者だけ」とすればいいと提案したさいに「しかし、そんな完璧な人間は、だれ一人としておらぬぞ」と答えたのなどまさに語るに落ちたというべきか、活人剣の奥義に従うのなら「だれ一人として」─つまりは宗矩であってさえ刀を抜くことはできない、それでは活人剣とは存在しないも同然であろう。
要するに『ムサシ』を見るかぎり「活人剣」は存在そのものに無理があるのである。

(ちなみに「そんな完璧な人間は、だれ一人としておらぬぞ」発言のほんの直前では、この朝の仇討ちのさい自分自身に刀を向けた乙女に向かって「そのうちに柳生新陰流のうちの活人剣の免状を贈ろう」などと言っている。
乙女を〈三毒を断った〉と認めたそばから三毒を持たない、断つことのできる人間は「だれ一人としておらぬぞ」とは矛盾も甚だしい。(3)-6で書いたように刀を振るった後になって三毒を断った乙女が活人剣の免状に値するとは思えないので、リップサービスと思って流しておくのが妥当なんだろか)

刀剣はいまや美術品のカテゴリーだが、もともとは人切り包丁である。殺人兵器を携行することは認めておいてしかし使用することは認めないというのは筋が通らない。
「なぜ、武士に太刀を帯びることを許しておいでなのですか」「それはつまり、万一の場合には、抜いてもよいということではありませんか」という武蔵と小次郎の言い分の方がよほど筋が通っている。
それこそ(3)-3でも書いたように刀そのものを取り上げてしまった方がよほどすっきりするし、〈全国諸藩三百万の侍どもが江戸城に押し寄せてくる〉心配などしなくて済むようになるだろう。
秀吉時代に刀狩り例によって民百姓から刀を取り上げ、彼らが一揆や謀叛を企てることができなくした(実際にはそれほど徹底したものではなかったらしいが)事に言及しておきながら、宗矩は武士階級に対して同じことをしようとはしない。あくまで刀を抜かせぬ工夫、武士に刀を帯びさせたままそれを実戦に使わせない形にこだわるのは何故なのか。

その理由は「四海波静かにて・・・・・・という新しいご時勢が、わが柳生新陰流の「争いごと無用」を選んだわけだ。」「その名、天下に隠れもなき二大剣客のご両人、剣を振り回せばことがすむ時代は終わりました」という言葉に総括されているように思える。
戦乱の世が終われば刀の出番はなくなる。のみならず既得権益を維持したい支配階級にとって刀、剣術は自分の足下を脅かしかねない存在として弾圧の対象にすらなりかねない。
宗矩は将軍家の政治顧問であり、大名の国替えなどにも関わっていると自ら明かしていたくらいで辣腕の政治家としての側面を持っていたが、やはり第一に彼は剣客であって、親から受け継いだ柳生新陰流を守っていこうとする立場にあった。
泰平の世で新陰流が、剣術が生き残っていくにはどうすればいいのか。その手段として彼は新陰流がもともと持っていた「争いごと無用」の精神をなお押し進め、活人剣は人を救うための剣、新陰流は泰平の世を治めるための思想と位置づけることによって、新陰流、ひいては剣そのものの生き残りを謀ったのではないだろうか。
本来人を殺すための道具を人を救うための道具だと言い立てるのだから無理矛盾が生じるのは当然のことだ。それを何とか力業でごまかし将軍家を丸めこむことで、泰平の世に剣術を残すことに成功した。
諸般三百万の侍から刀そのものを取り上げなかったのも、宗矩が新陰流だけでなく剣術全般を守ろうと考えていたからだろう。新陰流の安泰を願うだけなら、現代において基本警官と自衛隊員にのみ武器の携行が許されているのと同様に〈旗本御家人など幕臣のみ帯刀を許可する〉という形にしてもよかったはずだ。将軍家に剣術指南役として仕えつつ、こうした幕臣たちを門下生とすれば柳生新陰流の繁栄は約束されそうなものだ。
そうすれば諸般三百万の侍の反乱を気にしなくてもよくなっただろうに。そうしなかったのは、他の流派も含めて剣術そのものが生き残れるよう配慮していたからではないかと思うのである。
もっともその場合新陰流を学んだところで刀の腕を活かした就職口は激減するわけだから、結局は門下生が減ることになってしまうか・・・そういう計算もあったのかもしれない。
ともあれ人切り包丁を人助けの道具と無理やりこじつけて、平和な世の中に剣術を残そうと奮闘している宗矩から見れば、剣術の将来などまるで念頭になく、昔ながらの流儀で刀を振り回し勝敗優劣を競うことしか頭にない武蔵と小次郎は、年下ながら考えの古い、頭の固い人間と思えたことだろう。

つまるところ、「活人剣」──振るい所のない人を活かす剣とは、『ムサシ』の世界においては宗矩本人も実用性を信じていない、〈平和な時代に適した剣法〉の看板を掲げるための方便だった。
そして活人剣を振るうに足る聖人君子が存在しないように、あらゆる侍が処罰怖さではなく良心のゆえに自主的に刀を抜くことを放棄することも──それこそ日本中の侍がノイローゼに陥りでもしない限り─起こり得ない。
これは「アラーの神を信じる人びとに、イスラム世界といえど、その他の世界に背を向けては生きて行けないことを知ってもらう」「アメリカにはその独歩主義を改めてもらう」((3)-※24参照)より以上の難題、というか完全に不可能だろう。人は正気のままでは争いを起こさずにいることができない、という実に悲観的な結論がここには表れている。
そもそも争いごとを起こすまいと思う動機が将軍家においては自身の地位を安泰に保つため、宗矩においてはそんな将軍家の方針下で「争いごと無用」の看板を武器に生き残るためであり、その一方で孝行のための仇討ちはむしろ美談として歓迎する有様である(この点においては宗矩は微妙だが)。子が親の仇討ちを行う分には幕府の足下が脅かされることがないからだろう。
脅威となりうる侍たちをこぞって禅病─ノイローゼにしてしまおうというのも幕府の(つまりは自分たちの)安寧のため──。一見平和主義、ヒューマニズムと見えるものが、実際には多くの場合において権力者の都合でしかないという身もフタもない事実がこのエピソードには読み込まれているのである。

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『ムサシ』(3)-6(注・ネタバレしてます)

2016-12-06 07:09:02 | ムサシ
こうした〈悪意〉を踏まえて『ムサシ』を見直してみると、『孝行狸』のほかにも表面通りではない、裏の意味合いがうかがえるエピソードが散見される。

たとえば乙女の仇討ち放棄。武蔵に教わった「無策の策」を実行し見事に父の仇である浅川甚兵衛の片腕を切り落とした乙女は、しかしとどめを差しにいくかわりに「この恨み・・・・・・いまわたくしが断ち切ります」と刀を捨てて甚兵衛の手当てを始める。
この作品のテーマとされる「復讐の連鎖を断ち切る」を体現したシーンであり、そもそも「復讐の連鎖を断ち切る」という言い回し自体がここと次のシーンでの乙女の台詞「恨みの鎖を断」つに由来している。
この乙女の仇討ち放棄を受けて、先まで自身も復讐心に燃えていたはずのまいは「ひとという生きものが美しく見えるのは、こんなときではないでしょうか。」「恨みを断ち切ったときの乙女どののあの清々しい姿に、なにかお感じになりませんでしたか。」と小次郎に語りかけ、乙女自身も武蔵に向かって「とても気分がいいんです」「恨みの鎖を断ったせいですわ。すがすがしくてさっぱりとしたこの気分、武蔵さまに分けてさしあげたい」などと言うのだが、ちょっと待てよと思う。
「恨みの鎖を断った」と言うが、乙女はともかくも甚兵衛の腕を切り落としているのである。命に別状はなくとも日常の挙措に不自由するようになるのは明らかだし、茶人として剣客・道場主としての生命は断たれたに等しい。先に宗矩が武蔵と小次郎に道場破りをしてもらって甚兵衛の評判を落とし干乾しにする案を出しているが、小娘に敗れたうえ片腕を失った甚兵衛が干乾し─生活に事欠くようになるのはまず間違いないだろう。

つまり乙女はしっかり復讐を果たしているのである。武蔵に剣術指南を乞うた時の「父の恨みをこの刃に込めて、せめて一ト太刀でも、あの浅川甚兵衛に浴びせてやりとうぞんじます」という目標を彼女は実現させているのだから。
本来甚兵衛に一太刀も浴びせることなく一切の報復行動を断念してこそ、初めて「恨みの鎖を断った」と宣言する資格があるんじゃないのか。
乙女に「小次郎さまとの恨みの鎖、思い切って断っておしまいになったら、きっと、すっきりなさるでしょうに」と言われた武蔵が「試合は明後日の朝、それが終われば、わたしも今の乙女どののように、すっきりしているはずです」と答えて乙女をがっくりさせているが、要は〈あなたがすっきりした気分になれたのは決闘を敢行したからこそなんだから自分もそうするよ〉と言っているわけで、これは明らかに武蔵に理がある。

父親を殺されたにもかかわらず腕一本で済ませたのだから十分立派ではないかと言われそうだが、『ムサシ』を語るうえでよく引き合いに出される〈アメリカ同時多発テロ以降の世界情勢〉にたとえるなら、アメリカが〈飛行機を三機ハイジャックされ、うち二機を世界貿易センターに突っ込まされたにもかかわらず、報復のアフガニスタン空爆を一回実施しただけで止めにした、空爆による死傷者の数も同時多発テロによる死傷者より少ない〉と誇るようなものである。
(もちろん実際には空爆は一度で終わらず、井上さんによれば誤爆によって亡くなったアフガニスタン市民の数は同時多発テロの犠牲者を優に超えている。(3)-※24参照)
やられっぱなしになれということではない。ただ一度でも多少なりとも報復を行った以上、相手に与えた被害が自分が受けた被害より小さいからと平和主義者のような顔をする資格があるのか。
それで「とても気分がいいんです」だの「すがすがしくてさっぱりとしたこの気分」だのと言い出された日には(さらにそれを同盟国が「ひとという生きものが美しく見えるのは、こんなとき」などと褒めそやしたなら)ふざけるなとしか言いようがない。乙女の行動はこれと同じことである。

そして命は取らず傷も手当てしてやったとはいえ、生涯不自由な体にされた甚兵衛が、この先生活が苦しくなるにつれて乙女を逆恨みして何らかの報復行動に出ないとは言い切れない。「恨みの鎖を断」つどころか、腕を切り落としたことで新たな恨みの芽を残してしまったのである。
それももともと腕一本で勘弁してやるつもりで決闘に臨んだのではなく、殺す気満々だったのがいざ事に及んだらにわかに日和ったという、要はその場の思いつきで行動した結果なのだ。その程度の覚悟なら最初から復讐など企てるんじゃない。
確かにやってみなくてはわからない事、実際やってみて初めて身に沁みてその重大性に気づくという事だって世の中にはあるだろう。乙女も相手に重傷を負わせて初めて血で血を洗う復讐の無残さを実感した。
しかし実際のところやってみなければわからなかった、不可抗力だったで済ませている物事の多くは、想像力不足や怠慢、他人の意見に耳を貸さなかったことによって引き起こされたのではないか。乙女のケースでも沢庵や宗矩が口々に復讐を止めたのに彼らの話を全く聞こうとしなかった。復讐を思い止まる機会は十分あったはずなのに頭に血が上ったためにその機会を見逃してしまったのだ。

あげくにまいや忠助をも巻き込み(彼らが積極的に巻き込まれたとはいえ)彼らをも死地に立たせておきながら、勝手にもう復讐は止めると宣言して〈いち抜け〉してしまう。
普通ならまいや忠助、僧侶のくせに自分も仇討ちに参加しようとまでしていた平心から〈今さら何を言ってるんだ〉と抗議の声が上がってもおかしくない。
彼らだけでなく仇討ちのため是非にと乞うて剣術を指南してもらった武蔵に対しても大概失礼である。いきなり仇討ちを途中で(半端に)止めたあげく上から目線で「すがすがしくてさっぱりとしたこの気分、武蔵さまに分けてさしあげたい」とはどの口が言うのか。今度は〈さっきまでのわたしは燃えたぎる日輪でしたが、今はお月さまのように大人しく光っているのです〉とでも言うつもりか。
宗矩は「この恨み・・・・・・いまわたくしが断ち切ります」と言って自分自身に刃を向けてから刀を捨てた乙女を、自身の心の三毒を斬った、無自覚のうちに活人剣の奥義を究めたものとして「乙女どのには、そのうちに柳生新陰流のうちの活人剣の免許状を贈ろう」と賞賛したが、すぐ前で宗矩自身が語っているように、活人剣はあくまで「己れの心のうちの三つの毒を切り捨ててから、相手に刃を向け」るのが肝要。まず刀を向け、相手の片腕を切り落としてから三毒を断ったのではまるで手遅れである。
そりゃ全く反省しないよりは反省した方が、殺すよりは半殺しで思い留まる方がまだしもではあろうが、到底活人剣の免許皆伝には当たるまい。そもそも腕を切り落としたこと自体は、後悔してる気配が全くないしなあ。

もっともこれらは全て乙女が書いた芝居だとわかってみれば一応は理解できる。もともと馴れ合いの芝居だったからこそ、平心もまいも乙女の突然の変心に驚きも怒りもせずに彼女の決意を褒めそやす─褒めそやすのにかこつけて、ここぞとばかり武蔵と小次郎に恨みの鎖を切ることの素晴らしさを説こうとする。
二人とも乙女の決意に感銘を受けそれを支持するというのなら、まず乙女に倣って甚兵衛たちの手当てに向かって当然の状況である。まいなど自身の手で敵の額に傷を負わせているのにまるで他人事のような顔をしているが、一連の騒動が武蔵と小次郎を教化する目的で仕掛けられたものであるゆえに、本当の意味で怪我をしたわけでもない斬られ役の介抱などより二人の説得の方が優先するのだ。
沢庵や宗矩が乙女らの仇討ちを止めようとするさいに「殺生はいかん、命あるものを殺めてはいかん」「争いごとはいけませんよ。つまらんことだ」と言うばかりで〈返り討ちにあって命を無駄に捨てるだけだから止めなさい〉とは言わない、多くの弟子を抱えるほどの剣客に素人が挑もうというのだから逆に殺される可能性が高いのに彼女たちの命を気遣う様子が見られない不自然さも、この決闘が狂言とわかってみれば納得できる。乙女(たち)の命を慮る発言をしたのはこれが芝居だとは知らない武蔵の「切ると同時に、あなたも切られるよ」くらいなものだ。
戯曲のト書きには乙女が刀を捨てて甚兵衛の血止めに行った直後に「まだ茫然としている武蔵に平心が、小次郎に、まいが寄り添って」、恨みの鎖を切るのがうんぬんの話を聞かされた二人が「なにか怪しいものを感じて、顔を見合わせる」「二人の様子を、一同がひそかに窺っている気配がある」とあって、乙女仇討ちエピソードの不自然さ、武蔵と小次郎を除く一同が二人に何かを仕掛けている気配を観客に対して匂わせているのだが、実際の舞台ではそれがあまり感じられなかったのは少し残念なところだ。

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『ムサシ』(3)-5(注・ネタバレしてます)

2016-11-28 19:53:58 | ムサシ
第一幕の間、宗矩によってたびたび演じられる新作能『孝行狸』。
二幕になってから続きが語られなくなってしまったこの作品は物語の終盤、正体を明らかにした幽霊たちが成仏する段になって、宗矩が「あの『孝行狸』という謡曲のことだが、おしまいまで仕上がっているんだよ」と唐突にそのオチを話しだす。
内容は「カチカチ山に帰った子狸は、仇のウサギをスパッと二つに切った。すると、ウサギの上半分が鵜になって、下半分は鷺になって、空高く飛び去っていった。めでたしめでたし」。
初見では幽霊たちが悲願叶って成仏するという神々しい場面の中に差し挟まれた突然のダジャレネタに笑ってしまったのだが、改めて見返してみて愕然とした。ウサギ→ウ+サギというダジャレのしょうもなさで誤魔化されていたが、子狸はウサギを真っ二つにして斬り殺している。つまり仇討ちは完遂しているのだ。
〈復讐の連鎖を断ち切れ〉〈命を大切にしろ〉という幽霊たちの訴えに剣客二人がついに刀を収めたその時になって、〈親の敵を見事に討ち果たしました〉という小話が得々と語られるとは。しかもダメ押しのように「めでたしめでたし」と締める。ここまでの物語はいったい何だったのか!?

