【牛とろフレーク】
加熱していない牛肉を細かな粒にして凍らせた「牛とろフレーク」。
温かいご飯にふりかけて、ネギなど薬味をのせ、醤油をたらすと立派な丼物の出来上がり。牛肉特有の臭みやくせはない。ご飯と絡んで溶けた脂身のこくと、肉本来の旨味が口に広がる。
「十勝スロウフード」が製造する「牛トロフレーク」は現在、全国約200の飲食店や大学の食堂で、ご飯にのせた「牛とろ丼」として提供されている。2011年に起きたユッケ集団食中毒事件のあおりで売上が激減したものの、製法を一部変えた危機を乗り切り、いま、ブームが再燃している。
「牛とろフレーク」を世に送り出したのは、肉牛育成牧場のボーンフリーファームだ。同ファームの斉藤代表は酪農学園大学を卒業後の1971年、清水町で酪農業に就いた。しかし、牛乳の消費低迷を受けた生産調整で生乳の廃棄ほ余儀なくされた80年ごろ「生産意欲が薄れたしまった」。それでも牛に関わる仕事がしたいと考え、80年代後半に肉牛生産に乗り出した。
飼育では牛の健康を第一に重んじた。飼料は一般の牧場で多く与えられている穀物ではなく自前で育てた牧草を中心に用い、放牧も積極的に行った。
ただ、こうした育て方は肉の味を良くする一方で、赤身が黒ずみ脂身が溶けやすくなるといい、市場での流通には不向きだった。
生産した肉を売りあぐねていた折り、斉藤代表が自宅の冷凍庫で凍らせていた自社産挽肉をタネに手巻き寿司を作ってみたところ「これがとても美味しかった」。
すぐに帯広市内の寿司店と共同で試作を重ね、91年、「牛とろフレーク」の前身である、生の挽肉を固めて凍らせた商品は完成した。当初は寿司店で軍艦巻きや手巻き寿司として提供されたという。
「凍った生肉」という珍しさも手伝って販路は広がる。92年には帯広畜産大学が生協食堂の食材に採用して「牛とろ丼」をメニューに載せた。学生の間でたちまち評判となり、北大など他大学の学食にも広がっていく。現在のような粒状になったのは99年だ。03年にはボーンフリーファームで働いていた藤田さんが、同社の肉を原料に「牛とろフレーク」など肉製品を製造・販売する「十勝スロウフード」を設立した。
順調に売上を伸ばしていた「牛とろフレーク」にはしかし、思わぬ逆風が待ち構えていた。
11年4月、富山県などで展開する焼肉チェーン店で起きた集団食中毒事件だ。
牛の生肉ユッケなどを食べた5人が亡くなった。十勝スロウフードの藤田社長は「事件の1、2ヵ月後には注文の電話がぱったり鳴らなくなった」と振り返る。
生肉のイメージはみるみる悪化し、全国の飲食店で生肉の販売自粛が広がる。11年10月には生食用牛肉の処理方法を厳しく定めた国の新規準が施行され、生肉を冷凍して作っていた「牛とろフレーク」も、そのままでは提供出来なくなった。
そこで十勝スロウフードが着目したのは、生ハムや生サラミが含まれる「非加熱食肉製品」の製法だった。この製法であれば、食塩を用いて一定期間熟成させるなどしなければならないものの、肉に熱を加える必要はなく、従来とほぼ変わらない風味・食感を実現できたのだ。
製法変更で以前は4~5日だった製造期間が2週間近くまで延び、生産コストは上昇した。また、ユッケ事件後の12年、十勝スロウフードの売上高は事件前の半分まで激減し、販売先の飲食店も3割少ない約80店まで減ってしまった。
潮目が変わったのは昨年冬ごろから。ユッケ事件の影響が次第に薄れ、「牛とろフレーク」がマスコミで紹介される度に大量の注文が舞い込むようになった。全国の百貨店で開かれる北海道物産展では、「牛とろフレーク」を求める長い行列が出来ることも多い。
現在は牛肉の生産が追い付いていない状態だと良い、個人向け通信販売は注文から1ヵ月待ちだ。新規の業者向け販売はやむなく断っている。それでも今年の売上高は前年より2割近く多い2億2千万円と過去最高を見込む。
「ユッケ事件以来、生肉の提供される機会が減り、“食べたい”と思う消費者の気持ちは抑圧されてきた。その気持がせきを切って牛とろフレークに押し寄せているのでしょう」と藤田社長。