想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

シンギュラリティはいつ来る?人類はどう生きたらいいか?

2024年07月18日 | エッセイ
コロナ5年7月18日(ウクライナ、ロシア戦争3年)

 日頃から、生成AIの言葉を聞かないときはありません。私たちはまさにこの時代に生きているわけです。その進歩の先には、否応なしにシンギュラリティという、この時代が必ず来るはずです。

 さて、私たちはこの時代をどう生きていったらいいのでしょう。全人類の英知をAIが超える時代の転換点です。ただし、AIが意識と感情を持つまでには大きな議論や規制がかかってくるはずです。

    できる技術はあっても、そう簡単に人間のような感情や意識を持たせるまでには広い議論がなされるでしょう。私としてはそこは、倫理的な規制が入りノーとなるのではと想っています。また、できたとしても、医療や教育などある一部に利用されるんだと考えます。

    結局は人間の制御のもとでの利用方法とならざるを得ないでしょう。そうでないと、何のためのシンギュラリティであるか分からなくなってしまいます。ここだけは、人間が譲らないようにしないといけません。

 一旦、意識や感情を持つ彼らAIロボットに自由にさせたら、人類が滅びることにもなりかねません。ここは慎重に考えてAIを作り上げていかないと、後で、飛んでもないことになりかねません。

 そこをちょっと、心配をしていますが、まあ、人類はそんなに浅はかではないはずです。所詮は人間が生み出しだAIです。人間が管理するはずです。そう信じています。

 以下、参考的に今の新しい考えを列挙してみます。

 シンギュラリティは、AI が進化する過程で人間の知性を超える転換点を指します。具体的な時期については研究者によって意見が分かれていますが、いくつかの予測があります。
  1. 2045年: レイ・カーツワイル氏をはじめとする多くの研究者が、2045年に技術的特異点を迎えると論じています。この時期には人類の何億倍もの知能を持ったAIが登場すると予測されています。

  2. 2030年頃: 神戸大学名誉教授の松田卓也氏は、シンギュラリティが2030年頃に訪れると予想しています。

  3. スチュアート・アームストロング氏は2040年説を提唱しており、2030年頃にシンギュラリティが到来すると考える有識者も存在します。 
 シンギュラリティの影響は雇用の減少や社会制度への変化などが考えられていますが、未来の展望はさまざまです。
 
 私としては2030年ごろにはその技術は完成するだろうと予測してますが、それが、日常に波及していくには、政治や社会制度、法律、自然災害などもあり、まだまだ、その後、数十年は有にかかるだろうと思います。技術は完成したけれど、その後の歩みは遅々として進まないものと想います。人間と、機械は違うということだろうと思います。

 もっと、人間そのものが進歩していかないと、大変なことになるのだろうと予想します。今後はAIが進歩すればするほど、人間そのものも進歩していくだろうと想います。人間とは何か、AIとはどこが違うだろうか等、人間そのものの良さに気づいていくものと想います。人間の尊厳、人類の尊厳その両面からのアプローチがますます重要になってくることでしょう。

 AIの進歩は多方面に影響を及ぼして来ています。ましてや、シンギュラリティが、実現した暁には社会へのインパクトはより大きなものになるのでしょう。しかし、私たちの生活はそれだけではありませんので、より複雑にほかの生活と影響しあうようになるのでしょう。また、真偽の問題や、仮想と現実の混雑も大きな問題です。

 ただ、細胞や生物学的にレベルにAIも進化してくると、また、大きな議論が沸き起こり、今後の大きな社会問題となってくることは必至の情勢です。そんな反動から、より一層人間とは何か、幸せとはどういうことなのか、などの人間ルネッサンス的なことが各地で起こってくるものと想われます。
 
