佐世保便り

2008年7月に佐世保に移住。
海あり山あり基地あり。そしてダム問題あり。
感動や素朴な疑問など誰かに伝えたくて…

5年後の小学校で

2009-06-02 | 佐世保・長崎
日本中が衝撃を受けたあの日から、まる5年が経ちました。

小学6年生の女の子がクラスメートの女の子をカッターナイフで切りつけ死亡させたという・・・
信じられない事件でした。

事件が起こった佐世保市のその小学校では、6月1日「こころを見つめる集会」が開かれ、
その様子を翌日の長崎新聞は一面と社会面のトップで詳しく伝えています。

児童会で作った曲「大切な友達」を6年生がハンドベルで演奏し、
全員で黙とうをささげ、
校長先生は「6月1日はこの学校にとって忘れてはいけない日。
夢に向かって、たくましく生きる子どもになって下さい
」と語りかけ、
こどもたちは誓いの言葉を述べ、
保護者や地域住民や先生の代表がメッセージを伝えたという。

事件現場の教室を改装した「いこいの広場」では、
こどもたちがそれぞれ種から育てたサルビアの苗をプランターに移植。
そして亡くなった女の子の同級生である高校生たちが、
女の子が好きだったヒマワリを花壇に立て、
今日で5年だね… これからもずっと友達やけんネ」と書いたカードを添えた。

また、この日、児童文学作家のあまんきみこさんが来校し、
「いのちをつなぐ―作品を通して伝えたいこと」と題して講演。
こどもたちに優しく語りかけた。

ミーハーな私は、ええっ!あの、あまんきみこ?
「ちいちゃんのかげおくり」のあまんきみこ!
「きつねのおきゃくさま」のあまんきみこ!
と、心拍数が急上昇。

こどもたちもさぞかし目を輝かせ、耳をダンボにして聴き入ったことでしょう。

記事によると、あまんさんはご自身の戦争体験
(終戦直後に旧ソ連軍が進駐して学校が2か月間閉鎖され、同級生と一時会えなくなったこと)
を伝え、「登校できた時は、同級生らと抱き合って喜んだ。本当に人とのつながりが無くなった時
どんなに大切かが分かる」と話されたそうです。

また、「どんな思いを込めて作品を書いているのですか?」との児童の質問に、
あまんさんはこう答えています。

人生の中には光がいっぱい射すこともある。
自分に光が当たっていることで、その影が誰かに当たっているかもしれない。
そういうことも思ってほしい。

いま日本は戦争のない国だけど、
いまも被災して逃げ惑っている人がいることも思ってほしい。

光が当たるのとは逆に、真っ暗になることもあるかもしれない。
でも生きていれば必ず、光は当たる。

光のある世界を信じてほしい。
それが物を書くときに根元にある思い。


これらの言葉の中に、私はかってにあまんきみこさんの同級生Mさんの幻を感じました。
ポプラ社文庫の「おかあさんの目」のあとがきに、あまんさんは書いています。

戦時中、大連での女学校時代、仲良しのMさんと童話を書いては見せっこしていたことを。
Mさんはとても聡明で、彼女のお話にはいつも春の精や花の精が出てくる美しい世界だった…と。
そのMさんは戦後20代前半の若さで結核のため亡くなりますが、
あまんさんの中ではいつまでも大切な友人として生き続けているようです。
その本の出版に際して(2005年)お礼の言葉を伝えたい人の一人としてMさんの名前をあげ、
その理由をこう述べています。

「つらい戦時中のひととき、小さなお話交感の楽しさを、かくれながらわけあったことは、
私のかけがえのない力になっています」
と。



あまんさんのお気持ちはよーく分かる気がします。
心の底から分かり合えたり、尊敬や憧れの対象でもあるような友人に出会えたとき、
それはまた家族とは違う大切な存在となり、人生を豊かにしてくれるものです。

5年前のあの二人もそういう関係になれたかもしれない・・・
そういう聡明で魅力的な女の子たちだったように私は感じています。

だけど、一人がどこかで獣道に迷いこんでしまった・・・
きっと深い霧がたちこめて、彼女は不安でいっぱいだったんだろう、
早く明るい日の射すところに出たくって、闇雲に突っ走っていたら、谷底へ・・・

その霧は、この社会そのもの。
彼女の理性や判断力を奪った霧は私たちが作りだしたもの。

その霧の正体を突き止めるまでは、私たち大人も、いえ、大人こそ「6月1日を忘れてはいけない」
そう思います。


コメント
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