<2012/02/03 新宿区 鬼王神社>
節分の豆まきで「鬼は外、福は内」と唱えますが、
「鬼は外」と唱えないところもあると聞いたことがあります。
ネットで調べてみると、そのようなところは「鬼」とゆかりの深い寺社のようです
(例えばhttp://www.ffortune.net/calen/setubun/mamemaki.htmにリストがある)。
このリストに紹介されている中で自宅から一番近い
新宿区の稲荷鬼王神社の節分追儺式(節分の豆まき)を見に行きました。
<2012/02/03 新宿区 鬼王神社。
豆まきの時に神官さんは「鬼は外」とは言っていなかったが、「鬼は内」と言っているのは聞けなかった。残念>
よく考えてみると「鬼は外」とはずいぶん身勝手な考えだという気もします。
まず鬼を初めから悪者と決めつけているから。
(鬼とは征服された先住民のことで、征服者によって悪者にされ、おとしめられたのだと言っている人もいる)。
そして、仮に鬼が悪者だったとしても、
これを内から外に追いはらうことは外の人に厄介を押しつけているだけなので。
そもそも内と外ってそんなにきれいに分かれているものなのでしょうか。
以下で、「内と外」の境界を取り払うことを目指して、
私がこれまで本で読んで興味深く思った話題をいくつか並べてみます。
引用部分は青字で示しました(画面にあわせて適宜改行しています)。
●「内にある外」あるいは「外なのか内なのかわからない」話(おなかの中、腸内細菌)
「おなかの中は本当は体外なのです」とどこかで聞いたことはありませんか。
「中」なのに「外」だという矛盾の理屈はこうです。
まず、「おなかの中」とは「消化管の中(胃や腸の中で食べたものがたまっているところ)」のことを指すことにします。そして体外とは自分の体の細胞の外のことであるとします。
人間の体を単純化すると口から肛門までストローのようなものです。
だから消化管の中は、外部(環境)と「通々」です。そこは人体の細胞の中ではありません。
「消化管の中」を「おなかの中」と言っているのは、日常用語では「表面に出ていない部分は中」だと言うからです。
(「コップの中」といったら液体を盛る空間のことを指すわけで、
コップの素材(ガラスなど)の内部を指しているわけではない。
「管の中」といったら流体が通っていく空間のことで管の材料の内部を指しているわけではないのと同じ。)
腸内細菌のことを考えると消化管の中は確かに体外だなと思います。
腸内細菌はやっぱり私ではないので、そういう他人が住んでいる場所はやっぱり私の中ではなさそうだから。
とはいえ、ここからは私の体でここからは腸内細菌(他人様)だなどと直接感じたことなど一度もないのですが。
(そもそも自分の細胞ですらこれをいちいち「私」だなどと感じていませんが)。
おなかの中を意識するのは、おなかをこわした時くらいか。
自分と細菌の境界について、
福岡伸一『世界は分けてもわからない』(講談社,2009,p.81,82)に面白い記述があります。
皮膚が内側に折りたたまれた私たちの消化管内、ここにも大量の微生物が棲息しています。
これらは腸内細菌と呼ばれる微生物です。・・・
大便の大半は腸内細菌の死骸と彼らが巣くっていた消化管上皮細胞の剥落物、
そして私たち自身の身体の分解産物の混合体です。
ですから消化管を微視的に見ると、どこからが自分の身体でどこからが微生物なのか実は判然としません。
(引用おわり)
さらに食物を消化吸収する能力について考えてみると、それがどこまで私独自のものなのかあやしくなってきます。
消化吸収能力は固定したものではなく腸内細菌という同伴者によって変わってくるようです。
光岡知足『腸内細菌の話』(岩波書店、1978、pp.123-124)から引用してみますと。
腸内細菌が消化に大きく関与していることはあまりなさそうだというのが無菌動物を使った研究者のおおかたの意見です。しかし、腸内細菌が消化を改善したり、ヒトの消化管から分泌される酵素では消化できないような物質の利用に関係していることはあるようです。・・・
・・・細菌増殖がさかんな小腸下部から大腸では、小腸で消化吸収されなかったものの一部が分解されます。例えば従来はヒトの腸内では全く利用されないといわれていた食物に含まれるセルロース、ヘミセルロース、イヌリン、ペクチン、コンニャクマンナン、アルギン、キチン、寒天などいわゆる食餌性繊維質の一部が腸内細菌によって酪酸、乳酸などの有機酸とメタンガス、炭酸ガス、水素ガスなどに分解され、有機酸は吸収されてカロリー源となります。
(引用おわり)
極めつけは森美智代さんの腸内細菌についての報告です。
(森美智代『食べることやめました』マキノ出版、2008、p112)
著者の森さんは、同書によると「一日に青汁一杯だけ」を約13年前(出版当時)から続けているということで、
森さんの腸内細菌を理化学研究所の辨野義己先生に調べてもらったところ
「草食動物に近い細菌構成になっているというのです。」
「この細菌たちのおかげで、私の腸では、普通は消化できない繊維を消化したうえ、
普通は捨てるアンモニアからもたんぱく質の材料を作っているらしいのです。」
「草食系」などという言葉がはやりましたが、この方などは本当の草食系と言えましょう。
こうしてみると、腸内細菌も身内だと考えればおなかの中はやっぱり体内だったということでどうでしょうか。
今度は身内という言葉が出てきてしまいました。
●内と外の逆転する話(パノラマ写真、天球儀、宇宙の缶詰)
360°眺望のきく場所で全周の写真を撮ってパノラマ合成をします。
できた画像をプリントアウトして、絵の映っている面が外側に向くようにして端と端とを貼り合わせます。
