29日(日)今年初めての万葉ハイキングでした。
お天気は、曇り時々晴れの風の冷たい日でしたが、今年初めてと言う事で、参加者は52人でした。
西の京の駅で降り、薬師寺の方に向かって歩き出す。
会員さんの息子さんの紹介で、薬師寺の役僧の方に中を案内して頂く(解説)
玄奘三蔵院 の前で説明を受ける
薬師寺とは、「我が国に伝わるもっとも最古の宗派で、南都六宗の一つ《法相宗の大本山》で天武天皇九年(680)皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を祈願して天皇自らの発願により、藤原京に京域内建立した。本薬師寺[現在は礎石・塔跡の遺跡]から平城遷都に伴って、養老二年(712)現在地に移った。
見学の順序から行くと、
玄奘三蔵院伽藍の説明
次に行ったのが、「平山郁夫画伯」の大唐西域壁画殿の中の解説
シルクロードの壁画、余りの迫力に圧倒された。
特別に「大宝蔵殿」の中を解説して頂く
東院堂(国宝)の中を拝観。
本尊である「聖観世音菩薩」(国宝)を参拝
脇侍四天王像 持国天像(青・青龍) 広目天像(白・白虎) 増長天像(赤・朱雀) 多門天像(黒・玄武)
東塔・西塔が、一緒に見えます。
外に出て、休ヶ岡八幡宮(重要文化財)参拝
ご神体 八幡三神像(国宝)
東大寺大仏開眼の折、大分県宇佐から八幡神が勧請されたところから平安期、寛平年間(889~898)に薬師寺鎮守の社とされました。
御守する神様としては僧形八幡神像を含めた神功皇后・仲津姫神像とともに、板絵神像(重文)、狛犬(重文)ほか建物も重文指定をうけています。仏教が既存の文化である神道の文化を容易に寺院に受け入れたという好例です。(神仏混交)
金堂の前には舞台が組まれていて、30日から始まる「花会式」準備が行われていた。
金堂の中に入り、薬師三尊像(国宝)(真中に薬師如来座像・向って右側に日光菩薩立像・左に月光菩薩立像)如来座像の台座(国宝)を拝観
講堂に入ると、弥勒三尊像が配置されていた。
裏側には、釈迦十大弟子・佛足石・佛足跡歌碑(国宝)万葉集の中に佛足石の歌が有る。
◎阿止都久留 伊志乃鼻伎波 阿米爾伊多利 都知佐閉由須禮 知知波波加多米爾 毛呂比止乃多米爾・五七五七七七
◎巻16-3884 伊夜彦 神の麓に 今日らもか 鹿の伏すらむ 皮衣着て 角つきながら
東塔国宝 全面解体修理をする予定 西塔(1981)
風がきついからと、特別にお部屋を用意して頂き昼食
薬師寺を出て、「唐招提寺」に向かいますが、中の仏像が修理中なので、見学は諦める。
「唐招提寺」とは、天平宝字三年(759)唐僧鑑真和上によって創建された。律宗の大寺・鑑真は楊州大名寺の戒律第一の高僧で有り、第45代聖武天皇の伝戒師招聘を興福寺・栄叡と大安寺の、普照に命じて来朝を懇請を依頼し、遣唐使船に便乗して来日した。当時日本には、「授戒出来る僧が居なかったため聖武上皇は非常に喜ばれ、聖武上皇・光明皇太后はじめ考謙天皇ほか皇族・要人130名授戒を受けた。」
以来「授戒」を日本の僧の間で研究された。
桜の蜜を、メジロが啄んでいる・・・
11代 「活目入彦五十狭茅尊・垂仁天皇・菅原伏見東陵」現在の所在地は、奈良市尼ヶ辻(旧生駒郡伏見村菅原)
皇后狭穂姫命三年後に崩御 その後、皇后日葉酢媛命(父は丹波道主命・母は丹波之河上之麻須朗女・妃ぬばたに入媛命・妃真砥野媛命・妃薊瓊入媛命・竹野媛達が来た。)
皇后日葉酢媛命の時から、殉死の制度を廃止し、埴輪を一緒に葬った。
不老長寿の薬を求める様に、田道間守に命じる。(中国に探しに行く)
(橘の木)「時及能・香久乃菓子実」を持ち帰った時には、天皇が崩御されていた。落胆した田道間守も後を追って無くなった。
【田道間守】天之日茅の子孫・三宅連祖先
◎ 18-4111 かけまくも あやに畏し 皇神祖の 神の大御代に 田道間守 常世に渡り 八茅持ち 参出来し時 時じくの 香の果実を 畏くも 残したまへれ・・・(長歌抜粋)
◎ 18-4112 橘は 花にも実にも 見つれども いや時じくに なほし見が欲し
大伴宿禰家持
【日本書紀】「垂仁天皇は非時の香菓を持ち帰るべく、田道間守を常夜の国に遣わした。
◎ 6-1009 橘は 実さへ花さへ その葉さへ 枝に霜降れど いや常葉の木 【御製歌】 聖武天皇
菅原の里 喜光寺 大仏殿の模型になったと言われ、行基菩薩49院の1つの寺。菅原道真の生誕地。
垂仁天皇陵で、風が強く寒い為、菅原の里に行かずに終わりました。
会員さんの方々風邪などひかれなかったか心配です。
写真は、会員さんのいとちゃん・本郷さん・ミーマンの写真です。