(2)-7で書いた通り『孝行狸』の元ネタは朋誠堂喜三二の黄表紙『親敵討腹鼓』。井上さんにとっては若い頃に自分の心を救ってくれた思い出深い作品である(※49)
しかしだからといって「復讐の連鎖を断ち切る」がテーマ(であるはず)の『ムサシ』のまさにクライマックスに、仇討ちの成功を描いたこの話を引用するのはあまりに不似合いではないか。

しかも『親敵討腹鼓』は『孝行狸』のように単純に憎い親の敵を討ち果たしてハッピーエンドという話ではない。
『カチカチ山』でタヌキに殺された婆の息子・軽右衛門は主人のため兎の生き肝を欲していたが、母の仇討ちをしてくれた恩人だからとウサギを子狸の手から庇おうとする。
そうと知ったウサギは軽右衛門と子狸、二人の孝心に応え、加えて軽右衛門が出世できるようにと、自ら切腹して軽右衛門に生き肝を取らせたうえで子狸に討たれている。ウサギはむしろ善玉として描かれているのである。
かえって井上ひさし選『児童文学名作全集 1』の浜田義一郎氏による校注(挿絵の解説部分)では「悪い狸」「狸はいかにも敵役らしく」とすっかり子狸が悪者扱いになっている。

泣く泣く生き肝を得た軽右衛門は主人に重用されるようになって老父を引き取り幸せな生涯を送る。
一時ウサギをかくまった江戸の鰻屋「中田屋」は、日照りのため商売物の鰻も泥鰌も手に入らず困っているところへウとサギが飛んできて、大量の鰻と泥鰌を吐き出してくれたおかげで商売繁盛、吐いた鰻の蒲焼だからと当初は「へど前大蒲焼」と看板を出したが、名前が不潔っぽいからと「江戸前」に改名してさらに繁盛したというこれまたダジャレオチ。
この鰻屋の「へど前」→「江戸前」エピソードについては、井上さんも(2)-32であげたエッセイの多くで「ウサギ→ウ&サギ」と合わせて言及してます。

一方で管見の限りエッセイで言及されたことがないのが子狸のその後。
もともと子狸は仇討ちを志したさいに猟師の宇津兵衛を味方につけるべく、宇津兵衛を白狐・むじな・猫又ら化仲間の会合に密かに案内して、狐三匹を撃たせてやった経緯があった。それを恨んだ狐の子が子狸と宇津兵衛の両方を討ち果たすべくまず子狸を買収、子狸に宇津兵衛を穴に誘い込ませたうえでともどもに刺し殺すのである。
親の仇討ちのためとはいえ化仲間を犠牲にし、仇討ちの協力者だった恩人宇津兵衛を売った子狸は自身も親の敵として殺される。子狸の親も仇討ちで命を落としたことを思えば、これこそ「復讐の連鎖」ではないか。

ひるがえって恩あるウサギを庇った軽右衛門、義侠心からウサギを匿った鰻屋は繁栄する。
恩に報いようとする軽右衛門の心に感じ、軽右衛門と子狸の孝を重んじて自ら命を断ったウサギはウとサギに転生し、転生の後も鰻と泥鰌を鰻屋に届けることで「前生の恩」に報いている。
つまり『親敵討腹鼓』は恩を重んじる者は栄え、恩をないがしろにしたり仇討ちを志す者は滅びるという教訓話なのである。ウサギがウサギとしては死ななくてはならなかったのも、彼が人助けとはいえ仇討ちを行った報いであろう。

しかるになぜ『孝行狸』は原拠の〈復讐否定〉要素をすっぱり切ってしまって単純な復讐譚に仕立てられたのか。
あくまで『ムサシ』という芝居のごく一部にすぎない以上あまり複雑な筋立てにできないのは確かだが、「復讐の連鎖を断ち切る」というテーマをラストで粉砕するような、そんな物語を何のために入れ込んだのか。
──さんざん頭を悩ませてみたが、〈「復讐の連鎖を断ち切る」という表看板を素直に信じた観客をあざ笑うため〉以外の理由を思いつけなかった(・・・あとからもう一つ思いついたことがないでもない。これについては後述)。
そう考えると評論家の方々が『親敵討腹鼓』に(『孝行狸』のオチに、と言うべきか。『親敵討腹鼓』との関係に触れなくても復讐否定の物語の最後に復讐肯定の挿話が配置されている違和感は指摘できるはずだから)一言も触れなかったのも頷ける。
『ムサシ』は9.11以降の世界情勢を背景に血で血を洗う報復の連鎖を断ち切ることの重要性を説いた芝居である、として話を綺麗にまとめようとすれば『孝行狸』のオチは夾雑物でしかないだろうから。

(3)-4他で書いたように、井上さんは天皇の戦争責任を語るさいに必ずといっていいほど一般民衆の戦争責任についても言及している。
加えて井上さんは「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく・・・・・・」という座右の銘からも、誰にでもわかる平易な言葉で、つまりインテリではなく「フツー人」に向けて物語や思想を綴る(※50)(※51)、庶民の味方というイメージが強いと思うが、一方で民衆のしたたかさ・残酷さを繰り返し描いてきた。
そのキャリアの初期から中期に書かれた「江戸三部作」のうち『雨』(初演1976年)と『小林一茶』(初演1979年)はいずれも自分たちの安寧な暮らしを守るためによそ者をスケープゴートに仕立てて平然としている庶民の残酷さをまざまざと描いている。
「江戸三部作」の残るもう一作『藪原検校』(初演1973年)においては主人公をスケープゴートとして処刑するのは幕府であるが、そこには彼を見せしめとすることで民の綱紀粛正を図ると同時に人々の残酷趣味を満足させてガス抜きをしようとする計算が働いていた。
ほかにも特に初期の井上戯曲において主人公が一種のスケープゴートとして殺害されて終わる作品は『十一ぴきのネコ』(初演1971年)、『珍訳聖書』(初演1973年)など少なくない。
演劇評論家の扇田昭彦氏はこうした主人公たちに「反秩序、反常識の侵犯性のゆえに犠牲山羊として十字架に架けられたキリスト」の投影を見るが(※52)キリストが自らの意志で民を救済するための犠牲となることを選んだとされるのに対し、井上作品の主人公たちは一応は望まずしてスケープゴートの役を押しつけられる。
(一応としたのは、死が間近に迫ってきたときに自ら望んだわけではないが穏やかにその理不尽さを受け入れたキャラクターもいたからである)

こうした庶民の人間性に対する辛辣な評価は、終戦を境に態度が180度変わってしまった(※53)周囲の人間、とくに大人たちに対する不信感と、早くに亡くなった父親が左翼の活動家だったために幼少期に近隣から「アカの子」扱いされたり(※54)、中学三年から高校三年までカトリックの孤児院で育った井上さんの生育史に関わる部分が大きいと思われる。
「フツー人」を優しく啓蒙しようとする一方で滲み出してくる「フツー人」への悪意──それがフツー人を主とする観客に向けられるのはごく自然なことなのではないか(※Ⅱ)




※49-余談だが井上さんの直木賞受賞作『手鎖心中』(文春文庫(新装版)、2009年。初版1975年)には、ヘボ戯作者の栄次郎が書いたという設定で『吝嗇吝嗇山後日哀譚』なる『カチカチ山』の後日談が登場する。内容は悪狸を退治したウサギがカチカチ山一帯に善政を敷くが、節約好きが高じていろいろ下らないうえ有害なお触れを出す。ついに民衆の非難の声が殺到して兎を退位させるが、後を引き継いだ六人の老兎は凡愚でその隙にカチカチ山は悪狸の遺子たちに攻めとられるというもので、狸は田沼意次、兎は松平定信の見立てとなっている。『カチカチ山』の後日談を劇中劇めいた形ながら自身でも書いてみるあたり、『親敵討腹鼓』に対する井上さんの思い入れを改めて感じる。

※50-「戦後の新メディアであるテレビは「一億総白痴化」(大宅壮一)と非難されもしたが、しかし常に大衆と向き合っていたことだけは確かだ。放送界に身を置くことで、戦後本格化する大衆社会の進展を直に感じ取った井上ひさしは、観客に対して知的で開かれた演劇形式の必要性を強く意識したのだろう。」(中野正昭「日本人のへそ─放送作家から劇作家へ」、日本近代演劇史研究会『井上ひさしの演劇』(翰林書房、2012年)収録)

※51-「「井上ひさしは、はるか遠くからもどかしげに手招きして導くたぐいの啓蒙家ではなかった。同じく社会変革の理想をかかげながらも、戦後的知識人の多くとことなるのはこの点である。保守革新、右派左派を問わず傲岸な権威はもちろん無意識の権力もからかい、笑いのめすと同時に、笑うみずからをも痛烈に笑った。困難な状況にあっては、安定した特権的なポジションは誰にも許されていないことを、井上ひさしはみずからを笑って示した。」(高橋敏夫『むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく・・・・・・ 井上ひさし 希望としての笑い』(角川新書、2010年)

※52-「反秩序、反常識の侵犯性のゆえに犠牲山羊として十字架に架けられたキリストこそ、ある意味ではもっとも典型的にして聖なる道化なのだ」(扇田昭彦「神ある道化──井上ひさし論」、『井上ひさしの劇世界』(国書刊行会、2012年)収録。初出は『國文学 解釈と教材の研究』1974年12月臨時増刊号「野坂昭如と井上ひさし」。その後改訂加筆して『書下し劇作家論集Ⅰ』(レクラム社、1975年)に収録。

※53-たとえば『夢の痂』(初演2006年)には「八月十五日を境に、わたしたちの考え方がすっかり変わってしまいましたね。(中略)百年戦争だ、最後の一人になるまで戦うぞ、みんなでそう絶叫していました。でも占領軍がやってくると、とたんにウエルカムでギブミーチョコレートでしょう。わたしたち、いったいどうしてしまったのだろう」「変わり方のうまいのが、たしかに、わたしのまわりにもいた。次の作戦でかならずマッカーサーを地獄に叩き落としてやる!作戦会議のたびにそう息巻いていた連中が、いまはそっくりマッカーサーに雇い上げられている。そればかりじゃありませんぞ。連中はマッカーサーに「ねえ、あいつは戦争犯罪人です」「あいつもそうですよ」と入れ知恵している。情けない話だ」という会話が出てくる。


※54-「当時(注・戦時中)、子どもにとっての最高のおやつといえばアイスキャンディーでしたが、いつも僕はイチゴのキャンディーしか買えませんでした。まわりから「おまえはアカの子どもだから」と言われ、それしか買うことを許されなかったのです。「おまえはアカの子だから、赤いキャンディーでいいんだ、白いのとかあずきが入ったのはとんでもない」というのです。それは、いじめというより、当時の大人の常識で測ったものの見方でした。国の方針に従わないのは非国民と言われ、ちょっとでもずれると全部非国民として扱われるのが普通だったのです。」(井上ひさし『ふかいことをおもしろく 創作の原点』(PHP研究所、2011年)、「近所にアイスキャンディーを買いにいっても『お前は赤いの食ってればいいんだ』と言って、イチゴのアイスキャンディーしか売ってくれないんです。ぼくだって小豆やミルクのアイスキャンディーが食べたいのに、いつもイチゴですよ。」(桐原良光『井上ひさし伝』(白水社、2001年))。ただ『井上ひさし伝』は少し後で「アイスキャンディー?覚えないな。何から何まで物資がなかったときに、甘いもんなんかあったかね?ひさし君は、本当のことはいわないで、茶化してしまって書いていることが多いからね。茶化さないではいられない心の屈折したところを汲み取ってあげればいいのにな、と思いますね」という五つ上の兄・井上滋の発言を記している。この本は井上さんの生前に上梓された、事前に当人に許可を取りインタビューも行っているにもかかわらず、井上さんの発言の矛盾を明らかにするような箇所がたびたびあって(「一九四五(昭和二十)年八月十五日のことを、ひさしは自筆年譜にこう記している。 〈近くの山で、松根油にする松の根を掘っていると、老教師が泣きながら走ってきて、「日本は戦さに負けた」と告げた。それを聞いてわたしたちは思わず歓声をあげたが、これは松の根掘りが相当の重労働だったせいで、他意はない〉 川西町町民記念講演会では、同じ日のことをこう話した。 「八月十五日は、長井の軍需工場で淡谷のり子の慰問ショーがあるというので、なんとか見ようと朝から出かけてそこに潜り込んでいましたね。淡谷のり子は、音程がはずれていてうまくないと思いました。玉音放送も全然知らないで帰ってきたら、戦争に負けたらしい、と聞いたのです。(後略)」とか)著者の公正さを感じる。

※Ⅱ-「私は自分の忙しさを棚に上げ、世間が慌ただしく井上ひさしを「ヒューマニストの作家」のように乱暴に片づける姿が耐えられない。 井上さんは「悪意の作家」だ。それもやすっぽい偽悪作家ではなく、手間暇かけて磨き上げた「悪意」がいつも作品に込められていたように思う。それが私の誤読だというのであれば、恐らく私は、井上さんの本の「悪意」に見えるところが好きだった。そして、それを言葉だけで目の前に立ちあがらせる井上さんの劇作家としての腕力は、私のようにせっかちにモノを書く人間からすると、本当にうらやましい限りだった。」(野田秀樹「叶わなくなったコトバ」、『悲劇喜劇 2010年7月号』(早川書房、2010年)

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『ムサシ』(3)-4(注・ネタバレしてます)

2016-11-21 18:06:18 | ムサシ
(3)-1で井上さんが「初期からエッセイなどで終戦の日を境に世の中も人心も一変したことへの衝撃や違和感を綴ってきた」と書いたが、井上作品で八月十五日について語られるとき必ずと言ってよい割合で言及されるのが天皇および一般人の戦争責任の問題である。

一般人の戦争責任についてはひとまずおいて、天皇の戦争責任について言及した作品をあげるとすると、その筆頭はいわゆる「東京裁判三部作」(『夢の裂け目』『夢の泪』『夢の痂』)だろう。
『夢の裂け目』(初演2001年5月)は東京裁判が天皇を免責するためにアメリカと日本が共同演出した「仕掛け」であることを暴き、『夢の泪』(初演2003年10月~11月初演)では極東委員会が日本の占領方針として天皇の免責を決めたことが語られ、『夢の痂』(初演2006年6月~7月)では天皇の東北巡幸のさいの宿に決められた家の住人たちがもてなしの予行演習をするうちに熱が入りすぎて天皇役を務めた主人公が戦争責任について国民に詫びて退位を宣言してしまう。後へゆくほど天皇の戦争責任に対する追及がより鋭くなっている感がある。

(やや話が逸れるが、『井上ひさしの劇ことば』は、『夢の裂け目』は成功作だが、イラク戦争の頃に書かれた『夢の泪』とその後の『夢の痂』ではテーマが大きく観念的になりすぎて芝居としての面白みは減じてしまったと指摘している。アメリカ同時多発テロ以前に上演された『夢の裂け目』の時に比べて「あの裁判は一体、何だったのだろう」という問いかけが井上さんの中でより切実になったために、観客との向き合い方もより切迫した余裕のないものになってしまったんじゃないだろうか)(※33)

また『紙屋町さくらホテル』(初演1997年)と『箱根強羅ホテル』(初演2005年)はともに〈皇室の安泰と国体の護持にこだわって「ご聖断」が遅れたために多くの国民が命を落とした〉ことへの批判を強く打ち出している(※34)(※35)。両方とも新国立劇場中劇場、つまり国立の劇場のため(『紙屋町~』はこけら落とし公演)に書き下ろした作品だというのがまた挑発的ではある(※36)

それだけ天皇が戦争責任を取っていないことを繰り返し取り上げていながら、井上さんが2004年に文化功労者に選ばれた際にこれを辞退せず天皇主催のお茶会にも出席したこと、さらに2009年には反体制的文学者が多く辞退している芸術院会員にもなったことに対する批判もある(※37)
井上さんは2001年に上梓された『井上ひさし伝』のインタビューでは過去につい国の賞をもらってしまったことへの後悔を述べていたはずだが(※38)、数年のうちにどんな心境の変化があったものか。
ちなみに同じ2004年に文化功労者に選ばれた蜷川さんは、プロレタリア作家だった父親を戦争で亡くした奥さんに遠慮してお茶会には欠席したという(もっともその後文化勲章の時には行ったそうだ。どうも欠席したことでいろいろ煩わしいことがあったらしく、井上さんはそのへんを察して大人しくお茶会に出席したのかもしれない)(※39)。蜷川さんは「井上さんは、興味があったんじゃないの(笑)。」と書いているが、今上天皇が皇太子時代に現皇后と成婚した「世紀のご成婚」の際のパレードを見物した時のエピソードなど読むと〈要はミーハーなだけなんじゃないの〉という気もしてくる(笑)(※40)

あるいは戦争責任を問われるべきはあくまで昭和天皇であって今上には責めるべき理由がないと考えたからだろうか。
しかし「天皇に自由な人格があって、秩序をつくる者としての権力があればはっきり責任をとれたでしょうが、天皇のおやりになることは常に「神武創業の古」に拠っていました。(中略)いまさら神武天皇を裁くわけにも行きませんから、結局は不問ということになります。」(※41)「何百万の日本人に己が責任で死を与えておきながら、天皇制を維持すること(すなわち国体の護持)を絶対条件にして、体制側がポツダム宣言を受け入れたことを、わたしたちは忘れてはならない(中略)わたしたち国民は天皇制によってこけ(原文傍点)にされたのである。」。」(※42)といった発言からすれば、井上さんが批判するのは昭和天皇個人ばかりではなく─明らかに昭和天皇個人に向けた批判の言葉も少なからず(主として1989年の昭和天皇崩御直後にあちこちに寄せた文章の中に)ある(※43)には違いないが─天皇制というシステムだと見るべきだろう。
(女権拡張論者に噛みつかれて反論した際には、「女性差別の幹と根はどこにあるのか。おそらく、日本では天皇制にある」、天皇制は「日本人の根のところにある身分制的、家父長制的関係の源」とまで表現している)(※44)


(3)-1で書いたように、『ムサシ』には終戦を境に日本が軍国主義から民主主義へと転換した現代日本の姿が投影されている。ならば井上さんの多くの戯曲やエッセイで終戦とセットで語られる天皇の戦争責任はどのように扱われているだろうか。
もとより江戸初期を舞台とする『ムサシ』では正面から昭和天皇の戦争責任が取り上げられることはない。しかし物語の中で天皇についてはたびたび言及されている。
具体的には四ヶ所、寺開きの挨拶の中で平心が沢庵のプロフィールを説明しようとする場面、参籠禅二日目に大徳寺住持の選定に幕府が口出ししてきた件について沢庵が宗矩に相談する場面、沢庵が俗世間では三種の神器を持つ側は持たぬ側を殺してよいことになっているらしいと話す場面、そして小次郎が次仁親王のご落胤だったというエピソードである。

最初の沢庵プロフィールは、後に沢庵が大徳寺住持選定の問題を持ち出すにあたってのいわば仕込みだが、平心の挨拶が長くなりがちなのをたびたび「手短かに」と叱る沢庵が、平心が〈大徳寺は大きなお寺すぎて何から話していいか迷う〉と言ったのを受けて「帝じきじきの勅命によって開かれた臨済禅の大本山、というところから始めてはどうか。さもなくば、大徳寺住持を任命できるのは帝だけである、というところからかな。」「こう始めるのもいい。大徳寺とは、あの信長公の御葬儀をとりおこなった寺であるとな。」と自分の寺の自慢を(宗矩・まい・乙女も乗っかって大徳寺の特徴を次々並べ立てたせいもあるが)長々話すあたり、いかに彼が大徳寺とその寺の住持であることに強い自負心を抱いているかを感じさせる。
(平心が「お静かに!」「寺開きの挨拶が終わっておりませんが」と話をぶった切っているが、宝蓮寺に直接関係ない大徳寺褒めが延々続くのにさすがに苛立ったんだろう)

住持選定の件についても「長老たちが、これはと見込んだ僧を新しい住持として選び、それを帝にお認めいただく。これが、後醍醐帝の仰せによってつくられた勅願寺、大徳寺の寺作法」という表現に勅願寺─天皇の傘の下にあることを誇る気持ちがありありと現われている。
だからこそそこに幕府が口出ししてきたのが自分たちやその背後の天皇に対する挑戦と感じられて面白くない。ゆえに友人であり将軍に顔のきく宗矩を抱きこんで、口出しを封じ、これまで通りのスタイルを通そうと画策する。
しかし「大徳寺の寺作法」に差出口をしてきた幕閣内のある人々を「われら大徳寺禅の仏敵」と呼んで敵意を明らかにしている沢庵は、三毒のうち「怒ること」(「欲張ること」も?)を持っていることにならないか。翌晩まいの生んだ子供・蝉丸が現天皇のイトコチガイになるとわかったとき、まだ小次郎=蝉丸だと明かされていない(〈ご落胤〉が目の前にいるとは知らない)のにふらふらと倒れかかったりしているのも、いかに彼にとって天皇家が絶対的な権威であるかを示していて、三種の神器を持つ=天皇の権威を帯びているか否かで正義の行方が決まることを「滑稽な理屈」だと言っておきながらのその反応は、三毒のうちの「愚かなこと」に該当しそうだ。
名高い高僧沢庵からしてこうも三毒にまみれているとは。まあこの沢庵は本物ではないし、〈心に三毒を持たないものなど(自分自身を含めて)いない〉と言っているのだから矛盾してるわけではないんだが。

そして三種の神器の話。これは言うまでもなく神話の時代から天皇家に伝わる、いわば天皇の象徴である。「武蔵が三種の神器を持っているとせよ。そうすると、武蔵は官軍、賊軍の小次郎を殺してもよいという資格を備えることになる。」「では、小次郎どのが三種の神器を持っていなさると、あべこべに?」という沢庵とまいの会話は、この翌晩の小次郎ご落胤騒ぎへと繋がっていく。
思えば自分は皇位継承順位第十八位だと吹き込まれた小次郎は、〈自分はいわば官軍であり、武蔵を殺してもよいという資格を備えている〉と唱えてさらに居丈高に武蔵に挑んでもおかしくなかったのである。頭に血がのぼって気絶してくれたからよかったが、乙女たちの目論見は逆効果になりかねなかったわけだ。
ここで上でも書いた「三種の神器の行方によって、正義の行方が決まる」ことの馬鹿馬鹿しさを指摘しておいて、いよいよここまでの流れで強調してきた「天皇の権威」を、武蔵と小次郎の決闘をやめさせるための仕掛けとして投入してくる。曰く、小次郎と戦うことは帝に刃を向けることに等しいのだ、と。

これら天皇に関わる話題に共通するキーワードは「権威」ということである。勅願寺や親王のご落胤など天皇の権威を帯びたものに手をかけることがあってはならない、それは天皇自身を汚すことに通ずる、天皇の権威の象徴である三種の神器を持つものが官軍となるのもそれゆえであり・・・・・・それは滑稽な理屈であると。
要するにこれら一連のエピソードは天皇の権威を有難がる者、その威を借りて自身のために利用する者たちを揶揄しているのだ。

『しみじみ日本・乃木大将』(初演1979年)には明治期の陸軍参謀児玉源太郎が山県有朋中将に「(乃木が連隊旗を喪失した事件については)陛下から乃木連隊長に「決して自決はしてならぬ。乃木の命はしばらく朕が預かっておく」という御言葉を下しおかれるべきである、と。つまり、そうすることによって、陛下は将校ならびに兵隊の生命を自由になさることができるのだ、と国民に教え込むわけです。人間の生命を自由にお扱いになる・・・・・・、こんなことができるのは神だけです。ということは、天皇陛下は神になられる・・・・・・。」「天皇陛下をすべての拠り所として国民が打って一丸となる。そうでないとこの日本は列強の餌場になるのほかありませぬ。」(※45)と話す場面がある。
幕府が倒れ、日本が天皇家を頂点に戴く近代国家となったことで、近世以前から脈々と流れてきた天皇尊崇の念、天皇の権威に対する絶対的信仰をさらに強化すべきだと考えた者たちが、天皇を現人神に祭り上げるプロセスがここでは描かれている。そして神である天皇を奉じた官軍─皇軍として、日本は昭和二十年八月十五日まで軍国主義国家としての道をひた走ることになるのだ。
また『人間合格』(初演1989年)では津島修治(太宰治)が戦後実家の番頭格である中北を「あんたたちはみんな古狸だよ。(中略)まんまと化けやがって。それじゃああんまり天皇陛下が哀れじゃないか。(中略)天皇、天皇と、うるさく奉っておいて、マッカーサーが来りゃポイだ。あんまりかわいそうじゃないか。あれほど信じていたのなら、世の中が変ろうが変るまいが、あの御方を大切にしつづけろ。今こそ天皇陛下萬歳を三唱しろ」(※46)と激しく責めている。
さらに『太鼓たたいて笛ふいて』(初演2002年)では林芙美子が「こうなったのは軍部が悪い。天皇さまに責任がある。戦を煽った新聞とラジオがいけない。・・・・・・責任をほかへなすりつけようとする人たちが、この村にも大勢いるわ。(中略)でも、ウソッパチな物語を信じ込んでいたことではみんな同じ愚か者よ。そんな物語をつくりだしたやつ、そんな物語を読みたがったやつ、だれもかれもみんな救いようもない愚か者だったのよ」(※47)と訴える──。

冒頭で書いたように、井上さんが八月十五日について語るとき必ずと言ってよいほど言及するのが、天皇および一般人の戦争責任の問題である。上では「一般人の戦争責任についてはひとまずおいて」おくとしたが、実のところ井上作品では天皇より以上に一般人の戦争責任の方が大きく扱われているのである。
天皇の戦争責任を扱った作品の代表格である“東京裁判三部作”にしても一般人の戦争責任もセットで語られている。すぐ上で引いた『人間合格』など権威として担がれ放り出された天皇にむしろ同情し、担いだ側の民衆をなじっている(もっとも「今こそ天皇陛下萬歳を三唱しろ」という修治の台詞は井上さんの創作ではなく、本当に太宰がそう主張していたそうだが)(※48)
直接には十五年戦争を描かない『ムサシ』も、天皇の権威に対する揶揄的な態度を見るに、同様のスタンスなのではないだろうか。つまり『ムサシ』が示唆するものは、天皇自身の戦争責任ではなく、天皇を権威として祭り上げ利用した者たち─国の上層部の責任であり、その権威を素直に有難がり信じたフツー人たちの責任ではないだろうか。



※33-「『夢の泪』は、二〇〇三~〇四年にかけて上演されました。その当時、世界の動きで大きな出来事はイラク戦争の開戦でした。この問題はテーマのうえで重要なかかわりをもってきます。井上はこう述べています。 「ただひとつ確かなことは、アメリカがあの裁判で日本を裁いたことによって、逆にアメリカも、それを守らなければならなくなったことです。ところが、今度のイラク戦争を見ていますと、アメリカは国連の決議を得られないと単独でやる。イギリスと手を組み、イラクを攻撃し、日本もそのあとにくっつく。とすると、あの裁判は一体、何だったのだろうと。もっと厳しい言い方をすれば、アメリカはあの裁判を行ったことで、自分たちは絶対に「人道」と「平和」に対する、「罪」は犯さないと誓いをたてたのに、自分たちの作ったルールを自分で破っている。そんな無責任な行為は許されるものではない。 果たして、アメリカは「人道」と「平和」に対する「罪」を犯していないかどうか、あの東京裁判によって、世界の人たちがアメリカを裁くことができるようになった。そこが、書きたいんです」 井上の問題意識はよく分かります。が、芝居の具体的テーマが集中せずに、ことばもインテリ的、観念的になったきらいがあります。」「『夢の裂け目』は庶民の目ですが、『夢の泪』『夢の痂』の中心はインテリの議論になっています。そこでは、相手(観客)に東京裁判とはこうなんだと「教示する」演説ことばになっていて、「開示する」劇ことばになっていないと思います。そうなると芝居としては面白くなくなります。」「『夢の裂け目』が成功作であったのに、『夢の泪』『夢の痂』では芝居としての面白みが減じていったのは、やはりそのテーマが大きく観念的になっていき、観客の生活する世界との接点となる人物(たとえば紙芝居屋・田中留吉)が登場しなくなったからでしょう。田中留吉は、予行演習をやりながら東京裁判の実体について「発見」をしていきます。おそらく井上ひさしも発見していったでしょうし、観客も発見していくのです。だから劇的なのです。 ところが「痂」の場合「瑕」とよばれたテーマ(天皇の免罪と国民の(管理人注・国民による東京裁判の)無視)は最初から結論が分かっていて、新しい発見がない。だから観客にとっても教えられたことを受け止めるだけで、受け入れたものをふくらましてはいかない、劇的ではないのです。」(小田島雄志『井上ひさしの劇ことば』(新日本出版社、2014年)

