道彦の散歩道

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毎日の事件事故の記録

11/03 売れ筋最前線⑮

2014年11月03日 | 日記

【牛とろフレーク】

加熱していない牛肉を細かな粒にして凍らせた「牛とろフレーク」。
温かいご飯にふりかけて、ネギなど薬味をのせ、醤油をたらすと立派な丼物の出来上がり。牛肉特有の臭みやくせはない。ご飯と絡んで溶けた脂身のこくと、肉本来の旨味が口に広がる。

「十勝スロウフード」が製造する「牛トロフレーク」は現在、全国約200の飲食店や大学の食堂で、ご飯にのせた「牛とろ丼」として提供されている。2011年に起きたユッケ集団食中毒事件のあおりで売上が激減したものの、製法を一部変えた危機を乗り切り、いま、ブームが再燃している。

「牛とろフレーク」を世に送り出したのは、肉牛育成牧場のボーンフリーファームだ。同ファームの斉藤代表は酪農学園大学を卒業後の1971年、清水町で酪農業に就いた。しかし、牛乳の消費低迷を受けた生産調整で生乳の廃棄ほ余儀なくされた80年ごろ「生産意欲が薄れたしまった」。それでも牛に関わる仕事がしたいと考え、80年代後半に肉牛生産に乗り出した。

飼育では牛の健康を第一に重んじた。飼料は一般の牧場で多く与えられている穀物ではなく自前で育てた牧草を中心に用い、放牧も積極的に行った。
ただ、こうした育て方は肉の味を良くする一方で、赤身が黒ずみ脂身が溶けやすくなるといい、市場での流通には不向きだった。

生産した肉を売りあぐねていた折り、斉藤代表が自宅の冷凍庫で凍らせていた自社産挽肉をタネに手巻き寿司を作ってみたところ「これがとても美味しかった」。

すぐに帯広市内の寿司店と共同で試作を重ね、91年、「牛とろフレーク」の前身である、生の挽肉を固めて凍らせた商品は完成した。当初は寿司店で軍艦巻きや手巻き寿司として提供されたという。

「凍った生肉」という珍しさも手伝って販路は広がる。92年には帯広畜産大学が生協食堂の食材に採用して「牛とろ丼」をメニューに載せた。学生の間でたちまち評判となり、北大など他大学の学食にも広がっていく。現在のような粒状になったのは99年だ。03年にはボーンフリーファームで働いていた藤田さんが、同社の肉を原料に「牛とろフレーク」など肉製品を製造・販売する「十勝スロウフード」を設立した。

順調に売上を伸ばしていた「牛とろフレーク」にはしかし、思わぬ逆風が待ち構えていた。
11年4月、富山県などで展開する焼肉チェーン店で起きた集団食中毒事件だ。
牛の生肉ユッケなどを食べた5人が亡くなった。十勝スロウフードの藤田社長は「事件の1、2ヵ月後には注文の電話がぱったり鳴らなくなった」と振り返る。

生肉のイメージはみるみる悪化し、全国の飲食店で生肉の販売自粛が広がる。11年10月には生食用牛肉の処理方法を厳しく定めた国の新規準が施行され、生肉を冷凍して作っていた「牛とろフレーク」も、そのままでは提供出来なくなった。

そこで十勝スロウフードが着目したのは、生ハムや生サラミが含まれる「非加熱食肉製品」の製法だった。この製法であれば、食塩を用いて一定期間熟成させるなどしなければならないものの、肉に熱を加える必要はなく、従来とほぼ変わらない風味・食感を実現できたのだ。

製法変更で以前は4~5日だった製造期間が2週間近くまで延び、生産コストは上昇した。また、ユッケ事件後の12年、十勝スロウフードの売上高は事件前の半分まで激減し、販売先の飲食店も3割少ない約80店まで減ってしまった。

潮目が変わったのは昨年冬ごろから。ユッケ事件の影響が次第に薄れ、「牛とろフレーク」がマスコミで紹介される度に大量の注文が舞い込むようになった。全国の百貨店で開かれる北海道物産展では、「牛とろフレーク」を求める長い行列が出来ることも多い。

現在は牛肉の生産が追い付いていない状態だと良い、個人向け通信販売は注文から1ヵ月待ちだ。新規の業者向け販売はやむなく断っている。それでも今年の売上高は前年より2割近く多い2億2千万円と過去最高を見込む。

