貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

鐘一つ 音はどうとも!

2019-07-22 09:26:49 | 日記

鐘一つ 音はどうとも!

令和元年7月22日

「およそ鐘の声は、黄鐘調

(おうじきちょう)なるべし。

これ無常の調子、祇園精舎の

無常院の声なり。」

というのは、吉田兼好の

『徒然草』にある。

 京都妙心寺の鐘の音。

 その音が無常の響きか!

 ところが、坊さん。

『何、無常の音?

そんなもん文学やろ。

聞く門もんの勝手や。」

と言われたそうな。

 なるほど!

 物は見様でどうでもなり、

音も聞きようでどうとも

聞こえるもの。

 それが無常か。

 沼津市浄因寺。

 蕉門十哲の第一の俳人、

榎本其角、後の宝井其角の

句碑もあり。

「三日月の 命あやなし 

      闇の梅」 

 大顛和尚句碑の句は、

「礼者門を 敲くしだらく 

    花明らか也」

 大顛和尚は、円覚寺代163世で

高徳の和尚。    

 其角参禅の師でもある。  


屋根取り付けできず

2019-07-21 09:16:02 | 日記

屋根取り付けできず

令和元年7月21日

 今朝も蒸し暑し。

歩行禅で、汗がじわっとかく。

 今朝は、沼津市へ。

  浄因寺、初のお参り。

 えっ、これが本堂?

 伝えによれば、聖武天皇 

神亀元年(724)行基菩薩に

より建立されたという。

 1700年代と、1850年

ごろの2度にわたる火災のため、

草葺き屋根の庫裡と土蔵造りの

羅漢堂、山門を残して、本堂以下

全ての堂宇消失。

 焼け残った庫裡を改造し、仮の

本堂として粗末な建物のまま。

昭和41年に新築。


 境内を手入れされていた80

代の男性の方が、

「この本殿は、鉄筋コンクリート

づくり。しかし、屋根の部分の

資金がなく、平らな屋上となる。

毎年、雨漏りがひどく大変だった

が、といを付け、補修してやっと

雨漏りはなくなった。」

というお話。

 当時、寄付する人もいなかった

ような感じ。

 「句碑が多いのは、ある住職が物

好きな方で、退職金を使って句碑を

建てた。」

と説明してくださる。

 芭蕉の句は、大顛和尚の訃報を

道中で知り、白梅に譬え、弔意を

句に託す。 

「梅こひて 卯の花おかむ 

     なみだ哉」

 あすへ。


捨て難し 風流!

2019-07-20 09:16:31 | 日記

捨て難し 風流!

令和元年7月20日

 風鈴の短冊が引き裂かれ、

直すこともすっかり忘れて

いる。

 蒸し暑さで、思い出す。

 あの音の冷涼感はいいなあ!!

 日本にしかない風情、風流の一つ。

 本殿の風鐸が、庶民の家に!

魔除けからの出発だそう。

 ここは、三島市の日枝神社。 

 

 平安時代からの神社で山王社

とも称され、山王さんとして

親しまれる。

 神社には国の重要文化財に

指定されている

「紙本着色山王霊験記」1巻が

ある。

 奥書の冒頭の「弘安11年初春」

という文字から、鎌倉時代に制作

されたものとされ、作者は不明だが

日枝神社の縁起を物語っている。

 日枝神社の御神木は椎の木。

 樹齢450年超。

 そして、

 芭蕉の俳文碑は、芭蕉来沼300年

を記念して設置される。

「芭蕉もこの日枝神社の神前に

旅の安全平安を祈ったであろう」

ということから、この地に建てら

れることになったという。

 芭蕉真蹟を拡大して句碑とした

もので、詞書と句が刻まれる。

 詞書には

「長月の末都を立て、初冬のみそか

ちかきほど、沼津に至る。

 旅館のあるじ所望によりて、

風流捨がたく筆を走らす」

とあり、元禄四年(1691)の初冬、

すなわち十月の晦日近くにここ

沼津宿の旅館で詠んだもの。

句は、

「都いでゝ 神も旅寝の

  日数(ひかず)哉」

 芭蕉は、9月28日粟津無明庵を

出て、10月29日江戸着。

 神々の出雲への旅と、はからずも

時を同じくしたのに興じた句。

 我が家の風流なる風鈴(小田原)、

捨て難し!

今から短冊をつけよう。

 

 

 


梅雨寒、どむみりと!

2019-07-19 09:24:57 | 日記

梅雨寒、どむみりと!

令和元年7月19日

 子どもたちは、一回でも

プールに入り、歓声ををあげ

たのだろか?

 一学期も今日か、明日で終了!

梅雨寒の新記録だそう。

 ここは、三嶋神社の境内にある

伊豆魂神社。

 芭蕉句碑は社殿右に。

 句は、

「どむみりと あふちゃ雨の 

     花曇」   芭蕉 

 元禄7年。『芭蕉翁行状記』には、

「しどけなき道芝にやすらひて」

と前書きし、終の旅の箱根の関

と島田との間に出す。

 意は、

「疲れ切ってしどけなく道芝に

足を投げ出して空を見上げると、

樗(おうち)の花が薄紫色に咲い

ている。

 空はどんよりと雨雲が

垂れ込めている。」

 「どんみりと・・・」

猛暑を感じることはなく、日々

どんみり感を、こんなに長く

味わうとは・・・・

 昭和の最後の年以来だとか・・・。

 ちょっと青空が見えてきた朝だ。

傍に、鎮魂歌の石碑もある。


伊豆の玄関口

2019-07-18 10:10:30 | 日記

伊豆の玄関口

令和元年7月18日

 昨日は、久し振りにお日様と

青空がひょっこり!

 大急ぎで部屋干しの洗濯物を

日干しに。布団も日干し。

 夕方道路の草刈りと

太陽とともに満喫。

 3時間以上の記録だ。

 令和元年7月の珍事。

 三島大社総門より詣る。

 二度目の参拝。

 この総門は、竣工中に伊豆地震

に見舞われ、昭和6年に竣功。

 旧総門は、一部改修し、芸能殿

として保存される。

 ご祭神は、大山祇(おおやまつみ)命と

積(つみ)羽(は)八重(やえ)事代(しろ)

主神(ぬしのかみ)の御二柱の神を

総じて三嶋大明神と称する。

 創建の時期は不明。

 古くより三島の地に鎮座し、

奈良・平安時代の古書にも記録が

残っている。

 三嶋神は東海随一の神格。

 平安時代中期「延喜の制」では、

「名神大」に列格され、社名・神名

の「三嶋」は、地名ともなる。


 中世以降、武士の崇敬、

殊に伊豆に流された源頼朝は

深く崇敬し、源氏再興を祈願。

 神助を得てこれが成功するや、

社領神宝を寄せ益々崇敬され、

その神宝の中でも、頼朝の妻、

北条政子の奉納と伝えられる

国宝「梅蒔絵手箱 及び 内容品

一具」は、当時の最高技術を

結集させたものとして知られて

いる。

 頼朝旗揚げ成功以来、武門武将の

崇敬篤く、又、東海道に面し、

伊豆地方の玄関口として

下田街道の起点に位置し、

伊豆国 一宮として、

三嶋大明神の称は広く天下に

広まっていく。

 境内ガイドを参照し、道一つ

離れてある伊豆魂神社へ。

 社殿。

 芭蕉句碑は社殿右に。