※34-「大日本帝国憲法第一条にこだわっているあいだに、なにが起こったか。(中略)沖縄の守備隊が全滅した。連日の空襲と艦砲射撃によって、わが国の都会の三分の一が壊滅した。そして、広島があった・・・・・・。(中略)さらに長崎があった。その上、ソ連が攻めてきた。そのあいだに、いったい何百万の同胞の生が断ち切られたと思うのか。(中略)戦の本質は喧嘩である。喧嘩であるから、わが国にも、アメリカ、イギリスにも、それぞれ理があり、非がある。立場がちがうのだから、どちらが良くて、どちらが悪いということはできない。したがって、陛下は連合国にたいしてどんな責任もお持ちになる必要はない。(中略)しかし、和平を結ぶという基本方針をお決めになってからの陛下には、国民にたいして責任がある。御決断の、あのはなはだしい遅れはなにか。あれほど遅れて、なにが御聖断か。」(『紙屋町さくらホテル』、『井上ひさし全芝居 その六』、新潮社、2010年)

※35-ソ連を仲立ちとしてアメリカと和平を結ぶことを目指していた外務参事官の加藤は、箱根強羅ホテルでの二日間の体験を通してそれが甘い期待に過ぎないと悟り、局長に「最良の和平ルート」として「陛下が御自らラジオのマイクの前にお立ちになること」を進言する。「「陛下が全世界に向けてひとこと、『朕はやめたい。もう負けました』とおっしゃれば、和平はいますぐ成就いたします」・・・・・」「加藤さんの進言がもし容られていたら、オキナワ、ヒロシマ、ナガサキ、ソ連の満州侵攻・・・・・・どれも起きていませんでした。」(『箱根強羅ホテル』、『井上ひさし全芝居 その七』、新潮社、2010年) 

※36-『井上ひさし全芝居 その六』巻末の扇田昭彦「解説」は、「国が建設した新国立劇場」のこけら落としに新作(『紙屋町さくらホテル』)を書くにあたり井上さんが留意した点の一つとして、「戦前と戦時中に新劇を厳しく弾圧し、戦争で多くの国民を死に追いやった日本の国家指導者たちの責任を浮き彫りにすることを通して、これからの国と演劇の新しい関係を探ること。」を挙げている。

※37-「比較文学者の小谷野敦氏はこう言う。「彼の戯曲『化粧』(82年)と『紙屋町さくらホテル』(97年)は高く評価できます。特に『紙屋町さくらホテル』は、天皇の側近が戦争について詰られる場面があり、その展開はすばらしかった。しかし、その後、井上氏は天皇のお茶会に出たり、藝術院会員になったりしています」」(「追悼 井上ひさし氏が遺した「遅筆」の伝説」、『週刊新潮』2010年4月22日号)

※38-「ひさしが「うかうか三十、ちょろちょろ四十」で芸術祭脚本激励賞に入選したのは一九五八年十一月のことであった。ひさしは、直木賞受賞直前の一九七二年三月には「道元の冒険」で芸術選奨文部大臣新人賞を受賞している。 「お上からの賞はもらわないことに決めていたのに、あのころはついもらっちゃったんですね。新人賞も断わるべきでした。賞をもらってからしばらくは、新年の歌会始めとか園遊会とかの招待がきていた時期があったんですよ。モーニングか羽織袴でこい、と書いてあったからモーニングがないからなどと言って断わっていたんですが、だんだんと、こいつは含むところがあるのだろうということなのか、そのうちまったくこなくなりましたね。天皇の戦争責任のことを書いて、お上のやることに逆らうことばかり書いているのですから、本当はもらわなければよかったのですが・・・・・・」(桐原良光『井上ひさし伝』(白水社、2001年)

※39-「井上さんと一緒に文化功労者になった。授与式のあとに、宮中でお茶の会があった。それで、ぼくは行かないで、女房と一緒に帰ってきた。「井上さん、じゃあ失礼しまーす」と言ったら、井上さんは「え、蜷川さん行かないんですか?あの、ぼくはちょっと中が見たいんで行ってきます」って、井上さんは興味があったんじゃないの(笑)。ぼくは行かなかった。(中略)うちの女房のお父さんは『文藝春秋』の記者で、プロレタリア小説を書くようになった生江健次という作家だったんです。軍報道班員としてフィリピンへ赴き、女房が一歳か二歳ぐらいのときに戦死している。(中略)ぼくの家族には戦死者はいないんですけども、女房にはそういうことがあったから、女房を連れて天皇陛下とお茶なんか飲めないなあと思って。それで「帰ろう帰ろう」って。(中略)「お前の気持ち、そうだよね、そんな赤紙一枚で命を落としたのでしょう」そう思って、行かなかった。(中略)そのあと文化勲章で行きましたけどね(笑)。それはもういいやと思った。来ない、来たっていうのは、あっちではたいへんな話なんだよね。そしたら、文化勲章のとき、天皇は覚えてるんだよ。文化功労者のときはいらっしゃっていただけなかったんですけど、お会いできてよかったですって。すごいよね。」(蜷川幸雄「井上ひさしを伝える」(『悲劇喜劇』、2013年1月号)

※40-「見物人がどっと歓声をあげたのは六頭立ての馬車が目の前を通りすぎてからである。目の底に丸顔の美人と顎骨の張った青年の笑顔が残った。馬車の後部に向って見物人が手を振ってバンザイを叫び、それに釣られて、日頃は天皇制がどうのこうのとナマな口を叩いていた筆者も、思わず右手を二度三度と振っていた。そしてその日一日、手を振ってよかったのかどうか、かなり深刻に思い悩んだことを憶えている。」(井上ひさし「論文の書き方 昭和三十四年」、『ベストセラーの戦後史 1』、文藝春秋、1995年)。もっとも井上さんは読者を楽しませるために露悪的偽悪的な方向に話を盛ることが多いので鵜呑みにはできないが。

※41-「天皇の戦争責任もあります。がしかし、天皇に自由な人格があって、秩序をつくる者としての権力があればはっきり責任をとれたでしょうが、天皇のおやりになることは常に「神武創業の古」に拠っていました。つまり万世一系の皇統を承け、皇祖皇宗の遺訓によって統治するのですから、つまり「過去」が天皇の拠りどころ、権威伝統の源であるわけで、天皇の責任を裁くことは「過去」を裁くということになる。いまさら神武天皇を裁くわけにも行きませんから、結局は不問ということになります。ひっくるめていえば、日本人が開発してきた政治システムは、「責任の所在を明らかに示さない制度」だったのです。変な云い方ですが、これはじつに巧妙なシステムですね。」(井上ひさし「昭和庶民三部作を書き終えて」、『悪党と幽霊』(中公文庫、1994年)収録。初出1988年)

※42-「(尊皇攘夷を掲げていた薩摩侍が体制側に立つや鹿鳴館文化に狂い、西洋人を手本としていたはずが突然「鬼畜米英」を叫んだかと思えば終戦を境に彼らを民主主義の手本と仰ぐようになった)体制側のやり口のこの脈絡のなさ、支離滅裂ぶりを支えているのは「悠々不変の天皇制」であることは言うまでもないが、何百万の日本人に己が責任で死を与えておきながら、天皇制を維持すること(すなわち国体の護持)を絶対条件にして、体制側がポツダム宣言を受け入れたことを、わたしたちは忘れてはならない。体制は国民の生命と国体の護持をはかりにかけ、結局連中は国体の護持のほうを撰択したのだ。下卑た言い方をすれば、わたしたち国民は天皇制によってこけ(原文傍点)にされたのである。」(井上ひさし「われわれの専売特許はいつまでも「呆然自失」か」、『パロディ志願』(中公文庫、1982年)収録、初出1975年)

※43-「一人の人間の生死によって、時間に「明治」だの、「大正」だの、「昭和」だのといった枠をはめられるのはいやだ。そんなものでわれわれのかけがえのない時間を勝手に区切られたくない。そう考えているので、昭和が終ろうが、平成が始まろうが、なにひとつ特別な感慨がない。」(井上ひさし「作曲家ハッター氏のこと」、『餓鬼大将の論理』(中公文庫、1998年)収録、初出『テアトロ』1989年5月)、「昭和天皇がこの世から身を退かれたことをロンドンの宿のテレビで知って、覚えず、しまったと呟いた。昭和を五十四年間も生きてきたのに、昭和最後の日に立ち会うことができないとは、まったくドジな話ではないか。」(井上ひさし「ロンドンの二日間」、『餓鬼大将の論理』(中公文庫、1998年)収録、初出『世界』1989年3月)、「天皇にも戦争責任があるというのが筆者の基本的態度である。むろん重臣たちにも責任があり、さらに丸山真男氏の指摘する第一類型の中間層(筆者流にいえば、在郷軍人会や愛国婦人会や国防婦人会の、各地の中核部分)には多大の責任がある。そしてこれら第一類中間層の燃料になったきは当時のマスコミだったから、そのあたりの方々にも責任を痛感してもらわなければならない。がしかし何にもまして天皇は「国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」(大日本帝国憲法第四条)「陸海軍を総帥」(同第一一条)し給うておられたお方である。大元帥陛下として「総帥の頂点に立ち、すべての命令を裁可してきた天皇」(藤原彰氏)に責任がないなどと、どうしていえようか。たしかに私人としては誠実で、真面目な方であったろう。天皇の記者会見をすべて読む機会があったが、その印象を一言にしてつくせば「邪気なきお人柄」と拝察される。私的には「よき人」であられたようだ。しかし天皇は公人の中の公人でもあった。(中略)物事の進行や集団などを一定の方向に導くリーダーとして、天皇にも責任があったといっているつもりだ。」(井上ひさし「ロンドンの二日間」、『餓鬼大将の論理』(中公文庫、1998年)収録、初出『世界』1989年3月)、「開戦前の御前会議で天皇が、明治天皇の御製「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」を引用されたり、近衛首相や杉山参謀総長に、戦争準備よりも平和的な外交を先行させるようにと仰せ出されたことを知ってい。しかし同時に私たちは帝国憲法の第十一条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」や第十三条「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」を暗誦したし、「統帥系統がかかわる軍のすべての行動は、天皇の裁可した大命によるものであった」(藤原彰)ことも知っている。 私人としてはよいお人柄のお方だろうと拝察申し上げるが、公人としてはどうか。はっきりと責任をお認めになれば、それこそ内に醇風を育て、外に信頼をかちとられたのではないか。かつて少年飛行兵になって大君の辺にこそ死なめと決意したこともあった私としてはそれが口惜しくてならぬ。この口惜しさがおさまらぬうちは私の昭和は決して終わらない。」(井上ひさし「心の内 昭和は続く」、『餓鬼大将の論理』(中公文庫、1998年)収録、初出『読売新聞』1989年1月13日)、「大人になってあのころのことを調べたり先学の書物に学んだりして改めて振り返れば、昭和時代の病患は、せいぜい餓鬼大将の論理をふりかざすのが関の山の、大義名分の欠落にあったのではないかと思い当る。米英との開戦を決定した御前会議の三日前、すなわち昭和十六年十一月二日、東条首相は天皇から、「(開戦の)大義名分を如何に考うるや」と問われた。そのときの東条首相の返答は、あの大戦争の空しさあやしさをみごとに浮き彫りにしているのではないだろうか。東条首相はこう答えたのだ。 「目下研究中でありまして何れ奏上致します」 三日後の御前会議で開戦が決定した。しかし戦争をなぜ仕掛けなければならないのか、その名目(口実でもいいのだが)が決まらない。決まったのは、さらに六日後の連絡会議においてである。「自存自衛」が開戦の名目だった。 当時の支配層の考え方の筋目のなさは、これより少しさかのぼって、同年夏、対米英との戦争の第一原因となった南部仏印進駐の際の、天皇御裁可のお言葉にさえうかがわれる。 「国際信義上ドウカト思フガマア宣イ」 宣くないのです、陛下。筋目を立て、それを堂々と世界に問うて、それから行動をとるべきでありました。」(井上ひさし「餓鬼大将の論理」、『餓鬼大将の論理』、(中公文庫、1998年)収録、初出『文藝春秋』1989年3月)。読み比べるとあっちとこっちで言ってることが違ってたりするが、媒体に合わせて表現を変えた+全く同じ内容を繰り返すのがためらわれたという、よく言えばサービス精神の表れなのだろう。そのまま一冊のエッセイ集に(読み比べるとあちらとこちらで矛盾してるのがあらわなのに)収録したあたり潔いというべきか。

※44-「女性差別の幹と根はどこにあるのか。おそらく、日本では天皇制にある。(中略)天皇は自分から「わたしは神ではない。人間である」と宣言された。したがって、『人間天皇』という位を「男系の男子が、これを継承する」のは、重大な女性差別ではないのか。(中略)「天皇は別よ」と、おっしゃるなら、それはすでにあなたがたが、天皇を人間として認めていないということであり、これまた天皇を差別することになるのではないか。(中略)天皇はなぜ天皇だろう。むろん、天皇だからである。そこに特別の理由はない。すくなくとも日本人には答えられない。この考え方の極にあるのは、に対する差別、女性に対する差別だろう。民は、そしてなぜ女性はなぜ普通人や男性より劣った、低いものと見なされなければならないのか。むろんこの理由もない。つまり、天皇を天皇である、とあがめたてまつる気持と、「民は」、「女性というものは」、と見下す気持とは、見事な対になっているのだ。したがって『女たちの会』の世話人方や『中ピ連』の幹部連が、本気で女性差別と闘うつもりがおありなら、その闘いは、まず、この日本人の根のところにある身分制的、家父長制的関係の源へ向わねばならない。」(「怪電話の怪婦人に与う」、『ブラウン監獄の四季』(講談社、1977年)収録。初出1976年頃)

※45-『しみじみ日本・乃木大将』(『井上ひさし全芝居 その三』(新潮社、1984年)収録)

※46-『人間合格』(『井上ひさし全芝居 その五』(新潮社、1994年)収録)

※47-『太鼓たたいて笛ふいて』(『井上ひさし全芝居 その六』(新潮社、2010年)収録)

※48-「若い頃の彼がなぜ社会主義運動にのめり込んで行ったか、そして敗戦直後、人びとが天皇を「天ちゃん」などと言い始めたまさにそのときに、なぜ「いまこそ天皇陛下バンザイ!ぶべきだと息まいたのか、この劇はその謎を解くためのものでもありました。」(井上ひさし「人間合格──再演にあたって」、『演劇ノート』(白水社、1997年)収録、初出1992年)。この「天皇陛下バンザイ!」という主張は1946年に発表された回想記『十五年間』(青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/card1570.html)、2009年)の終盤に登場する。正確には当時仙台新聞に連載中だった長篇小説『パンドラの匣』の一節を引用した中に登場するのであって、小説中のキャラクターの主張が作家本人の主張とイコールとは限らないが、あえて回想記のラストにこの箇所を引用したことと『十五年間』全編に横溢する一種の潔癖さからいって、「闘争の対象の無い自由思想は、まるでそれこそ真空管の中ではばたいている鳩のようなもので、全く飛翔が出来ません。(中略)日本に於いて今さら昨日の軍閥官僚を罵倒してみたって、それはもう自由思想ではない。それこそ真空管の中の鳩である。真の勇気ある自由思想家なら、いまこそ何を措いても叫ばなければならぬ事がある。天皇陛下万歳! この叫びだ。昨日までは古かった。古いどころか詐欺だった。しかし、今日に於いては最も新しい自由思想だ。」という台詞は太宰本人の思いであると見ていいだろう。