「ユッケ事件以来、生肉の提供される機会が減り、“食べたい”と思う消費者の気持ちは抑圧されてきた。その気持がせきを切って牛とろフレークに押し寄せているのでしょう」と藤田社長。

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11/02 売れ筋最前線⑭

2014年11月02日 | 日記

【マロンコロン】

“あまとう ルル、マロンコロンーー”。
小樽の繁華街を歩くと、どこからともなく街頭放送から女性の歌声が流れてくる。昔から市民におなじみの焼き菓子「マロンコロン」は、全国区の人気商品になっても職人による手作りを貫く、こだわりの逸品だ。

「あまとう」の創業は1929年。3代目の柴田明社長の祖父で、酒が苦手だった故・昇さんが「大好きな甘いものをいつでも食べさせられる店をつくりたい」と一念発起し、勤めていた小樽市内のラムネ工場を辞めて始めた。
当時は小樽名物の菓子「ぱんじゅう」からすしまで幅広く扱う食堂で、店名は漢字で「甘薹」だった。
終戦から間もない50年代、店舗の2階を喫茶店、1階をケーキなどの売店に改築。業態を変えるのを機に「看板商品を生み出そう」と、柴田社長の父の故・治郎さんが全国の銘菓を扱う店を訪ね歩いた結果、クッキーを2枚重ねにする菓子はたくさんあっても、3枚重ねはないと気付いた。
そこでクッキーとクッキーの間にアンズのジャムを塗り、側面をチョコレートでコーティングした3枚重ねの菓子を60年に開発した。現在よりも栗のようにコロンとした形をした「マロンコロン」の誕生だった。

商品化への道は平坦ではなかった。鉄板で焼く直径7センチの円形のクッキーは、どうしても表面が丸みをおびる。2枚重ねは平らな底面を合わせられるが、3枚重ねは、真ん中のクッキーの両面を平らにする必要がある。試行錯誤の結果、今も職人が小さなナイフで1枚1枚、表面を削って平らにしている。

素材も当時から、国産の最上級の無塩発酵バターを使っている。担当者は「昔から栄えていた小樽の街の職人の心意気というか、中途半端なものは作りたくないという気持ちが、うちの伝統」と胸を張る。

時代に合わせて、「マロンコロン」は少しずつ装いを変えている。
誕生した高度成長期は甘い菓子がもてはやされたが、次第に健康志向が高まってきた80年代半ばには、アーモンドやカカオなど生地の味は保ちながら、ジャムを入れるのをやめて甘さとカロリーを抑えた。

80年代後半、バブル景気と同時に「マロンコロン」も飛ぶように売れた。1日に千個程度の生産が限界だったため、機械化して大量生産する構想が持ち上がった。業者にレシピを全て伝え、試作品の機械で作ってみたが、味や食感、香りと何から何までが手作りと異なる出来栄えだった。

担当者は「計画はすぐに白紙に。生地をこねる際の微妙な空気の入れ具合など、職人技を機械で忠実に再現するのは無理なんだとあらためて実感した」と振り返る。

このころ小樽は運河埋立の是非を問う論争を経た後で、急速に観光地化していた。「マロンコロン」の名前も次第に全国に広まり、各地の百貨店などで開かれる北海道物産展への出展要請が増えていく。

2007年には市内に「マロンコロン」専用の工場を建設し、今では手作りを続けながら1日に5千個の生産が可能に。07年以降、札幌に進出する一方、従来の4種類の味に加え、ジャム入りの復刻版やイチゴなど新味の導入も積極的に行っている。

「マロンコロン」の売上は13年11月期に、過去最多の年間172万3500個を記録した。最近では「3枚重ねはボリュームがありすぎる」という年配の顧客からの声を受け、今年9月5日に売り出した2枚重ねの紅茶味が好評だ。

「3枚重ねだけに拘り続けたら、お客さんは離れてしまう。臨機応変に、小樽をはじめ高齢化社会の現状を正面から受け止めながら、マロンコロンを進化させていきたい」と担当者。

