失なわれゆく風景

多摩地区周辺の失われた風景。定点撮影。愚問愚答。

川崎市菅仙谷 白清水(吐玉水)

2006年12月12日 | 江戸名所図会
江戸名所図会巻之三に吐玉水という絵があります。

ちくま学芸文庫『新訂 江戸名所図会3』市古夏生・鈴木健一校訂 筑摩書房pp.504-505

本文を見ると、
「吐玉泉 寿福寺より後ろの方の谷を隔てて西の山際、農民の地にあり。水源白砂を吹きだすゆえに号とす。昔は小沢の白清水という。」(ちくま学芸文庫『新訂 江戸名所図会3』市古夏生・鈴木健一校訂 筑摩書房p.503)
となっています。

地図でみると、寿福寺の西側に谷がありますので、この谷に豊富な湧水があったのでしょう。あるいはよみうりランドの中だったら、もう無くなっている可能性があります。この谷戸の名称は知りませんが、現在のこのあたりの地名は、川崎市菅仙谷1となっています。

地図1 杉本智彦『カシミール3D図解実例集初級編』( 実業の日本社)より
国土地理院 2万5千分の1地形図「溝口」相当部分。

現地に行ってみますと、谷の西縁に確かに水が湧いているところがあります。


梨畑で作業していた方に話を伺うと、昔は白清水といっていて、下地の砂の色が白かったからだという話をしてくれました。文庫本の絵を見ていただくと、そこに描かれている家は、その方のお宅の一部(当時の建物はもちろんすでにないそうですが)で、江戸名所図会の刊本も所有しているとのことでした。この絵のポイントが分るとは思ってなかったので、かなりうれしい気分です。
左側の絵に描かれている湧水が、谷の西縁だとすると、右側の絵は谷の下流側を描いていることになり、描かれている丘陵は、小沢城址の丘陵が候補にあがります。その下に、寿福寺からの続きの尾根の末端が、右から張り出す形で描かれている(この絵ではわかりにくいかもしれませんが)ことになります。

この構図とぴったりだと言えるほどの地点、方向はわかりませんでしたが、下流方向に向いて、写真を撮ってみました。




このあたり、奥まっていることもあり、昔はさぞや秘境のようなところだったのだろうと空想をめぐらし、しばし絵の中に入った想像をしてみました。

12/13追記
秘境といっても、今からみればということで、当時は普通の農村風景だったのでしょう。
また、むかしの里山風景は、今よりもっと樹木もまばらで樹高も低く、松が目立つような風景だったということについては、
パルテノン多摩歴史ミュージアム編集『特別展 多摩の里山「原風景」イメージを読み解く』(財団法人多摩市文化振興財団2006年)
水本邦彦『草山の語る近世』(山川出版社2003年)などが面白いです。
ちなみに、この絵の丘陵部に描かれているのものは松のような感じですね。
コメント (4)
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稲城市 京王よみうりランド周辺

2006年12月07日 | 江戸名所図会
12/15修正加筆(ゴンドラからの写真を差し替え)

江戸名所図会 巻之三 天璣之部に「国安宮・威光寺」を描いた絵があります。

<<ちくま学芸文庫『新訂 江戸名所図会3』市古夏生・鈴木健一校訂 筑摩書房pp.488-489>>

この絵がどこから描かれたものなのか、あるいはどの程度写実的に描かれているのか、京王よみうりランド駅周辺を訪れてみました。


<<地図 京王よみうりランド駅周辺 杉本智彦『カシミール3D図解実例集初級編』(実業の日本社)より 
国土地理院2万5千分の1地形図「溝口」の一部。>>

妙覚寺(江戸名所図会では明覚寺)、威光寺は現在でもあります。


<<妙覚寺の庭 地図の地点1 2006年11月23日撮影>>

国安の宮は現在、絵に描かれたようなお社が残っているのかわかりませんでしたが、現在八雲神社の小さな社の隣に、「社家山本」と書いてある鳥居がありました。『新訂 江戸名所図会3』p487に「神主山本氏奉祀す」とあるので、こちらのお宅の西側の山の中ということになります。

描画の候補地点として初めによみうりランドに登る「巨人への道」の途中を考えてみました。


<<よみうりランドのゴンドラからの撮影 写真中央の畑の左、赤い屋根の建物が、名所図会で国安の宮の「社人」と書かれているあたり、そこからさらに左にたどり、青い屋根と赤い屋根の民家が威光寺と道路をへだてて向かいの民家、畑にもどりそこから右やや上の緑色の屋根が妙覚寺。2006年11月25日撮影>>

「巨人への道」からは、地形的に威光寺のお堂が見えませんので、威光寺の墓地のある斜面に上って見ました。名所図会の描画位置はこの写真の撮影位置よりもう少し高いようで、墓地の斜面を登りきったあたりかもしれません。上に掲げたゴンドラからの写真では、一番手前に写っている尾根が威光寺の東の尾根ということになります。


<<威光寺の墓地から撮影 地図の地点2 墓地の先に威光寺のお堂、その先すこし右に妙覚寺の屋根が見える。左さらに奥の送電線が見えるあたりに東京都水道局向陽台給水所の円柱型の建物が見える。この写真での識別は難しいが、その奥が奥多摩秩父方面の山々。 2006年11月25日撮影>>

名所図会では妙覚寺の右上に、山が描かれており、「う○」のような文字が書いてあります。「う」「○」はそれぞれ「可」「年」のくずし字で、すなわち「かね=鐘」です。妙覚寺には、現在、本堂から2段高い位置に鐘楼があり、この絵の山は、妙覚寺の裏山と考えていいでしょう。現在の裏山はこれほど高く見えないようですが、あるいは地形改変がなされているからかもしれません。(この鐘楼の山の絵の部分は、どうも別の位置からのスケッチを組み合わせたものと考えるほうがよさそうです。)

<<妙覚寺の鐘楼。2006年11月23日撮影>>

名所図会に描かれた背後の山は、『カシミール』で展望図をつくってみると、左側の絵の一番奥が「川乗山」あたり、その下の松などの樹木が描かれているところが、現在の向陽台から大丸あたり(向陽台給水所のあるあたり)だと思われます。右側の絵の「かね」の左が「武甲山」(現在は削られて、ピークが1336mから1304mになったということですが、多摩川中流から見える武甲山は、無くなってしまったのかと思うほど小さくなった気がします。)あたりなのですがどうでしょうか。武甲山にしては、すこし大きく描かれているのかなという点と、秩父の山にしては、中景のような描き方なのが気になりますが、中景で該当する山がありません。(これはどうも奥多摩・秩父ではなく、向陽台からつづく多摩丘陵であるような気がしてきました。ということで、この中遠景部分は判断保留です。)

江戸名所図会の絵師は長谷川雪旦だそうですが、この絵に関しては、自分が思っていたより写実的に描かれていました。増渕和夫ら(出典1)によると、「江戸名所図会は草稿からみて、間違いなく写生をもとに描写されているが、刊行段階で修正が加えられており、その修正の程度は、個々の絵によって、異なり、それぞれの絵について写実性を検討すべきと思われる。」とあります。

(出典1)増渕和夫、藤沢正一、竹井久男、上西登志子「絵図による植生景観復元の試み」川崎市青少年科学館紀要(5)(1994),p4


以下は、江戸名所図会とは直接関係ありません。
コカコーラボトリング稲城工場が更地になっていました。商業施設が建設されるようです。

<<三沢川左岸から南方向 地図の地点3>>

コメント (2)
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