 やっぱりすべてのことを解決するには、ルソーではないですが、自然に帰り、自然とこの青い地球で共存していくことがベストなことではないでしょうか。

 だから、私の考えは自然から学び、自然とどう協調して共存できることがもっとも大切なことだろうと考えます。人類は自然から生まれ自然に帰るのです。

 いつでも、自然と共に、それが、唯一人類の生きる道だと思います。自然のコントロール下にすべてを置き行動することが最も大事なことだと想います。

 「AI 自身が AI を開発するようになる」とい AI がみずからプログラムを作り、人間が介在することなく AI の開発を進めるようになると言われていますが、ここでも人間が制御する範囲内での活動になるよう、規制がかかるはずです。

  従来は人が担ってきた作業が AI に置き換えられ、無人化や省力化が進むと考えるの妥当な考えです。事実そうなってくるでしょう。 現在でもスーパーマーケットやコンビニエンスストアのレジは、一部が無人化されているのを見かけることがあります。 

 AI がレジ担当者の役割を果たすようになれば、会計を人の手で行う必要はなくなるでしょう。 実用化に向けて実験が進められている自動車の自動運転も同様です。 AI が危険を予測し、法令に則って自動車を操縦できるようになれば、運転手という仕事はなくなる可能性があります。

  AI が人の仕事を奪うという表現を耳にすることがありますが、シンギュラリティが現実のものになれば十分に起こり得る事態と言えるでしょう。 AI が業務の生産性を向上させ、企業は最小限の人員で利益を上げられるようになれば、人が担うべき仕事は現在よりも格段に少なくなります。

 ですから、多分週休3日制ぐらいが、当たり前になる時代になるのではないでしょうか。そうすると、必然的に、生活保護との関連から「ベーシックインカム」の導入も検討され、ますます多様なライフスタイルが実現され、生きがいとは何か、QOLとはな何かなどの問題も盛んに取り沙汰されるようになるのではないかと想います。労働の意味が旧来と大きく変わってくると想われます。

 これだけAIが進歩してきますと、これからはAIを動かす力、 AIとのかかわり方、 AIの性格を理解することの力がより大切になり、従来とは違った知恵というか能力が求められる時代がくるはずです。気づく力、直観力、調整力、人間関係はもちろんのこと、 AIとのかかわり方、芸術的な発想というかものの考え方など新しい人間の能力が、より重要になってきます。また、感性溢れた人間がより魅力的にも見えてくるでしょう。

 まあ結論から言うとシンギュラリティというのはくるでしょうけども、自然の流れのなかで、自然に溶け込んでいくのではないかと思います。社会のふとことは深く、日常生活は今と、大きくはかわらないでしょう。やはり、人間が中心になり、主体となってAIと人間関係を作っていけるんじゃないかと思います。

 心配するほどではなくて、ごくごく自然な流れの中で一緒に生活するような時代が来るんじゃないですか。私はそれほど心配してません。そんな世の中がいっぺんに変わるものではないと思っております。



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現役最後の頃の学校での様子

2024年07月11日 | エッセイ
 コロナ5年7月11日(ウクライナ、ロシア戦争3年)

 こんなこともあったんだなと、今では懐かしく想います。懐かしい写真が出てきました。もともとは、工業高校電気科の出身でしたが、いつの間にか、小学校の教員として働くようになりました。そこで、36年間働きました。

 これは、私が研究授業で、小学2年生に算数を教えているところです。後ろで記録をとっているO先生とは今でも卓球仲間として交流があります。彼は私より一回り違いです。私が上になります。
 
 パソコンを使って授業をやっていたと想います。プロジェクターで黒板に投影をしていたかな?


遠足に行った。帰りかな。






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磨け観察力!自然から学ぶ謙虚な姿勢

2024年07月10日 | エッセイ
コロナ5年7月10日(ウクライナ、ロシア戦争3年)

 動物をよく観察してますと、例えばカラスですね。カラスが飛ぼうとする時どういう動作をするかと言うと、カラスはやっぱり一旦、体をかがめて低くしますね。そして一旦かがめて体を低くして、それから、ぴょんと飛び上がります。

 他にも猫が獲物を見つけたときね。どうするかなって見てると、やっぱり一旦体をかがめますね。体を小さくして、そしてその後に瞬発力でポンと走りだします。やっぱり猫も同じですね。