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『ムサシ』(3)-3(注・ネタバレしてます)

2016-11-14 00:54:28 | ムサシ
ここでまた蒸し返すのだが、自己本位の生き方をやめて他人のために働こうとすることと、剣客として生きることとは並び立たないものだろうか。
武蔵と小次郎、日本一を競いあうほどの剣の技量の持ち主がその腕を腐らせるのはいかにももったいない。むしろその腕を弱い人々のために用いることの方が、慣れない農作業よりもよほど人の役に立てるのではないか。たとえば人々の生活と命を脅かす無道な盗賊を叩き斬るとか。
つまりは〈一人を殺すことによって万人を救う〉、柳生新陰流の活人剣の思想である。

(3)-2で述べたように、彼らはもともと剣を持つ者はその腕を弱い者のために役立てるべきだという思想を持っていた。二人に責められた宗矩は「目の前の事実を振りかざして膝詰めでこられると、ちょっと弱いのです。つまり、「争いごと無用」は、いわば追い求めるべき理想であって、天下万民の法としてはまだ完成の途上にあるのでな・・・・・・」と尻すぼみにならざるを得なかった。
その宗矩が、乙女が「恨みを断ち切っ」て父親の仇討ちを放棄した後に、沢庵の話を受ける形で「争いごと無用」の唯一の例外として「一人を殺すことで万人が救われるときは、殺すのが正義としている」と活人剣について説明する。

この「一人を殺すことで万人が救われる」ことを正義とする思想は、『イーハトーボの劇列車』(初演1980年)にもキャラクターの台詞のうちに登場してくる。
「ぼくはこれでも三菱商事の切れ者で通っているんだ。来月からは満鉄へ出向することにもなっている。ここだけの話だけれども、関東軍の石原莞爾作戦主任参謀と組んで満州に一大ユートピアをつくろうというわけだ。ちかぢか満州はわが帝国の手引きで独立するんじゃないかな。(中略)立正護国会の指導者のあの井上日召も、それからいま、陸軍の青年将校たちに圧倒的な人気のある北一輝という思想家も、ともに日蓮宗なんだ。(中略)両先生は、「いま、国は、財閥や政府高官のよこしまな私利私欲によって、誤った方向へ流されつつある」という答をお出しになっている。さて、この誤りを、どう正すのか。両先生曰く、「それは法剣によってのみ可能である」。わかるかい、法の剣だぜ。仏法の剣によって私利私欲をむさぼる奴等を倒す。一殺多生。一個の悪を殺して大勢を生かす」(※20)
日蓮宗の僧侶だった井上日召は「血盟団」を結成し、「一殺多生」「一人一殺」を唱えて〈私利私欲のために国と民を軽んじる極悪人〉と見なした政財界の要人たちの連続暗殺(血盟団事件)を企てた人物である。北一輝は国家社会主義(社会主義と国家主義の両面を併せ持つ)的思想家で、「昭和維新」「尊皇討奸」を掲げて二・二六事件を起こした将校たちの思想的基盤となった人物。つまり両者ともテロリストの思想的主導者といってよい。
そして日蓮宗の一派である国柱会(宮沢賢治も会員だった)に所属していた石原莞爾は台詞のとおりに「満州に一大ユートピア」、王道楽土を建設すべく満州事変を引き起こした。
彼らは─少なくともその思想を奉じて実際に「一殺」を実行した末端の人間の多くは、本気で自分は世直しのため正義の剣を振るっているのだと信じていただろう。しかしそれは視点を替えれば狂信に基づく殺人であり侵略行為となる。「一殺多生」の理念は容易にテロリズムに結びついてしまうのだ(※Ⅰ)

ならば視点を替えることで善悪の立場がひっくり返る可能性のある案件は避け、上であげたような無道な盗賊の退治、乙女のように親を闇討ちされた非力な女性の仇討ちへの助力など、国や時代を問わず万人が善と見做すようなケースにおいてのみ「一殺多生」を認めるべきか。
ただこれだって完全な加害者と思われた側にも相応の事情があるかもしれず、完全な被害者と思われた側にも恨まれる理由があったり、被害の申し立てに誤解や虚偽があったりするかもしれない。
実際乙女の話は全くの嘘だった。正義の剣を振るったつもりで、かえって悪を助ける可能性もあるわけである。

だからこそ柳生新陰流では「活人剣をふるうときは、まず己れの心の中にある三つの毒を殺す」という制約を設けることで、「一殺多生」が濫用されることを避けようとしている(これは実際には(2)の※24で書いたように柳生新陰流の教えというわけではないようだが)。
三毒のうちには「愚かなこと」も含まれているから、〈被害者〉の虚偽の訴えに動かされるような愚か者は理屈からいけばここではねられるわけである。武蔵などお通たち彼を慕う女を受け入れなかったから愚かだと、ごくプライベートな問題を三毒を断ってない証拠として小次郎にあげつらわれていたのは※13で述べたとおりだ。
しかし本当に〈三毒を殺した〉かどうかを客観的に判断するすべはなく、結局は活人剣を振るおうとする者たちの自己申告に委ねられるというのでは何の抑止力にもなるまい。
己の内の三毒を殺さない限り正義の剣といえど振るってはダメだと言われて素直に三毒を殺すべく禅病─ノイローゼになるまで思い詰めるような人間がいたなら、その人物はその時点ですでに十分聖人君子=剣を抜く資格があると思うが、ノイローゼにかかった彼らには本来の目的だった正義の剣をふるうことはもはや叶うまい。
皮肉にも真面目に三毒を断とうとした人間ほど刀を抜けず、端から自分の正義を信じて疑わない(内なる三毒の存在を自覚していない)、あるいは正義を信じているふりして私欲のために乱を起こそうとする人間は変わらずテロに走るわけである。
ならばもう刀を抜くことを法で制限するか、活人剣の思想を幼時から徹底的に刷り込むか(要はマインドコントロール)、いっそのこと刀自体取り上げるかした方が有効だろう。

(3)-1で書いたように『ムサシ』には日本国憲法第九条の精神が読み込まれている。
「ここに父親を騙し討ちにされた女がいる」「困っている人に、ささやかにであっても手をかす。それが剣を持つ者のつとめでないか」に先立って武蔵と小次郎が口にする「なぜ、武士に太刀を帯びることを許しておいでなのですか」「それはつまり、万一の場合には、抜いてもよいということではありませんか」という言葉はしたがって、〈日本には自衛隊があるのだから、有事の際には軍事行動を行ってもよい〉という主張に容易に変換しうる。
以降の武蔵と小次郎の主張も、『ムサシ』を語るうえでよく引き合いに出される9.11以降の世界情勢(※21)(※22)(※23)になぞらえるなら、〈同時多発テロによって国民を殺傷されたアメリカがその恨みを晴らそうとするのに、自衛隊が協力するのは武力を持つものの努めである〉という話になるだろう。暴虐なテロリストを叩き潰すのは国際的正義であり、まさに一殺多生、活人剣の趣旨に叶っていると。
そうしてアメリカが中心となって〈正義〉を実践した結果が※21~23の文章が指摘するところの「世界を覆う暴力の連鎖」「暴力的報復の連鎖」である。
「一殺多生」の理念はテロリストにもテロリストを討伐する側にも利用され、「憎しみの連鎖」を生み出してしまう、ゆえに否定されるべきだ、というのが『ムサシ』の意図するところである(ように見える)。
活人剣を振るうか否かが活人剣を使用しようとする者一人一人の良心、彼らが自ら三毒を断つことに委ねられるのに対し、現代日本においては自発的良心に代わって憲法第九条が活人剣を振るう上での抑止力となるわけだ。そうなると、〈困ってる人、苦しんでる人を見ないふりしなさいというのが日本国憲法ですか〉という話になるわけだが・・・。
(〈活人剣を振るうためにはまず己の三毒を斬る〉はさしずめ〈自衛隊が軍事行動を行うに際しては、隊員一人一人から防衛省長官、総理大臣に至るまで全員が、この派兵・この作戦行動が妥当かどうか心の奥底をとことん見つめ問い直す〉といったところか。そして全員ノイローゼに陥る・・・・・・国が崩壊するわな)

井上さんは、「まずテロリストたちを地球上から消すには、遠い道を行くようだが、アラーの神を信じる人びとに、イスラム世界といえど、その他の世界に背を向けては生きて行けないことを知ってもらうのが第一。これをその他の世界から云えば、彼らの暮らしを豊かにしてあげて、国際社会の中でみんなと一緒に生きることの愉快さを知らしめる努力をすること、それがなによりも大事だ。第二にアメリカにはその独歩主義を改めてもらうこと。平和ボケの理想論を云ってやがるという批判は甘んじて受けよう。しかし、この小さな水惑星の上では、おたがいに折り合いをつけていくしか生き方はないのだ。そのことを両者によく知ってもらいたい。」と書いている(※24)
本人もいうように甚だ迂遠な話であり、現に目の前で起きている殺戮にどう対処するというのか。これはあくまで武蔵と小次郎に責められて「「争いごと無用」は、いわば追い求めるべき理想であって、天下万民の法としてはまだ完成の途上にあるのでな・・・・・・」と小さくならざるを得なかった宗矩と同じ「追い求めるべき理想」の域であろう。
しかしいかに「平和ボケの理想論」と思えても、それを実現することでしか人類が生き延びる道がないのだとすると(自分たちさえよければ他の国は全部滅んでも構わないという立場を取るならまた別だろうが)、どれほど遠い道であろうとも歩いていくしかない。
そのためにはどうすればいいのか。そのための思考実験として、日本人にとって兵法家の代表であり、日本人の代表でもある(※5参照)武蔵にあの手この手を尽くして剣を捨てさせる顛末を描こうとしたのではないだろうか。
※15で引いたように製作発表記者会見の時点でさえ構想がまるでできていなかったにもかかわらず、武蔵と小次郎を「戦わせちゃだめだということだけはわかっていた」。
最初の企画から長い時間が経つ中で、井上さんの中でも書こうとする話の筋が二転三転したらしい(※25)のに、作品を通じて「戦わない武蔵」像を生み出すという一点はぶれることがなかった(※26)

井上さんが『ムサシ』に次いで書いた、結果的に遺作となった戯曲『組曲虐殺』は昭和初期に活躍したプロレタリア作家・小林多喜二を主人公とした物語である。
井上さんが、獄中で苛烈な拷問によって命を落とした多喜二にやはり労働運動の活動家で特高による拷問が原因で亡くなった父親を重ねていたことは、井上さん自身を含め方々で言及されている(※27)(※28)(※29)
この戯曲の中に、多喜二を捕らえにきた特高警察の二人組にピストルを向けた内妻・ふじ子を多喜二が諭す場面がある。
「ふじ子、ピストルはいけないよ。(中略)たがいの生命を大事にしない思想など、思想と呼ぶに価いしません。」「ぼくたち人間はだれでもみんな生まれながらにパンに対する権利を持っている。けれどもぼくたちが現にパンを持っていないのは、だれかがパンをくすねているからだ。それでは、そのくすねている連中の手口を、言葉の力ではっきりさせよう・・・・・・ぼくもきみも、そして心ある同志たちも、ただそれだけでがんばっているのじゃなかったか。ふじ子、ぼくの思想に、人殺し道具の出る幕はありません。」(※30)
特高警察に逮捕されようとしているのに、逮捕されれば今度こそ生きて戻れるかもわからないのに(事実獄死することとなった)、暴力で対抗することをせずあくまで言葉の力で戦おうとした。この多喜二の在り様を通して、武力を用いずに敵を消滅させる─敵対関係を解消して仲間とすることが可能かどうかを、井上さんは『ムサシ』につづく思考実験として描き出したのだと思う。
そして父を拷問して死に至らしめた特高警察は井上さんにとっては親の仇といっていい存在のはずだが、この作品に登場する特高二人、古橋と山本は決して悪人ではなくむしろ人情味ある人物として描き出されている。
年少で自らも小説を書く山本など、多喜二に感化されてその遺志を継ぐかのように全国交番巡査組合を作るための運動を起こすに至る。特高を〈いい人〉として描いた井上さんはこの時点で親の仇に対する恨みは捨てているのだ。
古橋が「このまま行くと、地獄へ行くことになるぞォー。」と叫ぶように山本の前途は実に危うい。おそらく彼の運動は実ることなく、今度は彼が投獄され獄死することになったかもしれない。しかし彼の志もまた誰かが(古橋が?)きっと引き継いでいく(※31)(※32)
武器を取らずして皆が豊かに共に生きられる世界を作る─理想の実現は甚だしく困難である。もとより十年二十年で叶うことではない、何百年かかっても達成できないかもしれない、それでも「あとにつづくものを 信じて走れ」(※19参照)。それが井上さん晩年のメッセージだったんじゃないだろうか。



※20-『イーハトーボの劇列車』(『井上ひさし全芝居 その三』、新潮社、1984年)

※Ⅰ-「東北は飢饉で、兵隊さんたちの故郷はひどい状態になっている。やっぱり資本家が悪い、財閥が悪いというので、昭和一けた代にはいろんなテロ、クーデターが起こりますが、その中には国柱会の会員が多いのです。つまり人が一人死ぬことによって、ほかの人が助かるというのが、国柱会の根本思想の一つです。暗殺事件は一殺多生というのを拡大解釈したものです。」(井上ひさし『講演 賢治の世界』、井上ひさし・こまつ座編著『宮澤賢治に聞く』(文春文庫、2002年))

※21-「フツーの人々のかけがえのない生を言祝ぐことが、恨みの鎖につながれた者の決闘を阻むのだとしたら、『ムサシ』は戦争小説『宮本武蔵』を深くくぐりぬけ集団の戦いのみならず個人の戦い、その精神主義的な戦いの境地(「精神の剣」)までも不可能ならしめた。 恨みと恨みが連鎖し、暴力と暴力とが連鎖して、九・一一事件以後、アフガン戦争、イラク戦争をへたのちも、各地でつづく「新しい戦争」。 この忌まわしい時代に、『ムサシ』は、おなじみの時代ものをステージとして「日本人」の薄暗い伝統にまでさかのぼり、「戦さと恨みの鎖」を断つ亡霊たちの生の賛歌と「ありがとう」の言葉を響かせた。『ムサシ』はいままでにない、そして、いまこそ求められる戦争時代ものの傑作といってよい。」(高橋敏夫『むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく・・・・・・ 井上ひさし 希望としての笑い』(角川新書、2010年)

※22-「現に世界を覆う暴力の連鎖が、ニューヨークの9・11に始まりました。そこから始まったブッシュの復讐、これは復讐ですから、戦争ですらないのです。戦争ならば、戦時国際法、国際人道法 humanitarian lawをお互いに、厳密に守ったことは今まで例がないにしても、とにかく守ろうとしなければいけません。しかしビン・ラーディンの殺害に、アメリカの善良な市民たちが一斉に喝采しました。これは、9・11のときに、パレスチナやアラブの諸国で人々が喝采したのと同じことを、一〇年後のアメリカの善良な市民たちがしているということです。そういうふうに現に世界を覆い続けている暴力の連鎖を、どうやって止められるか。いや、止めなくてはいけないということが『ムサシ』の主題です。これは憲法で言えば、もちろん第九条の問題です。」(樋口陽一「ある劇作家・小説作家と共に〈憲法〉を考える─井上ひさし『吉里吉里人』から『ムサシ』まで─」(井上ひさし・樋口陽一『「日本国憲法」を読み直す』(岩波現代文庫、2014年)収録、初出2013年)

