貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

二つのアーケード街

2019-11-25 09:09:24 | 日記

二つのアーケード街

令和元年11月25日

 アーケード街は思い出深い!

 一つは浜大津のアーケード街。

 京町に間借りしていたので、

一軒の本屋さんへちょこちょこ。

 50円の岩波文庫は、全部

購入。一食がよく化けた。

 二つ目が、中野駅前のアーケ

ード街。友達や先輩とよくうろ

うろした。喫茶店でお喋りに

興じた。ニヒルな生活?

 そして、大須観音。

 大須観音の仁王門から出て

東に進むと,大須商店街の

仁王門通の入り口。

 大須観音の門前町として大須

の町は発展し,一時期は衰える。

 現在は名古屋で最も元気な

商店街といわれるまでになって

いる。

 かつては秋葉原などのように

電気街を形成していたという。

 グルメあり,ファッションあり,

文化ありのごった煮の元気あふ

れる商店街。


 そして、もう一つが

「大須観音通商店街」。

 ちょっと違った雰囲気のある

アーケード街。

 大須ういろでも土産にと探す

が、どちらも商店街定休日の

一日。

 ちょっと残念。

 鯛焼きも食べたかったなあ!

 鯛焼きがはやった頃、

「男は頭から 女はしっぽから」

なんていって食べていたのも

懐かしい!

 大須が生み出したのかな?

 たわいもないことを

楽しむ心も大事かな?


いざさらば!

2019-11-24 09:17:24 | 日記

いざさらば!

令和元年11月24日

 昨日の電車の中の広告。

「ひろしです。」

「群れない。媚びない。期待しない。」

が、一番目を引く。

 人は好きだが、群れるのは

好きではない。僻地に育った

せいかな。

 媚びることはしない。

 演技でもできないかな?

 なるほどなるほど。

と感心するが、

最後の「期待しない。」

 至極、自分にも、人にも

期待してきたし、今なおほどほど

期待をする。

 成る程。期待しないか?!

 ちょっと考えさせられた。

 さあ、、大須観音の芭蕉句碑。

説明碑も整備されている。

 芭蕉句碑。

 芭蕉句碑は、貞享4年(1687)に、

『笈の小文』の旅の途中、

名古屋を再訪し、名古屋城下の

書林風月堂を訪問した際に

詠んだ句が刻印されている。

「いざさらば 

 雪見にころぶ 

    所まで」

 当初の「いざ出む雪見にころぶ所まで」

が後に「いざ行む雪見にころぶ所まで」

に改案され、

さらに「いざさらば」と推敲。

 「きたいすること」も

いざさらばかな?


利益無量

2019-11-23 14:05:18 | 日記

利益無量

令和元年11月23日(土)

 今朝は寒い中、日本橋へ。

 拝島で、西武新宿線に乗り換え、

高田馬場で、東西線に乗り換え、

日本橋へ。

 門前仲町から東青梅まで、一ヶ月

ちょっと通勤した懐かしい経路。

 地下鉄の暖かいこと。

 ちょっとびっくり!

 やっと真福寺へ。

 大須ういろもいいなあ

等と想いながら参拝1

 大須観音様!

 さあ、仁王門!

仁王の阿吽像

勇ましい!!!

 

 本堂参拝!