 こないだ獲物を見つけた豹が構えた姿をビデオで見ましたけども、やっぱり一旦、体を縮めて、そこから飛び出していきますね。

 飛び上がっていくときはね。どの動物も一旦、圧縮するわけですね。圧縮して、それで爆発する。まぁそんな感じで飛び出すんですね。

 だから、その自然界っていうのはやっぱり圧縮すれば必ず爆発する。まぁこれが根本的な原理かなとこういう風に想いますね。

 それは私たちが別に学校で勉強しなくても、しっかり観察していればわかるわけですね。

 だから、私ね。やっぱり自然と言うのはしっかり観察して自然がどんなものかと理解することがものすごく大切だなっていうの感じますね。まぁ自然を征服するって言う言葉もありますが、自然はどこまでいっても、まぁもっと大きい広いものですので制服と言うよりも自然とやっぱりね一緒に生きていくと、共存すること、それが、やっぱり正解だとつくづく思いますね。

 結果、自然は最高にして、最大の教師ですね。だから、私は墓石にも感謝と畏敬の念を刻むようにしています。
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雑草のうた 詩

2024年06月18日 | 
雑草のうた  ←🔗

この愛しきもの
それは雑草

今日もまた
風雪に耐え
寒暖差に耐え

踏まれても、踏まれても
また生えてくる

時には
風に遠く飛ばされ

見知らぬ土地に根付き
また芽を出す

背の高き雑草は
低き雑草を
太陽から守り

低き雑草は
地表を這い
水分の蒸発を抑える

彼らは
重力に逆らい
上へ上と伸びる

こうして
自然の営みは
今日も明日も続いていく

途切れる事は無い

やがて自然は
自ずと然るべく
位置に
落ち着いて行く

だから自然
Be nature

自然に従順であれ
自然から学べ

自然に帰れ
Go back to nature

自然ほど
懐の深いものはない

父の恩は
山よりも高く


母の恩は
海よりも深しという

我が命も、この両親から生まれ
こうして、雑草と共に

今喜寿を超えても
なおかつ
生きながらえている

ただただ今日も
自然と共に生きる

吾輩もやがて
新しい世界に旅立つ

その接点が 
いつかは
神のみぞ知る

それが私の
シンギュラリティ

それが私の
パラダイムシフト

それは
早かれ遅かれ
やってくるだろう

20年以内には
10年以内かも
いやはや
明日かもしれない

そこまで
天命を追い求め
ただ
愚直に生きるだけ
私は
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腐らないいちごの不思議

2024年06月16日 | エッセイ
 コロナ5年6月16日
(ウクライナ、ロシア戦争3年)

 4日前に農道脇の無人で妻が買ったアキヒメいちごですが、まだ、全然痛んでいません。

 私も苺を趣味で育てていますが、イチゴはとてもデリケートな果物です。しばらくするとすぐ痛んでしまいます。ちなみに私は紅ほっぺを無農薬で育てています。こんな長く新鮮だとは思えません。

 多分、色々な農薬を使っているのではと、思って、残念なが処分しました。

 日本の食品添加物や農薬の基準が、先進国の中では、特別にゆるいので、危惧しています。

 添加物や農薬には十分気をつけて天の恵みをいただきましょう。

 世界中が禁止するラウンドアップ 余剰分が日本市場で溢れ返っています。

 日本は食品添加物の天国です。気をつけて天の恵みをいただきましょう。

 もっと、日本も規制を厳しくしていかないと、益々医療費のいたちごっこは治らないでしょう。

 発達障害、アレルギー、大腸がん、前立腺肥大の増加が日本ではますます広がっています。

 予想の段階ですが、多分これらは食品添加物や農薬、化学製品などの影響が大きいと思われます。

 日本には古来、医食同源、地産地消、身土不二、食育という言葉があります。

 もっと日本の食料自給率を上げて行くことも大切ではないでしょうか?

