いつものウォーキングです。これで、どうやら今日も1万歩完遂です。夕日に向かって歩いていた時、ふと、右を向くと虹が出ていました。夕日と虹の絶妙の組み合わせに遭遇しました。めったにこういう光景は見たことがありません。生きているという充実感と幸せ感を同時に感じていたのを思い出します。幸せは案外こんな所にあるんだなと思わずにいられませんでした。
幸せ感ほど我が儘のものもありません。感じようと思えば傍らの雑草にも宿っています。自然の妙を感ずる心が大切だとつくづく思わずにいられませんでした。経済的には何の価値もありませんが、私にとっても、何事にも変えることのできない自然現象とでくわしたのです。
心をとぎすませば、このような事象は至る所に転がっています。そのサインをいつでも関知できるようなビビッドとした心のあり方が大切だとおもいます。これはもう理屈ではありません。幸せは論理や理屈を超えた感性の問題なのです。幸いこのような感性が沸いてきている自分に感謝の毎日です。
何気なく交わす会話、暖かい日差し、そっとほほをなでる微風、風で騒ぐ木の葉の音、どこまでも澄み切った青空、けなげに生きる子どもの姿、赤ちゃんの寝顔、我が子を思う無心の親の愛情、何気ない仕草、幸せの事象は至る所に転がっています。ただ、現代人にはそれが気づきにくくなっている状態があるのです。
ちょっと、最近私が残念に思っていることがあります。それは、寒くなると、どこもかしこも、イルミネーションがLEDでにぎわうことです。きのうも、露天風呂が好きでよくいくのですが、サンタさんやそりを中心にイルミネーションがいっぱいになっていました。きれいといえば表面的にはきれいですが、どうも、そういうのに違和感があるのはわたしだけでしょうか。
皮相的に見ればそうなんですが、そうばかりとはいっていられません。もっと、自然にできたきれいなものがたくさんあるのではないでしょうか。益々、人工的な美ばかり強調されて自然の美しさにうとくなっていく現代人の悲しさを見る思いがします。益々自然から離れ、人類ははどこへいくのでしょう。
先日、アマゾンの写真集の本が新刊図書として図書館に陳列されていました。アマゾンの大自然が壊されて益々森林が切り倒されているのです。無数の生物がその住処を追われ絶滅の危機に追いやられているのです。そんな中で生物の一員である人間だけが生きながらえる訳がありません。人間は万物の霊長ではありりません。そのおごりがそのような森林破壊を生んでいるのです。
アベノミクス解散が間近に迫っていますが、もう、経済優先はやめて、もっと幸せ指数の世の中になって欲しいとおもいます。GDPで計るのではなく、ブータンのように幸せの指数で何事も考える時代になって欲しいものです。
最近健康寿命という言葉が増えてきました。結構なことだと思います。やっと、来たかという感じがしますが、健康でこそ長生きも意義があろうかと思います。医療費が増えて困っています。健康寿命こそ、大事ではないでしょうか。
その為には、日頃からの健康管理が大切です。人間はいつかなくなるのです。諸行は無常なんです。形あるものは壊れるのです。栄華は長くは続かないのです。自然はリズムを打ちながら時という絶対的なものに委ねているのです。それは誰もが制御できないのです。時を動かせることのできる人こそ神そのものです。
ですから、どんなに科学が進んでも時を人間が制御しようなんて考えないことです。絶対的な時が制御されることがあるとすれば、もう人間は何を根拠に生きていくかという絶対的な指標がなくなってしまうのです。そんな事があってはいけないのです。科学にも倫理観がひつようです。それを制御するのではなく、それの仕組みを見つけることはいいでしょう。科学は結局はそこまでやってはいけないのです。
それで、心配しているのが原子力発電です。原子力も同じような発想から成り立っているように思えてなりません。最終的な放射能の処理方法が分からないのに発電続けるということは絶対やめることです。
アマゾンの森林破壊と同じようなことが世界の各地で行われ心が痛みます。地球内部の石油や地下資源を取り尽くすのも同じことです。特に地球の水と空気が汚れて来ていることは致命的なことです。哲学者タレスも世界は水でできていると、いっています。もっと、広い心でその辺を考え直して欲しいのです。やがて何十年何百年かたつと、その結果は人間の上に自然災害となって降り注ぐだろうと思います。
その時、世界の人口も地球的規模で大きく減少をはじめるでしょう。それでは、手遅れなんです。今でも刻々と人口増加は起こっています。エボラやエイズ、デング熱、鳥インフルエンザ、温暖化もその現れです。とにかく、人口が多すぎるのです。人類という種が生物学的にいっても、それ一種のみが増えすぎるということはあり得ないのです。その結果、ひずみが来ているのが地球の現状です。すべて、それでは、もう遅いのです。私も陰ながらそのような自然破壊の行為を危惧する一人でもあります。認知症の増加と単なる長生きも医学の発達と大きく関連しています。その医療費たるや相当のものです。生き甲斐と寿命の関連も国を挙げて考えねばならない大きな問題でしょう。
高齢者が昔は惜しいとか尊敬されてなくなっていたのに、最近の風潮はといえば疎まれてなくなっったり孤独死などといわれてきています。悲しいことです。使い捨ての高齢者になってきています。百も二百も生きたいと思うのが人情ですが、そもそも生物学的にも無理な話です。生老病死は必然なのです。
植物を見ていれば分かるように種子が芽を出し成長し盛りを迎え、花を咲かせ実を結び枯れてゆき、子孫を残して、その種は生き延びて行くのです。今は個人が尊重される時代ですが、結局は生物としての人間を考えた時に種の存続という観点から次世代のことも考えなければならない宿命をになっているのです。その辺と個の関係も捉えていかないと個=自分勝手ということになりかねません。憲法で保障されている基本的人権もその辺の事も考えて行かないといけないでしょう。次世代へのバトンをしっかり受けついて行かないといけないのです。前期高齢者はその要諦を握っている存在なのです。
自然こそ私は神に近い存在だと思うのです。そうです。私流には神は自然の摂理そのものなのです。神が唯一絶対のものとすれば、それはキリストでもなく、仏陀でもなくまさに自然の摂理そのものが神だといえるでしょう。誰が考えてもそこへいきつくはずです。それは真理だからです。
私はキリストや仏陀は自然の摂理を具現化させているものだと思っています。どうか、人類がそのことに気づいて平和な争いのない世界になって欲しいです。我を通せばキリスト教徒と仏教とは違うというのでしょうが、もっと、高いところから考えればどちらも自然の摂理に到達する道筋の一つなのでしょう。キリストや仏教が悪いと行っているわけではありません。そのような考えのもと、具体的な人格神であるキリストや仏教を信仰するとすれば素晴らしいことです。このように世界でも有名な宗教を信じている人たちの中にも広い心で信仰に励んでいる方が多数いると思います。私もその宗教の中の言葉で癒されることもたくさんあります。だから、今日まで生き残ってきた宗教だと思います。その上に、もっと大きなものがあるのだということをいいたかったのです。
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