 開山は能信(のうしん)上人。

元弘3年(1333)後醍醐天が

能信上人を長岡荘大須郷に

9年前に造営した北野天満宮の

別当職に補し、

「北野山真福寺寶生院」という

寺号を与える。

 能信上人は当寺の開創にあたり、

伊勢大神宮に百ヶ日間籠もり、

「この世の人々を救い、

お恵みを戴くには、

どなたを祀ればよいか、」

と一心不乱に祈る。

 上人の誠は神に通じ、

「大慈大悲の観世音こそは

利益無量・・・。」というお告げ。

 御利益が推し量れないほど

たくさんあるということ。

 どうも「りえき」と読んでし

まう癖があるようだ。

 観世音菩薩をご本尊とする

ことに。

 後村上天皇の時、「勅願寺」と

して詔を賜り、戦国時代を経て、信

長、家康も大事にし、家康が

名古屋を建設造営するにあたり、

慶長17年、先ず初めに当寺を

現地に移したという。

 果たせるかな霊験、

日に日に新に、善男善女の参詣

きびすを接し、市の一大中心

として繁栄。

 「大須観音」と俗称され、真言宗

智山派別格本山として、今日に至っ

ている。

 御利益大いにあり、また商売も

利益大いにあり。

ということなら、「りえき」でも

許してもらえるかな?

 現代人の哀しみ!

 さあ、芭蕉句碑へ。


句碑4基

2019-11-22 09:01:43 | 日記

句碑4基

令和元年11月22日

 「いい夫婦!」の日。

 しかし、近隣は60代から

80代にかけて亡くなる男性、

つまり旦那さんが相次いでいる

感じ。

 この4・5年の間だ。

 夫婦二人で元気に暮らせる

ことに深謝しつつ、今少し

東輪寺。

 他に、四つの句碑があるが、

「朝顔の・・・・・」の句は、

俳人其考の句。

 調べたが、「俳諧岩見潟」を

編纂した人ということしか分か

らず。

 もうひとつは、秋麻呂の句碑。

「紫陽花や 

 今日は昨日の

     我ならじ」

 飛鳥から奈良時代にかけての

貴族、阿倍秋麻呂が作者なの

だろうか。

 句は、ちょっと現代的?

 今ひとつは、全く読み取れず。

 そしてまた、これもわからず。

 

 ご住職さんにお会いしたかっ

たな。


ううん! 唯心の浄土・己身の弥陀?

2019-11-21 14:14:06 | 日記

ううん! 唯心の浄土・己身の弥陀?

 令和元年11月21日

 昨日、木枯らし1号ではなかっ

たのかな?

 今朝は11度。

今年1番の寒さ!

 北風が吹かないので、今日は、

ガラス窓磨きと網戸洗いとする。

 1階部分の外側だけ完了!

 今年は夏前に一回やったので、

そんなに汚れていない。

 やはり年2回かな。

 さあ、今日は、東輪寺参拝。

 見事な漆喰の本堂。

 東輪寺は延宝2年(1674)、

尾張二代藩主徳川光友公によって

創建された黄檗 (禅宗)大本山」

萬福寺の直末寺院。

 開山は、宗祖隠元禅師の高弟で、

木庵禅師とならび黄檗の二甘露門

と称された高僧・即非禅師。

 初代住職には、後に大本山萬福

寺第六代の法席を継ぐ千呆禅師が

就任。

 一時、曹洞宗に転派。 

 千呆禅師の弟子・天祐禅師に

よって再建。

 第四代蘆江禅師の頃には唐風の

七堂伽藍が整い、宝永6年(1709)、

尾張藩より年禮御目見得を許され、

領内寺院の触頭に任ぜられる。

 その後は、尾張の黄檗禅の中心

となるが、濃尾地震や戦災にも合い、

戦後50年を経て、本堂が再建さ

れるという経緯。

 芭蕉句碑の句は、

「粟稗に 

 貧しくもあらす 

   艸の庵」

 黄檗宗とは、中国に於ける

臨済宗系の禅宗。

 日本では黄檗宗と名乗り、

日本三禅宗の一つ。

 中国明代末の禅僧 隠元禅師

(1592-1673)が江戸時代初期

(1654年)に来日。

 徳川四代将軍家綱公より

京都府宇治市に寺領を賜り

「黄檗山萬福寺」を創建・開宗。

 「唯心の浄土・己身の弥陀」

を体得。

 我々が本来備えている仏心を

座禅することにより発見し、

仏と一体となる。

 つまり心を浄土とし(唯心の浄土)

我が身を弥陀とする(己身の弥陀)

ことが大切だと説く。

 わかるようで、わからないのが、

実感。

 他の句碑は、次に!