するとある地点の360°の眺望が写った円筒型の写真ができます。
こうして私の周りをぐるりと囲んでいたはずの眺めが、
今度は私によって外からぐるりと眺められるようになってしまいます。
こうして内と外が逆転します。
これは水平に360°回転した話でしたが、垂直方向も同様に考えますと、
宇宙の一点から全天を写した写真を貼り付けた球を作ることができます。
(残念ながら地球上にいるので現実には足もとの180°の範囲は写せませんが、
北半球と南半球を貼り合わせれば天球儀になります)
この球を手に持って眺めれば、自分を取り囲んでいた宇宙空間を今度は外から眺めることになります。
<天球儀>
パノラマ写真にしても、天球儀にしても、現実を縮小して表現しているからこうした内と外の逆転が可能なのでしょう。
現実の情報を100%損なわないパノラマ写真や天球儀をつくるとしたら、
無限大の解像度(無限に小さな領域に書き込みができること)が必要になるでしょう。
現実には無限大の解像度どころか、肉眼の解像度がまず限界として立ち現れ、
レンズを使って拡大しても光でものを見る限り光の波長の大きさのところでまた限界がきます。
究極的には長さの最小単位(プランク長さ)に行き着くのでしょうか
(観念的(数学的)には長さはどこまでも小さく分割できるでしょうが、
物理的にはそれ以下を考えることが意味を持たない長さがあるということです)。
永井均『なぜ意識は実在しないのか』(岩波書店、2007年)という本の中に、
赤瀬川原平さんの「宇宙の缶詰」という作品の話が出てきました。
どんなものか、ネットで検索すると写真も見つかります。
要するに、缶詰めを空にして外に付いていたラベルを内側にはり直して蓋をはんだ付けしたもの、だそうです。
普通の意味での缶詰の内側からみると、私たちも含めた宇宙全体が缶の中に閉じ込められているという見立てです。
正に内と外を逆転させた奇抜な発想です。ただ、つまらぬつっこみをいれると、
缶の内側に貼るラベルは元の缶詰のものではなく「宇宙の缶詰」と書かれてなければいけないはずなのですが。
芸術家にとっては、こういう細かいつじつま合わせはどうでもいいのですね。
「宇宙の缶詰」と書かれたオリジナルのラベルも芸術家に作ってもらいたかったのですが。
●内と外の境界がなくなる話(アルタード・ステーツ)
『アルタード・ステーツ』というケン・ラッセル監督の映画がありました。
その中に感覚遮断タンクという装置が出てきます。
このタンクのモデルはジョン・カニンガム・リリー博士が考案した装置です。
外部から光りが入らず音も聞こえてこないようにしたタンクに、硫酸マグネシウムの水溶液
(比重1.3、温度34℃前後)を入れます。
被験者はこのタンクに入って水溶液に浮かびます。やがて幻覚や神秘体験が誘発される。そういう実験だったようです。
何年か前にネットで検索したらこのタンク市販もされていました。
比較的新しい本としては前野隆司『錯覚する脳』(筑摩書房、2007、pp.150-193)に体験記が載っています。
体験者の中には宇宙との合一感を感じる人もいるということです。
タンク体験に限らず、瞑想や宗教儀式等で生じる神秘的合一感について、
アンドリュー・ニューバーグ、ユージン・ダギリ、ヴィンス・ローズ著 茂木健一郎監訳
『脳はいかにして<神>を見るか』(PHP研究所、2003年、p.173)に興味深い説明が載っていましたので引用してみます。
われわれは、神秘的合一体験をもたらす神経学的機構として、脳の方向定位連合野が受ける求心路遮断を提案したい。自己の感覚を作り出し、それを空間内で位置づける方向定位連合野に情報が入ってこなくなると、自己と非自己の区別があいまいになる。神秘的合一の瞬間に、しばしば、自己よりも大きなリアリティーの感覚に吸収されてしまったように感じるのは、そのためなのではないだろうか?
(引用終わり)
外から入ってくる感覚情報が乏しくなってくると、
「どこからどこまでが私かという感覚」つまり「自分の空間認識」がなくなる(弱まる)。
私という境界を感じることができなくなると、私という空間がいっきに無限遠方(全宇宙空間)にまで広がってしまう
ということでしょうか(これだとまだ私はあることになるのか?)。
宇宙との合一とか梵我一如というようなすごい神秘体験がすっかり説明されてしまうのはちっとつまらないような。
私としては神秘の部分をどこか残しておいて欲しいような気持ちもあります。
この説明で神秘体験がすっかり説明されたわけではないですけれども、
私自身は体験も研究もしていないのでこれ以上は語れません。
最後に「無量寿経」から引用します。
無量寿経(梵文和訳)『浄土三部経(上)』中村元・早島鏡正・紀野一義訳注 岩波文庫p.93
実に、また、アーナンダよ、
かの<幸あるところ>という世界に生まれた求道者たちには、
その人々のうちのいずれか一人という想いがなく、
<自分に属するもの>という想いもない。
<わたしのもの>という想いがない。
(引用終わり)
さてさて、別の世界にでも生まれ変わらない限り
「<わたしのもの>という想いがない」というところまで行き着けそうにもありません。
しかし私が100%私をコントロールしているなどいうのは全くの錯覚に過ぎないことに気がつけば、
この世でも「私が」「おれが」「私の」「わたしのもの」という「私インフレーション」をすこし抑えて、
腹八分目ならぬ「私八分目」くらいになれるかもしれません。「私」にも。
おしまい。
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