貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

酒田市 日和山公園

2017-04-10 10:32:05 | 日記
酒田市:日和山公園

 酒田は、日本三大急流のひとつである

最上川が日本海に注ぐ河口に発達した町。

 江戸時代には北前船が、米や紅花、

海産物などを大阪、江戸へと運び、

港町として、商業の町として殷賑を極め

ました。

羽黒を立て、鶴が岡の城下、長山氏

重行と云物のふの家にむかへられて、

俳諧一巻有。

 左吉も共に送りぬ。

 川舟に乗て、酒田の 湊に下る。

 淵庵不玉と云医師の許を宿とす*

 あつみ山や吹浦かけて夕すヾみ
 (あつみやまや ふくうらかけて ゆうすずみ)

 暑き日を海にいれたり最上川
 (あつきひを うみにいれたり もがみがわ)

日和山公園  <27.9.18 14:30~15:10>

完璧なまでに整備された公園である。

酒田市の思いも伺われる。

 上記の歌があり。

芭蕉句碑も枝振りのよさを誇らんとす

黒松の塚の傍らにある。

 酒田の舟運が発達した一つの原因として、

河村瑞賢による西廻り航路の刷新は忘れる

ことが出来ない。

 江戸経済が安定してくるにつれ、人口が

増加し、主食である米の不足がクローズア

ップされた。

 そこで、米どころの多い日本海を通る西

廻り航路の見なおしのため、幕府の御用商

人である瑞賢が派遣された。

 瑞賢は苦心の末、酒田から下関経由の日

本海西廻り航路を確立し、最上川を通して

運ばれた物資を、安全に江戸に回漕するこ

とに成功させた。

 これにより酒田は、日本海航路上唯一の

拠点として空前絶後の繁栄をみせた。

河村瑞賢〔かわむら・ずいけん〕
         (1618-1699)

江戸前期の土木家。

 伊勢の貧農から身を起こし、土木・材木

を請負、ついに江戸屈指の材木屋となった。

幕命を受け、奥羽の官米を江戸に回送する

ため1670年(寛文10)に阿武隈川の河口

から江戸へ向かう東廻り航路、

1672年(寛文12)に酒田から下関を通り

大阪・江戸へ向かう西廻り航路を整備した。

芭蕉も瑞賢もついでに私も三重県出身。

 何か因縁もあるような感じ。

 時間を超えて惹き付け合っているのかも

しれない。(身勝手に引き寄せて)

 温海山や吹浦かけて夕涼み 芭蕉


工事をしていなければ、酒田港も眼下に楽し

めたかもしれない。残念であった。

菜の花温泉「田田」に行き一風呂浴びる。

 「庄内みかわ」という道の駅に宿泊。

日和山公園より酒田港を






芭蕉と句碑



芭蕉翁の立像、旅姿



句碑

 温海山や吹浦かけて夕涼み 芭蕉



河村瑞賢の千石船