【柳もち】
札幌駅といえば、「柳もち」である。小豆の漉し餡を小判型に丸めた中に、白い餅の入った生菓子である。
今は札幌駅立売商会の商品だが、元々はその前身の一つである「北間屋」が、明治39年に作り始めた。
北間屋を創業した洲崎圧次郎が札幌にやって来たのは、明治37年。料亭北間 屋を起こした後、松前旅館を経営。
札幌駅の構内で立売を始めた当時は、旅館で「柳もち」などを作っていった。圧次郎は石川県金沢市洲崎の出身。屋号の北間は隣町の名前である。
北間屋は菓子類が専門で、「柳もち」のほかにも、五色餅や鶏卵饅頭などを揃えていた。札幌駅では同じ時期に井上直之が「苺餅」を立売している。
このように駅で売られていたのは、米飯を用いた駅弁類だけではなかった。現に北海道の駅弁第一号と伝えられるのは、明治13年に道内初の鉄道が手宮ー札幌間に開通して間もない頃、銭函駅のホームで立売された「甘酒饅頭」である。これは銭函名物として人気を集めるが、戦争とともに消えていった。そして半世紀余りを経た平成10年、それは「酒まんぢゅう」として復活し、今も銭函駅で売られている。
北間屋と金沢のつながりは、屋号だけではない。加賀では多くの銘菓が生み出されてきたが、その一つに「あんころ餅」があって、今でも金沢市内の内外には「あんころ」の店がいくつもある。要するに「あんころ」は、洲崎家の出身地でもっとも馴染み愛されていた菓子の一つで、それを移住先の札幌で再現したのが「柳もち」なのである。
『原点・金沢』
加賀・金沢における、「あんころ餅むの歴史は長い。圓八(えんぱち)のように、元文2年の創業以来、270年近く「あんころ餅」を作り続ける老舗もある。地元では「圓八のあんころ」とか「松仁のあんころ」と親しまれ、北陸線が開通した明治31年4月からは、松仁駅でも販売を始めた。しかし、平成9年1月31日を最後に、駅での立売は休業状態に入っている。
津幡駅に行くと、今でも「あんころ」が売られている。その名は「きびあんころ」といい、きび粉を練り込んだ茶色の「あんころ」が9粒、竹の皮に包まれている。
では、金沢駅はどうか。調べてみると「柳餅」の名で、たしかに駅売りされている。
「柳餅」の由来は、鎌倉時代にまで遡る。浄土真宗の開祖として知られる親鸞聖人が、越後の国に流された時、妻である玉日姫は京から上人の許へと向かう。しかし、途中の柳橋にある川が大変な暴れ川で、ずいぶん難渋を強いられていた。その際世話になったお礼にと、玉日姫が教えたのが団子の製法であり、これが後に「柳橋団子」と「柳団子」などと呼ばれ、街道の茶店で売られるようになったというものである。
時代は下って、明治。その株を譲り受けた安宅某が、北陸本線が開通した明治31年に「柳餅」の名で「あんころ」を売り出した。これが金沢駅の「柳餅」の始まりとなる。
その後を受けた濱坂鳳来堂は、戦時下で原料配給が無くなるまで続け、終戦直後の昭和20年からは奥田政次郎が継承した。そして40年頃には、濱坂との縁で北一商店山本三郎に引き継がれる。
父と一緒に切り盛りし、後に跡を継いだ山本勝介は、毎日真夜中から作り始め、朝の4時には駅に出るという生活を30年近く続けた。だが、やがて体を壊し、後継者を探したが思いは果たせず、平成5年頃、ついに金沢から「柳餅」はきえたのである。
『札幌百年の底力』
札幌駅の「柳もち」であるが、以前は駅の近くに菓子屋がなかったこともあって、今とは桁違いの売れ方だった。とりわけ昭和20年代は、6月の札幌まつりに炭鉱から遊びに来た人たちが、帰りがけに5折も6折土産に買っていった。一日で1500折以上も売れたという。
金沢の「柳餅」は、まんまるの「あんころ」を竹の皮で包むのが基本形だ。札幌は、形は小判型で、最初から経木の折り箱に入れられていた。今は1粒ずつ部屋に納められ、艶のある小豆色の餡が食指をそそる。
金沢をルーツとし、明治39年に売り出された「柳もち」が、札幌駅に根づいて108年となる。
材料の小豆は十勝産、餅も粘りと腰があって固くなりにくい道産の「はくちょう米」を使っている。作る側のこだわり、食べる側の思い、それらが絶妙のバランスで支えあって、札幌駅に「柳もち」という100年の名物を生み育ててきた。