※23-「「ムサシ」が登場するのは、9・11以後「新しい戦争」という暴力的報復の連鎖が世界にひろがり、憲法第九条を「改正」し戦争のできる国家へと押しあげようとする勢力が跳梁する時代である。これはまぎれもなく「現在」の状況だが、ただ「現在」(ママ)おいてのみあらわれた状況ではなく、「決闘好き」「戦好き」「武力での決着好き」としてずっと「日本人」に保持されてきた傾向でもあり、戦後は「日本人」の薄暗い領域で保持されてきた傾向の顕在化といってよい。 井上ひさしは、そんな「日本人」の「決闘好き」「戦好き」を象徴する人物として武人宮本武蔵をとりだし、宮本武蔵から刀と戦をすてさせようと試みたのである。」(高橋敏夫「「日本人」を永く深くとらえる薄暗い領域へ─「ムサシ」、報復の鎖を断つ反暴力の物語」『国文学 解釈と鑑賞957 特集 井上ひさしと世界』(至文堂、2011年2月号)

※24-「あてになる国のつくり方 二」(井上ひさし・生活者大学校講師陣『あてになる国のつくり方 フツー人の誇りと責任』(光文社文庫、2008年)収録。初出は『オール讀物』二〇〇一年十一月号)。なお同書籍収録のコラムと締めの文章を見るかぎり、井上さんは(思想的立場からいって不思議ではないが)同時多発テロでアメリカが受けた打撃について大分冷やかです。(「胸の内では、「一晩で市民を十万人も焼死させ(東京下町大空襲)、一瞬のうちに九万人(ヒロシマ)、七万人(ナガサキ)を生きながら焦熱地獄に突き落としておきながら、なにをバタバタ騒いでいるのだろう。原爆死没者は今年の八月で三十六万人にも達して、来年もまた原爆死没者が数千をかぞえるはず。つまりあの二発の原子爆弾はいまも静かに爆発を続けている。けれども、日本人はあなた方のそういう非人道的行為に報復しようとしただろうか。報復など考えずに、二度とそういうことが起こらないようにただただ静かに祈り続けている。少しは日本人を見習ったらどうか。思うに米国人は、『こんなひどいことが米国で起こってはならない。米国以外の国で起こるのはちっとも構わないが・・・・・・』と金切り声をあげているようにも見えるが、ちょっと手前勝手ではないのか」と切なく叫んでいるのですが、これを云ってはおしまいです。なによりも三千余人の犠牲者の方々に申しわけがないし、だいたいが人間にとってなによりも大切な生存権を侵すような手段にはぜったいに賛成できない。(中略)ちなみに、米軍の誤爆でアフガニスタンの市民が何人犠牲になったか、それをマーク・ヘロルド教授(米ニューハンプシャー大)が試算していて、その報告書によれば昨年十二月六日の時点で、少なくとも三千七百六十七人が誤爆で亡くなっているということです。」(「あてになる国のつくり方 一」(初出は『オール讀物』二〇〇二年十月号)、「アメリカは今、ミサイル防衛システムの早期配備構想を打ち出しています。そういうこともあって、国連人権委員会は、アメリカをならず者国家というふうに判断しています。ですから、二〇〇一年の五月三日に開かれた国連人権委員会では、強大国のアメリカが人権委員会に選ばれていません。「ならず者国家は、国連人権委員会に入る資格はない」という思い切った決定をして、アメリカを人権委員会から外したのですね。国連分担金の払いも悪い。わたしはそういう状況をみて、アメリカというのは悪い国だと言ってきました。そういう折りも折りの、九月十一日です。 日本の過去にさかのぼっても、五七年前の三月十日の東京下町大空襲では、一晩で一〇万人もの一般人が焼き殺されています。(中略)それから、八月六日の広島、八月九日の長崎への原爆投下です。その日のうちに広島で九万人、長崎で七万人の方が殺されています。同時多発テロをはるかに上回る同じ人間が殺されています。わたしはこのことを忘れていません。やはり驕りたかぶった国というのは罰を受ける。」(「終章 競争か、共生か」)

※25-「次は剣豪の宮本武蔵をやります。以前からやりたかった題材です。武蔵と言うと吉川英治さんの名作のイメージが強いですが、私のは少し違う方向になる予定です。焦点は剣が強い、弱いじゃなくて、隠居した武蔵の穏やかな日々の暮しの中で剣の道の思想を描こうと構想していることころ(ママ)です。」(「アーティストインタビュー 世界8カ国語に翻訳された『父と暮せば』に込める国民作家・井上ひさしの平和への祈り」、http://performingarts.jp/J/art_interview/0710/1.html、2007年)。・・・まあ、『ムサシ』でも決闘三昧の時代を卒業しているという意味で隠居してると言えば言えるか。

※26-「(ミュージカルの『ムサシ』について)この計画は頓挫しているのかに見えたが、二〇〇一年になってからもひさしは「また続けてやります」と話している。ひさしがなぜ「ムサシ」(この主人公はもちろん宮本武蔵である)にこだわるかといえば、どうしたら人間は闘わないですませられるか、というひさしがこれまで延々と考えてきたテーマとまさに通底するものがあるからである。(中略)「剣豪の盛りは三十代前半までといわれています。野球選手でも同じで、どんなすぐれた選手でもいつか若い選手にやられてしまうのです。剣豪は、自らの盛りを過ぎたときから、どうしたら試合をしないですませられるかを考えるようになります。 アメリカで武蔵がなぜ売れたのかということを分析してみると、デカルト風の二者択一の分析主義に手詰まりが生じてきたからなんですね。二十一世紀を考える上で、強いものがいつも強いわけではない、それを上回るものが出てきてひどくやられることもあるだろう。それならば、どうしたら闘わないでコトを収めることができるのか、ということです。今年一杯でもう一度検討し直してみるつもりです」」(桐原良光『井上ひさし伝』、白水社、2001年。カギカッコ内は井上さんの発言)

※27-「小林多喜二と、井上さんが四歳のときに亡くなったお父さんがまったく同世代だったということです。井上さんにとって小林多喜二の死は、父・井上修吉の死と同列のものとして受け止められていたんですね。井上修吉は左翼運動にかかわり、前後三回、検挙され、最後は背中を拷問されて脊髄をやられて死んでしまう。(中略)二人は「戦旗」の読者であるばかりでなく、シンパとして配布もしていた。そしてまた、井上修吉は投稿者でもあったということを初めて知りました。それまで小林多喜二・井上修吉・井上ひさしという三者のフォーカスがうまく結ばなかったのですが、その話を聞いて、ピシャッと結びついたことに、一瞬言葉をなくしました。」(今村忠純+島村輝+成田龍二+小森陽一「座談会 井上ひさしの文学① 言葉に託された歴史感覚」、『すばる 5月号』(集英社、2011年)より今村発言)

※28-「井上ひさしの父・井上修吉氏は、最初に書いたように小林多喜二と同時代に、小説投稿者として何度か入選した人で、特高警察に拷問されて、それが原因で亡くなったそうです。井上は、父の志を受け継いで作家になったと言います。(中略)『組曲虐殺』には、井上ひさしの“父の志と、小林多喜二の仕事を、次の時代に受け渡したい”という想いが、あふれんばかりに詰まっています。」(小田島雄志『井上ひさしの劇ことば』(新日本出版社、2014年)

※29-「小林多喜二には、井上ひさしが幼少のころ亡くなった父、小説を書き戯曲を書きそして青年共産同盟の活動家であった井上修吉がかさねられていること。これは同時期に書き継がれていた未完の長篇小説『一週間』(死後刊行、二〇一〇)の主人公小松修吉からも、明らかである。井上ひさしみずから『組曲虐殺』を「父への鎮魂歌」と語っていたという(NHK教育テレビ「ETV特集 井上ひさしさんが残したメッセージ」)。」「小林多喜二と同世代の左翼活動家で、小説や戯曲も書いた井上修吉、そして多喜二と同じく拷問をうけ、じわじわと「虐殺」されていった修吉、「働く者が主人公の世の中が必ず実現する。そうかたく信じていた」修吉。この井上修吉が、『組曲虐殺』の多喜二にかさねられていたのはたしかだろう。」(高橋敏夫『むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく・・・・・・ 井上ひさし 希望としての笑い』(角川新書、2010年)

※30-『組曲虐殺』(『井上ひさし全芝居 その七』、新潮社、2010年)

※31-「最後の「ヤーマーモートー! このまま行くと、地獄へ行くことになるぞォー」という呼びかけがあります。地獄だけれども、そこに向かってあえて進んで行く人たちが存在したこと、そのことを考えさせる芝居として、井上さんの『組曲虐殺』はあると思うのです。」(今村忠純+島村輝+成田龍二+小森陽一「座談会 井上ひさしの文学① 言葉に託された歴史感覚」、『すばる 5月号』(集英社、2011年)より成田発言)

※32-「考えてみれば、社会変革の希望は多喜二にだけあったのではない。人々がそれぞれの苦しい体験のなかでそだてながらも、はっきりとした言葉にできなかった希望を、多喜二が言葉にかえたのである。そして、絶望におちこもうとする多喜二をふたたび、みたび、希望へとさしむけたのはそんな人々の思いだった。人々のやむにやまれぬ希望は、多喜二に受け渡され、そしてつよい言葉によってきたえあげられた希望は、多喜二から人々へと受け渡される。そんな受け渡しの具体的なあらわれが、「九 唄にはさまれたエピローグ」での、山本と古橋の叫びとなった。(中略)二人の二つの絶叫は、多喜二から受け渡された、絶望をくぐりなお捨てない希望の炸裂である。多喜二と接することで、特高もそれぞれのやり方で変化した。」



11/14追記-(2)-7に※34を追加しました。

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『ムサシ』(3)-2(注・ネタバレしてます)

2016-11-06 23:50:17 | ムサシ
・・・などと願望を書きつらねてみたが、実際には二人は別々の道を行き、どうやら剣術自体を封印してしまった。そのきっかけはもちろん幽霊たちに懇願されて刀を収めたことにあるわけだが、そもそもなぜここで彼らは刀を引いたのだろうか。
(2)の※8で引いたように『ムサシ』は「成仏できないで迷っている誰かの言うことを聞いてあげたら、その誰かは成仏でき」るという能の基本形式を根本に持っている。
『井上ひさしと能の関係』は〈生死の境に命の高鳴りを見出すような剣客に正面から人が人を殺すのは許されるかを問いかけても相手は面食らうだけ、その点夢幻能には源平合戦で戦死した武将の亡霊が修羅道に落ちた苦しみを語り回向を頼む「修羅物」というジャンルがある〉と書く(※9)。『ムサシ』が修羅能の形式を取り入れているのは「最上は、井上ひさしの新作」も指摘するところだ(※10)
つまり修羅道に落ちた亡霊たちがその苦しみを語り救済を求めるという話型を井上さんが利用して、武蔵と小次郎がこのまま行けば我が身に降りかかるはずの修羅道の苦しみに思いを致して生き方を改めた、刀を捨てたという筋を作ったと示唆しているわけだが、『ムサシ』に登場する幽霊たちに武士は一人もいない。
偽宗矩の一族は関ヶ原で戦死しているものの、流れ弾にあたって早々に命を落としたという説明からすれば彼ら自身は一人も殺してはいないはずだ。戦場とは無縁の場所で死んだ沢庵、まい、乙女は言うまでもなく、この幽霊たちのうち一人でも修羅道に落ちたものはいないだろう。
成仏できずに苦しんでいるには違いないが、それは当人たちの言う通り、自分の命を軽く扱い、下らないと言っていい死に方をしたために成仏できないのである。
そんな彼らの〈命を大切に〉というメッセージが、周囲には命を無駄にしていると見えても当人視点では命ぎりぎりのところで限りなく充実した生を噛みしめている、ある意味極めて〈命を大切に〉使っている武蔵や小次郎の心を動かすものだろうか?そして修羅能の形式を利用しつつあえてずらしてみせた井上さんの意図したところは何なのか。

おそらく二人は幽霊たちの語るメッセージに胸を打たれたわけではないのだ。(2)-7でも書いたが、はっきり言ってしまえば「成仏を~成仏を~」と懇願する彼らの泣き落としに負けた。死力を尽くして最高のライバルと戦いたいという自分たちの欲望を(小次郎などは六年越しの悲願を)、幽霊たちの願いを叶えてやるために諦めた。
自分たちの都合(成仏)のために他人の命がけの悲願を邪魔したのだからエゴイズム丸出しだが、武蔵も小次郎も〈聞いてやる義理はない〉と突っぱねたりはしなかった。苦しみを訴える幽霊たちを見捨ててライバルと戦いたいという望みを果たすこともまたエゴイズムであるからだ。
(2)-4でちょっと触れた武蔵の求道的生き方の問題点の二つ目がこれである。日々の生活の中で自身を鍛えるのも剣術のみならず茶の湯や仏像彫りや水墨画を究めたのもみんな〈己の人格を磨き上げて全き人間となるため〉。武蔵の脳裏にあるのは常に自分を鍛えること、自分のことだけなのだ。
寺の作事など本来なら至って利他的な行動だと思うのだが、おそらくそれも武蔵にとっては己を鍛える一環として行ったに過ぎないだろう。他人のために何かをしようという視点が武蔵には見事に欠けているのである。

そして武蔵もそのことにまんざら無自覚ではなかった。旅立ちに際し、これからどうするのかと問われて「北の方のどこか、山間の荒地に鍬でも打ち込もうか」と答えた武蔵は「もう三十五だ、そろそろ人の役に立つようなことも考えないとな」と続ける。
自己完結した世界から出て他人、それも権力者などではない普通の人々のために何かをするべきではないのか。いつからか武蔵の中にそうした思いが生まれはじめていた。その思い─求道者としては迷い─が心の底にわだかまっていたからこそ、自分のエゴと他人のエゴがぶつかった時に自分の方が引いたのではないか。
その瞬間、武蔵はもはや「剣を唯一の友として己れの人格を築き上げて行く」自己本位の世界に留まることができなくなってしまった。結果、武蔵はこれまでの求道者としての生き方を、ひいては剣術を捨てざるを得なくなったのではなかったか。