 日本の食料自給率は低すぎます。昔はもっと高かったはずですね。やはり食べ物は地元で取れたもの、旬にいただくのが基本です。

 ちなみに、私は地元で無農薬野菜を里山農法で育てています。とても健康的で良いですよ。ときにはキジの卵を見つけることもあります。モグラも出ます。

 今後は現行の食品表示法や種苗法等の法改正が自然保護や国民目線で行われることが重要な時代になってきます。

買ったいちご

私が育てている紅ほっぺ



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アジサイの花 詩

2024年06月06日 | 
コロナ5年6月15日
(ウクライナ、ロシア戦争3年)










あじさい 詩

降る注ぐ雨
それを大きな葉と


色とりどりの花が
受け止める


紫、青、ピンクのグラデーション
雨の日を楽しみに変え


心に小さな虹をかけ
幸せの国に私を誘う


アジサイはマジシャン


雨音を聞きながら
  
時には優しく
時には熱く
私に語り掛けてくる


梅雨空が
ぱっと明るく
輝く


つかの間の
お日様が
顔を見せ


夏ももうすぐだね
そこに来ているよと
にっこりと笑う




紫陽花 詩

雨の帳が降りてきて
アジサイが静かに目覚める
雫が葉を滑り落ち
花びらはしっとりと濡れている


空は灰色に包まれても
アジサイは色を失わない
梅雨の中で一際輝き
心に温かな光を灯す


ひとつひとつの花が語る
雨の日の小さな幸せ
アジサイの優しい色彩が
梅雨空を明るく照らす





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インフォームドコンセントと今の医療

2024年05月26日 | エッセイ
コロナ5年5月26日(ウクライナ、ロシア戦争3年)

 私自身もいつしか喜寿を超え、最近は、健康についての関心が知らず知らずのうちに、ますます高くなってきたように思います。そこで今回は新しい医療のあり方について考えてみたいと思います。

 過去には「医療については専門家である医師に任せる」のが患者のためであるとし、任された医師は身を正し、愛情を持って患者の治療に努めることが強調されてきました。いわゆる「医は仁術」とされ、医師の慈愛の気持ちが、「医療の倫理」として2000年以上にわたり容認されてきました。

 先日も喉をやられ、治りが遅いので、常日頃は自然治癒力を最大限に尊重している私ですが、何かあってもいけないと思い、耳鼻咽喉科にかかりました。

 インターネットの予約に始まり、連休明けでもあり、私が予約を取ろうとした時にはもうすでに160名ぐらいの患者さんがいました。あまりにも多い患者さんにびっくりしましたが、それでも予約は無事取れました。

 久しぶりの病院通いでした。以前は2人だったはずの先生も、今では3人になっていました。なぜか私はベルトコンベアーに乗って治療を受けているような感覚に襲われました。昔の医療に慣れている私にとっては驚きの事ばかりです。

 今の人にとってはそれが当たり前のことなんでしょうけども、病院が忙しすぎです。なぜこんなことになったのかとちょっと考えてしまいました。

 医は仁術からいつの間にか、算術になっていたのです。病気が増えれば、医者や製薬会社が儲かる仕組みができてしまっていたのです。健康診断やワクチンなども個人の権利であることも忘れ、企業などの組織に入っていれば、なかば強制的に実施され、必要以上に薬と検査漬けになっています。

 血圧130以上は高血圧だという考え方が、日本高血圧学会、高血圧治療ガイドラインで決まり、年齢を考慮せず一律決まってきたのもおかしなものです。そのため、急に高血圧が統計的に増え、薬が大量消費されることになりました。昔の90+年齢の血圧基準からしてもおかしな話です。

  検査をすれば、医療機械会社が儲かり、薬を投与すれば、製薬会社が儲かります。そのことが日常茶飯事になり現代人はあたりまえだについて当たり前に思っているようでした。

 古来からある、食育の基本である身土不二、一物全体はどうなったのでしょう。今の対処療法的医療には危惧を感じせざるを得ません。

 もっと、診察に時間をかけ、症状の本質に迫る医療がまずもって、大切ではないでしょうか。今のお医者さんがかわいそうな気も致します。もっと、高邁な考えでお医者さんになった人は嘆いていることでしょう。何の為に、高額な学資をかけてお医者さんにしたのか親御さんとしても考えなければいけない問題でしょう。

