道彦の散歩道

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11/02 売れ筋最前線⑭

2014年11月02日 | 日記

【マロンコロン】

“あまとう ルル、マロンコロンーー”。
小樽の繁華街を歩くと、どこからともなく街頭放送から女性の歌声が流れてくる。昔から市民におなじみの焼き菓子「マロンコロン」は、全国区の人気商品になっても職人による手作りを貫く、こだわりの逸品だ。

「あまとう」の創業は1929年。3代目の柴田明社長の祖父で、酒が苦手だった故・昇さんが「大好きな甘いものをいつでも食べさせられる店をつくりたい」と一念発起し、勤めていた小樽市内のラムネ工場を辞めて始めた。
当時は小樽名物の菓子「ぱんじゅう」からすしまで幅広く扱う食堂で、店名は漢字で「甘薹」だった。
終戦から間もない50年代、店舗の2階を喫茶店、1階をケーキなどの売店に改築。業態を変えるのを機に「看板商品を生み出そう」と、柴田社長の父の故・治郎さんが全国の銘菓を扱う店を訪ね歩いた結果、クッキーを2枚重ねにする菓子はたくさんあっても、3枚重ねはないと気付いた。
そこでクッキーとクッキーの間にアンズのジャムを塗り、側面をチョコレートでコーティングした3枚重ねの菓子を60年に開発した。現在よりも栗のようにコロンとした形をした「マロンコロン」の誕生だった。

商品化への道は平坦ではなかった。鉄板で焼く直径7センチの円形のクッキーは、どうしても表面が丸みをおびる。2枚重ねは平らな底面を合わせられるが、3枚重ねは、真ん中のクッキーの両面を平らにする必要がある。試行錯誤の結果、今も職人が小さなナイフで1枚1枚、表面を削って平らにしている。

素材も当時から、国産の最上級の無塩発酵バターを使っている。担当者は「昔から栄えていた小樽の街の職人の心意気というか、中途半端なものは作りたくないという気持ちが、うちの伝統」と胸を張る。

時代に合わせて、「マロンコロン」は少しずつ装いを変えている。
誕生した高度成長期は甘い菓子がもてはやされたが、次第に健康志向が高まってきた80年代半ばには、アーモンドやカカオなど生地の味は保ちながら、ジャムを入れるのをやめて甘さとカロリーを抑えた。

80年代後半、バブル景気と同時に「マロンコロン」も飛ぶように売れた。1日に千個程度の生産が限界だったため、機械化して大量生産する構想が持ち上がった。業者にレシピを全て伝え、試作品の機械で作ってみたが、味や食感、香りと何から何までが手作りと異なる出来栄えだった。

担当者は「計画はすぐに白紙に。生地をこねる際の微妙な空気の入れ具合など、職人技を機械で忠実に再現するのは無理なんだとあらためて実感した」と振り返る。

このころ小樽は運河埋立の是非を問う論争を経た後で、急速に観光地化していた。「マロンコロン」の名前も次第に全国に広まり、各地の百貨店などで開かれる北海道物産展への出展要請が増えていく。

2007年には市内に「マロンコロン」専用の工場を建設し、今では手作りを続けながら1日に5千個の生産が可能に。07年以降、札幌に進出する一方、従来の4種類の味に加え、ジャム入りの復刻版やイチゴなど新味の導入も積極的に行っている。

「マロンコロン」の売上は13年11月期に、過去最多の年間172万3500個を記録した。最近では「3枚重ねはボリュームがありすぎる」という年配の顧客からの声を受け、今年9月5日に売り出した2枚重ねの紅茶味が好評だ。

「3枚重ねだけに拘り続けたら、お客さんは離れてしまう。臨機応変に、小樽をはじめ高齢化社会の現状を正面から受け止めながら、マロンコロンを進化させていきたい」と担当者。

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