井上さんはエッセイで、少年時代一時期カトリックの孤児院で過ごしたさいに洗礼を受けようと思ったのは聖書やキリストを信じたからではなく、泥まみれになりながら孤児たちのために尽くす神父や修道士を信じたからであり、その後上京して出会った大都会の聖職者の学者然とした在り方と清潔な手に失望したことをたびたび述べている(※11)
己を高めるべく日々研鑽を積むことよりも、その時間と労力を他人、弱者や市井の人々のために捧げることこそ尊い。自身の経験を通じて井上さんは切にそう感じていたのではないか。
それは『泣き虫なまいき石川啄木』(初演1986年)でキャラクターの一人に「ほんたうにアチラのお坊さまは大したものよねえ。見ず知らずの国へやつてきなさつて、見ず知らずの人たちのために親身になつて尽しておいでだもの。そこへ行くと日本のお坊さまは何を考へてござるのやら。やれ悟つたたの、やれこの世は無常だだのと、わけのわからないことを云つて乙に澄してゐるだけでせうが」という台詞を言わせていることからも察せられる(※12)
「人を殺して築き上げた人格などというものには三文の値打ちも」ないという理由ばかりでなく、他人を自分の生活から締め出して自己本位に生きていることにおいても武蔵は批判されているのだ。(※13)
井上さんによれば、史実の武蔵は最晩年、剣一筋だった自身の生き方を間違いだったと感じていたという(※14)。武蔵は刀を捨てることを通して自己本位の生き方をも捨てて他人のために生きることを選んだ。
そして武蔵(と小次郎)を相手に泣き落としを武器に自分のエゴを押し通すのは、ドラマティックな死を遂げた英雄ではなく平凡かつしょうもない死に方をした普通の人間(井上さん流に書くと「フツー人」)の亡霊であってこそできることだった。修羅能の型を用いつつ、幽霊たちを武士でなく庶民にしたのはそのためだろう(※15)
人は他人のために、他人との関係性の中で生きるべき──これが、〈現代日本人は平和憲法を遵守して(刀を捨てて)生きていくべき〉と並ぶ『ムサシ』のテーマだったのではないだろうか。


そして修羅能の形式をあえてずらして見せたのにはもう一つ理由があったと思われる。
引っかかってるのは「こんどこそは、うらめしやなんて古くさいやり方でなく」「このまことを、生きている方々のお好きなお芝居仕立てにくるみ込み」「一生懸命、相勤めましたー」という、乙女をはじめとする幽霊たちの言葉だ。
これまでは「まこと」─ただ〈生きている〉ということがどれほど素晴らしいことか─をごくストレートなやり方で伝えようとしてきたが、今回彼女らはそのような「古くさいやり方」はやめて「お芝居仕立て」で、手を替え品を替え武蔵と小次郎に戦いを放棄させようと謀った。しかし結果はどうだったか。
彼女たちの筋書きはことごとく不発に終わり、「皇位継承順位第十八位」でやっと小次郎を引っかけたものの武蔵にあっさりからくりを見抜かれてしまった。結局二人に刀を引かせたのは戦いをやめることで自分たちを成仏させてくれという哀訴─彼女らがいったんは拒絶したはずのどストレートな「古くさいやり方」だったのだ。
武蔵に結界を破られたために予定していた「総仕上げ」が使えなくなった節はあるものの、最終的には一切の計略を捨てて真っ正面から窮状を訴え懇願したことで彼女らは長年の悲願を叶えることができた。
変に小細工などせず、まっすぐ正直に相手にぶつかっていってこそ思いは届く、という教訓なのだろうか。しかしそれでは、物語を通してより鮮明にメッセージを伝えることを旨とする(※16)」作家として、敗北宣言に等しいではないか。
「虚構は現実を救うというのは、わたしのたった一つの主題(※17)と書いていた井上さんが晩年に至って辿りついた結論がそれだとは、「今年書いた『ムサシ』も『組曲虐殺』も、よい出来だった。この二つが最後なら満足だよ。」(※18)と語っていたほどの作品(※19)に秘められたものが〈作り物の無力さ〉だったとは考えたくない。

そこで思い出されるのが(2)-6で書いた、まいが武蔵の仕掛けた罠にあっさり嵌まったことへの疑問である。
幽霊になる前も白拍子だった、台詞を覚えるのは大得意であろうまいが少し前に口にしたばかりの台詞を本当に忘れるものなのか?実は彼女はわざと罠に嵌まってみせたのではないか。
武蔵が小次郎が貴種だと信じて、あるいは信じずとも小次郎の方に戦意がなくなった以上もはや戦いは無意味と決闘を諦めてくれればそれでよし、しかし乙女の筋書きを見破ったうえでそれを引っくり返してなおも小次郎と戦おうとするようなら、その次の計画を発動させる。その計画が彼女たちの最終行動─幽霊の正体を明らかにしての泣き落としだったのではないか。
沢庵はたまたま結界が破られたために沢庵たちに化けていられなくなり本性をさらすしかなかったように説明しているが、これは正体を明かしたうえでの〈説得〉に移行するための名目に過ぎなかったのだとすれば、「大界外相」の石─寺本来の結界が破れるとなぜ偽沢庵による結界まで破れるのかの疑問も説明がつく。
幽霊による結界が破れたというのは自然な形で正体を明かすための嘘で、小次郎がこの地に足を踏み入れた時からラスト、成仏した幽霊たちが去ってゆくまで結界は健在のままだった(大界外相の石による寺本来の結界は最初から幽霊たちには無効だった)のだ。
となれば結界が破れたために「総仕上げ」のプランが台無しになったというのも当たらない。むしろ結界が破れたことにして本来の(幽霊の)姿に戻って泣き落としにかかるというのが「総仕上げ」のプランだったのではないのか。
そう考えると修羅能の形式を用いながら、幽霊たちをあえて武士や戦没者にしなかったのも納得できる。幽霊の正体を明かした後の彼らは修羅能、「修羅道に落ちた亡霊たちがその苦しみを語り救済を求めるという話型」を演じているのだ。

あの泣き落としは芝居を放棄した結果ではなく、芝居は依然として続いていた。小次郎の名誉欲に弱い性格を見抜いて出自に関する詐欺を仕掛けたように、自己完結してるがゆえに世俗的な欲では動かせない、けれどそうした〈自己完結している自分〉の在り方に疑問を抱きつつあった武蔵の心を乙女たちは見事に突いてきた。
乙女の仇討ち騒ぎの時に「ここに父親を騙し討ちにされた女がいる。それを見ないふりしなさいというのが、柳生新陰流ですか」と〈苦しんでいる人、弱い者を見捨てるべきではない〉という考えを武蔵は口にしている。これは武蔵の心が自己完結した世界から外の人間に向かいはじめていた証拠であろう。
小次郎もまた「困っている人に、ささやかにであっても手をかす。それが剣を持つ者のつとめでないか」と武蔵と同意見だった。
困っている人を放っておけない、放っておいてはいけない。そう言い切った彼らであれば「剣を持つ者」の誇りにかけて、成仏を願いすがりつく自分たちを無視することはできない。そう踏んでの最後の大芝居によってついに彼女たちは本願を達したのである。



">※9-「剣客とは「どっちが上か,おのれか,それとも相手か…ただそれだけをたしかめようと,二つとない命をすてたがる者」(井上2010: 583)である。剣客は試合で相手と向き合うと一瞬のうちに身体が動いて刀を抜き,武蔵に言わせると 「生死の境に立っているときのあの命の高鳴り」(井上2010:582)を味わいたくて「五分と五分との 命のやりとり」(井上2010:614)を続けている。 己が倒すか倒されるかは結果でしかない。このような剣客に向かって,人が人を殺すのは許されるのかと真正面から問うても当人は面食らうだけあろう(ママ)。 剣客に自らの意志で剣を抜かないことを選択させるには何か特別な手法がいる。その点,夢幻能には源平合戦で戦死した武将の亡霊が人間界にあらわれて 修羅道に堕ちた苦しみを語り,回向を頼むという内容の「修羅物」というジャンルがある。内乱が続く中世日本で生まれた能では殺生を生業とする武芸者の生と死は重要な関心事の一つなので,井上も注目したであろう。『ムサシ』では亡霊たちが武蔵と小次郎の前にあらわれ,人を殺すなと必死で伝えるだけでなく謡や舞まで演じて,一見,夢幻能に倣って書かれているように見える理由はここにある。」(坂本麻実子『井上ひさしと能の関係 -『ムサシ』の演能から読み解く-』(https://toyama.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=938&item_no=1&page_id=32&block_id=36)
※10-「例えば三修羅と呼ばれ広く知られる重い曲も思い出せる。戦い明け暮れた罪によって死後は修羅道に堕ちて苦しむというそれらに代表される修羅物のパターンが「ムサシ」にも活かされていた。」「(まいと乙女が演じる舞狂言「蛸」は)能の修羅物に通じており、またこの場面からは老女が月明りに舞う「姥捨」も想起することができるはずである。「ムサシ」という劇の仕掛けがあらかじめ舞狂言「蛸」に準備されていたことは、井上ひさし自身の解説がある。」(今村忠純「最上は、井上ひさしの新作」、『悲劇喜劇』、2010年3月号)。ちなみに「井上ひさし自身の解説がある」とは「『ムサシ』─憎しみの連鎖を断ち切って」のことだろう((2)の※8参照)。


※11-「わたしが信じたのは、遥かな東方の異郷へやって来て、孤児たちの夕餉を少しでも豊かにしようと、荒地を耕し人糞を撒き、手を汚し爪の先に土と糞をこびりつかせ、野菜を作る外国の師父たちであり、母国の修道会本部から修道服を新調するようにと送られてくる羅紗の布地を、孤児たちのための学生服に流用し、依然として自分たちは、手垢と脂汗と摩擦でてかてかに光り、継ぎの当った修道服で通した修道士たちだった。(中略)三年後、わたしは大学に入るために、これらの師父たちに別れを告げ、大都会へ旅立ったが、大都会の聖職者たちはわたしを微かに失望させた。聖職者たちは高級な学問でポケットをふくらませ、とっかえひっかえそれらを〓(掴)み出し、魔術師よろしく、あの説とこの説をつなぎ合せたり、甲論と乙論をかけ合せたりして、天主の存在を証明する公理を立ちどころに十も二十もひねりだしてくれたが、その手は気味の悪いほど白く清潔で、それがわたしをすこしずつ白けさせ、そのうちにわたしはキリスト教団の脱走兵になってしまっていた。」「大都会の聖職者たちは学問をする宗教者、あるいは布教をする宗教者のように身受けられたが、あの師父たちは生活をする宗教者、一挙一動が愛の実践だったように思われる。」(「道元の洗面」、井上ひさし『さまざまな自画像』、中公文庫、1982年)

※12-『泣き虫なまいき石川啄木』(『井上ひさし全芝居 その4』、新潮社、1994年)

※13-『ロンドン・NYバージョン』では削られたが、戯曲には武蔵がお通をはじめお甲・朱實・吉野太夫ら彼に想いを寄せた女性を拒んだことを小次郎が「愚かな冷血漢」と詰る場面がある。

※14-「武蔵には剣の限界がわかっていたと思います。剣で得た人間観や世界観を、政治に生かしたかった。だから法典ヶ原を開拓した。(中略)最晩年の武蔵は、「自分は骨皮髄まで兵法の病にかかっていた」と言っています。敵に勝とうとか、強くなろうという病気にかかっていた。わたしの人生は虚しい燃焼だった。これが武蔵自身による生涯の総括です。 「真の兵法の病に成申候」 とても深い言葉です。百姓の子から太閤関白にまでなった秀吉を目の前に見ていた武蔵が、その出世に憧れて修行に修行を重ねて、人生の終局で、自分の生き方が間違いであったと総括する。 昭和の日本の歴史がそっくり、宮本武蔵という一人の人間の中に入っているような感慨を覚えます。」(「井上ひさし「武蔵が悔いた兵法の病」、『東京人 no264』、都市出版、2009年)、「(柳生宗矩はじめ名だたる剣客が剣を抜くことをできるだけ避けようとしているなかで)宮本武蔵の『五輪書』はいささか異色である。そこにはどうしたら敵を倒せるか、そのときの構え、目の付けどころ、足の運び、呼吸の仕方、刀の振り下ろし方、決闘の場からの立ち去り方などが克明に、それこそ微に入り細にわたって書いてある。 だが、その武蔵にしても、生涯最後の手紙に〈真の兵法の病になり申し候〉、つまりわたしの一生は剣術病にかかっていたようなものだと書いているのには胸を打たれた。」(井上ひさし「無刀流について」、『ふふふふ』、講談社文庫、2013年)。ちなみにこの武蔵最後の手紙は、武蔵の死後に二天一流を学んだ豊田景英が祖父・正剛、父・正修の残した資料を元に著した武蔵の伝記『二天記』(『二刀一流剣道秘要』(武徳誌発行所、1909年)収録)で読むことができる。個人的には本気で自分の生き方を後悔してるのではなく、〈オレってバカだよなあ〉と自嘲しつつもまんざら悪い人生じゃなかったと思っているようなニュアンスを受けました。

※15-井上さんは二人の勝負を止めるのを亡霊にした理由を、「宮沢賢治みたいに「つまらないからやめなさい」という説得では武蔵も小次郎も耳を傾けようとしないでしょうし、だいたい観客席が納得しない。もっと違うレベルで戦いをやめさせないといけないと考えていた時に、ああ、これは亡霊に説得させるしかないなと思いました。すばらしいことに、亡霊役にぴったりの大女優にして怪女優の白石加代子さんもおいでになる(笑)。それで、成仏できない亡霊たちが、再決闘しようとする二人を止めるという筋書きになりました。」「ユンケルの箱でつくった三角錐に役者さんの顔写真を貼った紙人形を、毎日、朝から晩まで眺めて、ああでもない、こうでもないとやっているうちに、自然に、ああ、決闘を止めるには超自然の力でないとダメだなとアイデアが出てくるわけです。」と語っている(「インタビュー 井上ひさし『ムサシ』─憎しみの連鎖を断ち切って」、『すばる』、2009年6月号)。制作発表記者会見の段階ではまだ構想がまるでできてなかった(「戦わせちゃだめだということだけはわかっていた」)とも話していて、昔〈テーマより趣向がまず大事〉だと書いていた井上さんですが、その趣向(亡霊が決闘の止め役を努める)が記者会見の時点でまだ決まってなかったというのに驚きます。

※16-『キネマの天地』(初演1986年)に「お題目をただ正面から堂々と、そして素直に云っただけではだれも感動しないのだよ。そのお題目をひとの心に刻みつけ、ひとを感動させるには、心中物語というウソッパチを仕掛けなきゃならない。」という映画監督の言葉が出てくる。これは井上さん自身の思いでもあると見てよかろう。

※17-井上ひさし「「時間」は作者」(『ふふふふ』、講談社文庫、2013年)

※18-井上ユリ「夫の肺がん173日闘病記「ひさしさんが遺したことば」(『文藝春秋』2010年7月号)

※19-「死を覚悟した井上ひさしが、『ムサシ』と『組曲虐殺』という戯曲をならべて、「この二つが最後なら満足」と語るのは、いったいなぜか。 『ムサシ』と『組曲虐殺』には、井上ひさしの作品に最初期からずっと見え隠れしていた「希望」が─社会と人間関係の現況に苦しみ絶望する者の、その絶望ゆえに新たな社会と人間関係の変更をねがう「希望」が、あざやかにあらわれているからだと、わたしは思う。 しかも「希望」はここで、一人の「希望」から、つぎの人へ、つぎの多くの人々へと手渡される「希望」へと転じている。 『ムサシ』では、フツーの亡霊たちの「生きたい」という「希望」が、「戦う」ことを捨てフツーの人にもどった武蔵と小次郎に手渡される。『組曲虐殺』でそれは、わずか五カ月後に「虐殺」という悲劇的な死をむかえる小林多喜二が歌う「信じて走れ」に、はっきりとよみこまれている。(中略)井上ひさしは、厖大な数の歌をつくったが、「あとにつづくものを 信じて走れ」のくりかえされるこの歌ほど、ヒロイックなまでに苛烈な希望の歌は、ほかにない。」 (高橋敏夫『むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく・・・・・・ 井上ひさし 希望としての笑い』(角川新書、2010年)





