酒田市:日和山公園
酒田は、日本三大急流のひとつである
最上川が日本海に注ぐ河口に発達した町。
江戸時代には北前船が、米や紅花、
海産物などを大阪、江戸へと運び、
港町として、商業の町として殷賑を極め
ました。
羽黒を立て、鶴が岡の城下、長山氏
重行と云物のふの家にむかへられて、
俳諧一巻有。
左吉も共に送りぬ。
川舟に乗て、酒田の 湊に下る。
淵庵不玉と云医師の許を宿とす*
あつみ山や吹浦かけて夕すヾみ
(あつみやまや ふくうらかけて ゆうすずみ)
暑き日を海にいれたり最上川
(あつきひを うみにいれたり もがみがわ)
日和山公園 <27.9.18 14:30~15:10>
完璧なまでに整備された公園である。
酒田市の思いも伺われる。
上記の歌があり。
芭蕉句碑も枝振りのよさを誇らんとす
黒松の塚の傍らにある。
酒田の舟運が発達した一つの原因として、
河村瑞賢による西廻り航路の刷新は忘れる
ことが出来ない。
江戸経済が安定してくるにつれ、人口が
増加し、主食である米の不足がクローズア
ップされた。
そこで、米どころの多い日本海を通る西
廻り航路の見なおしのため、幕府の御用商
人である瑞賢が派遣された。
瑞賢は苦心の末、酒田から下関経由の日
本海西廻り航路を確立し、最上川を通して
運ばれた物資を、安全に江戸に回漕するこ
とに成功させた。
これにより酒田は、日本海航路上唯一の
拠点として空前絶後の繁栄をみせた。
河村瑞賢〔かわむら・ずいけん〕
(1618-1699)
江戸前期の土木家。
伊勢の貧農から身を起こし、土木・材木
を請負、ついに江戸屈指の材木屋となった。
幕命を受け、奥羽の官米を江戸に回送する
ため1670年(寛文10)に阿武隈川の河口
から江戸へ向かう東廻り航路、
1672年(寛文12)に酒田から下関を通り
大阪・江戸へ向かう西廻り航路を整備した。
芭蕉も瑞賢もついでに私も三重県出身。
何か因縁もあるような感じ。
時間を超えて惹き付け合っているのかも
しれない。(身勝手に引き寄せて)
温海山や吹浦かけて夕涼み 芭蕉
工事をしていなければ、酒田港も眼下に楽し
めたかもしれない。残念であった。
菜の花温泉「田田」に行き一風呂浴びる。
「庄内みかわ」という道の駅に宿泊。
日和山公園より酒田港を
芭蕉と句碑
芭蕉翁の立像、旅姿
句碑
温海山や吹浦かけて夕涼み 芭蕉
河村瑞賢の千石船
酒田は、日本三大急流のひとつである
最上川が日本海に注ぐ河口に発達した町。
江戸時代には北前船が、米や紅花、
海産物などを大阪、江戸へと運び、
港町として、商業の町として殷賑を極め
ました。
羽黒を立て、鶴が岡の城下、長山氏
重行と云物のふの家にむかへられて、
俳諧一巻有。
左吉も共に送りぬ。
川舟に乗て、酒田の 湊に下る。
淵庵不玉と云医師の許を宿とす*
あつみ山や吹浦かけて夕すヾみ
(あつみやまや ふくうらかけて ゆうすずみ)
暑き日を海にいれたり最上川
(あつきひを うみにいれたり もがみがわ)
日和山公園 <27.9.18 14:30~15:10>
完璧なまでに整備された公園である。
酒田市の思いも伺われる。
上記の歌があり。
芭蕉句碑も枝振りのよさを誇らんとす
黒松の塚の傍らにある。
酒田の舟運が発達した一つの原因として、
河村瑞賢による西廻り航路の刷新は忘れる
ことが出来ない。
江戸経済が安定してくるにつれ、人口が
増加し、主食である米の不足がクローズア
ップされた。
そこで、米どころの多い日本海を通る西
廻り航路の見なおしのため、幕府の御用商
人である瑞賢が派遣された。
瑞賢は苦心の末、酒田から下関経由の日
本海西廻り航路を確立し、最上川を通して
運ばれた物資を、安全に江戸に回漕するこ
とに成功させた。
これにより酒田は、日本海航路上唯一の
拠点として空前絶後の繁栄をみせた。
河村瑞賢〔かわむら・ずいけん〕
(1618-1699)
江戸前期の土木家。
伊勢の貧農から身を起こし、土木・材木
を請負、ついに江戸屈指の材木屋となった。
幕命を受け、奥羽の官米を江戸に回送する
ため1670年(寛文10)に阿武隈川の河口
から江戸へ向かう東廻り航路、
1672年(寛文12)に酒田から下関を通り
大阪・江戸へ向かう西廻り航路を整備した。
芭蕉も瑞賢もついでに私も三重県出身。
何か因縁もあるような感じ。
時間を超えて惹き付け合っているのかも
しれない。(身勝手に引き寄せて)
温海山や吹浦かけて夕涼み 芭蕉
工事をしていなければ、酒田港も眼下に楽し
めたかもしれない。残念であった。
菜の花温泉「田田」に行き一風呂浴びる。
「庄内みかわ」という道の駅に宿泊。
日和山公園より酒田港を
芭蕉と句碑
芭蕉翁の立像、旅姿
句碑
温海山や吹浦かけて夕涼み 芭蕉
河村瑞賢の千石船
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