 高血圧や認知症、心因性の病気とされているうつ病や自閉症なども病気扱いのようですが、これは症状であり、今、そういう状態だということです。病気と症状を一緒にしている風潮もおかしいです。

 医者に行くと過剰な薬を処方されますが、管理栄養士や療法士、カウンセリングの力も借りて薬以外の運動や栄養、生活習慣の改善で直しことを、もっと、考えていかないといけないなと思っています。

 だいたい、その根本からの治療をすれば、減薬に大きな効果を発揮するでしょう。医食同源や食育という考え方もあります。このことを、なぜ、もっと奨励しないのでしょう。そして、人間が本来もっている自然治癒力も利用すべきです。

 医療がますます、自然から離れていっている現状を憂えています。これでは、いたちごっこで医療費は益々増大していきます。

 インフォームドコンセントという言葉が私の脳裏によぎりましたが、なぜ、医師法にもありますが、この考え方が広まらないのでしょうか。国民が周知してないのも、おかしな話です。医療従事者しか知らない言葉になっているようです。PRをして周知させる努力をしてほしいです。

 お医者さん主導でどんどん進んでいき、薬の副作用とか、治療の説明もそこそこに、薬がたくさん投与され、気が付けばお薬手帳はいっぱいです。患者は患者で、ちょっとしたことでもすぐ、医者にかかるので、いつも医者は満杯です。

 災害の時ばかりでなく、通常に時にも、医療のトリアージを進めた方がいいのではと思っています。

 こう考えていくと、今後は、医療改革がどうしても大きな社会問題となっていくでしょう。いや、していかないと困るでしょう。医療費の増大は際限がないようです。


※ インフォームド・コンセント(Informed Consent)とは、医療分野における重要な概念で、患者が自分の健康に関する重要な意思決定を行う際に、十分な情報に基づいて自由にかつ明確に同意をすることを意味します。

 具体的には、医療提供者が患者に対して治療の目的、方法、期待される効果、可能なリスクや副作用、代替の治療法などに関する包括的な情報を提供し、患者がその情報を理解した上で自らの意志で治療を受けるか否かを決定するプロセスです。 
 
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久しぶりに喉風邪をひいた

2024年05月11日 | 日記
コロナ5年5月11日(ウクライナ、ロシア戦争3年)

 実はここ1週間ぐらい、久しぶりに、ちょっと体調を崩しまして、喉風邪をひいてしまったようです。普通はもう治ってもいい頃なんですが、なかなか治らないもんだから病院にもちょっと行ってきましたけども、耳鼻科ですね。

 なんか薬が合わないんですかね。痰を切るのと喉の腫れを止めるの。そういう薬らしいんですが、もう、さっぱりお薬が効いてないような感じです。

 今回の風邪のひき方が珍しいんですよね。初めてなんですよね。これ、最初はね。喉へ来て、そして、気管支の方へちょっと炎症が移っていくんですが、今回は気管支の奥の方で、いがらっぽいさを感じて、のどはまだ何ともなかったんですよね。

 それが、炎症が上の方に来て喉が痛くなって、そして、今度は鼻腔にも来たんですよ。でも、熱が出るわけじゃないもんだから、またすぐ治るんじゃないかとほっておいたんですが、なかなか治らないんですよね。別に熱も出るわけではないし、趣味の卓球もできないわけじゃないですが、まあ周りにうつすと悪いかなと思い、卓球は水曜日と金曜日は一度休みました。

 病院嫌いの私ですが、ちょっと今回は長引いているので心配になり病院にも行ってきました。薬をもらったのですがそれがさっぱり効かないのですよね。それと知り合いのところのお医者さんに行ったもんですから、かえってその先生に言いにくくて、こまりました。