お天気は、曇り時々晴れの風の冷たい日でしたが、今年初めてと言う事で、参加者は52人でした。
西の京の駅で降り、薬師寺の方に向かって歩き出す。
会員さんの息子さんの紹介で、薬師寺の役僧の方に中を案内して頂く(解説)
玄奘三蔵院 の前で説明を受ける
薬師寺とは、「我が国に伝わるもっとも最古の宗派で、南都六宗の一つ《法相宗の大本山》で天武天皇九年(680)皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を祈願して天皇自らの発願により、藤原京に京域内建立した。本薬師寺[現在は礎石・塔跡の遺跡]から平城遷都に伴って、養老二年(712)現在地に移った。
見学の順序から行くと、
玄奘三蔵院伽藍の説明
次に行ったのが、「平山郁夫画伯」の大唐西域壁画殿の中の解説
シルクロードの壁画、余りの迫力に圧倒された。
特別に「大宝蔵殿」の中を解説して頂く
東院堂(国宝)の中を拝観。
本尊である「聖観世音菩薩」(国宝)を参拝
脇侍四天王像 持国天像(青・青龍) 広目天像(白・白虎) 増長天像(赤・朱雀) 多門天像(黒・玄武)
東塔・西塔が、一緒に見えます。
外に出て、休ヶ岡八幡宮(重要文化財)参拝
ご神体 八幡三神像(国宝)
東大寺大仏開眼の折、大分県宇佐から八幡神が勧請されたところから平安期、寛平年間(889~898)に薬師寺鎮守の社とされました。
御守する神様としては僧形八幡神像を含めた神功皇后・仲津姫神像とともに、板絵神像(重文)、狛犬(重文)ほか建物も重文指定をうけています。仏教が既存の文化である神道の文化を容易に寺院に受け入れたという好例です。(神仏混交)
金堂の前には舞台が組まれていて、30日から始まる「花会式」準備が行われていた。
金堂の中に入り、薬師三尊像(国宝)(真中に薬師如来座像・向って右側に日光菩薩立像・左に月光菩薩立像)如来座像の台座(国宝)を拝観
講堂に入ると、弥勒三尊像が配置されていた。
裏側には、釈迦十大弟子・佛足石・佛足跡歌碑(国宝)万葉集の中に佛足石の歌が有る。
◎阿止都久留 伊志乃鼻伎波 阿米爾伊多利 都知佐閉由須禮 知知波波加多米爾 毛呂比止乃多米爾・五七五七七七
◎巻16-3884 伊夜彦 神の麓に 今日らもか 鹿の伏すらむ 皮衣着て 角つきながら
東塔国宝 全面解体修理をする予定 西塔(1981)
風がきついからと、特別にお部屋を用意して頂き昼食
薬師寺を出て、「唐招提寺」に向かいますが、中の仏像が修理中なので、見学は諦める。
「唐招提寺」とは、天平宝字三年(759)唐僧鑑真和上によって創建された。律宗の大寺・鑑真は楊州大名寺の戒律第一の高僧で有り、第45代聖武天皇の伝戒師招聘を興福寺・栄叡と大安寺の、普照に命じて来朝を懇請を依頼し、遣唐使船に便乗して来日した。当時日本には、「授戒出来る僧が居なかったため聖武上皇は非常に喜ばれ、聖武上皇・光明皇太后はじめ考謙天皇ほか皇族・要人130名授戒を受けた。」
以来「授戒」を日本の僧の間で研究された。
桜の蜜を、メジロが啄んでいる・・・
11代 「活目入彦五十狭茅尊・垂仁天皇・菅原伏見東陵」現在の所在地は、奈良市尼ヶ辻(旧生駒郡伏見村菅原)
皇后狭穂姫命三年後に崩御 その後、皇后日葉酢媛命(父は丹波道主命・母は丹波之河上之麻須朗女・妃ぬばたに入媛命・妃真砥野媛命・妃薊瓊入媛命・竹野媛達が来た。)
皇后日葉酢媛命の時から、殉死の制度を廃止し、埴輪を一緒に葬った。
不老長寿の薬を求める様に、田道間守に命じる。(中国に探しに行く)
(橘の木)「時及能・香久乃菓子実」を持ち帰った時には、天皇が崩御されていた。落胆した田道間守も後を追って無くなった。
【田道間守】天之日茅の子孫・三宅連祖先
◎ 18-4111 かけまくも あやに畏し 皇神祖の 神の大御代に 田道間守 常世に渡り 八茅持ち 参出来し時 時じくの 香の果実を 畏くも 残したまへれ・・・(長歌抜粋)
◎ 18-4112 橘は 花にも実にも 見つれども いや時じくに なほし見が欲し
大伴宿禰家持
【日本書紀】「垂仁天皇は非時の香菓を持ち帰るべく、田道間守を常夜の国に遣わした。
◎ 6-1009 橘は 実さへ花さへ その葉さへ 枝に霜降れど いや常葉の木 【御製歌】 聖武天皇
菅原の里 喜光寺 大仏殿の模型になったと言われ、行基菩薩49院の1つの寺。菅原道真の生誕地。
垂仁天皇陵で、風が強く寒い為、菅原の里に行かずに終わりました。
会員さんの方々風邪などひかれなかったか心配です。
写真は、会員さんのいとちゃん・本郷さん・ミーマンの写真です。