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『ムサシ』(3)-1(注・ネタバレしてます)

2016-10-30 23:55:30 | ムサシ
高橋敏夫氏は『むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく・・・・・・』の中で、「突飛にみえるかもしれない」と断りつつ、『ムサシ』という物語、武蔵が最後小次郎との戦いを放棄する展開に憲法第九条のあるべき姿を重ね合わせる(※1)
井上さん自身も〈『ムサシ』の結論は、これからの日本は平和憲法に則って戦いに拠らず話し合いでもめごとを解決すべきであるということ〉だと話している(※2)ことや、この物語の舞台となるのがいつなのかを考えれば、これは決して突飛な解釈ではない。
冒頭の舟島での決闘を除く、鎌倉の宝蓮寺で展開されるメインの物語について、脚本最初の「とき」には「元和四年(一六一八)夏の四日間。」とだけあって具体的な日付は書かれていない。ただ実際の日付がいつだったのかは、小次郎が武蔵に宛てた果たし状によって知ることができる。
そこには再決闘の時を「来る八月十六日朝、辰の正刻(午前八時ごろ)」と指定してあり、それを読んだ(宗矩たちが読み上げるのを聞いた)武蔵は「明々後日の朝か」と言っているので、参籠禅一日目が八月十三日なのがわかる。これはその晩、まいと「蛸」を舞う前の乙女の台詞(「さいわい今夜は十三夜」)でも裏付けられる。
そしてクライマックス、武蔵が予定を早めて小次郎と仕合うことで、自分たちの決闘をやめさせようとする何者かをあぶり出そうとするのは参籠禅三日目の真夜中。──つまりは八月十五日、終戦記念日である(※3)

初期からエッセイなどで終戦の日を境に世の中も人心も一変したことへの衝撃や違和感を綴ってきた、そして中期以降の多くの、21世紀に入ってからはほとんどの作品でいわゆる十五年戦争を取り上げてきた井上さんが、終戦の日を意識することなく八月十五日という日付を設定したとは思えない。「とき」では「夏の四日間」とぼかした書き方をして、作中でもはっきり八月十五日という日付を出さないのも、戯曲をよく読んで初めてわかるように仕向けてあるのではないか。
ちなみに旧暦の八月は秋なので「夏の四日間」というのは本当はおかしいのだが、小説・戯曲とも時代ものも手がけている井上さんがうっかり間違ったとは考えにくい(※4)。これも八月十五日という日付に昭和二十年の夏の日を意図的にだぶらせたための齟齬ではないか。
第二幕の序盤、「第二日・たそがれどき」の場面では沢庵の説法中に月の美しさがたびたび強調されているが、これらも中秋の名月、つまりは八月十五日が近いのを暗示した台詞だったのかもしれない。
要するに、武蔵と小次郎は終戦記念日に戦いを止め兵法者としてのこれまでの生き方を捨てて、安寧な暮らしを選び取った。そこには当然、終戦記念日を境に軍国主義を捨て平和憲法を掲げるに至った現代日本人の姿が投影されていると見るべきだろう。
もともと井上さんは、武蔵──吉川英治氏が描いた宮本武蔵像に典型的日本人のイメージを見出していた(※5)。『ムサシ』が史実の宮本武蔵ではなく吉川武蔵のその後を描くことを選んだのは、井上さんが子供の頃吉川氏の『宮本武蔵』を愛読していた、『ムサシ』の原点というべきブロードウェイでのミュージカル化企画が吉川英治原作でやる予定だった(※6)
ことと並んで、武蔵を日本人の代表として描く、武蔵の生き方に日本人の生き方を重ね合わせるためという要素も大きかったのではないか。

ただ個人的には、幽霊たちの懇願を入れて今回の決闘を取りやめるのはいいとして、刀まで捨てることはないのじゃないかとも感じる。確かにはっきり刀を捨てたとは書いてないものの、宝蓮寺を出立するにあたって、武蔵は「北の方のどこか、山間の荒地に鍬でも打ち込もうか」、小次郎は「越前あたりの寺の軒下でもかりて、境内の草むしりでもはじめるか」とおよそ兵法者とも思えぬ今後の予定を語っているところからすれば、彼らはこの先百姓として、寺男として生きていくつもりらしい。
いや、「鍬でも」「軒下でも」という曖昧な言い回しが示唆するように彼らはぜひ農作業がしたい草むしりがしたいと思っているわけではない。地味だが平穏な(武蔵の場合「山間の荒地」だから平穏とはいえないかもしれないが)暮らしの一イメージとしてこれらを挙げたに過ぎないだろう。
ただこれまでの生き方を捨てて、刀も捨てて生きていこうという意志は明確に感じられる。またそうであってこそ上で書いた〈戦後日本の投影〉も成り立つ。
しかし、「生死の境に立っているときのあの命の高鳴り、すぐに死なねばならなくなるかもしれない、しかしこの瞬間だけは体全体を使っていきいきと生きている。あのときの沸き立つような命の瞬間がまた味わいたくて、おぬしに止めを刺さなかったのかもしれないな」という武蔵の台詞。これは冒険家やレーサー、格闘家といった命がけのスリルを伴う職業を選んだ人たちは大いに共感するところなのではないか。
これほどの充足感、幸福感を人生のうちで何度味わえることか。むしろ一度も味わうことなく一生を終える人間だって多くいることだろう。
命を失う危険を冒しても真に充実した生を得たいと願うことは頭から否定されるべきなのか。その人間の死によって精神面でも生活面でも直接の打撃を被る家族や恋人・親しい友人ならともかく、赤の他人が彼らの生き方にとやかく口出しする資格があるのか。
今作品の沢庵(幽霊)は、武蔵と小次郎のみならず二人の試合相手から観客まで全て「鈍の鈍の行き詰まり」だと決めつけたが、彼なら上掲のような広義のアスリートたち、鈴鹿や後楽園に詰めかける観客たちも「鈍の鈍」だと言うだろうか。

(『シャンハイムーン』(1991年初演)で井上さんは作中人物に「すぐ決闘をしたがるやつ、無謀な冒険家、能力以上の仕事を引き受けてむやみに忙しがっている働き蜂、無茶なスピード狂」などは「こころのどこかで自分を破滅させようと思っている」のだと言わせている(※6)ので、井上さん的には彼らも「鈍の鈍」のうちのようだ。
しかし「能力以上の仕事を引き受けてむやみに忙しがっている働き蜂」というのは、晩年まで年数本の新作戯曲を執筆し、さらに小説・エッセイ・対談・社会活動も手がけて絶えず締め切りに追われ破り続けていた自身への韜晦のようでもある。その一種命を削るような壮絶な執筆活動・創作意欲については『初日への手紙』(Ⅰ、Ⅱ)や「『ムサシ』──憎しみの連鎖を断ち切って」」(※7)、、井上ユリ「夫の肺がん173日闘病記」(※8)などから窺い知ることができる。
つまるところ井上さん自身も「生死の境に立っているときのあの命の高鳴り」を実感をもって知っている、「間接自殺、あるいは慢性自殺」だと自嘲しながらそうした生き方を楽しんでいたんじゃないだろうか)

もちろん危険な仕事やスポーツに人生を賭けることと、真剣で斬り合うことは同質ではない。登山やレース、格闘技も自分のミスで己のみならず仲間や対戦相手まで殺傷してしまうことがあるが、決闘は基本的に仕合ったどちらかが死ぬ。万が一の時は死ぬ覚悟もしていることと死んで当然とすることとは大きく違う。
──だから何も刀、というか剣術を捨てずともよい。沢庵の言うように刀で立ち会えば死人が出ることが問題なのであって、つまるところ殺さないように戦えばいいわけである。
具体的には必ず寸止めにする、それが難しいなら刀の代わりに竹刀や木刀や某漫画の逆刃刀のような武器を用いる、さらには防御力もあげるため鎖帷子や防具を身につけるといったところか。要は死の危険を上掲のスポーツ程度にまで引き下げて、道場剣術に近づけばよいのだ。
命のやりとりを避けようとすれば「生死の境に立っているときのあの命の高鳴り」は大分目減りしてしまうだろうが、それは「またとない相手」と二度三度戦うことができる喜びと引き換えである。
負けた方はその口惜しさをバネにさらに修行を重ね、勝った方はパワーアップして再戦を挑んでくるはずの相手を迎え撃つべくこちらもさらに修練を積む。そうしてお互い同士より強く高めあっていける。あれだけ再び戦えることを喜んでいた武蔵と小次郎ならそういう関係になれたはずだと思うと、何だかもったいない気がしてしまうのである。

ついでに言えば、ラスト二人はそれぞれの道に分かれて旅立って行くが、二人で一緒に暮らすという選択肢もあったんじゃないか(ドラマ的にはあそこで二人が袂を分かたないと恰好がつかないのはわかっているのだが)。
日々一緒に荒れ地の開墾やら草むしりやらに精を出しつつ、相手のわずかな隙をついて、刀では剣呑なので、小次郎が皇位継承十八位で失神した後のように扇子で突然打ちかかる。いつ何どき相手が(扇子で)襲ってくるかわからない。そしてその日、より多く打たれた方が翌日の食事当番をやるとか(その食事もうっかり食べると唐辛子が山ほど盛られてたりするのだ)。まさに武蔵が目指す「毎日の暮らしの中に戦場をこしらえ、その中にわが身をおいて、心と技とをたえず鍛えて行く」環境ではないか。
「剣を唯一の友として己れの人格を築き上げて行く、それが武蔵の道です」と武蔵は言ったけれど、剣だけを友とする孤独な生き方でなく、これなら志を同じくする友・小次郎と一緒に人格を築き上げてゆけるんじゃないだろうか。何か書きながら楽しくなってきました(笑)。



※1-「(戦うことを避ける武蔵がイメージされていく過程に)日本国憲法とりわけ「戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認」を謳う第九条がつよく関係していたのはなんとも興味深い。 「武蔵と第九条」という組み合わせは、あるいは突飛にみえるかもしれない。しかし、戦後五十年を数え戦争体験者が激減しつつあるなか、かつては自明な「戦争と第九条」の組み合わせのリアリティは失われていく。それが第九条「改正」の声の高まりにつながっているとすれば、「戦争と第九条」の組み合わせを、新たな組み合わせによって生きいきと再提出しなければなるまい。(中略)『ムサシ』は、日本人がながらく保持してきた「戦う」武蔵像を、「新しい戦争」と関係づけることによって暴力と憎しみの連鎖の悲劇をはっきりさせると同時に、「戦う」武蔵像を維持しつづける日本人がそうした連鎖と無縁でないことを指し示した。 「戦う」武蔵像を、生きることに目覚めたフツーの人々が力をあわせて転倒し、ついに「戦わない」像をつくりだすという『ムサシ』の物語的展開──それは、かつてそうであるべきだった第九条づくりの理想であり、かつ今後の第九条堅持のためにたえず必要になるべき運動そのものである。」(高橋敏夫『むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく・・・・・・ 井上ひさし 希望としての笑い』、角川新書、2010年)

※2-「戦うための兵法や軍事的な備えをしておく必要があるかどうかは今は問いませんが、本当の剣の達人は、勝負するところへは持ち込まない。コツコツと外交的な努力を重ねること、それ自体が剣術そのものであって、戦うところには足を踏み込まない。それが剣の極意です。そしてわれわれは、すべてのもめごとを話し合いで解決するという日本国憲法を持っている。日本人としてはこれで生きるしかない。これがわたしの戯曲『ムサシ』の結論です。」(「井上ひさし「武蔵が悔いた兵法の病」、『東京人 no264』、都市出版、2009年)

※3-「真夜中」なのですでに深夜0時を回っていた可能性もあるが、明治五年に定時法(午前0時を一日の始点とする法則)が法制化されるまで、一般には不定時法(夜明けをもって一日の始点と考える)が普及していた。ト書きの「第三日・真夜中」という表記からしても、十五日のうちの出来事として描かれているのは間違いないだろう。

※4-たとえば1979年初演の『小林一茶』には「母が思いをおれに残しつつ世を去ったのは八月十七日、秋風が吹いていたにちがいない。」という台詞がある。この『小林一茶』で俳諧を5テーマにし、『芭蕉通夜舟』(初演1983年)も含めての俳諧師五部作を構想していた井上さんは季語にも精通していたはずで、まず旧暦八月を夏と間違えることはないだろう。

※5-「森羅万象からいつもなにかの教訓を引き出そうとしてやまない謙虚な強欲さ、たえず自らに戒律を課してそれをコツコツ守って行くことにささやかなよろこびを見出す貧乏性の求道精神、高みを仰ぎながらもその日その日を充実して生きることを至上とするその日暮しの理想主義、己が職業に徹することが治国に参加する捷径であるとするノンキ坊主な天下国家観、大自然との交感を大切にする汎心論的エコロジスト。以上をひっくるめて生真面目で勤勉な、明日を信じる楽天家。──これが教養小説の手法を援用しながら吉川英治がつくりだした武蔵像である。ところでこの像はだれかと似てやしないだろうか。問うまでもなく読み手であるわたしたちと瓜二つだ。吉川英治は『宮本武蔵』という小説の中にわたしたち普通の人間の原型を、その忠実な肖像画を描いたのである。こういう小説が読者に歓迎されるのは理の当然ではないだろうか。」(「宮本武蔵 昭和二十五年」、井上ひさし『ベストセラーの戦後史 1』、文藝春秋、1995年)

※6-「間接自殺、あるいは慢性自殺、もっとくわしく言うと、ゆっくりした自己破壊願望、これは意外に例が多いんです。まず、酒びたりがそうですな。それから、すぐ決闘をしたがるやつ、無謀な冒険家、能力以上の仕事を引き受けてむやみに忙しがっている働き蜂、無茶なスピード狂、そして勝ち目のない戦をいはじめてしまう将軍。みんな、こころのどこかで自分を破滅させようと思っているんです。」(『シャンハイムーン』、『井上ひさし全芝居 その5』(新潮社、1994年)収録)

※7-「芝居を一本書き上げると、必ずどこかガクーンと機能が落ちてくるんですよ。歯が抜けたり、手足がしびれるようになったり、確実に老化していく。その行き着く先は死です。」(「インタビュー 井上ひさし『ムサシ』─憎しみの連鎖を断ち切って」、『すばる』、2009年6月号)

※8-「夏に上演予定の沖縄を舞台にした新作『木の上の軍隊』の執筆に、ひさしさんは最後まで意欲を燃やしていました。がんがわかった時は、「よい作品が最後に二つ書けたからもういい」と言っていたのに、資料を読めば読むほど新しい芝居を書きたくなるのです。沖縄についての資料を取り寄せて目の届くところに並べ、読み込んでいました。(中略)「やっぱり沖縄が書きたい。悔しい」と何度も口にしていました。」「何を見ても聞いても、ひさしさんは「芝居になる」と思ってしまう。病院でも壁越しに患者さんとお医者さんの会話が聞こえてくると、「これはおもしろい、芝居になる」と言います。もう、あと、七十五年生きても、まだまだ足りないぐらい、限りなく書きたいものが湧き出てくる人でした。」(井上ユリ「夫の肺がん173日闘病記「ひさしさんが遺したことば」、『文藝春秋』2010年7月号)



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