 まあ私も77歳になりましたので、最近はやっぱり若い若いと思ってても年齢を感じざるを得ないと言うことになりました。今は菜園の草刈りもやらなきゃいかんですが、ここを1週間ばかりは、無理は禁物だと思って、ちょっと休んでおります。

 スイカやきゅうりは植えたんですがね、ちょっと目を離していたらウリハムシが来て、葉を半分ぐらい食べられてしまってあせりました。早速、上にネットカバーをして、今は大分よく育っています。

 まだまだ今後は、さつまいもの苗を植えたり、夏野菜を育てる準備もいろいろあるわけですが、やっていかなきゃいけないなと思っております。

 病院では、薬も出してくれたんですが、どうも合わないらしく私にはさっぱりききません。点鼻薬がいいと希望を言えばよかったのですが、まだ鼻声のため、晩茶でうがいをちょっとやりました。鼻うがいと喉うがいです。そしたらね、今は大分調子が良くなったみたいです。素人療法の方が良かったかなと思っております。

 やっぱり自分の体は一番自分が知ってるのかなとつくづく思いましたね。本当はあんまり医者にかからん方が良いのかなとも思ってます。医者にかかるときはよっぽど困った時ですね。

 もともと、人間には、自然治癒力が備わっているし、それを信じることがまず、第一だと考えています。今の時代はやたらとすぐ医者に頼っちゃう傾向にありますが、薬をくれるだけで、ほとんど先生も忙しくて,診察の時間も、あまりありません。

 やはり、自分の体は自分でよく知って、まず自分で考えることが大切だなと、つくづく思いました。死ぬまで一生、自分の体は自分にくっついてるわけですので、自分の体の状態を知ることはとても大切なことです。

 今回のケースは、結果的には医者に行って失敗しました。次回からはちょっとした風邪ぐらいですぐに医者にかからないで、もっと自分で自然治癒力を信じて、考えて行動したいと思います。今回はいい勉強になりました。
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TikTokを開いてみて

2024年05月03日 | 園芸

https://vt.tiktok.com/ZSFKy6Gf6/
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唯唯諾諾(いいだくだく)と倜儻不羈(てきとうふき) 

2024年04月24日 | エッセイ
コロナ5年4月24日(ウクライナ、ロシア戦争3年)

 最近は4文字熟語は、あまり使われなくなりました。ひょんなことから、唯唯諾諾(いいだくだく)と倜儻不羈(てきとうふき)こんな二つの言葉が出てきましたのでブログに書いてみました。

 唯唯諾諾(いいだくだく)と倜儻不羈(てきとうふき)です。魑魅魍魎(ちみもうりょう)とか、艱難辛苦(かんなんしんく)、付和雷同などの言葉なら聞いたり使ったりしたことはありますが、唯唯諾諾(いいだくだく)と倜儻不羈(てきとうふき)初めてでした。

 そんなわけですが、どんな意味を持っているか、ちょっと調べてみました。そしたら、唯唯諾諾とは、言われるがまま従ってしまうという意味で、相手の言うことに少しも逆らわず、従うさまを言い、昔の書物ではかしこまって了承する時の応答の語としても使われていたようです。主体性のない協調性かな。

 倜儻不羈(てきとうふき)は個性的で自立心の強い人々を表す際に使われ、自由奔放で束縛されないさまを表し、この表現は、規則や慣習に縛られず、自分の信念や欲望に従って行動する人を指すことがあり、江戸時代には、よく使われていた言葉のようです。まあ、信念のある主体性というところかな。

 まだまだ、この年になっても、私の知らない日本語の言葉がたくさんあったのですね。もう、びっくりしてます。勉強のし甲斐がありますね。日本語は奥が深いとあらためて想いました。

 同志社の新島襄、早稲田の大熊重信、作家の司馬遼太郎なども、好んで倜儻不羈という言葉を使っていたことが分かりました。明治維新の流れを感じますね。

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