失なわれゆく風景

多摩地区周辺の失われた風景。定点撮影。愚問愚答。

多摩市 桜ヶ丘 天守台

2007年01月21日 | 江戸名所図会
江戸名所図会巻之三に「小山田旧関関戸惣図」という絵があります。

ちくま学芸文庫『新訂 江戸名所図会3』市古夏生・鈴木健一校訂 筑摩書房pp.476-477

結論から言うと、この絵は、現在の新大栗橋交差点~関戸橋あたりから描いた近景(天守台続きの尾根)と、連光寺側(現在の聖蹟記念館あるいは八坂神社(天王森)あたり)から描いた遠景(奥多摩・秩父の山)を合わせたもののようです。

以下で具体的に検討してみます。

まず、「大栗川」「一宮」「関戸」などの地名が書かれており、それらの位置関係からすると、この絵の近景部分は現在の大栗橋交差点の北あたりから描かれたものと思われます。多摩川は描かれていないので、多摩川の南側との限定がつきます。この点に関してはそう異論はないように思います。
このあたりは、現在ビルがそびえたっており、「天守台」は、ほとんど隠れてしまうため、現地確認は難しいです。
  
<左:新大栗橋交差点付近より、右:新大栗橋付近より>

そもそも、天守台周辺も、昭和34年に、桜ヶ丘住宅の建設によって大きく地形改変されているそうなので厳密な現地確認は不可能です。天守台の上にあった琴平宮は、現在では、住宅より低い位置に来ています。

住宅建設以前のこのあたりの様子は、例えば、『目でみる府中・多摩・稲城の100年』金本展尚監修(郷土出版社2003年)で「大松山からの眺望」(昭和5年頃)p.58:、「建設中の桜ヶ丘団地全景」(昭和37年頃)p.131、「団地建設前の桜ヶ丘2町目」(昭和30年代)p.131などをみることができます。また、『特別展 多摩の里山「原風景」イメージを読み解く』パルテノン多摩歴史ミュージアム編集(財団法人多摩市文化振興財団2006年)p.59に、昭和21年ころの琴毘羅宮の写真があります。(これらの写真の出典をさらにたどると、「大松山からの眺望」は『連光聖蹟録』(連光会1928年)、「昭和21年ころの琴毘羅宮」は『野翁小咄』井上正吉著となっています。私はいずれも未見。)
天守台付近の地形改変については、多摩川対岸から眺めて一番高く見えている部分の裏側(西側)に回ると、少なくとも5-10mくらいは、削られていることが目で見てもわかります。
  
<左:桜ヶ丘1-53付近、この左奥に現在の琴毘羅宮がある。右:桜ヶ丘1-50付近>

それでも、天守台続きの尾根がどのように見えるか、「カシミール」で関戸橋の南付近からの眺望図を作ってみました。これをみると、尾根の形は、名所図会に描かれているものと近いように思います。

<杉本智彦著『カシミール3D』実業之日本社 「カシバード」で作成>
ただし、この鳥瞰図は、地上から50mの位置から見たものです。地上数mから見た場合は、遠方の山は丘陵にほとんど隠れてしまいます。またこの位置からだと、丹沢の大山でも天守台の左には来ません。

多摩川の対岸から、天守台周辺を眺めてみますと、天守台の左側に山を入れるには、かなり東に移動しなければなりません。丹沢の蛭ヶ岳を天守台の左に入れるには、多摩川を下って東に700-800mくらい移動しなければなりません。

<関戸橋から>

<多摩川左岸、関戸橋の700-800m下流から>
それに、この絵の山並みは、丹沢とは相当違う印象を受けますし、右には、「秩父」と書かれています。この部分はいいかげんに描かれたものなのでしょか?あきらめずにもうすこし詮索してみましょう。

天守台の上に、遠方の山を望むには、やはり高い位置に立つしかありませんので、乞田川をはさんだ対岸の連光寺の丘陵に登ってみました。

<桜ヶ丘公園付近から:杉の木のすぐ右に大岳山、その下あたりが天守台>

<多摩大学の北東の尾根から>

都立桜ヶ丘公園、八坂神社付近(多摩大学の北東の尾根)から写真を撮ってみますと、図会の遠方の山並みは、丹沢ではなく、三頭山あたりから、大持山あたりまでの奥多摩・秩父の山だという感じが強くなりました。

<「図会の山並み」と「多摩大学の北東の尾根からの写真」、「同所からのカシミールによる展望図」の比較、:写真の赤の楕円部は、左から三頭山、大岳山、天守台付近、大持山。図会では天守台の位置以外は推定>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする