想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

無から有へ 路傍の石

2017年02月24日 | エッセイ

震災7年2月24日

 庭の石を見て想いました。よく考えれば、その石はもとは単なる岩であって、ただただ、そこに存在しているだけだったのです。しかし、その単なる石が人の手により、工夫して並べていくことにより、生きて来るのです。すなわち、命が与えられるのです。

 そうなんです。一見路傍の石だけだと思っていた物が、ある人の手により、俄然と生き物のように私たちに語りかけて来るのです。不思議と言えば不思議です。人を生かすとはそのようなことだなとつくずく思いました。

 今まで、路傍の石として見捨てられていた者が、その人の手にかかると生き物に変身していくのです。すごいことです。ですから、その石を生かすも殺すもそれを使う人の度量によるのだと思うのです。

 庭石をくんでいくことは、AとBとCの石をどう組み合わせるといいのか、考えていくことです。華道も同じようなものでしょう。同じ並べていくのなら、AもBもCも生かして使いたいですね。そうすれば、なんの役に立たなかったと思っていた無機質の石も有機質のように生きて来るのです。

 そう考えると、すべての素材を生かすも殺すもその上にいる人の裁量だなと思います。

 京都の有名な庭石もそんな感じになっているなと思って鑑賞すると、また、庭の観賞に奥行きが出てきます。庭といえば、石組みばかりでなく植物も沢山ありますので、それとまた、どう、組み合わせて植えていくかと言うことになります。そのようなことは結局は芸術的なセンスになると思います。

 だから、よけいに芸術は最高な物だと思います。文系も理系もありません。それを超えて芸術があるような気がしてなりません。すべては分かれているのでなく、どこかで接点があり繋がっているのです。

だから、人生は芸術であり、芸術こそ、最高なものだと思っています。

 

浜松市 金指 実相寺庭園より

前の三つの石が何かを語り合っているようです。まるで、生きているように感じます。こう感じるのは、わたしだけでしょうか。すごいことだと思います。まるで、生きているようです。

 

 

 

 

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