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11/01 売れ筋最前線⑬

2014年11月01日 | 日記

【じゃがポックル】

サクッとした軽い歯応えの後に、ジャガイモの旨味とシンプルな塩味が口の中に広がる。2003年発売され、北海道土産として人気の「じゃがポックル」。カルビー千歳工場だけで造られ、販売も道内のほか空港免税店などに限られる。
主力品で864円と決して安くないものの、売れ行きは好調だ。カルビーは商品別の年間売上高を明らかにしていないが、「じゃがポックル」は既に数十億円に達しているとみれ、看板の一つに育った。

カルビーは元々、ポテトチップスや「じゃがりこ」といった「比較的安価でどこでも手に入るスナック菓子」が得意分野。畑違いの土産市場への参入は一筋縄ではいかなかった。北海道支店新規販売課長の長浜さんは「石にかじりついてでもやりぬこうと思った」と振り返る。

1990年代後半から生産体制の見直しを全国で進めていたカルビーは00年、千歳工場の主力だった東北向けのポテトチップスの生産を他工場に移す案を固めた。
「このままでは千歳工場の雇用を守れない。新製品を生み出さなくては」。当時、北海道地区の新規事業開拓を担当していた長浜さんの危機感は強かった。

目を付けたのが土産物市場だった。洋菓子系甘い品が多い北海道土産の中で、塩味は目新しい。土産店が並ぶ新千歳空港まで工場から約7キロと近い地の利もある。
とはいえ普通のスナックは土産に向かない。ちょうどその頃、上司から耳打ちされた。「創業者の松尾孝・名誉会長が“じゃがりこは堅すぎる
”と指摘し、新たな商品を作らせようとしている」ーー。

長浜さんはすぐ、東京にある会長直轄の研究所を訪ね、そこで差し出された開発中の試作品に驚いた。
ジャガイモを皮をむかずに切り、キツネ色に揚げてある。堅すぎず軟らかすぎず、絶妙な食感。「こんな旨いものが作れるのか」。早速、千歳工場で製品化することを社内で働きかけ、02年9月、「じゃがポックル」の前身「ピュアじゃが」の発売にこぎつけた。
ターゲットは「旅行好きの20~30代の女性」。デザインを工夫し、外箱にケーキの箱のような持ち手をつけた。

ところが、この工夫があだとなった。持ち手を付けたせいで外箱が丸みを帯びてしまい重ね置きが出来ず、土産店で店頭に高く積んでもらえない。カバンに入れにくいせいか、空港のゴミ箱に外箱だけが捨てられているとも聞いた。

結局、カルビーは3ヵ月ほどで商品の大幅変更を決断する。新商品名は「大地のかけら」ど、いくつもの案の中から絞り込んだ。決めてとなったのは、アイヌ語のコロポックルから連想する北海道らしさと、語感の良さだ。外箱は4センチ弱の薄型に切り替え、中身も従来の40グラム4袋入りから、20グラム8袋入り(現在の主力は18グラム10袋入り)に小分けにした。ようやく「じゃがポックル」が産声を上げたのは、03年6月だった。

狙いは当たり、人気は尻上がりに高まる。現在の生産能力は当初の約40倍で、千歳工場全体の4割を占めるまでになった。土産店運営の全日空商事が今年初めて発表したゴールデンウイーク期間中の土産売上ランキングによると、「じゃがポックル」は全国73カ所の同社系列店で、計約2万4千個を売り一位に輝いた。同社は「アジア人観光客にも人気が広がっている」と分析する。

選ばれる理由は何か。長浜さんは「客の声に耳を傾け続けたから」だと思う。寄せられた声を基に、塩分は当初に比べ2割減らし、塩の粒もきめ細かくした。食感も当初より軟らかい。こうして磨いた品質を維持しようと、仕上がりにムラの出やすい大型製造設備も使わずにきた。
工場長は「コスト高でも小型機械を使い続けている。品質が落ちては意味がない」と話す。

カルビーは12年前、ピュアじゃがの発売に合わせ、「ポテトファーム」という新ブランドをつくった。
「安価なスナック菓子」というイメージを払拭するため、社名をあえて外す賭けだった。結果は吉と出て知名度は上がり、有色ジャガイモを使った姉妹品「じゃがピリカ」や、乾燥スープ「ほっとポテト」など商品も増えている。

ブランド管理を担当する遠藤さんは「道産食材をふんだんに使って新商品を送り出したい」と力を込める。
目指すは「北海道を代表するお土産ブランド」。第二、第三のじゃがポックルを生み出すため、千歳工場の挑戦は続く。

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